かぽーんと、どこか長閑な音が響いていた。
貸切の露天風呂には、掛け流しの湯がチョロチョロと流れている。その音に覆いかぶさるように、シャワーの水音が鼓膜を打っていた。
「なんかこういう感じのお風呂で一緒なの、初めてですねー」
「⋯⋯そうだな」
いろはに部屋から連れ出されてから後は、あっという間だった。あと三十分しかないからと急かされながら脱衣所で服を脱ぎ、今は風呂に入る前に身体を洗っているところである。当然それぞれに、自分の身体を。
「先輩?」
「何だ」
俺は真っ直ぐ鏡だけを見ながら、自分の身体を洗っていた。いろはの方は、あえて見ないように。
さっきからチラチラと横目にいろはの裸身が入ってくるのは致し方ないし、何なら脱衣所でばっちり見てしまっていたが、この状況で慎みなく見るのは避けるべきだと本能で理解した。
それだというのに──。
「いえ、全然目を合わせてくれないなーと」
いろはは視界の端で俺の方を見ながら、そんな非難がましい言葉を向けてくる。いやそっちの方見れるわけないでしょうが⋯⋯。
まだ外は明るく、俺たちのいる洗い場には斜陽が差している。そんな特殊な状況でいろはの裸を見てしまっては、俺の煩悩は大爆発で大フィーバー。さりとてこんな場所でハッスルするには時間も覚悟も足りない。いや足りないままでいいんだけど。
「そりゃお前⋯⋯人が身体洗ってるところジロジロ見るもんじゃねぇだろ」
「目が合わないって言ってるだけなのに、どうしてそういう発想になるんですかねー。ジロジロ見たいんですかー?」
「まあ、わたしは見てますけど」
「⋯⋯っ!」
そう言ったいろはの顔が、俺の視界の端で大きくなっていく。はっとしていろはの方を見た瞬間──。
「わぷっ」
顔面にシャワーをぶっかけられた。
「おま⋯⋯っ。何すんだよ」
「あははっ」
楽しそうに笑ういろはの身体は、絶妙な角度で差し込んだ陽の光によって大事な部分だけが隠されていた。何その演出。この旅館ラブコメの神様でも住んでんの?
「ほら、入りましょう」
「ああ⋯⋯」
いろはに促されると、俺たちは身体についた泡を洗い流して風呂へと向かった。人の胴ほどある石を敷き詰めて作られた露天風呂は、老舗旅館らしく荘厳さを感じさせる。
ちゃぷんと湯船に浸かると、思わず「ふはぁ」と声が漏れた。何だかんだでたくさん歩いたし、こちらに来るまでの道のりも長かったから、身体にきていたらしい。
「はー、生き返りますねー」
気持ちよさそうな声にうっかりいろはの方を見てしまうと、胸の上半分だけ出してその肢体は湯の中に浸されていた。無論マナーだから、CMよろしくバスタオルなんかは巻いていない。
しかし本当、いろはさんさぁ⋯⋯もうちょっと恥じらいとかないのかしら。まあ別に一緒に風呂入るのは初めてでもないし、俺が過剰に反応しているだけなのかも知れないが。
「⋯⋯」
「⋯⋯」
それっきり会話はなくなって、カポーンとまたししおどしの音が鳴る。
いやぁ、いいですねぇ⋯⋯。とても風流で⋯⋯。
「さっきから静かですね」
俺が脳内でのセルフトークを楽しんでいると、いろははちらとこちらを見てくる。君、こういうところすぐ気がつくよね⋯⋯。
「露天風呂に相応しい話題が見つからないだけです」
「なんで急に敬語⋯⋯。まあいいですけど」
いろはは呆れた声を出すと、ふぅと一息ついてから俺との距離を詰めた。ぴったりと腕同士をくっつけると、俺の顔を見上げてくる。
可愛らしく上気した頬に、濡れたまつ毛。見慣れたすっぴん姿は幼さを感じるどころか、孤を描く唇のせいで妖しささえ覚える。
「ん⋯⋯っ」
そして、一瞬だけ。
胸元と唇に柔らかな感覚が広がって、温泉よりも熱い感覚が伝わってくる。
「⋯⋯いや、なんで?」
「ふふっ。今日はまだキスしてなかったからです」
いろはは少しだけ俺から距離を取ると、最高に可愛らしい笑顔を差し向けてきた。ああ、さっきのほっぺにちゅーはノーカンなんですね。
そして俺の顔に向けていた視線を一瞬湯船に注ぐと、また俺を見て⋯⋯また湯船の方を見る。
「んー⋯⋯。これも温泉の効能ですかね?」
っておいいいぃぃぃぃ!!
せっかく我慢してたのにおっきしてんじゃねぇよリトルハチマン! ヘイブラザー今の俺の名はビッグハチマンだぜってやかましいわ静まれ。
俺は無言のまま湯船に顔を沈めていくと、ブクブクと泡を吐いた。その様子を、いろははくすくすと笑いながら見ている。
「先輩、可愛い⋯⋯」
可愛いどころか凶暴なんだよ、俺のどうしようもない煩悩ってやつは。
俺のバカ! ボケナス! ハチマン⋯⋯。
* * *
下駄を履いて外に出ると、温泉でふやけた指の間に鼻緒が食い込んだ。
カラカラと慣れない履物を鳴らして道を少し歩けば、すぐに堤防が見える。近づいてそれに腕をかけると、海はもう目と鼻の先だった。
いいなぁ、って。
わたしは海風に吹かれながらそう思った。火照った身体に五月の風はちょうどよくて、思わず鼻歌まで出てきてしまう。
先輩たちと、旅行。実はちょっと、憧れだった。
わたしは同じ学年じゃないから、当たり前だけど修学旅行は一緒に行っていない。結衣先輩曰く、夏休みにも泊まりで夏合宿みたいなことをやっていたらしいけど、当然わたしはそこに参加していなかった。付き合いが深くなる前のことだから仕方ないとは分かっているけど、そういう話を聞いていたらどうしても羨ましくなってしまう。
「一色さん」
カラコロ、と近くで足音が聞こえたと思ったら、聞き慣れた声がわたしを呼ぶ。声のした方を見ると、浴衣姿の雪乃先輩がこちらに向かって歩いてきていた。
「あなたも湯涼みに?」
「ええ、そんなところです」
湯涼みって、なんか雪乃先輩らしい言い方だな。そんなことを考えていると、雪乃先輩はわたしの真似をするように堤防に手を置いた。
それっきり、会話はない。話題がないわけではなくて、むしろわたしには話すべきことがある。ただ思いもよらずに巡ってきた機会だから、まだ心の準備が整っていない。
「綺麗ね」
不意にそんな声が聞こえて、わたしは雪乃先輩の方を見た。
海風にはらはらと舞う、長く艶めく髪。細められた目にはキラキラと太陽の光が映り込んで、映画の中の世界に迷い込んでしまったんじゃないかと思った。
綺麗という言葉は、きっと雪乃先輩みたいな人に用意された言葉なんだろう。こんな人が近くにいたから、わたしは先輩に対して自信が持ちきれないのかも知れない。そんな無責任な考えが浮かんで、わたしはそれを打ち消すように声をかけた。
「雪乃先輩」
思っていたより固い声が出てしまう。雪乃先輩の瞳に捕らえられたわたしは、自分で心配になるぐらい深刻そうな顔をしていた。
「わたし、ずっと後ろめたい気持ちがあったんです」
それはいきなりな言葉だったと思う。そんな眉を
「雪乃先輩も、結衣先輩も先輩のこと好きなの分かってて、自分から行ってもいいのかなって」
自分でダメだししたくなるぐらい、下手な説明だと思った。
はっきり言うことにためらいがあるから、そんな言い方になってしまうのかも知れない。だけど雪乃先輩は全部分かっているとでも言うように、こくりと頷いて続きを促してくる。
「正直、今でもそう考える時があります。わたしが先輩と付き合うのが一番いいのか、分からなくなるんです」
こんなことを赤裸々に言われても、雪乃先輩だって困ると思う。
だってこの話題には、正解も着地点も用意されていない。やっぱり未練があるのよね、なんて言われたら、どんな返しをしていいかも分からない。
「私も同じよ」
だけど返ってきたのは、思ってもみなかった言葉だった。
「私も結衣と恋人同士になってから、ずっと思っていたの。私が⋯⋯私たちだけが幸せになってもいいのかしらって」
雪乃先輩は視線を海に戻すと、細く息を吐く。
わたしに女性同士の恋愛のことは分からない。けどその後ろめたさが同じだと言うのなら、何を言いたいかは分かるような気がした。
「結衣と一緒にいられるのは、本当に幸せなことよ。でも比企谷くんのことを考えると⋯⋯本来いるはずの輪から弾き出してしまったように感じていたの」
ああ、やっぱりなって思った。高校の時から、それは分かっていた。
三人は特別で、とっても貴重な、強い絆で結ばれていたんだと思う。それを認識すると、どうしようもない侘しさのようなものが心を満たした。高校の時、何度も味わっていた感覚だ。
「だからあの時、あなたが比企谷くんと一緒になりたいって言った時、私は内心安心していたのよ」
あの時──と言われて思い出すのは、秋のある日の光景だ。葛西臨海公園で雪乃先輩たちと会って、わたしと先輩が一緒になる許しをくださいと伝えた、あの日。
「すごく身勝手でしょう? やっと伝える時が来た、何の引け目を感じることなく結衣と幸せになれる時がきたんだって、考えてしまったの」
正直、意外だった。
わたしの中の雪乃先輩は、気高く綺麗な部分しか見せない、ガラスみたいに危なっかしい存在だったからだ。
きっと言葉にしなければ堪らなくなるぐらい、雪乃先輩を縛り付けていたものは強かったんだと思う。わたしが先輩と一緒になりたいと思ったのと同じぐらい、欲しかったものだったはずだ。
「だから、あなたは何の気兼ねをしなくたっていいのよ」
わたしを見ている目が儚く笑んで、少しだけ胸が苦しくなって。
だけど雪乃先輩の伝えたかったことを胸に染み込ませたら、わたしはまた真っ直ぐに前を向ける。
「⋯⋯はいっ」
涙ぐんでしまった目は海風のせいにして、わたしは短くそう答えた。
* * *
「こうして一色さんとお酒を飲む機会があるなんて、感慨深いわね」
と、彩り鮮やかな料理を前にして微笑んだのは雪ノ下で。
「本当、そうだよね。ヒッキーともだけど」
お酌をしながら嬉しそうに言ったのは由比ヶ浜であり。
「いやー、それはわたしもですよ。時間が経つのって早いですねぇ」
妙に晴れやかな顔でお酌を受けていたのはいろはだった。
食事のための別室に通され、絶品海鮮料理に舌鼓を打ったのは一時間ほど前の話。
⋯⋯そう、一時間も経てば、人は酔ってしまうのだ。
「ゆきのせんぱいぃぃぃ⋯⋯っ。わたしっ、わたし本当に憧れてて、何ならめっちゃ好きでぇ⋯⋯っ」
「ふふふふ⋯⋯っ。酔ったあなたも可愛いのね」
ところは変わって俺たちの泊まっている客室のことである。いろはが半泣き状態になりながら雪ノ下に絡みついていた。
今思えば、食事を終えてほろ酔い状態で飲むのをやめておけばよかったのだろう。土産物の売店で日本酒を仕入れてしまってからおかしくなったのだが、止めなかった俺も悪い。
「でも結衣先輩も好きでっ、だからわたし⋯⋯わかってたからぁ⋯⋯」
「そうね。私も結衣が好きよ。分かるわ」
いい加減いろはを雪ノ下から引っ剥がした方がいいだろうかと思いながら、くぴりとお猪口を傾ける。
こっちの酒が美味すぎるのも、罪深いものだなと思った。日本海側には美酒が多いと聞いていたが、なるほどこれは飲み慣れていない者でもついつい飲んでしまう。
「おい、お前の彼女が浮気してるぞ」
「え~? それ言ったらヒッキーの彼女もだよ?」
由比ヶ浜は手酌しながら楽しそうに笑うと、くいっとお猪口をあおった。けっこうイケる口なのか、飲むペースが早い。しかしその頬はとうに赤くなっているので、めちゃくちゃ強いわけでもなさそうだ。
だからというか何と言うか⋯⋯。由比ヶ浜さん、さっきから浴衣から生足見えすぎなんですよねぇ⋯⋯あと浴衣の胸元も直した方がいいと思います。万乳引力が働いてしまうので。
「ゆきのんは大丈夫だよ~。絶対浮気なんてしないもん」
それにしても凄い自信だった。またいろはたちの方に視線を戻すと、まだウザ絡みは続いている。いや、雪ノ下はまんざらでもなさそうな顔をしているからそれは言い過ぎかも知れないが。
けどね、いろはさん⋯⋯浴衣グイグイ引っ張るのは止めてあげて。ほらブラ紐とか見えてるから。どこ向いても視線のやり場に困る状況になってるから。
「も~、さっきからなに見てるんですかぁ」
俺の視線に気付くと、いろはがずずずっとこちらにやって来る。
四つん這いの状態でにじり寄って来たせいで、もろにブラジャーが見えてしまっていた。今日はオレンジのフロントホックのやつだ。慣れたらフロントホックよりも後ろの方が外しやすいんだけどじゃねぇよ恋人だからって見すぎよ八幡!
「もうそのぐらいにしとけよ。顔真っ赤だぞ」
「え~⋯⋯。飲みながら言う台詞じゃないですよそれ」
そう言いながら、いろはは俺のお猪口に日本酒を注ぎ足してくる。ついつい杯に手が伸びてしまうあたり、俺もだいぶ酔っているのかも知れない。
「ゆきの~ん、いろはちゃんばっかりずるい~」
「あらあら。結衣は酔うと本当に可愛いわね」
いつの間にやら由比ヶ浜は雪ノ下の隣に移動して、いろはの代わりにまとわりついていた。雪ノ下は満足そうに由比ヶ浜の身体に手を回し、お団子の解かれた頭を撫でている。
もうグダグダでぐちゃぐちゃだが、何だかいいなと思ってしまうのだから俺も結構どうしようもない。
やれやれと深い息を一つつくと、俺はいろはに注いでもらった酒をあおるのだった。
大人になってぐでぐでになるまで飲んでる三人、見たいなぁ⋯⋯という妄想から生まれたお話でした。
旅行の話はまだ続きます。