俺が一色いろはとの結婚を考え出したのは、いったいいつからだろうか。
付き合い始めた直後かも知れないし、同棲してしばらくしてからかも知れない。あるいは両親の手にぶら下がり、幸せそうな顔をした子どもを見た時だったか。
そのぐらいずっと前から、漠然とだがいろはとの結婚を考えてはいる。しかしはっきりとした形として結婚願望を覚えたのは、間違いなく先日出席した結婚式がきっかけだった。
もはや熟年カップルの域に片足を突っ込んではいるが、いろはに飽きたということは全くない。それどころかずっぷりといろはの魅力漬けにされて沼状態まである。
だからこのままザギンに直行して婚約指輪を買い付け僕は死にましぇーん! とプロポーズしたいのは山々なのだが、現実的な問題はあるわけで。
「よう、比企谷」
そう声をかけてきたのは、上司の
「あ、お疲れ様です」
そう返した俺も、当然のように仕事着であるスーツ姿。ただいまオフィスの入っているビルのカフェにて絶賛昼食中である。
「急ぎの話があるんだが、いいか?」
「はい」
俺が答えると、常磐さんは向かいの席に座る。いわゆるランチタイムミーティングというやつだ。
最初は飯時まで仕事かよ⋯⋯と思ったものだが、今や何とも思わなくなった。社畜の極み、いや、社畜の鏡か? どっちでも変わらないんだよなぁ⋯⋯。
「お前、クライアントへの最終報告終わったところだったよな」
「はぁ⋯⋯。後は社内向けのレポートだけですけど」
クライアント、というのは俺が受け持っていた企業のことだ。何の因果かハードワークで知られるコンサルタント業が、今俺の身を置いている業界だった。
吸い寄せられるようにこの業界に入ったのには、いくつか理由がある。
まず純粋に、その仕事内容に惹かれたことだ。調べれば調べるほどその業容は奉仕部の延長線上にあるような気がして、面倒くさくて大変な目に合うのが分かっていても興味が消えてくれなかった。その門戸を叩く覚悟を決めた時、俺は専業主夫の夢を捨てたのだ。
後は昔いろはが旦那の年収は高くあって欲しいみたいなことを言っていた、というのもあるのだが、それは一番の志望動機ではない。まさかこの俺が仕事にやりがいを求める日が来るなんて、自分でも驚きだった。
「MGOグループから至急の案件が来てる。受けられるか?」
「え⋯⋯」
その名前を聞いて、心底驚いた。世間じゃコングロマリットで通っている大企業だ。とても入社三年目の人間が受け持てるような企業規模ではない。
理由はよく分からないが、これはチャンスだ。
コンサル業界は個人のスキルによるところが大きい、厳しい世界である。頭角を表せられなければフィールドから去るしかない。
その事実が、俺に結婚への決断を鈍らせていた。仕事ぶりに自信がないわけではないが、家庭を持つにはリスキーな状況と言える。
しかしそこで、大企業からの案件をこなせたらどうだろうか。間違いなく箔がつくし、取引実績として会社の格も上がるだろう。
「受けたいのは山々なんですけど、内容はどんな感じなんすか」
それでも、飛びつくにはまだ早い。グループ企業の末端会社かも知れないし、滅多にないがこちらのポカでクライアントからチェンジを食らった後の尻拭いかも知れない。この上司、普通に焦げ付いた案件回してくるからな⋯⋯。
「それはまだ話せない」
「えぇ⋯⋯」
予想外の返答に、俺は思わず素で返していた。絶対これ、厄介なやつじゃねぇか⋯⋯。
「それって、うちのミスが原因の仕事ですか」
「違う。完全に新規だ。受けると決めてくれたら話せる。言っとくが相当ハードだぞ。やれるか?」
常より真剣な顔になると、常磐さんはただでさえ強い眼力を更に強化する。言えない、ということは世間的にまずいことで、それなりに大仕事になるってことだろう。
きな臭い感じがぷんぷんしているが⋯⋯断る理由は、見当たらない。その仕事がどれだけハードだろうが、俺たちの未来を開く一助になるなら手を伸ばすだけだ。
「⋯⋯受けます。やらせてください」
俺が腐った目に力を込めてそう返すと、無茶振り上司はニカッと笑って頷いた。
* * *
大学に入って、卒業する頃には、やりたいことが見つかっているんだと、そう思っていた。
けど、蓋を開けてみたらどうだろう。一番多くの時間を一緒に過ごした人が稀代のリアリストだったせいか、大きな夢を描くこともなく。
「おーい、一色くーん」
今日も今日とて、いやに耳に馴染んでしまった声が聞こえる。あー面倒くさいなーって思いながらも視線を向けると、課長はにっこり柔らかな笑顔を浮かべて言った。
「お茶、おかわりもらっていい?」
「⋯⋯かしこまでーす」
いったいいつの時代の会社なんだよって、そう思ったのはさっきので三百回目ぐらいかも知れない。心の中だけで溜め息をつくと、わたしは席を立つ。
就職したこの会社は、いわゆるホワイト企業というやつなんだと思う。残業はほとんどないし、お給料もそこそこ。外側だけみれば就職成功組に入るんだろうけど、こういう古い慣習が残っているのが結構ストレスだった。
「どうぞ」
給湯室で淹れたお茶を、課長の前に差し出す。わたしが初めて会った時より更に薄くなったように思えるバーコード頭を上げると、課長はさっき同じニコニコの顔で言った。
「おー、ありがとう。いつも悪いねぇ」
「悪いと思うならご自分でされてもいいと思いますけどねー」
課長の表情が、カチンと固まった。
だけどそれも一瞬のことで、口を大きく開けて笑いだす。
「いやー、一色くんは相変わらず面白いねぇ!」
割りとマジで言ってるんですけど。と続けてやりたかったけど、無駄なのでやめておく。
わたしがいくら塩対応をとってもこんな調子だから、もうどうしようもない。冗談が通じすぎるって、どうなんだろうと思う。このバーコード頭、リーダーでも読み込めないぐらい髪の毛引っこ抜いたら流石に怒るかな。
「はぁ⋯⋯」
自分のデスクに戻ると、どこまでやったんだっけと画面の文字を追う。こういうのがあるから、中断させられたくないのに。
「ね、一色さん」
わたしの溜め息を気に留めたんだろうか。
隣のデスクの佐野さんは椅子をコロコロさせて近づいてくると、内緒話の声量で言った。
「そろそろ休憩にしない?」
「あ、はい」
時計を見上げると、午後三時を少し過ぎたところ。ちょうど作業は中断させられてしまったところだし、特に反対する理由もない。
休憩スペースまで行くと、佐野さんはベンチに座るなりくつくつと笑い出した。
「いやー、相変わらずの塩対応だね。課長も相変わらずだけど」
「はー⋯⋯。そーなんですよねー⋯⋯」
そう言うとわたしは、佐野さんの隣で溜め息をついた。
佐野さんはわたしのひとつ上の先輩だ。特に先生役、というわけではないけど、歳が近いのもあってこうやって一緒に過ごす機会も多い。
「あれで嫌味言われたって分からないってどうなんですかね」
「普通に嫌味言っちゃう一色さんも中々だけどねー」
こんな風にカラカラと笑いながらダメだしともからかいともつかないことを言ってくるから、なかなか憎めないキャラだと思う。
だって仕方ないじゃないですか──と続けようとしたわたしの手の中で、携帯電話が震えた。画面のロックを外すと、ひゅおんとメッセージが現れる。
『すまん。今日は帰り遅くなるから先に寝ててくれ。晩飯は適当に済ませる』
先輩からのラインは、それだけ。この書き方なら、また終電コースかもっと帰りが遅くなるんだろう。
思わずまた溜め息をついてしまいそうになっていると、佐野さんは「あ」と何かを思い出したように言った。
「そう言えば聞いた? 二課の中井さん、結婚するんだって」
「え? ああー⋯⋯そうなんですね」
一瞬誰だっけ、と思ってしまったけど、一度佐野さんと三人でご飯を食べに行ったんだった。
そういえば付き合って四年の彼氏がいるって言ってたけど⋯⋯。やっぱりそのぐらいで結婚するのが、ちょうどいいんだろうか。
「いいなぁ⋯⋯」
思わずぽつり、と。
敬語も忘れた言葉が
「一色さん、彼氏いるんでしょ? そういう話ないの?」
「今のところ、全然⋯⋯」
にまーっと笑った佐野さんに、わたしは頭を横に振って答える。
たぶんまだ、そんな時期じゃないんだと思う。今が正念場だって言って先輩はずっと忙しいし、一緒に住んでるのに顔を合わせる時間も少ない。
「ふーん⋯⋯。でもちょっと意外。一色さん、結婚願望あったんだ」
「ありますよ、そりゃ」
何だかんだでこうやって付き合いも長くなってくれば、当然結婚は意識する。中学時代の友達から「ママになりましたー」って報告が来た時は、普通に羨ましく思っちゃったし。
結婚という形にこだわるわけではないけど、その先にあるものは見てみたい。⋯⋯そう思ってるのは、わたしだけかも知れないけど。
「じゃあプロポーズしたくなるぐらい、沼らせちゃえば?」
「沼らせる⋯⋯?」
急に何言い出すのこの人⋯⋯って胡乱な目を向けると、佐野さんはニシシと笑った。
「きっとあれでしょ。マンネリ期に入ってるんじゃない?」
佐野さんの指摘には思い当たることがあり過ぎて、わたしは言葉に詰まる。付き合い始めたり、一緒に住み始めたころに比べたら、確かにときめきは少なくなっているからだ。
「だったら今まで一度もしたことがないこと、いきなりやってみるとかね」
その一言で、わたしは色んな表情を浮かべる先輩の顔を思い浮かべていた。
驚いている顔。呆気にとられている顔。たじたじになったり、明らかに動揺していたり。
ああ、そうだ。
わたしにはもっと、できることがある。
「それはありかも知れませんね」
わたしは佐野さんと目を合わせると、ニシシと同じぐらい悪い笑みを浮かべるのだった。
* * *
いやまったく、酷いことになった。
タクシーの運ちゃんから領収書をもらった後、携帯で確かめた時刻は午前一時を超えている。無茶振り上司から受け取った案件は、焦げついた案件など可愛いものに感じるほどハードだったのだ。これで明日朝八時に集合とか、社畜一直線じゃねぇか⋯⋯。
「ただいま⋯⋯」
先に寝ているであろういろはを起こさないように、俺は静かに玄関の扉を開ける。抜き足差足でリビングダイニングまで来て照明をつけると、カチャと閉めたばかりの入り口が開いた。
恐らく気配でいろはを起こしてしまったのだろう。そう思って振り返ると──。
「悪い、起こした⋯⋯か?」
そこまで言って、俺は言葉を失った。
リビングの入口に立っているのは、予想通りいろはだった。しかし、問題なのはその格好である。
「おかえりなさい」
ふわぁと欠伸をしながら歩み寄ってくるその身を包むのは、スケスケのネグリジェ姿だった。
脚なんてほとんど隠れちゃいないし、透けた部分から胸の谷間がやたらと自己主張してくる。黒を基調にしたそれはやたらにいろはの白い身体を映えさせて、視線を奪い取られたままになってしまう。
端的に言って、めちゃくちゃエロい姿だった。
「お、おお⋯⋯」
「んー⋯⋯」
俺の目の前までやってきたかと思うと、そのままむぎゅうと抱き締められる。甘えるような仕草のように思えて甘やかしてくるような、いろははそんな妖艶さをまとっていた。
「早く寝てくださいね」
そう言って不意に背伸びをして顔を近づけると、キスして──くると思いきや、いろははつぅっと指先で俺の頬を撫でる。
言ってみれば、たったそれだけの仕草だ。だけどそれがまるで別人になったかのように感じて、艶やかな微笑みに胸が高鳴る。
「じゃあ、おやすみなさい」
「⋯⋯ああ」
呆気にとられてそれだけを返すと、いろははリビングを後にした。
背中と脚がほとんど丸見えの後姿もばっちりエロティックで、困ったことに俺の身体は素直な反応を返してしまう。
「何なんだ⋯⋯マジで」
俺はポツりとそう言うと、ガシガシと頭を掻きむしる。ひょっとしてこれは⋯⋯こんな時間だが、夜のお誘いということなのだろうか? こんなド平日にというのもあるが、あの感じであればそう取るのが普通だろう。
もやもやした気持ちを抱えながらさくっとシャワーを浴びて、就寝の段取りを終えると寝室に入った。最近は満足するまで何回でも、なんてお猿さんムーブは鳴りをひそめ、色々と節制はできるようなったから、いろはにその気があるなら一回だけでも⋯⋯。
「⋯⋯って、寝てるし」
薄闇の中で覗き込んでみれば、すやすやと健やかな寝顔が見える。落胆と安堵に肩を落とすと、俺は布団に潜り込んだ。
「んん⋯⋯」
いろはの口から微かに声が漏れると、目を閉じたまま俺に抱きついてくる。俺の肩を枕にすると、そのまま動かなくなった。
「⋯⋯いろは?」
「すぅ⋯⋯」
どうやら今のは無意識であるらしく、呼びかけに応えたのは安らかな寝息のみ。なのにしっかりと意志を持っているかのように抱きついてきて、その肢体の柔らかさが伝わってくる。
「勘弁してくれよ⋯⋯」
明日も早いというのに、これじゃちっとも寝られる気がしない。
久々にドキドキさせられてしまって、だけどやはりそれがいろはの魅力なわけで。
こんなことがあるたびに、いろはにのめり込んでいっている気がする。
だから、綺麗で可愛らしい寝顔を見て、何度だって思うのだ。
この子と一生一緒にいたいなぁ──と。
やっぱり八幡には社畜ムーブが似合うと思うんですよね。
というわけで社会人編二話目でした。
引き続きお楽しみ下さい。