わたしにとって、初めての十二月がやってきた。
初めての一人暮らしで迎える十二月。初めて東京で過ごす十二月。そして初めて──先輩の彼女として過ごす十二月。
「お待たせしましたー」
「おお、サンキュ。⋯⋯今日はシチューか」
初めてばかり⋯⋯と思っていたけれど、正直あまり代り映えもしていない。
先輩は未だにわたしを呼ぶ時は『一色』のままだし、恋人らしいことはまぁ少しずつという感じ。付き合ってから変わったことと言えば、暗くなるのが早くなってきたからって理由でわたしの家に来ることが多くなったぐらいだった。
「「いただきます」」
口を揃えてそう言うと、わたしたちは出来立て熱々のホワイトシチューを食べ始める。付け合せはたっぷりバターの入ったバゲットで、サラダにはアクセントにレーズンを添えて。
ああ、そういえば。
変わったことといえば、まだある。今わたしたちが囲んでいる、二人用のダイニングテーブルセットを買ったこと。それから──。
「⋯⋯」
それから先輩が、考えごとをする時間が長くなったこと。
何か考え込んでるなと思ったら、いつの間にかわたしの方を見ている。わたしから目を合わそうとすると、すぐに察知してそれを避ける。
「じぃ⋯⋯」
「⋯⋯何だ?」
こうして分かりやすく反応を見ていると、流石に無視されたりはしない。
けどどこか余所よそしい気がするし、先輩からのスキンシップも減った気がする。あと相変わらず先輩の方からキスしてくれたことがない。
「別に?」
「何だよそれ。どこぞの女優かよ」
それに突っ込みだってキレがない。わたしの方から視線を外すと、先輩はぼやきながら食事に戻る。
まあ、先輩のことだから超どうでもいいことで悩んでいるのかも知れない。そういうのめちゃくちゃ面倒くさいし、だけど一種の責任感を醸し出していて、そこが好きだったりする。だからわたしも、どうしようもないのかも知れない。
食事が終わると、わたしは手早く食器の片付けをした。洗い物を終える頃には、わたしの手はかなり冷たくなっている。
わたしはその手をぷらぷらと揺らしながら、先輩の待つリビングに戻った。携帯を弄っている姿には、どこか憂いの影がさしているように見える。
どうせまた、よく分かんない責任感を発揮して自分を追い込んだりしてるんだと思う。そんな先輩にわたしはそっと寄り添って⋯⋯っていうのは、きっと違う。だって全然、わたしらしくない。
これからはもっと、わたしはわたしらしく先輩に接したい。
先輩の面倒くさい考えなんて、力業で吹き飛ばす。
だってわたしは、先輩の彼女なんだから。
* * *
食事を終えた後、俺はリビングのソファに腰かけていた。
全然頭に入ってこないネットニュースを眺めていると、洗い物を終えた一色が俺の隣に座る。そして──。
「えいっ」
「うぉ」
俺の首筋にひんやり冷たい手を当ててくる。思わず変な声を出してしまった俺を、一色は満足そうに見ていた。
本当、君ね⋯⋯。急にそういう可愛いことするのやめろよな。──と、そんなことを考えていると、一色の顔が近づいてくる。
「ん⋯⋯っ」
それは、一瞬のことだった。
すぐに唇が離れると、触れ合っていた感覚よりも熱の余韻を強く感じる。じんわりとした温かさが唇から胸に落ちると、止めていた呼吸を再開させた。
「好き」
唐突に、しかしそう言うのが当然という態度で、一色はその言葉を口にする。わずか二○センチほどの距離で、一色の瞳が俺の顔を映していた。
「──って、先輩からあんまり言ってくれないですよね」
沸騰していたお湯が氷になるような急変ぶりで、一色は表情をどこか拗ねたものに変える。なるほど、一色は俺に愛情表現が足りないと伝えたくて、こんな行動に出たのだろう。
付き合うまでの男女の間に駆け引きのようなものがあるように、付き合ってからもそれは存在するのだと思う。今この時のように。
「まぁ、な⋯⋯。あんまり気軽に言うのは違うというか、意味が軽くなってく気がするというか⋯⋯」
「逆ですよ、逆。たくさん言った方が重くなるんです」
しかし一色とのそのやり取りは、どこか慣れたものに感じてしまう。そんな感覚に陥るたびに、俺の心には暗雲がかかった。
もしも俺の感じた『慣れ』が彼女の過去からくるものだったとしたら。もしそうだとしても、今の俺と一色の関係には何も関係ないのに、胸の中がマドラーでかき回されている気分になる。
「だから、たくさん言って欲しいですし、言いたいです。それって、駄目なことですか?」
「いや、駄目ではない⋯⋯」
絞り出すようにそう言うと、一色は拗ねた表情を引っ込めた。
しかし、それだけでは終わらない。
「んっ⋯⋯」
俺を映していた目が閉じられると、また唇が押し付けられる。今度はすぐには離れず、確かめ合うようなキスだった。その長さが、とくとくと心臓を逸らせていく。
「はぁっ⋯⋯」
たっぷり十秒ほど唇を押し付けた後、一色は顔を引っ込めていく。
僅かばかりだが桜色に染まった頬と。しとけなく濡れた唇。それを隠すように一色は俺に抱きついてくると、鎖骨のあたりに頬を擦り付けてくる。
「先輩。好き」
純朴な声が、
頬に当たる一色の髪は柔らかく、背中に回された腕は温かい。
こんなの。
こんなのは──。
「いい加減にしろ!」
俺のブレーカーをバチンと飛ばすのには、十分過ぎた。
跳ねるように俺から身体を離した一色が、驚きに目を見開いている。
「お前はいちいち可愛すぎるんだよ! ちっとは可愛いを自重しろ!」
「な、なんか意味分かんない理由でキレられた⋯⋯」
本当にもう、勘弁して欲しい。
大声を出して驚かしてしまったことには詫びを入れておこう、と口を開きかけると、ジトッと湿度の高い視線が俺を貫いていた。
「っていうか何ですかそれ。可愛いは女の武器ですよ」
不満そうな顔をして、一色はぷすぷすと人差し指で俺の胸板を刺してくる。なんだその仕草可愛いな。本当いい加減にしろ可愛いな。
「そもそも可愛いと思ってるんならもっと言ってくれてもいいぐらいです。そうしたらもっと可愛くなるので」
「いや、これ以上可愛くなられたら困るんだが⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯はっ」
俺が呟くと、何故か一色は俺から距離を取る。
「ひょっとして今の先輩なりの
「お、おう⋯⋯。なんか急に新しいパターンきたな⋯⋯」
いつも思うが、よく息継ぎなしで言えるなその長台詞⋯⋯。
感心半分呆れ半分で一色を見ていると、その口からくすりと小さな笑いが漏れる。
「そんなに可愛いですか、わたしは」
ちょっと小悪魔っぽい笑顔は見慣れたもので、やれまたこの流れかと思ってしまう。色々分かってて言ってるだろ、こいつ。
「そりゃ、ミスコンも優勝するぐらいだもんな」
「そういう対外的な目のことを言ってるんじゃなくて、先輩から見てってことです」
のらりくらりとかわしたいところだったが、どうやら今日の一色はそれすら許してくれないらしい。一色はまた俺にぴっとりとくっついてくると、はぁと小さく息を吐いた。
それっきり、会話はない。俺の次の言葉を待っているのは、明白だった。
「⋯⋯可愛いと思ってるよ。毎日、会うたびに」
「あ、いいですね今の台詞。かなりキュンときました」
茶化すような声に俺が避難の目を向けると、ニコッと笑って誤魔化されてしまった。俺が何か言う前に、一色は続ける。
「なら先輩は、可愛いからわたしが好きなんですか? それとも、わたしだから好きなんですか?」
その質問は唐突なようでいて、しかし一色にとって以前から胸の中にあるものだったのかも知れない。真剣さの宿った瞳が、俺の答えを待っている。
だけどその問いへ答えるのに、時間は必要なかった。
「一色だから、だよ。決まってんだろ」
一色いろはは、魅力がぎっしりと詰まったジュエリーボックスのような女の子だ。キラキラと眩しすぎて、思わずに避けてしまっていたぐらいに、素敵な女の子。
打算的で純朴で、あざといのに素直で。かつては浮気なように見えたが、おそらく誰より健気で純情だ。どこが好きかなどと聞かれれば困るぐらい、その対象は多面的だった。
「ってか、急にどうした。何かあったのか?」
「いーえー? まあ強いて言うならさっきも言ったことです。先輩って、なかなか自分から好きって言ってくれないので」
艶めく唇は、いつの間にか三日月を作っている。その反応は、いつのまにか一色の術中にハマっていることを示唆していた。
「そういうわけですので、はいどうぞ。わたしへの好きを思いっきり叫んじゃってもいいですよ?」
「その振りで言えるわけないんだよなぁ⋯⋯」
俺はそう呟くが、これだけは言える。
今日、一色いろはの魅力を再認識した。俺のあまりにも下らないモヤモヤを吹き飛ばす、その猪突猛進さだ。
「ほーんと、天の邪鬼ですねぇ」
呆れるように、あるいは慈しむように一色は言うと、俺の顎裏を人差し指で
「まあ、そういうところも大好きなんですけど」
そう言って一色は一瞬身体を離したかと思うと、俺の頬を
時々、こいつのことが羨ましくなる時がある。今この時が、まさにそうだ。
この気持ちを余すことなく伝えられたら、どれだけ心は晴れるだろうか。一色のように全身全霊で相手にぶつかることができたら、きっと羽が生えたように自由になれるに違いない。
「⋯⋯今は、このぐらいで分かってくれ」
俺はそう言うと、一色を抱く腕に力をこめた。
決して離さないとでも言うように強く、柔らかな身体を抱き締める。
こく、と小さく頷く一色を見ながら、俺は一つの覚悟を決めたのだった──。
このバカップルたちめ⋯⋯。