「やー、ゆきのんの誕生日以来だから、もう半年ぶりぐらい?」
「ですねー。なかなかこっちに来る機会もなくて、久しぶりになっちゃいました」
わたしは雪乃先輩に見繕ってもらったカフェで注文を終えると、そう言った結衣先輩に首肯を返した。
高校の時によく通っていた喫茶店は、もう随分前に閉店していたらしい。本当、しばらく来ないうちに、色んなことが変わっていっているんだなってことを実感する。
「でも嬉しかったわ。久しぶりにあなたの方から声をかけてくれて」
それぞれに頼んだ飲みものが届くと、雪乃先輩はうっとりするぐらい綺麗な顔を少しだけ傾けた。相変わらずうらやましくなるぐらい艶のある髪が、さらりと上品に流れる。
「ええ。久しぶりに、三人で話したいなーって思っていたので」
どこか言い訳くささのある言葉だったけれど、たぶんそう感じたのはわたしだけだと思う。だけどこれは本心だ。
別に何かを相談したい訳ではなくて、ただ話をしたい。その会話の断片から得られるものが、雪乃先輩と結衣先輩ならきっとあるだろうから。そう言い切れるぐらい、わたしは二人の先輩を信頼していた。
「そっか。ひょっとしたら結婚の報告なのかなって、ちょっとドキドキしてた」
不意に出てきた結婚というキーワードに、思わず反応してしまいそうになった。本当、結衣先輩って鋭いというか嗅覚がいいと言うか、ちょっとびっくりする時がある。
「そうだったらよかったんですけどねー」
「なんだか気になる口ぶりね」
茶目っ気を混ぜてそう言うと、雪乃先輩の目がわたしを捉えた。
問われるがまま、自分の気持を正直に話してしまうのも、それはそれで一つの手なのだと思う。だけど。
「いえ⋯⋯。ぶっちゃけ、結婚ってキーワードをお二人の前で出していいものなのかと」
こういうところもちょっと、気にしてしまう。
二人がどれだけ想い合っていても、今の日本じゃ婚姻関係を結ぶことはできない。それに思うところが何もないとは、思えなかった。
「あなたは昔から気遣いが上手ね。気にしすぎと言っていいかも知れないわ」
雪乃先輩がそう言って微笑むと、隣で結衣先輩は少しだけ苦い、曖昧な笑顔を浮かべる。結衣先輩はそうして窓の方を見ると、ずっと先の未来を眺めるみたいにして言った。
「あたしたちは、ずっとこのままじゃないかな。⋯⋯おばあちゃんになるまで、ずっと」
その声音には諦めも落胆もなければ、夢を見ているような色もない、無色透明な言葉だった。
きっと結衣先輩の中では、もう決まっている未来なんだと思う。理想や幻想なんじゃなくて、ちゃんと今と地続きになっている現実として。
「海外に行って、同性婚することも考えたのよ。でも日本より安全かどうかの確信が持てなくて⋯⋯。ほら、結衣は可愛いから」
「えー、それ言ったらゆきのんの方が心配だよ!」
「私は合気道の心得があるから大丈夫よ」
「な、なるほど⋯⋯?」
⋯⋯って、わたしが一人しんみりし始めたところで、急にイチャつき始めたよこの人たち。そういうのはおうちでやって欲しいんですけど?
「けど雪乃先輩、そんな風に考えてたんですね」
軌道修正するようにそう言うと、雪乃先輩はふむと一つ頷いた。
「そうね。でも結婚したいとか、契りが欲しいとか⋯⋯そういう気持ちのほとんど自己満足なんだって気づいてからは、それほど考えなくなったの」
「あ、うん⋯⋯。あのね、前にテレビで同性カップルが挙式してるの観て『綺麗だなぁ』ってあたしが言っちゃったから、それで本気で考えてくれてたの」
「別に、結衣の言葉だけじゃないわ。もともと少しは考えていたもの」
そんな会話を繰り広げる雪乃先輩と結衣先輩の姿が、わたしにはとても眩しく見えた。
わたしたちと結衣先輩たちでは、色んな事情が違う。置かれた立場も環境も、ほとんど全部と言っていいぐらいに違っている。
だけど⋯⋯契りが欲しいという気持ちは確かにそこにあって、その純粋さに何も違いはない。
だとしたら。
わたしの欲しているものが自己満足じゃないなんて、どうしたら胸を張って言えるだろう?
* * *
「ただいまでーす」
わたしがそう言いながらリビングの扉を開けると、そこには意外な姿があった。
「おう、おかえり」
そう返した先輩は、珍しいことにエプロン姿。サロンエプロンを腰に巻き付け、レシピ本を片手に鍋と向き合っている。
「え、ひょっとして先輩が晩ご飯作ってくれてるんですか?」
「ああ」
近づいて鍋を覗き込むと、まだお湯を沸かしているところらしく鍋底に泡が付き始めたところだった。続いて手元の本を見ると、タイトルには大きく『男のイタリアンレシピ』と書かれている。
「知ってますか? 男は放っておくとパスタかカレーしか作らないらしいですよ」
「おいやめろ。その情報はカレーかパスタで悩んでいた俺に効く」
わたしはその返しにくすりと笑うと、後ろから先輩に抱きついた。何にせよ、わたしのために料理をしてくれているんだから、素直に喜んでいいことだと思う。
「今日は楽しかったか?」
お腹にまわした手をそっと撫でながらそう言った先輩の声音は、ひたすらに優しかった。ええ、と頷きながら額を先輩の背中に擦り付ける。
わたしは一体、これ以上に何を求めるというんだろう。家事をしてくれて、その上遊びに出ていたわたしのことを第一に気にかけてくれて。
「できるまでもうちょいかかるから。あと離してくれないと動けません」
「はぁい」
先輩に言われてわたしは抱きつくのをやめると、ダイニングテーブルの椅子に座った。
頬杖をついて、幸せな光景を眺めて。ぼんやりとわたしは思う。
「先輩って、いい旦那さんになりそうですよね」
──と、気づいたらわたしは思うだけじゃなくて口にまで出していた。
先輩はかちんと固まったかと思うと、次の瞬間ガコンとキッチン台から鈍い音を響かせる。
「いってて⋯⋯」
「あの、大丈夫ですか?」
「ああ⋯⋯」
物陰で見えなかったけど、先輩は動揺して足をぶつけたみたいだった。しばらくうずくまった後に、また料理に戻る。
口が滑ったとは言え、さっきのは悪手だ。これじゃまるで、遠回しに結婚を意識して欲しいと言っているようなものだから。
正直もう、そんなことで先輩の負担にはなりたくなかった。だって今でも充分すぎるほど幸せで、本来わたしたちの間に足りないものなんて──。
「──」
瞬間、キッチン台の上で携帯電話が振動した。先輩は携帯を手にして画面を確認すると、表情を変えずにポケットにしまい込む。
ああ──。
気付きたくもなかったこと、気付かない振りをしていたことを、
「いろは。唐辛子入れても大丈夫か?」
「あ⋯⋯。はい」
先輩がらしくないぐらい、わたしを褒めたり自分からくっついてきたり、理想の恋人らしく振る舞う時。
いつも先輩の携帯には、誰かからの連絡が入る。わたしには話せない、誰かからの。
ねえ、先輩。
あなたを変えたのは、いったい誰ですか──?
回を追うごとに、いろはの心境も少しずつ変化してきてますね。
この物語がどんな結末を迎えるのか、見届けてください。