最近、視線を感じるようになった。
特に冬休みが明けてからは、それが顕著な気がする。
「せんぱーい? どこ見てるんですか?」
ところは大学の食堂。俺の前に座ったいろはは、不思議そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「いや、別に⋯⋯」
それもこれも、いろはが俺と付き合っていることをまったく隠すつもりがないせいだと思う。
一緒に歩く時はやったら近いし、人気がないところでは普通に手を繋いでいたりする。それにほぼ毎日こうして食堂でも会ったりしているのだから、普通にカップル認定されているだろう。
それだけなら別にいいのだが、いろはは学祭でのミスコン覇者。大学内ではちょっとした有名人なわけで、主に野郎連中からの視線が痛い。八幡、ちょっと自意識過剰なのかも知れません⋯⋯。
「おーっす、八幡! いろはちゃん! 久しぶり~!」
そんな俺の悩みなど小さなものだと言わんばかりの大きな声に、思考は霧散させられる。
聞き慣れた声に振り向くと、寧々さんが手を振りながら近づいてくるところだった。半歩遅れて、徹也さんの姿も見える。
「あ、ども」
「わー、大学で会うのすっごい久しぶりですね!」
いろはが手を振り返すと、間もなくして二人は俺たちの座るテーブルを囲んだ。
何だかこんな光景も久々だ。四年の二人はもう取る講義もないらしく、冬休みが明けてから大学で会うのは初めてだった。
「本当に、久々だね。比企谷くん、最近エペ付き合ってくれないし」
「いやーまぁ⋯⋯色々あるんすよ」
隣に座った徹也さんの言う通り、このところ一緒にゲームをする機会も取れていない。というのも、プライベートの時間はいろはのマンションいる時間の方が長いからだ。
用事があって早く帰ろうとしても「もう帰っちゃうんですか⋯⋯?」と大変あざとく引き止められ、結果入り浸っているような状況が続いている。俺の意思、いろはすに対して弱すぎなんじゃ?
「珍しいですね、大学に来てるなんて」
「うん、今日は用事があったからね」
いろはの問いかけにそう答えると、寧々さんはトートバッグの中から包装された箱を取り出した。
なるほど、そう言えば今日はバレンタインデーだ。高校の時ほど浮足立った雰囲気でもなかったから、すっかり忘れていた。
「はい、これいろはちゃんに。八幡のもあるよ!」
「あ、はい。あざっす」
予想していなかった展開で、ちょっとノリが体育会っぽくなってしまった。先輩からチョコをもらうとか、初めてだ。
いろはは寧々さんから見て友だちみたいなもんだから友チョコと言えるのだろうが、この場合は何と言うのだろう。後輩チョコ? いや、ただの義理チョコか。
そんな割とどうでもいいことを考えていると、寧々さんはニコニコと渡したばかりの小箱を見ている。
「せっかくだし、早速食べて感想きかせてよ」
まあ飯は食い終わったところだし、場所も食堂だからTPO的にはそこまでおかしな状況ではないのだろうが⋯⋯。
さっきからチラチラと、こちらに向く視線が増えている気がする。寧々さんは久々の大学だからかテンションが高いせいで目立っているし、いろはと並んでいるとやたら華々しい空間を作り上げてしまっているのだ。この中で食べるの、ハードル高い⋯⋯。
「毎年てっちゃんには好評なんだよ~」
寧々さんの口調からすると、出来には自信があるらしい。俺はいろはと目を合わせて小さく頷くと、貰ったばかりの箱を開けた。
中身は手作りらしき粒チョコ⋯⋯なのだが、微妙に赤いものが混じって見えるのは何だろうか。恐らく時期や相性を考えると、フリーズドライの苺でも練り込んだのだろう。
そのひと粒を手にとると、徹也さんがそっと耳打ちしてくる。
「⋯⋯慣れだよ」
いや、何だその不安しか呼ばない一言は⋯⋯。頭の中でアラートが鳴り出したが、ここまで来て食べないという選択肢はない。
覚悟を決めてチョコを口にすると、まず感じたのは冬の空気に冷え切ったチョコの冷たさだ。やがて口内で溶かされ、ミルクチョコのねっとりとした甘さと、ピリリと刺激的な⋯⋯うん、おかしい。チョコに刺激はないはずだ。
「⋯⋯っ! こ、これ⋯⋯」
「うん。甘辛仕立てのスパイシーチョコだよ!」
甘みの中でじわじわとその存在感を大きくしていく辛味。火を吹くようなその辛さは、おそらくカイエンペッパーとか刺激の強いタイプの香辛料だろう。未だに口の中に激辛チョコが残っているせいで水も飲めずにいると、涙目になってきている俺に向かって続ける。
「てっちゃん柿の種チョコとか好きだからさー。それをイメージして作ってみたの」
マジかよ寧々さん⋯⋯。着想はまだいいとしてもアレンジ力が壊滅的過ぎる。そういうチャレンジングなの、徹也さん用にだけにしてくれませんかね⋯⋯。
何とかしてくれと徹也さんの方を見ると、スッと視線を外された。コンニャロウ。
「んっ⋯⋯。んんっ! はぁ⋯⋯。寧々さん、ちなみに味見は⋯⋯?」
「え? 私、辛いの無理だから食べられないし」
なるほど、それでこの劇物は日の目を見てしまったのか⋯⋯。俺が水を口に含んで舌を癒やしていると、寧々さんの視線はいろはに向く。
「いろはちゃんも食べてみてー」
「あ、ああー、はい。今はお腹いっぱいなので、家でゆっくり頂きますね!」
寧々さんに向けてにっこり笑うと、そのまま俺の方を見てくる。ついでにキャルン☆ とウインクのおまけ付き。
こいつ、俺に食わせる気マンマンである。間違いない。俺は詳しいんだ。
それから何やかやと久しぶりの再開で会話に花を咲かせていると、時刻は午後一時をまわろうとしていた。昼休みももうすぐ終わり。俺もそろそろ出なくてはならない。
「それじゃ、俺はバイトあるんで」
今日の講義は昼までで、後はバイトの時間だ。俺が辞去しようとすると、そのまま解散の流れになる。
「じゃーねー! いろはちゃんも感想聞かせてね!」
「⋯⋯かしこまでーす」
「エペ、また誘うから」
「うっす」
テンションアゲアゲな寧々さんと相変わらずクールな徹也さんに手を振り返すと、いろはと一緒に食堂を出た。通路を歩いて角を一つ曲がったところで、ちょいちょいと袖を引かれる。
「あれ、どした?」
振り返ると、いろはが俺の袖を握り込んでいた。何その可愛い仕草。急にやられるとめっちゃクるものがあるから時々やって欲しい。
「まだ辛いですか?」
「ああ、まだヒリヒリするけど⋯⋯」
しかしなぜ、わざわざそんなことを聞くのだろうか。不思議に思っていると、いろはは俺の袖を引っぱってスタスタと歩いていく。
廊下の脇にある、物置スペース。まるで隠れるみたいにその場所に連れ込まれると、いろははキョロキョロと辺りを見回した。そして──。
「ん⋯⋯っ」
どういうわけか、キスされた。
あのさぁ⋯⋯いろはすぅ⋯⋯。ここ大学なんですけど。
「これで中和されましたか?」
俺の戸惑いと非難が入り混じった目線などまるで無視して、いろははうふふと小悪魔的な笑みを浮かべていた。
こういうことばかりされるから、ダメになる。ますます沼のようないろはの魅力にハマって、抜け出せる気がしない。
「⋯⋯誰かに見られたらどうすんだよ」
「いいんじゃないですか、別に」
いや全然よくないでしょ⋯⋯と目で伝えるが、にっこり笑い返されてしまう。
そして何を思ったのか、不意に口元を俺の耳に近づけてきた。
「だってわたし、未だに校内でナンパされるんですよ」
「⋯⋯何ですと?」
思わず聞き返すと、いろはは満足そうな表情を浮かべていた。どうやら俺の反応がお気に召したらしいが、俺としては全然面白くない展開だ。
「大丈夫だったのかよ、それ」
「大丈夫ですよ。彼氏いるんでって言ったら二度と話しかけてきませんし」
いろはの言葉で思い出すのは、去年の春頃のことだ。大学で再会した折りにも、いろはは塩対応にも程がある態度でナンパ男を振り切ろうとしていた。
だから全然隠すつもりがないのか、と得心すると同時に、心配にもなる。なぜならあの時、お世辞にもうまく立ち回れていたとは思えなかったからだ。
「って言っても、しつこいヤツとかいるだろ」
「まあいますけど。彼氏もう一人ぐらいいてもいいんじゃない? とか言ってくる人」
その言葉を聞いた瞬間、ぞわりとしたものが背中を動いていった。
いかにもナンパ男の言いそうな台詞だ。一体どうしてそんなことが考えられるのか、俺には理解できないが。
「それだと全然、大丈夫じゃないだろ」
「わたしもイラッとはしますけど、『は?』って顔して黙るとだんだん何も言わなくなりますよ」
思い出すのは、何言ってんだこいつとでも言わんばかりの塩対応を取るいろはの姿だ。それで引き下がってくれるうちはまだいいのだが⋯⋯。
「あんま相手を刺激するようなやり方はするなよ。逆恨みされる可能性もあるし」
「んー、そのあたりはうまくやれてると思いますけど」
いろはは握り込んでいた袖を離すと、代わりに俺の手を取った。両手でギュッと握り込むと、そのまま身を引き寄せるように引っ張ってくる。
「心配なら、もっとそばにいてください」
「⋯⋯おう」
ね? と言わんばかりに傾けられたその顔の角度が、大変あざとくて可愛らしい。呆気に取られていると、いろはは手を離して半歩下がる。
「それじゃ、また後で」
ああ、と気の抜けた返事を返すと、いろはは踵を返して歩き出した。廊下に出たところで俺を振り返ると、にっこりと素敵な笑顔で言う。
「バイト、頑張ってくださいね」
そう言うといろはは、そのまま歩き去っていく。
しっかりと俺の中に、その存在を残したまま。
* * *
なんだかふわふわした気分で向かった、バイト先でのこと。
「あ、お疲れ様でーす」
制服に着替えて休憩スペースを訪れると、そう声をかけてきたのはさくらだった。
「おう、お疲れ」
俺を見るなりにしゃっと笑った顔にそう返すと、斜向かいの席に腰を下ろす。今日のシフトはかぶっていなかったはずだが、私服でいるところを見るに勤務時間後だろうか。
さくらはスマスマスワーイプしていたスマホをしまうと、そのままごそごそと中身を探り出す。やがて目的の物を見つけたのか、さくらは「はい」と言って俺の前の前に小さな箱を差し出した。
「今日はバレンタインデーなんで、チョコあげます」
「⋯⋯おお、サンキューな」
あまりに自然に渡してくるものだから、一瞬反応に遅れてしまった。
さくらは何と言うか⋯⋯俺に告白してきて、そして振った相手だ。彼女の望み通り普通に振る舞うことはできていると思うが、今日この日にチョコを渡されるとなると、色々考えてしまう。
「義理チョコなんで、安心してください」
まるで俺の心を読んだみたいにそう言うと、さくらは
どこまでが本心で、どこまでが作られたものなのかは分からない。どちらにせよ、今の俺は言葉の通りに受け取るしかないのだが。
「ああ。ちゃんとお返しするから」
「ええ。でもいろはちゃんと同じものとかはダメですよ?」
それにしても、触れていいのか微妙なところにガンガン踏み込んでくるなこの子⋯⋯。
いろは曰く、さくらには自分から俺と付き合っていることは伝えたらしい。だからこういう弄りも、甘んじて受け入れるべきなのだろう。
「って言っても、そもそもまだ貰ってないんだけどな」
「え。マジですか。いろはちゃん焦らすタイプ?」
そう言われて思い出すのはあんなコトやこんなコトだが、思い当たるフシが多すぎた。
⋯⋯いや、さくらの前で何を思い出してんだ。エッチなことはいけないと思います!
「知らんけど⋯⋯。まあたぶんくれるだろ」
「そりゃそうですよ。用意してなかったらあたしがいろはちゃんに怒ります」
何だその理屈は⋯⋯。よく二人で遊びに行くから仲はいいんだろうけど、不思議な関係性だ。
そんなことを考えていると、さくらはすっと立ち上がる。
「それじゃ、あたしは帰ります」
「おお。お疲れさん」
さくらはそう言って軽く手を振ると、休憩室を出て行った。
残されたのは俺と低い唸り声を上げる冷蔵庫。それから、
「貰いすぎだな⋯⋯」
それは数の話ではなく、重さの話でもない。
俺はそう呟くと、制服の襟を正しながら休憩室を出るのだった。
バレンタイデーの話なのにまだチョコを貰えてない八幡でした。
春休みは二月上旬からというところが多いようですが、八幡たちが通う大学は二月下旬ぐらいからの設定です。
次回に続きます。