「比企谷じゃん! 超なついんだけど!」
そう言ったのは緩くあてたパーマがどこか見覚えのある、同年代と思しき女性だった。
そう表現したのは、記憶の中よりも髪が長くなっているということもあるし、何よりどうしてここにって感覚の方が強い。
「え、折本⋯⋯?」
「めちゃくちゃ久しぶりじゃん。あ、ここいい?」
俺が何か言う前に、折本は俺の向かいの席に座った。すぐさまお冷を持ってきた店員に俺と同じAセットを注文すると、テーブルに肘を突く。
「うわー、驚いた。比企谷も就職こっちだったんだ」
「ああ⋯⋯。折本も?」
「うん。最近事務所が近くのビルに引っ越してさ」
いいよねここら辺お店多くて、と続けた折本は、まじまじと俺の姿を見てくる。⋯⋯何だろう。ネクタイのディンプルが気に入らないとか? ごめんね、ネクタイ結ぶの下手くそで。
「ってか比企谷のスーツ姿って、ウケる」
「いやウケねぇから⋯⋯」
そう言う折本は、フレアスカートにパフスリーブといった軽やかな出で立ちだ。OLというより雑誌の編集者といったところだろうか。
「比企谷、仕事なにしてんの?」
「あー⋯⋯一言で言うとコンサル。折本は?」
「情報誌の、なんて言うのかな。編集?」
「いや聞かれても」
やっぱり俺の予想は当たっていたらしい。なんやかやと身の上話をしていると、折本の頼んだランチセットが運ばれてくる。
「ここの料理いいよね。そんなに高くないし、美味しいし」
折本が「いただきます」と手を合わせると、左手の薬指が一瞬きらりと光った。そこには見間違えようもなく、指輪がはまっている。
「あー⋯⋯、ひょっとして、もう『折本』じゃないとか?」
「あ、気づいた? まあこれ、婚約指輪なんだけど」
そう言って笑った折本の顔には、確かな幸せが滲み出ていた。
こいつでも、こんな表情をするのか。──そんな失礼なぐらい素直な感想が、心の中でだけ漏れてくる。
結婚というのは、やはり特別なことだと思う。昔からサバサバしていた折本にすら、こんな夢見る少女のような表情をさせるのだから。
「ちなみに相手は、比企谷も知ってる人だよ」
「え⋯⋯? あー⋯⋯マジか⋯⋯」
そんな風に言われたら、なんとなく想像がついてしまう。俺と折本の共通の知り合いで、しかもその気があったとしたら対象があまりにも少ない。
「ってか比企谷は? 彼女とかいないの?」
「彼女ならいるけど⋯⋯」
「え、誰? あたしの知ってる人?」
「⋯⋯高校の時生徒会長やってた、一色いろは」
「えー、うそ、マジで!? ってかお互い元生徒会長と付き合ってるとか、ウケる」
それはまあ、確かに偶然すぎて俺でもウケてしまいそうだ。っていうかやっぱ玉縄さんで確定なんですね。これでもう前髪フーフーされる心配はなくなったわけだ。たぶん二度と会わないだろうけど。
「っていうか、やっぱりあたしが聞いたの、本当だったんじゃん」
「はい?」
いったい何のことなのか本気で分からなくて、俺は料理にフォークを突き立てたまま首を傾げた。そんな俺を見て、折本は面白おかしそうに続ける。
「クリスマスのイベント準備してる時さ、聞いたじゃん。一色ちゃん狙いなの? って」
「あー⋯⋯。あったな」
確かにそんなことを聞かれた気がする。あの時は全くそんなつもりはなかったものだが、世の中何が起こるか分からない。今思えばあれだけ一緒にいて傾かなかった自分が、不思議なぐらいだった。
「で、結婚とかは?」
そのあまりに
結婚したい気持ちは、当然ある。その意志が明確にあるからこそ、正しく形容する言葉を探してしまうのだ。
「まだ、だな」
結局上手い言葉が浮かばずにそう言うと、折本は水を一口飲んでからふむと一つ頷く。
「付き合ってどれぐらい?」
「四年ちょっとだな」
「ならいいぐらいじゃん。結婚しないの?」
相変わらずサバサバしているというか何というか、ド直球だった。まあいっそそういう聞き方をしてくれた方が、話しやすい話題ではあるのだが。
「したくないわけじゃないんだが⋯⋯。まあ色々立て込んでるしな」
何だかそうして言葉にすると、思いの外逃げ口上を並べ立てているように感じた。それに折本も感じることがあったのだろう、明らかな疑問符を顔に浮かべている。
「それって、理由にならなくない?」
「⋯⋯」
本当に、ズバズバと痛いところを突いてくる。折本はフォークでサラダを突きながら続けた。
「プライベートも仕事もさ、社会人になったらずーっと忙しいままだったりするじゃん。暇な時期待ってたら、いつまで経っても結婚できないよ」
「まあ、そうだな⋯⋯。実際時間は問題じゃないというか、ちゃんと支えていけるのかって方が大きい」
「いやいやいや」
折本はまだ俺の答えに不服なのか、ふるふると頭を振る。声のトーンが、だんだん本気になってきていた。
「支え合って生きてくのが結婚でしょ。なんで比企谷一人で支えようとしてんの?」
その言葉に、助走をつけて殴られたみたいな衝撃を受けた。
本当に、思考の癖とは恐ろしい。
俺は自分でも気づかないうちに、また独りよがりな考えに拘泥していたのだ。傍から見れば、結婚から逃げているようにすら感じるだろう。
そんなに俺のこだわりが大事なのかと言えば、きっと違う。一番大事にすべきものは、もう充分すぎるほど分かっている。
「⋯⋯折本の言う通りだな。これじゃ逃げてるのと変わんねぇよ」
「⋯⋯」
俺がそう言うと、折本はフォークを持ったまま怪訝そうな顔をしていた。え、何その表情。俺、そんなにおかしなこと言ったか?
「いや何なの、その反応⋯⋯」
「え? あー、うん。なんかめっちゃ素直だなって」
素直、という表現はどこかむず痒いものではあるのだが、ここまで来たら認めざるを得ないだろう。何だかんだ理由をつけて自分に制限をかけてきたのは、俺自身なのだから。
「ぶっちゃけ結婚したいとは思ってる。あとはいろはの方にも、その気持ちがあるかだけなんだが⋯⋯」
「何。全然そんな雰囲気じゃないとか?」
「⋯⋯俺たちが二人揃っている時に結婚まだなのかって聞かれて、いろはが『そういうのはおいおい』って言ってたんだよな」
思い出すのは寧々さんの結婚式の時のことだ。材木座にそう振られて、いろはは逡巡の後にそう答えたのだ。
「だったら、その気になってもらったらいいじゃん。もうこの人しかいないって」
「簡単に言ってくれるよなぁ⋯⋯」
今の俺たちを一言で説明するなら半熟年カップル、というところだろう。最近いろはの行動に変化はあるものの、関係性としては膠着状態と言っていい。
「だったらさ」
折本はそこまで言うと、カチャとフォークを皿の上に置く。
やれやれと肩で息をする俺に反して、折本は妙に生き生きとした表情をして言った。
「あたしが相談に乗るよ」
* * *
「ご対応ありがとうございました。引き続き宜しくお願い致します」
「宜しくお願い致します」
課長に続けてそう言ったわたしは先方の担当者に向けて腰を折ると、取引先のオフィスを辞去した。すたすたと建物を出ると、仕事をしているのが嫌になってくるぐらい青い空が目に入る。
今日はたまにある、外回りの日だ。課長についていって挨拶して、商談の議事を取って、いわゆる鞄持ちみたいな感じ。まあ課長の鞄なんて持たないけど。
「いやー、遅くなっちゃったねー」
時計を見れば、もう十二時半をとうに回っている。商談が長引いたから仕方ないんだけど、流石にちょっとお腹が空いてきた。
だからというのもあるんだろう。道を歩いていると、ついつい飲食店の方を見てしまう。そう言えば、確かこのあたりに先輩の勤めている会社があったはず。ワンチャン会ったりなんて──。
「⋯⋯」
そう思っていた瞬間にその姿が目に入って、思わず足を止めた。だけどそれは、先輩を見つけたからだけじゃない。
「折本、さん⋯⋯?」
ちょっと雰囲気は変わってるけど、間違いなかった。
大きなビルの一階。道路に面したそのレストランの窓際の席で、先輩と折本さんは一緒に食事をとりながら、つかつめらしい表情を作っている。
なんで二人がここに一緒に? いやわたしもこの前葉山先輩とばったりあったばかりだから、そういうこともあるんだろうけど。
「あれ、一色くん?」
そこでふと、わたしは思い出す。
ずっと前に、意味深長な態度をとる先輩に折本さんと何かあったんですかと聞いたことがある。その時は「昔いろいろあったんだよ」とはぐらかされてしまったけど⋯⋯。それって何か言いたくないってことがあると言っているようなものだ。
「おーい、一色くーん。行くよー」
「⋯⋯あっ、はい」
そう呼ばれてはっと前を向くと、課長はもうずいぶん先にいた。確かめたいけど、ちょっと間が悪い。この人バーコード頭でゆるふわメンタルだけど一応課長だし、待たせるわけにはいかない。
「すみません、お待たせしました」
「うん。ちょっと遅くなっちゃったから、どこかでお昼食べてこうかー。僕がおご──」
「いえ、お弁当ありますので」
「あ、そう⋯⋯」
とりあえず今日のことは、帰ってからにしよう。たぶん先輩から、何か言ってくれるだろうし。
妙にしゅんとしている課長の横を歩きながら、わたしは何を話してたんだろうと思考を巡らせるのだった。
* * *
「ただいまー」
そんな先輩の声がリビングに届いたのは、もうすぐ夜の九時になろうかというところだった。
今日も残業してたんだろうけど、最近にしてはまだ早い方だ。話を聞くにはちょうどいい。
「おかえりなさい」
わたしはそう言って立ち上がると、キッチンに行って食事の準備を始める。と言っても、調理が終わっているものを温めるだけ。今日も先にご飯を食べるように言われていたから、わたしだけ食事を済ませてある。
「お待たせでーす」
「おお、ありがと」
着替え終わってダイニングテーブルについた先輩の前に、温め終わった料理を出していく。全部の料理を出し終えると、わたしは先輩の前に座った。
お腹が空いていたのか、パクパクと勢いよくご飯を食べる先輩を見つめる。先輩は見られているのに気づいたのか、むぐむぐと口を動かしながらわたしと目を合わせた。わたしが何を話して欲しいか、分かったんだろうか。
「このチンジャオロースー、うまいな」
「⋯⋯そうですか」
って、そうじゃない。料理の感想が欲しいんじゃないのわたしは!
むすっと非難の目を向けると、先輩はハテと首を傾げた。直截に聞いてしまおうかと思ったけど、まだちょっと早い気がする。わたしはちゃんと先輩から話して欲しいから。
だけど結局わたしの思いは伝わらなかったのか、ものの十分ぐらいでご飯を食べ終わってしまう。一緒に食器をシンクに運ぶと、わたしはちょっとがっかりしながら洗い物を始めた。
「洗い物なら、俺がするぞ」
「いいですから。先輩、疲れてますよね」
洗い物は先輩の担当、というのは同棲を始めた時に決めた二人のルールだった。だけど一人で食事をとることが多いし、そのルールも今や有耶無耶だ。
さあ、このちょっと怒った感じで先輩は気づくだろうか。自分から話してくれたら、いいんだけど。
「⋯⋯」
何故か先輩は、洗い物をするわたしの姿をじっと見ていた。考え事をしているのが、その表情から分かる。
何考えてるんだろ⋯⋯。あーもう、面倒くさくなってきた。
「先輩。わたしに何か言うことがあるんじゃないですか」
つい、ちょっと棘のある言い方になってしまう。でも自分から言ってくれないんだから仕方ない。
先輩はその言葉を受け取ると、ふむと顎に手をやった。しばらく考えて、立ち上がって。タオルで手を拭いていると、先輩はわたしの背後に立った。
「いろは」
そしてそのまま、抱き締められる。
不意打ち過ぎて、心臓が口から飛び出そうになった。
「その⋯⋯いつもありがとうな」
「なんですか急に⋯⋯っ」
先輩はそう言うなり、わたしの頬にキスをした。
キス自体、数え切れないぐらいしてきた行為だ。だけどこんな風に先輩からしてくるのは初めてだし、完全に不意打ちだし──思わず頬が熱くなる。
「⋯⋯どうしたんですか、今日は」
「別に⋯⋯。いろはを見てたら、キスしたくなった」
ああもう、本当に。今日の先輩は、どうしたっていうんだろう。
言いたくないなら、もういい。だけどそんな風にしてくるなら、わたしだって考えがある。
「なら、先輩」
わたしはするりと腕の中から抜け出すと、振り返って先輩の方を向いた。
シャツの裾を引くと、わたしは上目遣いで先輩を見る。その瞳を見つめながら、わたしはとびきり甘い声で言った。
「わたしも、したいことがあります」
次回、R18回です。
宜しくお願いします。