その喫茶店では、静かにジャズが流れていた。
ウッド調でまとめられた店内に、半個室のスペース。俺が一色との話の場に選んだのは、そんな落ち着いた雰囲気の店だった。
こちらから連絡する、と言い切ったのはいいのだが、いざその段になるとどうするべきなのか本気で悩んだ。
いつものように部屋に来てくれというのも横柄な気がするし、一色の家に行くというのも違うだろう。結果として思いついたのは、こうして喫茶店で落ち合うというオーソドックスなものだった。
「お待たせしました」
「⋯⋯おう」
約束の時間の、三分前。
一色いろはは静かにそう言って現れると、俺の目の前の席に座った。
思えばこうして外で待ち合わせして会うのは、かなり久しぶりだ。喫茶店なんて、前に半ば無理矢理デートだと言って出かけた時以来だった。
「とりあえず、何か頼むか」
俺がそう提案すると、それぞれに飲み物を頼む。
俺はカフェオレで、一色はミルクティー。それが届くまで特に会話はなく、やはり今までとは全く違う雰囲気だった。
「その、な⋯⋯。俺って、避けられてるよな?」
「それは⋯⋯はい」
届いたカフェオレに角砂糖を入れ、かき混ぜながらそう問いかける。一色の素直な回答が、返ってくる。
一色の様子と言ったら深刻そのものだった。まるで今から死刑宣告でも受けるかのような顔色を見ていると、大丈夫かと心配になってくる。
その一色に、こんなことを聞いていいのかという迷いもある。
しかし、話をしなければ何も進まない。明らかにしようとしない限り、何も分からない。
「それって、学祭のステージのことが、関係してるんだよな」
覚悟を決めてそう問いかけると、一色は少しだけ驚いた顔をしてこちらを見ていた。
「え⋯⋯? 違いますけど⋯⋯」
「ん⋯⋯?」
⋯⋯え、違うの?
どういうことだと首を傾げていると、会話の続きを一色が引き取る。
「⋯⋯あのあと、さくらちゃんが先輩に告白してるの、聞いちゃったんです。先輩が断った理由も」
聞き届けた瞬間、身勝手な痛みが胸に走った。
まさか聞かれていたとは、という驚きはもちろんあるが、それが何故俺を避ける理由になるのかが分からない。
その真意を確かめるように一色の目を見ると、その目がそっと伏せられる。
「先輩の中にいるのは、わたしじゃないんですよね⋯⋯」
その言葉で、俺はさくらに告白された時のことを思い出す。さくらの告白を断った時、俺は心の中に他のやつがいると答えたのだ。
一色が誰のことと勘違いしているのか、何となくだが分かる。何せこれでも、そこそこ長い時間を一緒に過ごして来たのだから。
「それ、たぶん勘違いしてるぞ」
「え⋯⋯? でも先輩、今でも二人のこと⋯⋯」
やっぱりそうか、と思いながら、俺は会話を一旦休めるようにカフェオレを啜った。
一色の言う通り、あの二人が心から完全にいなくなることなんてないのだろう。
けれどあの日。
恋心を打ち明けられて、真っ先に頭に浮かんだのは──。
「確かに二人のことは、今でも心残りになってる。プロムが終わった後のことは、知ってるよな」
「はい⋯⋯」
思い出すたびに、どうしてなんだろうと思う。
もっと上手くやれていたはずだったと、何度も後悔した。
「二人の気持ちには、気付いてた。けど結局選び切れずに⋯⋯それが二人を疎遠にさせたんだと思う。そのことが、俺自身許せない」
選択しないことを選択した結果のことは、一色も知っているはずの話だった。
一緒に過ごす場所を失くして、共にする時間も消えて。──いつしか二人の間には、見えない壁のようなものができていた。
「だから、誰とも付き合えないって言うんですか」
「いや」
だけど。
けどそれとこれとは別だ。否、別にしなければならない。
「きっちり、けじめをつけるべきだと思っている」
あの二人と一色が無関係ではないにせよ、これは俺の問題であって一色の問題ではない。一色が背負うべきものではないのだ。
「けじめって、一体どうするつもりです?」
「雪ノ下と由比ヶ浜、二人と会って話をする」
俺がそう言い切ると。
何故か一色は、はてと首を傾げた。
ゆっくりとその首の傾きを直すと、俺をまっすぐに見ながら言う。
「あの、先輩が何しようしてるか大体分かった上で聞きますけど⋯⋯お二人のどちらかでも先輩に告白してましたっけ?」
「いや、されてないけど⋯⋯」
「なら絶対やめた方がいいですよ、それ」
いつしか一色の目は「マジかこいつ」って目に変わっていた。
さっきまでの様子に比べて、あまりの変わりようである。
「いや、なんで⋯⋯?」
「正直、告白してもない相手から『お前の気持ちには気付いていた』とか言われてもドン引きです」
「お、おう⋯⋯」
せやな⋯⋯と思わず同意しそうになる。
しかし結構はっきり言うね君⋯⋯。女性側からの意見ってところががっつり心を抉ってくるんですけど。
「それに、二回振るようなもんじゃないですか。先輩が二人に会う理由が、わたしのためのけじめなら」
ずばり言い切られて、確かにそうだと思ってしまった。
わたしのため、という言葉の真意を探ろうとその目を見ると、一色の真剣な視線が返ってくる。
「だから、わたしが二人と話をします」
「⋯⋯はい?」
思わぬ言葉に、声がひっくり返りそうになる。
大学に入ってからことさらに何を考えているか分からない節があったが、今のはちょっと分からなさすぎた。
「いや、なんでそうなるんだよ。これは俺の問題だろ」
「いいえ」
俺が意志を込めた声で言うと、同質の、固い意志のこもった声が返される。
一色の目を、しかと見つめる。一色は俺を真正面から見続けていて、その視線にはブレも迷いもなかった。
そして、一色は。
「これはわたしが始めた、戦いだからです」
──覚悟を決めた声で、言い切った。
* * *
十一月の千葉は、記憶の中よりずっと寒かった。
こんな海沿いの公園だということもあるんだと思う。待ち合わせより随分先についてしまったわたしは、葛西臨海公園の観覧車を見上げながら考える。
先輩を多少強引に納得させた後、わたしは結衣先輩たちに連絡を取った。二人がどんな状況か分からないから、念のため一人ずつ。
三人で話をしたいとお願いしたら、意外にもあっさりと応じてもらえることになった。どんな話? とも聞かれることもなくて、正直助かったという思いもある。
「お待たせー」
海側を見ていたわたしの背中に、懐かしい声がかけられる。
駅舎の方を振り返ると、結衣先輩は雪乃先輩と一緒にこちらに向けて歩いてくるところだった。
「こうして会うのは久しぶりね、一色さん」
「はい。お久しぶりです」
そんな会話を交わしながら、少し安心する。
二人とも、表情がかなり柔らかい。先輩は二人を疎遠にさせてしまったなんて言っていたけれど、仲が悪そうな様子は一切なかった。元々この二人がいがみ合う姿なんて、想像もできなかったけど。
「えっと、とりあえず⋯⋯」
「ね、せっかく天気いいから少し歩こうよ」
近場のカフェにでも、と提案しようとしたところで、結衣先輩がそう言った。
お店に入って改まって話すより、いくらか話しやすいかも知れない。雪乃先輩も「そうね」と返事をすると、わたしたちは駅の真正面に広がる葛西臨海公園に向けて歩き出す。
何となく海の方に足を向けながら、わたしたちはたくさん話をした。
近況とか、高校時代の話とか、共通の知り合いの話とか。ただその中で決して触れまいとしているかのように、先輩の名前だけが出てこない。
「いろはちゃんも、大学は東京だったよね」
落ち葉に彩られた小径を歩いていると、結衣先輩はわたしの顔を覗き込んで言った。
いろはちゃん
だから、わたしは──。
「はい。先輩と一緒の大学です」
その呼び名を、あえて口にする。
「え⋯⋯? でも第一志望受かったって」
「受かってたんですけど⋯⋯。進学先は、変えました。先輩と一緒のところがよかったので」
一瞬で空気が変わったのが、嫌というほど分かった。
恐るおそる二人の顔を見たけれど、その表情に険しいものはない。ただ古傷をいたわるような、そんな表情だった。
「⋯⋯座りましょうか」
小さな丘のような場所にある東屋を見ながら、雪乃先輩が提案する。わたしたちは頷き合うと、東屋に入ってベンチに腰をおろした。
「いろはちゃんが話したかったのって、そのこと?」
「はい」
そう言って頷くと、そっかと小さな声が返ってくる。小さく頷くような仕草をする二人を見た後に、わたしは遠くでゆっくりと回る観覧車を見上げた。
「本当は先輩たちが卒業したら、気持ちにきりをつけるつもりだったんです」
主語のない言葉はどこまでも曖昧で、だけど二人になら伝わるとわたしは信じていた。そう信じられるぐらい、大切な時間を共有していたはずだから。
「会う機会が減って、だんだん記憶の中のできごとに変わっていって。また別の人を好きになれたら、きっと忘れちゃえるのかなって思ってたんです」
今思うと、楽観的すぎる考えだったと思う。
あの時のわたしは自分自身の想いを量り違えていた。そんな普遍的な道を辿れば楽になれるなんて、甘い考えだった。
「でも、駄目でした。全然、そんな風にはならなくて⋯⋯色々考えた上で、先輩と同じ大学を選びました」
そこまで言うと、わたしは視線を雪乃先輩と結衣先輩に戻した。
二人とも真剣な目をして、わたしを見ていた。
「高校の時のお二人の気持ちは、分かってるつもりです。今でも想っているかは分かりませんけど⋯⋯」
わたしは立ち上がる。結衣先輩が、何かを言いかけて止める。
驚きの表情を浮かべながら見ている二人に、わたしは続けた。
「わたしと先輩が一緒になる、許しをください」
そう言って、思いっきり頭を下げた。
たぶん、今まで生きてきた中で一番丁寧に。一番深く。
「一色さん」
どこか固い声音が、わたしの耳に届く。
恐るおそる顔を上げると、雪乃先輩も結衣先輩も困ったような表情をしていた。
「あの、ごめんね。いろはちゃん」
そしてなぜか、謝られてしまう。
何も言わずに先輩につけいるような真似をしたわたしの方が、謝らなきゃいけないのに。
「なんで、結衣先輩が謝るんですか。むしろ謝るのはわたしの──」
「いいえ」
わたしの言葉を、雪乃先輩の凛とした声が遮った。
そしてなぜか、結衣先輩に視線を送る。結衣先輩は、頷く。
「その⋯⋯やはり謝らなければいけないのは私たちの方なのよ」
そう言って雪乃先輩は。
「うん⋯⋯。ごめんね。伝えるのが遅くなって」
そう言って結衣先輩は。
お互いの手を取って、互い違いに指を絡ませていた。
いや、え⋯⋯?
これってどういう⋯⋯。
「私たちはその⋯⋯実は付き合ってるのよ」
「え⋯⋯、えええぇぇぇっ!?」
思わずわたしは、変な声を漏らしていた。
いやそんな反応は失礼だと分かってるけど⋯⋯衝撃が大きすぎて、驚きが止まらない。
「で、でも⋯⋯。三年の時なんて、すっごいギクシャクしてたじゃないですか」
「そうだね。でもあたし、それがすっごく嫌だったんだ。だからゆきのんと同じ大学⋯⋯は無理だったんだけど、近くの大学に入って」
「今は、一緒に住んでいるのよ」
「は、はぁ⋯⋯」
ちょっと、いやかなり衝撃の内容すぎて、理解が追いつかない。
元々二人の仲が良いのは分かっていたけど、だからこそすれ違ってていた三年の時はやきもきしていたけど。
この展開はさすがに、想像もしてなかった。
「でもさっき、こうして会うのは久しぶりだねって⋯⋯」
「あはは⋯⋯。それは三人で会うのは久しぶりって意味で」
「あー、その⋯⋯。つまり、二人は⋯⋯」
「私がタチで、結衣がネコよ」
「そういう意味で聞いてませんけど!?」
いや、本当にこれ以上わたしを混乱させないで欲しい。
雪乃先輩のボケなんだか真面目に答えてるんだか分からない答えに、「はぁぁ」と肩の力を抜く。
「だからあたしたちに、許しがどうこうなんて言う必要なんてないよ」
「むしろ許しを請うのは私たちの方ね」
座って、と雪乃先輩は静かに言った。
わたしは全身から力が抜けて、へなへなとベンチに腰を落とす。
「このことって、もちろん先輩は⋯⋯」
「知らないよ。会う機会もなかったし⋯⋯。暫くは誰にも言わないでおこうって、二人で決めてたから」
その状況はつまり、誰も知り得なかったし予想できないってことだった。
だけどこれは、言ってしまうととアレだけど、わたしにとっては悪い状況ではなくて。
「ごめんなさい。私たちのことが、足枷になってしまっていたのね」
そう言うと雪乃先輩はわたしに向かって頭を下げた。わたしの記憶にある限り、たぶん初めてのことだった。
そして雪乃先輩は顔を上げると、力強い目をして言う。
「後は私たちに任せて」
──と。
作者、百合好きだろって?
はい、大好きです。
次回、最終話。
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それでは、引き続きお楽しみ下さい!