「本当、すみません⋯⋯」
「もういいっつーの」
人っ子一人いない路地、まだ肌寒さを感じる夜半。
俺は一色いろはを背負いながら、てくてくとアスファルトを踏みしめていた。
「まあなんだ⋯⋯。俺ももっとちゃんと止めればよかったな」
「⋯⋯今それを言うのは、ズルいですよ⋯⋯」
耳元で呟かれた声が、妙にむず痒い。というかむず痒い以上に、この現状がヤバい。ヤバすぎる。
責任取って送ってけよー、と放り出された現状を正しく形容するならば、酔いつぶれた後輩を家まで送っている真っ最中である。つまりは送り狼の典型パターンだ。
当然そんなことをするつもりはないが⋯⋯。そんな俺の意思とは別に否応なく背中に感じる胸の柔らかさは、如何ともし難いものがある。
「あ、そこです」
不意に一色がそう言って、俺は立ち止まって真横の建物を仰ぐ。
暗くてよく分からないが、六階建ぐらいのマンションだ。その立派な出で立ちに、ひょっとして家族と一緒に住んでるのか? と緊張してしまう。
「わたしの部屋、二階です」
「⋯⋯おうよ」
入口の自動ドアをくぐると、一色はテンキーの横に設置されたカードリーダーにカードをかざした。エントランスに入ってエレベーターの前まで行くと、上向きの三角ボタンをぽちりと押す。元々そこに止まっていたらしいエレベーターが、ぱかっと口を開いた。
十数秒の後に二階の廊下に出ると、一色の案内に従って廊下を歩く。やがて一色の住む部屋の前に来ると、背中から下りた一色はふらふらとあぶなっかしい足取りのまま鍵穴にキーを差し込んだ。
「どうぞ」
「お、おう⋯⋯」
そして一色はまるで一人で立っていられませんとばかりに、俺の腕を掴んでくる。それに仕方なく玄関に入ると、甘いアロマの香りが鼻腔をくすぐった。
靴を脱いで、玄関から続く廊下に立つ。右手に風呂場、それにトイレらしき部屋ともう一室。それらを無視してどん詰まりのリビング・ダイニング・キッチンに入ると、ソファに一色を座らせる。
「⋯⋯結構いい部屋に住んでるんだな」
「え⋯⋯? ああ、パパが都会は物騒だからって、選んでくれました」
なるほど、一体いくらの物件かは知らないが、女の子は手がかかるというのはこういう側面もあるのだろう。
「⋯⋯とりあえず、もう横になるか? しんどそうだし」
「いえ、大丈夫です」
一色はそう言うと、俺の横を通り過ぎていく。とりあえず自分の足で歩けるぐらいには回復したらしい。
そしてパタン、と閉じられる脱衣所への扉。それ以降の音は聞こえてこない。そもそも聞こえてきたらまずい。
⋯⋯っていうかこれ、俺もう帰ってもいいやつでは? しかしあんな状態で急に倒れられても困る。色々な意味で困る。
そんなことを考えながらいつまでも脱衣所の前に立っているのも間抜けに思えてきて、俺は廊下を進んで扉を開けた。手探りで照明を点けると、一番奥の部屋はリビング・ダイニング・キッチンになっているらしい。
やっぱりいいところ住んでるんだなーへぇーほぉーふぅーんと、待っていると、カチャンとくぐもった音が聞こえた。それから数分の後に、パジャマ姿の一色がリビングに現れる。
「⋯⋯⋯⋯」
何故か、顔を両手で覆ったままで。
「⋯⋯何してんの、お前」
「だ、だって⋯⋯」
言い淀むその姿は、おおよそいつもの一色らしくない。大学に入ってからというもの、ハッキリした態度が目立っていたから、特にそう思う。
「あの⋯⋯。わたし今、スッピンなので」
「⋯⋯なるほど」
それで全部、合点がいった。まあ年頃の女の子なら、異性に素顔を見せるというのはハードルが高いだろう。
──しかし。
そんな姿を見せられてしまうと、どうしても邪な考えが芽生えてしまう。何せ今まで、一色にはやられっぱなしだったのだ。
思いついてしまってはいても立ってもいられず、俺はリビングの入り口で立ったままの一色と向かい合う。
「スッピンだから、なんだ?」
殊更にわざとらしく、俺はそう言って一色の肩に手を置いた。ビクッ、と一色の小さな肩が震える。
⋯⋯え、何それそのガチな反応。俺もここまで来たら、引き返せないんですけど?
日和そうになる心に鞭を打って、俺は一色の腕を掴む。
「な、なんですか? ぜ、絶対に見せませんよ! 先輩にスッピンなんて!」
「そう言われると、見たくなるんだよなぁ⋯⋯」
なんだこいつ、ダチョウ倶楽部のフリかよと思いながら俺は一色の腕に力を込める。抵抗してくる一色。しかし、か弱い女の子がそこらの男子の力に敵うはずもなく。
「──っ!」
パッ、と露わになった一色の顔は。
まるで高校時代の彼女のように瑞々しく、幼い顔立ちだった。
赤らんだ頬に、整った顔立ち。潤んだ目は怯えすら浮かんでいて、小動物のような印象を受ける。
「⋯⋯」
あっれぇー?
何だか、思っていたのと違う。反応も、その姿も、全然違うんだけど、でも──。
「⋯⋯なんだよ、普通に可愛いじゃねぇか」
それが、素直な感想だった。
もっとこう、ネタになるような展開じゃなくてガッカリである。なんでそんなにスッピン見せるの嫌がってたんだよこいつ。他の補正無しNG女子への嫌味か?
しかし、当の本人はそんなつもりは毛頭ないようで。
「──!」
一色は声なき叫びを上げると、リビングを出て行った。
⋯⋯っべー、これやらかしちゃったやつじゃん⋯⋯。
致し方なくその後を追うと、思い切り閉められた後なのか廊下から誘い込むように半開きの扉が目に入る。コンコンコン、と三○度だけ開いた扉をノックするが、返事は聞こえてこない。
「あー⋯⋯。その悪かったよ。俺もちょっと、酔ってたかも知れん」
「⋯⋯」
返事はない。そこにあるのは薄暗がりと、ベッドに突っ伏した一色の姿。後は沈黙ぐらいのものである。
仕方なく、俺は一色が突っ伏しているベッドを背もたれにして座り込んだ。これは機嫌を治すまで、時間がかかりそうだ。
「⋯⋯」
「⋯⋯」
互いに、無言の時間が続く。
そうして一分、二分、三分⋯⋯。
もし許すつもりがあるなら、一色の方から何か話すだろう。それがないということは、今この場では折り合いが付かないということだ。
「⋯⋯今日は、帰るわ」
おそらくそれが、一番の得策だろう。元より泊まっていくつもりなどないのだから、いずれはそうなる話だ。また大学で顔を合わせたら思いっきり文句を言われるか、逆に何も言われずにめちゃくちゃ気まずい思いをするだけである。何それ辛い。
「⋯⋯待って、ください」
俺が立ちあがろうとした、その瞬間。
一色は顔を突っ伏したまま、ぐっと俺のシャツを掴んだ。
「急に気持ち悪くなっちゃうかも知れないので、傍にいてください」
まるで体調不良になる予定なんて休みます、みたいな理由だと思ったが、実際そこは心配なところだった。寝ながら吐いてしまって窒息死、なんてことがあっては、俺は一生後悔することになるだろう。
「分かったよ。ちょっとでも気持ち悪くなってきたら、すぐ言えよ」
「はい。⋯⋯ありがとうございます」
それっきり、
聞こえてくるのは、互いの呼吸音だけ。しばらくしてもう寝ただろうかと一色の方を見ると、こちらを見ていたらしい彼女とすぐに目が合う。
「先輩も一緒にベッドで寝ますか? お客さん用の布団って、持ってないので」
そう言った一色の顔には、試すような笑みが微量に含まれている。酔っ払いの言うことには、いちいち付き合っていられない。
「寝るわけねぇだろ⋯⋯」
「そうですか」
俺がベッドフレームに背中をあずけると、一色は分かりきっていた答えに返すように言った。
それからしばらくすると、すぅすぅと安らかな寝息が聞こえてくる。振り返ると安心しきった一色の寝顔が見えて──すぐに視線をそらした。
「心臓に悪いわ⋯⋯」
本当に、色々な意味で。
俺は天井に向かってそう呟くと、溜め息をつくのだった。
* * *
もぞり、と誰かが動く気配で、わたしは目を覚ました。
いつもの寝室。真っ白い天井。
そこには確かにいつもの朝があるのに違和感だけがあって、わたしは頭を浮かすと部屋を見回した。
「あ、起きたか?」
そして、目が合う。
「──っ!」
瞬間、言葉を失った。それと同時に、頭はアクセルを踏み込んだみたいに高速回転を始める。
昨日、何してたっけ。は当てつけみたいに合コンに参加して、そこに先輩がいて、それから⋯⋯。
あ、これわたし、だいぶやらかしたやつだ。
「何だその⋯⋯途中で帰ろうかと思ったけど電車もないし、心配だったからな」
さっきから何もしゃべらないわたしが言外に責めていると思ったのか、先輩はバツが悪そうにそう言った。
ひょっとして、それって。
わたしが言ったことを真に受けて、本当にずっと傍に居てくれたってこと?
え、何それ、好き。
じゃなくて。
なんで手を出してくれないの!?
でもなくて。
「あの⋯⋯。すみません。ご迷惑をおかけしました」
わたしは床に下りて正座すると、そう言ってぺこりと頭を下げた。
いまわたしがすべきなのは、思いっきり迷惑をかけてしまったことへの謝罪だ。
「いや、何もなかったならそれでいいんだ。俺もちゃんと止めてやれなくて悪かった」
そう言って何故か先輩からも頭を下げられてしまった。
責任感の塊かよ。好き。
⋯⋯って、今そういうのはよくて。
「あのっ。朝ごはん食べて行ってください」
せめてもの償い、というか失態を取り戻すために、わたしはそう提案した。
あと純粋にわたしがそうしたい。カーテンの足元から伸びる朝日を受けながら先輩と朝ごはんってシチュエーション、恋人っぽすぎて素敵すぎる。
乙女かよ、わたし。
乙女だよ、たぶん。
「いや、さすがにもう帰るわ。食ったら帰りの電車で寝そうだし」
「⋯⋯それもそうですね」
そう言って立ち上がった先輩に、わたしは一気にテンションが下がるのを感じた。
けれど、こんなことでへこたれるわたしじゃない。玄関に向けて一緒に歩いていくと、靴を履いている先輩の背中に声をかけた。
「先輩」
靴を履き終わった先輩が立ち上がって、こちらを振り返る。うちの玄関はそれほど段差が大きくないから、ちょうど先輩と目の高さが合った。
「また遊びにきてくださいね?」
首を傾けながらそう言って、いつものスマイルをプラス。そうしたら「いや遊びにきたわけじゃないんだけど」とか「いや、来ないけど」とか言うんだろうな。
そう思っていたら。
徹夜明けの変なテンションなのか、先輩はクマを作った目で笑った。
「機会があれば前向きに善処する所存です」
「絶対来る気ないやつじゃないですかっ」
わたしの突っ込みに満足そうな顔をすると、先輩は「じゃあな」と言って玄関から出ていった。
パタン、と扉が閉まって、わたしはペタンと座り込む。
ああもう、本当にずるい。そういうところが、本当に。
そんなことを考えながら、わたしは開くはずのない玄関扉を見つめ続けていた──。
八幡がタラシになる回でした。
一色いろはは、きっとスッピンも可愛い(確信)。
感想・お気に入り・評価など頂けると作者が喜びのあまりバロック上のズラをかぶりながらカスタネット鳴らしまくります。
それでは、引き続きお楽しみ下さい!