翌朝、七時半。
「こちらへどうぞ」
凛とした声でそう言った受付の女性に案内され、俺はある企業のビル内を歩いていた。
昨晩悶々としてなかなか寝付けなかったせいでやたらに眠いが、今からクライアントに会うというのに野暮ったい顔をしているわけにはいかない。目付きは死ぬほど悪い自信はあるが平常運転だから問題なし。いや問題しかねぇな。
「失礼致します」
コンコンコンとノックすると、受付の女性は室内へと声をかけた。応接室らしき扉に『関係者控室』と書いてあるのを見るに、ここで待機ということらしい。
女性が扉を開いて、俺を招き入れる。彼女と一字一句違わない言葉を口にしてから会議室に入ると、部屋を見まわした途端に俺の思考はフリーズした。
「後ほど担当者が参りますので」
女性はそう言って慇懃に頭を下げると、会議室から辞去して扉を閉めた。
後に残されたのは、俺ともう一人の男だけ。スーツ姿のそいつは一瞬驚いた顔になった後に、見慣れた爽やかすぎる笑顔を浮かべる。
「久しぶりだな、比企谷」
「いや、なんでお前がここに⋯⋯」
見慣れないスーツ姿の葉山隼人は、すっと胸ポケットに手を差し入れた。その所作に俺も条件反射で反応する。
「申し遅れました。MGO生命保険様の顧問弁護士を担当しております、葉山弁護事務所の葉山です」
「これゃどうも⋯⋯」
不躾な物言いでも名刺交換の仕草はビジネスマナー通りなのだから、何とも奇妙な感じだった。
まあ、こうして突っ立っていても仕方ない。どちらともなく椅子に座ると、また目が合った。
「君も大変な案件に呼ばれたな」
「まあな」
葉山にとっても頭の痛い案件なのだろう、たちまち爽やかさは立ち消え、その顔には疲労感が滲んでいる。
上司から緊急で振られた案件は、MGOグループ稼ぎ頭である保険事業で起きた顧客情報流出と横領の発覚というダブルパンチだ。グループに取って幸いなことに、内部通報で発覚したからまだ外部には漏れていない。だからこその大変さもあるのだが。
「俺も君も、金曜日まではまともな生活は諦めた方がいいな」
「⋯⋯そうだな。昨日話が来た時点から覚悟してる」
この事案は金曜日の午前中に記者会見予定だから、葉山の言う通りそれまでがまた大変なのだ。
こういう事案は記者会見後に具体的な対応策をどうしていくか、そこにコンサルが入ることがある。しかし今回の案件はどうにも上層部が現場を信用しておらず、会見で発表する対応の大枠作りから入って欲しいというオファーだった。
まったく、先が思いやられる。一日四時間ぐらいは睡眠時間欲しいよなぁと思いながら天井を仰ぐと、葉山は沈黙の後にふっと息を漏らした。
「元気だったか」
それはまるで、部屋に入った時に時間が巻き戻ったかのような質問だった。
「見りゃ分かるだろ。昨日の情報収集だけで死に体だ」
「俺には学生時代とそんなに変わらないように見えるけどな」
んだとこの野郎、と目を細めると、嫌味ったらしいぐらい爽やかな笑みが返ってくる。さっきまでの疲れた顔はどこへやら、それが楽しそうに見えるんだから割りと腹が立つ。
「結婚は⋯⋯まだしていないか」
ふと葉山は俺の左手に目を落とすと、ポツリとそう言った。
「ああ、まだな」
いろはと結婚したい気持ちはぶっちゃけ重すぎるぐらいあるのだが、状況がまだ整っていないのが現状だ。
そういや昔いろははこいつのこと好きだったんだよなとか、ひょっとして俺たちの関係を由比ヶ浜あたりから聞いてるんだろうかと考えていると、またノックの音が部屋に響いた。
「さあ、仕事だ」
「⋯⋯ああ」
それにしてもまたこいつと
全く世の中何が起こるか分からないなと思いながら、俺は首肯を返した。
* * *
あれからの記憶は、正直言って余りない。
気付いたら金曜日になっていて、ただいまの時刻は午後三時前。俺は力の入らない手で玄関の扉を開けると、愛しい我が家へと足を踏み入れた。
「疲れた⋯⋯」
リビングに辿り着くなり、俺はソファにぶっ倒れた。
午前中の会見を無事に見届け、とりあえず今日のところはお疲れ解散! となったのだ。本当ならまだまだやることはあるのだが、先方に対応してもらえなければこれ以上進めようがない。
月曜日からはまた事後対応という地獄が始まるわけだが⋯⋯あ、考えただけで嫌になってきた。
もういい。これ以上考えても嫌になるだけだし、とにかく寝たい。欲を言えばいろはに雑に労われて癒されたい。⋯⋯なんか俺、だいぶいろはに毒されて来てるな。
「おやすみ、パトラーッシュ⋯⋯」
スーツが皺になろうが、構うものか。睡眠中にお迎えが来てしまわないことを祈りながら、俺は疲労のままに眼を閉じるのだった。
* * *
仕事を終えて、家路を辿ったその先。
玄関を開けた瞬間に、その違和感に気が付いた。
先輩の靴がある。それもこんな早い時間に。
「⋯⋯ただいまでー、す?」
本当にいるのか疑心暗鬼になりながらリビングの戸を開けると、ソファで倒れている人がいた。恐るおそる顔を覗き込んでみると、先輩で間違いなくて安心する。
なんだかこうしてまじまじと先輩の寝顔を見るの、久しぶりな気がする。帰りはいつも夜中だし、朝はわたしよりも早く出てくし。
「せんぱーい?」
起こしちゃ悪いかなと思いつつも、ついついその頬をつついてしまう。もにゃもにゃ動く口が可愛い。それが堪らなくてチュッとその唇を
それが何か悔しくてツンツンと頬を突き続けていると、ようやく先輩は薄っすらと目蓋を開いていく。
「ただいまです」
「お? おお⋯⋯おかえり」
先輩はつついていたわたしの指をその手で握ると、もごもごと言った。たぶんちょっと、寝惚けてる。
「珍しいですね、こんなに早いなんて」
「ああ、とりあえず一山越えたんでな⋯⋯。っていうか、いろはも早いな」
先輩は時計を見ると、そう言ってわたしの指を離した。それがちょっと名残惜しい。
確かにまだ夕方と言っていい時間だ。けど先輩は知らないだけで、それほど珍しいことじゃない。
「まあ、週末ですし」
一応わたしも先輩と同じでフレックス勤務ってやつだから、出社も帰社も決められた時間内なら基本的に自由だ。週末はみんな早く帰るから、それに乗じてわたしも早く帰ることが多い。
「っていうか先輩。なんでそんなに忙しかったんですか?」
「あー⋯⋯。説明すると長くなるんだが」
先輩はそう言うと、ふと思いついたみたいにテレビのリモコンを手に取った。テレビをつけると、番組表を開いてニュース番組に切り替える。
「これの対応で、バタバタしててな」
「へー⋯⋯」
テレビの中ではわたしでも聞いたことのある会社の偉い人が頭を下げて、質問責めにあっていた。何か不祥事の会見みたいだけど、途中からだからよく分からない。
ただ何となく分かるのは、何だか先輩ってだんだん住む世界が違くなっているっていうか。何か凄いことしてるなっていう認識だけは確かにあって、わたしの中に言い様もない不安が湧いてきてしまう。
「なんか、凄いですね」
「ああ⋯⋯すげぇしんどかった⋯⋯」
だけどわたしの不安にはちっとも気付いた様子もなくて、先輩は珍しく愚痴っぽいことを言っていた。いや前からこんな感じだし、なかなか話をする時間が取れなかっただけか。
そう考えると、早く帰ってきてくれた今日はチャンスだ。最近ご無沙汰だったし、先輩を沼らせるには弱っている今が絶好の機会。何かちょっと、楽しくなってきた。
「先輩」
わたしはソファに座ったまま先輩にしなだれかかると、耳元に口を近づけて言う。
「今日は晩ご飯、ちょっと遅めでもいいですか?」
「え⋯⋯。や、昼飯食いそびれたから早目がいいなと思うんですが⋯⋯」
てっきり「別にいいけど」って答えが返ってくると思っていたけど、わたしはそれぐらいじゃ退くつもりはない。
ゆっくりと身体を離すと、くすりと笑いながら言う。
「なら」
そしてブラウスのボタンを、一つ外す。
ついでにもう一つ、二つ。わたしの胸元に先輩の視線が注がれているのを感じながら、とびっきり甘い声で言った。
「わたしを食べていいですよ?」
──って。
次回、社会人編になってから初のR18回です。
引き続きお楽しみください。