六月。
咲き乱れる紫陽花が雨に濡れ、その色を濃くする季節がやってきた。
そう言ってしまえば聞こえはいいが、つまるところの梅雨時期。雨が多くジメジメした日が多いし、夏の気配が近づいてくるたびにげんなりしてしまう季節である。
今日も今日とて外は雨。大学の廊下は常より湿度が増し、足音すら湿気を孕んでいるように思える。
「じゃあ、今日は俺の方が早いのか」
「ええ、珍しく」
前を向いたままそう言うと、隣を歩くいろはは淡々と答える。
今日はバイトもなく、四限で帰る俺に対していろははほとんどフルで講義を取っているらしい。いつもバイトで遅くなりがちな俺の方が早く帰る予定という、珍しいパターンだった。
「なので、買い出しお願いしていいですか? 家計用の財布は渡しておきますので」
「おう」
家計用の財布、というのは主に食費を賄うためのお金を入れてある財布で、買い物に行くたびに割り勘しなくてもいいように出し合ったお金を入れておくのに使っている。なんだかこういうことをしていると家庭を持ったみたいな感じがしないでもないが、同棲している以上そうなるのは必然だろう。
「買って欲しいものはラインで送っておきますから」
「ん。分かった」
「おーい、比企谷!」
財布を受け取って鞄にしまったところで、背後から聞き慣れた声がかかる。
振り返るとミスター暑苦しい男、二階堂がニヤつきながら近づいてくるところだった。さっきの見られてないよな、と思っているうちに、二階堂は俺の隣に並んでくる。
「なんか珍しいな、食堂以外で二人みかけんの。ってか一色ちゃん久しぶりー」
「ああー、どうもお久しぶりです気軽にちゃん付けで呼ばないでくださいねー」
「うはー。笑顔なのに言うことえっぐ」
そしていろはは相変わらず、俺以外の男には塩対応だった。
けどな二階堂⋯⋯笑顔なだけまだマシだぞ。こいつナンパ野郎とかには愛想笑いどころか射殺す勢いで睨むまであるからな⋯⋯。
「ってかさっき財布渡してなかった? どういう状況?」
それにしてもこいつ、さっきの場面ばっちり見ちゃってんじゃん。しかも遠慮なしにぶっこんできやがるし。
家計用の財布として使っているのは、以前いろはが使っていたお古の財布だ。遠目に見ても女性物であることは分かってしまっただろう。
「⋯⋯別に、ただの使いパシリだ」
俺がそう答えると、いろはがジトっとした目を向けてくる。いや、まったくの嘘じゃないんだからいいでしょ、これで⋯⋯。
「尻に敷かれてんなぁ。まあ、比企谷はそのぐらいの方がちょうどいいと思うけど」
二階堂は訳知り顔で笑って見せる。⋯⋯が、もちろん俺たちが同棲していることは言っていない。
別に隠しているわけでもないが、わざわざ言うことでもない。何かの拍子で知れ渡ってしまっても面倒だし。
「そうだ。今度久しぶりに飯でも食いにいこうぜ。⋯⋯あ、もち男だけでな」
言っている最中にこわーい笑顔になってきたのに気付いたのだろう、二階堂はいろはに向けて付け加えた。いろはす、もうちょっと顔に出すのは抑えようね?
「⋯⋯らしいけど。行ってきてもいいか?」
「はぁ⋯⋯。まあわたしもさくらちゃんとご飯食べに行ったりしてるんでいいですけど⋯⋯」
うーん、超不服そう⋯⋯。
何か最近、いろはの独占欲が強くなっていっている気がする。それは俺の方もかも知れないのだが。
「そんじゃ、また連絡するわ」
じゃあな、と軽く手を振ると、二階堂は階段への曲がり角を折れて行った。
財布を見られた時は少しドキッとしたが、たぶん怪しまれてはいないだろう。やれやれと思いながらいろはの方を見ると、検分するような目がこちらを見返していた。
「⋯⋯いや、何? 俺の顔に何かついてる?」
「ええ、腐った目とどうしようもない口がついているわね」
「ちょっと? 急に雪ノ下のモノマネするのやめてね? いやめっちゃ似てるな⋯⋯」
声音の冷たさなんて高校時代そっくりで八幡ぞくぞくしちゃう⋯⋯。ただ、何か誤魔化されたなという感じがする。
「あ、そうだ。ご飯行ってもいいですけど、門限決めてもいいですか? 先輩だけ夜八時で」
「はえぇよ⋯⋯一次会で中座確定じゃん⋯⋯」
しかも俺だけかよ、と心の中でぶつくさ続けるが、もし本気で早く帰ってきて欲しいのならば俺はそれに従うしかない。
これが惚れた弱みってやつなのだろう。羽目を外しすぎないように、と諌めるかのごとく袖口を握ってきたいろはに、俺は頬を緩めるのだった。
* * *
気付けばもう、夜の十時を過ぎていた。
いつも通り家事とお風呂を済まして、リラックスタイムの真っ最中。先輩はローテーブルに資料を広げて、レポート作成の真っ最中だ。
先輩と一緒に住み始めて、早いものでもう一ヶ月と少し。嬉し恥ずかしドキドキな毎日は一週間もすればお互いに慣れてしまって、こうして何も喋らず好きに過ごすのもいつもの光景になっている。
「先輩?」
「んー」
呼びかけて返ってきたのは生返事のような声だけで、ソファに座っているわたしを振り向く様子はない。集中してるか、構っている余裕がない時の反応だ。
「いえ、呼んでみただけです」
「あ、そう⋯⋯」
じゃあなんで呼んだの⋯⋯って目をして一瞬わたしを見ると、先輩はまたレポートに向かって背中を丸める。
手持ち無沙汰になって、わたしは読みさしだったファッション誌を開いた。もうそろそろ今月号が出るぐらいかなーと思いながらページを捲ると、あるキーワードが目に入る。
ジューンブライド。
記事によると、六月第一日曜日はダイヤモンドの輝きが太陽の光によって最も綺麗に見える日だから、この日にプロポーズされると幸せになれると言われているらしい。
他には昔のヨーロッパでは結婚の解禁が六月からだったとか、ローマ神話の神様がどうたらとか。なんでこんな雨の多い時期に結婚式をしようとするんだろ、と薄々思っていたけど、色んな理由があったらしい。先輩に話したら、もっとマニアックなどうでもいい俗説とかめっちゃ語ってきそう。面倒くさいから振らないけど。
けど、結婚、か。
こうやって同棲してみて分かったけれど、たぶんわたしは好きな人となら上手く共同生活ができるんだと思う。先輩の方もだいぶ慣れてきたからきっとそう。っていうかそうじゃないと、困る。
「せんぱーい」
わたしはソファから下りると、クッションに座ってレポートに向き合っている先輩に後ろから抱きついた。その身体は、ぴくりとも反応しない。ちょっとこの人、わたしのスキンシップに慣れすぎでは?
「いや何⋯⋯。何か用?」
先輩は首だけで振り返ると、ちょっと呆れた表情を浮かべていた。でもその頬がちょっと緩んでいるのを、わたしは知っている。
「いえ別に。くっつきたかっただけなので」
そう言って肩越しにレポートを見ると、見慣れないキーワードが並んでいた。あと一年しないうちに同じぐらい小難しい単語やら用語やらを覚えなきゃいけないことを思うと、ちょっとげんなりしてしまう。
そうして一年、二年と経って。もっともっと経って。
その時わたしたちは、どういうカタチを作っているんだろう。ジューンブライドの記事を読んだからか、ふとそんなことを考えてしまう。
「もっと構ってくださいよー」
「あー、はいはい⋯⋯。やっぱ構ってほしいだけかよ」
視界に垂れ下がったわたしの髪が邪魔になったのか、わしわしと頭を撫でてくる。いつもより構い方が雑。でもわたしのことを全然無視できなくなっちゃってるところが、堪らなく好き。
「撫でるならもっとちゃんと撫でて下さいよー」
「いやレポート終わんないんだけど⋯⋯」
これで我慢しろとでも言うように今度はわたしの髪を
「先輩」
「うん?」
数年後。あるいはもっと先の、ジューンブライド。
その時になったら先輩は、わたしと一緒にいることを選んでくれるんだろうか。
その時わたしは、どんな気持ちで先輩と一緒にいるんだろう。
「大好きです」
でも今は、こんな関係が心地よくてちょうどいい。
わたしはやり返すようにその唇を塞ぐと、先輩の胸に飛び込んだ。
なかがき
ここまでお読み下さりありがとうございました。
本編よりも長くなったアフターである、この恋人編。
大学生八色で書きたいことは書き終えたので、これにて終了です。
ですが”なかがき”と銘打ったように、お話自体はまだまだ続きます。
次回から『社会人編』スタートです。引き続きお楽しみ下さい!