「先輩」
その朝は、よく耳に馴染んだ声から始まった。
「もう十時ですよ」
「ん⋯⋯。あぁ⋯⋯」
そう返事をした俺の声は、がれがれだ。
ベッドの上でのそりと起き上がると、髪をかき上げながら昨日のことを思い出す。そんな俺の様子を、いろははベッドの縁に腰掛けて眺めていた。
「昨日、何時に帰って来たんですか?」
「たぶん、日付は越えてなかったと思うんだが⋯⋯」
昨日は会社の飲み会で、一次会だけでずいぶん飲んでしまった。SHACHIKU NO KIWAMIのメンバーは普段ハードワークな分、飲み方もハードなのだ。お陰で俺もずいぶん、鍛えられた気がする。
「朝ご飯食べます?」
「いや、いい⋯⋯。腹減ってない⋯⋯」
二日酔いとまではいかないが、頭も腹も重たい。かぶりを振って答えると、いろはは「はぁ」と短く息を吐いた。
「じゃあ、準備できたら教えてくださいね」
「へ⋯⋯?」
「週末、買い物付き合ってくださいって言いましたよね?」
ああ⋯⋯とまた酒に焼けた声で返事をする。そういえば、確かに約束していた。昨日の土曜日は午前中から雨が降っていたから、見送ったのだ。
寝起きで鈍い身体を引き摺り、脱衣所に向かう。身支度を整えてリビンクに向かえば、いろはは服も化粧もばっちりの状態で待っていた。
「もう出られるぞ」
「はい。じゃあ行きましょうか」
玄関を出て、鍵を締める。歩き出してすぐに、どちらともなく手を繋ぐ。
最寄りの駅から電車に乗って、山手線に乗り継げばどこもかしこもビルまみれの景色になった。最近は慣れてきたものの、人の多さにはうんざりしてしまう。
早いもので、もう七月も半ば。
寧々さんたちの結婚式、そして例の不祥事案件に関わってから三週間が過ぎていた。これから高校生たちの夏休みが始まり平日でも人出が増えてくるんだろうと思うと、今からゾッとする。
「なんか目当てのものはあるのか?」
「とりあえず夏服ですねー」
目的の駅で降りると、人波に流されながらそんな会話を交わす。ここ、と手を引かれて店に入ると、そこには女性ものの服が陳列されている。
いろはとの買い物デートも慣れたもので、今更居心地の悪さは感じることがない。昔の俺からしたら、ちょっと想像できない感覚だろう。
「これなんてどうですか?」
いろははミニ丈のワンピースを身体にあてがうと、首を傾けながら聞いてくる。可愛い。その姿をしげしげと眺めながら、うむと頷いた。
「とりあえず、試着してみたら」
「ですね」
俺がそう提案すると、いろはは店員さんに声をかけて試着室へと入っていく。待つこと数分、じゃーんと試着室の扉が開くと、クリームイエローのワンピ姿になったいろはが現れる。
うーん⋯⋯やっぱりいろはは何を着ても似合う。ちょっと女子大生っぽいチョイスもあざとくてクセになりますね⋯⋯。
「先輩、感想は?」
一人でうむうむと頷いていると、いろははそう問うてくる。その質問に、俺はある
「いいな。すげぇ可愛い。でももっと色々着て見せてくれ」
そう言うと、いろははぽかんとした表情を浮かべた。そんな反応をされると、こっちが恥ずかしくなってくる。
「そ、そうですか⋯⋯」
いろはは微かに頬を染めると、パタンと試着室の扉を閉めた。
我ながら歯の浮くような台詞だったが、これは一週間ほど前に再会した折本かおりからのアドバイスによるものだ。
試着したら何がなんでも褒める、それからもっと色々見たいと言うことがミソらしい。そうすることで自分の都合で待ってもらっている、という気後れがなくなるし、大好きなことが伝わってラブラブアタックチャンス☆と。いやそれ折本のキャラじゃねぇな。
しかして俺の言った言葉が本心でないわけではない。いろはは何着ても可愛いし俺がどんな態度を取ろうが試着したかったらするから、買い物に付き合う以上それも覚悟の上だ。言うのに照れを隠すのが難しいだけで、そこまでハードモードな提案ではない。
「お待たせしました」
「おう」
ハンガーに戻した服を持ちながら、いろはは試着室から出てくる。
並んで歩き出すと、今度は俺から手を繋ぐのだった。
* * *
あれからいくつかお店をまわって、何度も試着して。
歩き疲れたところでわたしたちは、運良く席が空いていた喫茶店に入ることができた。
「先輩」
わたしが呼ぶと、ちょっとだけ生気の抜けた顔がこちらを見てくる。きっと人混みに疲れたんだろうけど、それを顔に出さないよう我慢して結局滲み出てしまっている顔だ。
「疲れてませんか?」
「あー、いや。大丈夫だ。だいぶ胃の重さも楽になってきたし」
先輩はそう言うと、ふうと息を吐きながらお腹を撫でる。忘れかけていたけど、今日は二日酔い気味の先輩を引っ張りだして出かけているんだった。
前なら「マジで疲れたわ」とか、言ってそうなのにな。
そう考えると、最近の先輩は少し違和感がある。今まで以上にしっかりしようとしているというか、いい彼氏であろうとしているというか。
そうあろうとしてくれていることは、悪いことではないと思う。わたしが頑張った甲斐があったのかも知れない。ただ少し、違和感があるだけ。
「先輩」
もう一度わたしは、先輩を呼ぶ。疲れを必死に隠そうとしている瞳が、わたしを捉えた。
「買い物付き合ってくれて、ありがとうございます。わたしのわがまま聞いてくれる先輩は好きですよ」
「ええぇ⋯⋯。言い方⋯⋯」
先輩は呆れた顔を浮かべたけど、そういう表情も好きなんだからもうどうしようもない。
「まあ、俺も別に嫌なわけでもないしな」
それはきっと自信を持って言い切れることだったんだろう、先輩はちょっと目に力を取り戻した。何だかわたしを受け入れてくれているって感じがして、思わずキュンとしてしまう。乙女かよ、わたし。
「そういうところ抜きにしても、わたしは先輩のこと好きですよ」
なんだか気持ちを我慢できなくなって、わたしは思ったままのことを口にする。先輩はうっすらと、目を細めて笑う。
「じゃあ俺は大好きだな。いろはのこと」
先輩はそう言うと、テーブルの上でわたしの手を握った。その瞬間「お待たせしましたー」と店員さんがやってきて、すっと手が離される。それをどうしようもなくもったいないな、と思ってしまうのは、もう仕方のないことだと思う。
「⋯⋯ちょっとトイレ行ってくるわ」
「コーヒー冷めますよ?」
「いいんだよ。猫舌だから」
先輩は照れくさいのか、そう言って席を立った。ちょっとらしくないことをし過ぎて、限界突破しちゃったっぽい。
目の前に置かれたケーキセットを見ながら先に食べちゃおうかなーどうしようかなーと悩んでいると、ぶるるとテーブルの上で携帯が震えた。置きっぱなしにされていた先輩の携帯の画面には──折本かおり、という名前が浮かび上がって、すぐに消えた。
トクトクと急に心臓がうるさくなる。
別にこんなこと、何てことないはずなのに。きっと偶然再会して、たまたま連絡を取り合うようになって⋯⋯。異性の知り合いと連絡を取り合うことなんて、よくあること。そこまでわたしは、先輩を束縛したい訳じゃない。
だけど、どうして。
「あれ、先に食ってなかったのか?」
「いえ⋯⋯」
どうしてわたしは、先輩の顔をまっすぐ見られないのだろう?
* * *
およそ一週間後の、土曜日。
わたしは千葉駅のロータリーで、ある人たちを待っていた。
高校生以下はもうみんな夏休みに入っているみたいで、いつもに増して人が多い気がする。と言っても千葉に戻ってくるのはお正月ぶりだから、今の普段なんて知らないんだけど。
それにしても、暑い。なんで日陰のない場所を選んで集合場所にしちゃったんだろうと思ったけど、もう後の祭りだった。
「こらーっ、走らないのっ!」
そんな声が聞こえると同時に、わたしの目の前を幼い兄弟が駆け抜けて行った。ぷりぷりしながらも口元に笑みを浮かべた母親らしい女性が、早足に兄弟を追いかける。
いいなぁって、ただ素直にそう思った。見たくなかったなって思うぐらいに、羨ましい光景だった。
「お待たせ」
そんなわたしの背中に、真夏とは思えないぐらい涼し気な声がかかった。振り返ると、予想していた通りの人たちの姿がある。
「久しぶりだね、いろはちゃん」
こっちに歩み寄りながら、ひらひらと手を振る結衣先輩と、隣で微笑みを浮かべる雪乃先輩。
わたしは二人の姿に懐かしさを覚えながら、お久しぶりですと軽く頭を下げたのだった。
この二人は社会人編になって初めての登場でした。
次回に続きます。
引き続き、お楽しみください。