三月も終わりの、とある春休みの日。
「やっと終わった⋯⋯」
いろはと一緒に住むことを決めてから徐々に進めてきた引越し作業がようやく終わり、俺はふうと額を拭った。
西陽が差し込むこの部屋は、部屋を持て余して物置き部屋になっていた場所だ。使えそうな家具一式はアパートに残し、俺の私物はとりあえずこの部屋に置かせてもらうことになった。教材やらエペ用のパソコンやら、そんな物たちである。
そういや徹也さん仕事し始めたらエペやる時間あんのかな⋯⋯なんて考えながらダイニングに向かうと、扉を開けた瞬間上品な香りが鼻腔をくすぐった。料理中のいろはの隣に並ぶと、鍋と蒸し器の蓋から湯気が出ているのが見える。
「何作ってんだ?」
「お吸い物と、こっちは茶碗蒸しです」
なるほど、この香りは出汁からくるものだったか。今日は何やら手の込んだ料理が多そうな雰囲気だ。
「もう作業は終わりました?」
「ああ、ようやくな」
「なら、座っててください。もうすぐできますんで」
促されるまま席に座って待っていると、やがて運ばれて来たのは豪華具材のちらし寿司だった。それに作りたてのお吸い物と茶碗蒸し、更に刺し身の盛り合わせまでついて、いつもの夕食とは一味違っている。
「なんか豪華だな」
「はい。今日は同棲記念日なので」
いろははそう言うと、見惚れてしまいそうなほど甘い笑顔を浮かべた。可愛らしいやら恥ずかしいやら、一気に感情が押し寄せてくる。
なんだかんだ恋人同士という関係性に慣れたと思っていたが、俺もまだまだだったらしい。こんなちょっとした仕草にすら過剰反応してしまうし、何もかもが新鮮に見えた。
「「いただきます」」
そう声を揃えると、まずはエビやらカツオやらの入ったちらし寿司を頂く。絶妙な酸味と甘味、それから旨みのバランスにうむうむと無言で頷いていると、いろはがこちらを見ていることに気付いた。
「うまい」
「お、偉いですね。ちゃんと自分から言えました」
いろはは箸を持ったままパチパチと小さく拍手をした。年下彼女の手の平の上で転がされてるこの感じ、けっこうクセになる⋯⋯。
「はい、先輩」
いろはは箸からスプーンに持ち替えると、茶碗蒸しをすくって俺の眼前に差し出した。
「あーん」
「いや、めっちゃ湯気出てるから。絶対熱いから」
「えいっ」
「あっふ! あふい!」
有無を言わさぬ勢いで突っ込まれた茶碗蒸しに悶絶している俺を、いろはは愉しそうに見ていた。
なんだこれ。さすがに衣食住まで囲い込まれたら逃げられないだろうと弄ばれているのか? むしろ弄ばれたいまである(真剣)。
「先輩」
涙目になっている俺と目を合わせると、いろははにっこり素敵な笑みを浮かべて言う。
「わたし今、めっちゃ幸せです」
「人の舌を火傷させて感じる幸せがあってたまるかぁ⋯⋯」
火傷してもよく回る舌は、咄嗟にそんな返しをしてしまうけれども。
いろはの感じている気持ちは、俺にもよく分かる。ちょうど俺も今、それを感じていたところだから。
「そういや」
食事が終わったところでいろはに向けて言うと、なんですか? と目線で問い返される。
「家事分担、どうする。洗い物は俺がやろうかと思ってるんだが」
「はぁ⋯⋯。まあ手伝って貰えるのはありがたいんですけど」
いろはの反応を見るに、思ってもなかった提案だったようだ。
しかしこれから俺も一緒に住む身。いつまでもお客さん感覚でいるべきではないだろう。
「前もしてくれましたけど、お皿洗いが好きなんですか?」
「そういうわけじゃないが⋯⋯、冬場とか手が荒れたりしないかと思ってな」
特に女子のお肌はデリケートだと聞くし、作る方をまともに手伝えそうもないぶん後片付けぐらいはすべきだと思う。まあそう思ってるならもっと早くからやっとけという話なのだが。
そんな俺の提案を聞いたいろははお目々をパチクリさせると、視線を外して口をモニョらせる。
「本当、そういうところなんですよ⋯⋯」
「え、俺今ダメだしされてる?」
「⋯⋯違います。じゃあ、お皿洗いだけお願いしますね」
いろはの言いたいことはよく分からなかったが、これで多少の体面を保てるだろう。ただ、一緒に暮らす上での家事分担としてはいささかバランスが悪い。
「あと洗濯物ぐらいならするぞ。女性物の畳み方がよく分からんが教えてくれりゃできると思う」
食器を片付けながらそう提案すると、いろはは不意に目を細めた。
「先輩、わたしの下着畳みたいんですか?」
「そういう意味じゃねぇ⋯⋯」
不敵な笑みを浮かべたいろはに、俺はやれやれと首を振る。
いろはの下着は大体見たことがあるはずだし、今さら何か思うことなどないだろう。⋯⋯嘘だ絶対ドキドキするわ。必要以上に見聞した後に丁寧すぎるほどきっちり畳む自信がある。それ自信って言わないんだよなぁ⋯⋯。
「とりあえずは洗い物だけでいいですよ。先輩にはもっとわたしに依存してもらわないと困るので」
「依存て⋯⋯」
言い方はアレだが、胃袋を掴まれている時点で時すでに遅しなのかも知れない。まあ今さら逃げ出すつもりもなければ手放すつもりもないんだけど。
カシャン、とシンクの中に食器を置くと、早速洗い物を始める。その間いろははリビングに⋯⋯行くと思いきや、なぜか俺の隣に立ったままだった。
そして、チュッと。
いろはは俺の頬を
「⋯⋯いや、なんで?」
「さて、なぜでしょう?」
ふふっと微笑すると、謎だけ残してリビングの方に歩いて行った。
本当にこう、急に可愛いことするのは自重して欲しい。こんな調子じゃ依存どころか、骨抜きにされてしまう。
「勘弁してくれ⋯⋯」
俺はレバーハンドルを上げて水を出すと、呟きを水音で隠すのだった。
* * *
先輩が洗い物をしてくれて、二人でテレビを見て、それぞれにお風呂に入って。
今わたしと先輩が着ているのは、同じ柄で色違いのパジャマ。付き合う前にビビッときて衝動買いした物だったけど、こんな風に使えるんだったらいい買い物だったと思う。
「そろそろ寝るか」
時間はもうすぐ、夜の十一時になるかというところ。テレビも面白い番組がなくて、それぞれ携帯を触っていたところで先輩はそう言った。
「ですね」
わたしが短くそう答えると、二人して立ち上がる。脱衣所に入って洗面台の前に立つと、それぞれ違う歯磨き粉を持って、それを歯ブラシにつけた。
シャコシャコ、シャコシャコ。
規則的な音が、わたしたちの間に流れる。ふと鏡を見ると、その瞬間先輩と目が合った。
「⋯⋯」
無言のまま、肩をぶつける。先輩が、非難がましい視線を向けてくる。
鏡の中で目が合ったまま、わたしはにっこりと笑って見せた。先輩は眉を下げると、微かに頬をゆるませる。ああ、楽しい。こういう時の先輩の顔が、一番好き。
歯磨きを終えると部屋中の照明を消して、一緒にベッドに入る。セミダブルのベッドは二人で寝るには少し狭いけど、否応なくくっつけるから買い換える気はなかった。
「先輩」
薄暗闇の中で視線を交わす。いつも死んでる先輩の目は、暗がりの中だともはやゾンビ。でもそんなところは全然嫌でも嫌いでもないし、わたしだけが愛せる特権だとも思うぐらい。
「もうすぐ、一年ですね」
わたしがそう言うと、はてと先輩は首を傾げた。確かに今の言い方だと、勘違いされてしまうかも知れない。
「わたしと先輩が、大学で再会して」
「⋯⋯だな」
そこまで言うと分かってくれたのか、先輩は優しく目を細めた。その目で見つめられるたびに、わたしの心臓はキュンって小さくなってしまう。
「凄く長かったですよ。普通にこうしていられるまで」
「それはまあ⋯⋯。すまんかったとしか言いようがないな⋯⋯」
わたしが責めるように言うと、先輩は真面目かって言うぐらいへどもどした言葉を返してくる。
分かっているなら、もうよかった。済んだ話だし、今はこうやって一緒にいる。それに今日からは一緒に住んで、好きなだけイチャイチャできるんだから。
「──」
そこまで考えると、わたしは無意識のうちに先輩にキスしていた。先輩とまた目を合わせると、零れるように声が出る。
「先輩、大好き」
敬語も忘れて、ただただ
わたしがそう言うと、先輩は照れくさいのかポリポリとこめかみの辺りをかく。
「⋯⋯なんかお前、最近本当に真っ直ぐだな」
先輩は観念したようにそう言ったけれど、わたしにとってその言葉は不服だった。
全然、最近なんかじゃない。わたしは大学入ってからずっと、ひょっとしたらもっと前から、先輩に対して真っ直ぐだった。
「そうですよ。先輩のこと、好きすぎますから」
そうやって言葉にできて、わたしは心が晴れていくのを感じる。
本当にずっと、ずーっと前から言いたかった。誰に引け目を感じることなく、自分のキャラを作り込むことさえやめて、そのままの想いを先輩にぶつけること。それができるわたしは、本当の幸せものなんだって実感できる。
「それはまあ、俺もなんだけど⋯⋯。正直、語彙力が追いつかん」
その言葉を聞き届けて、思わずわたしはニンマリと笑ってしまう。そこまで言ってくれたら、もう充分、先輩は国語の成績はいいクセして、言葉にするのが苦手なことは重々分かっている。
「まあ、慣れなんじゃないですか。知りませんけど」
そうやって嘯いて、わたしはまた先輩の唇を掠め取る。ぴたっと身体を密着させると、先輩はわたしを抱きしめてくれる。
なんて幸せなんだろう。──そう思っていると、わたしのお腹に圧迫感が訪れる。
「⋯⋯先輩?」
「⋯⋯いや、すまん。最近どうにもな⋯⋯」
先輩は気恥ずかしそうにそう言うと、わたしから目をそらす。
本当にこの人は、こういうことには信じられないぐらい元気になる。普段からその元気を出してくれたらいいのに。
「駄目ですよ。明日朝からバイトですよね」
「⋯⋯分かってるよ」
わたしが嗜めると、先輩はしゅんとうなだれながらそう言った。その姿が可愛らしくて、また胸がキュンとしてしまう。
わたしだって相手をしてあげたいけど、先輩の体調が最優先だった。今始めてしまったら、きっと何時間もかけて愛し合ってしまう。わたしはよくても、先輩の方が仕事に支障があった。
「ちゃんとタイミングみて、お相手しますから」
「ああ⋯⋯」
どよんと澱んだその目は、薄暗がりの中で見ると本当に犯罪者みたい。だけどその目で見つめるのはわたしだけなんだって事実が、堪らなく嬉しかった。
「今日はわたしを抱き枕にしていいですから、それで我慢してください」
「それが一番我慢できなくなるやつなんだけど⋯⋯」
先輩はそう言いながら、わたしの背中に腕を回した。それが本当に幸せで、わたしはそっと目を閉じる。
ぎゅぅっと抱きしめられながら、わたしはゆっくりと眠りの中に落ちていく。そうして、底に落ちきる寸前に。
「──」
唇に温かいものが押し付けられて、わたしはふふっと口角を引き上げた──。
久々にいろは視点でした。
一生やってろ下さいって感じですね。
明日はいろはす生誕祭!
ようやく現実の時期と作品の時期を合わせられてきたので、明日は誕生日のお話です。