オフィスにはカタカタとタイピング音が響いていた。
休みが明けて週も半ば。午前九時半というのはみんな集中しやすい時間なのか、誰の話し声も聞こえてこない。
そんな中でわたしは、一人だけ集中力を切らしていた。このところどうにも、仕事中でも余計なことを考えてしまうことが多い。
くるりと周りを見渡して見ても、休憩したそうな顔をしている人は誰もいない。この時間なんだから、当たり前なんだけど。
わたしは携帯電話を片手に席を立つと、オフィスを出た。気分転換に飲み物でも買ってこよう。近場の自販機で売っているものじゃなくて、コンビニかカフェのテイクアウトの方がいい。
けど流石に堂々と抜け出して持って帰ってくるのもなーどうなんだろう、なんて考えながら、結局わたしはビルを出ていた。コンビニに向けて歩いて行くと、ふと見知った姿が目に入る。
「やあ。また会ったね」
「葉山先輩⋯⋯」
まだ午前中だというのに、葉山先輩は疲れた表情をして片手に缶コーヒーを握っている。雑居ビルの壁に背中をあずけて休憩している姿は、何だか葉山先輩のイメージと合わなかった。休憩はカフェとかで優雅に取るものだと、勝手に思っていたから。
「⋯⋯何か、疲れてませんか?」
「まあ、色々と兼任してるとね」
その口ぶりだと、先輩と一緒にあたっているという仕事以外にも色々あるんだろう。
なんだかコンビニに向かう気分でもなくなって、わたしは葉山先輩と同じように壁に背をあずけた。空を仰ぐと、誰かの田舎からそのまま持ってきたみたいな青い空が広がっている。
それっきり、会話はない。わたしはぼんやりと空を、葉山先輩は車の行き交う車道を見つめていた。そんな無為な時間が訪れるたびに、わたしの頭は余計なことを考えてしまう。
「葉山先輩」
わたしはすとんと視線を歩道に落とすと、そう短く呼んだ。葉山先輩は、目だけでわたしの方を見る。
「男の人って、昔好きだった人のことを忘れられないものなんですかね」
わたしが問いかけた後も、葉山先輩は黙ったままだった。聞こえていなかったわけじゃない。その横顔はいつかを思い出して、熟考を重ねているように見えた。
「そうだな」
かこん、と壁に当たった缶コーヒーが間抜けな音を出して、中身が空になったことを知らせる。
「たぶん、忘れられない。例え相手に、どう思われていようとね」
どこか諦めたような声音が、じくじくと
「⋯⋯特別、なんですね」
「まあ、これは俺はって話だけど」
葉山先輩はそう言うと、背中をビルの壁から剥がした。ゴミ箱に空き缶を放り込むと、くるりとわたしの方に向き直る。
「じゃあ、もう行くよ」
「ええ」
そう言って頷いたわたしの前を、葉山先輩は通り過ぎていく。
わたしはその背中を、見送るわけでもなく。
ジリジリと太陽に焼かれるアスファルトを、じっと見つめていた。
* * *
その日は朝から雨が降っていた。
「ご対応いただきありがとうございました」
「失礼致します」
課長に続いてわたしも頭を下げると、大理石っぽいフロアの上で踵を返した。
週末、金曜日。心躍るキーワードの並ぶ日だって言うのに、また課長と外回りだなんてついてない。
取引先のビルを出ても、相変わらず雨足が弱まる気配はなかった。せっかく朝にセットした髪も、湿気でくるんと巻いてしまっている。
また今日もお昼が遅くなってしまったし、さっさと事務所に帰りたい。そう思いながら歩いていると、ふと見覚えのある建物が目に入った。忘れるはずもない。そこは先輩と折本さんが二人でいるのを見かけたビルで──。
「あれ、一色くん?」
立ち止まってしまったわたしを振り返り、課長は不思議そうな視線を寄越してくる。無理もないと思う。急に立ち止まって、ガラスの向こうを見つめているのだから。
「せん、ぱい⋯⋯」
思わず呟いた声は、雨音でかき消されていく。
わたしの意識と視線は、レストランのテーブル席に注がれている。真剣な表情を浮かべた折本さんの前で、先輩は苦笑いを浮かべ目を泳がせていた。
どうして、また二人で?
そう考えたところで、現実を見ろともう一人のわたしが語りかけてくる。どうしてとか、そんな話じゃない。いったい
「おーい、一色くん?」
何も見なかったことにして、この場を立ち去ってしまいたかった。だけどこうもはっきり二人の姿を見た後では、それもできる気がしない。
「課長」
「は、はいっ」
「先に帰っていてください。用を思い出しましたので」
何故か敬語になった課長にそれだけ言うと、わたしはレストランの入口へと足を向けた。
もう、ここまで来たらなりふりは構っていられない。ちゃんと聞こう。どうしてわたしに隠れて連絡を取り合ったり、こうして会っているのか。そうしたら、きっとわたしの勘違いだったって分かるだろうから──。
「──折本かおり」
店に入って先輩たちに近づいていくと、そんな固い先輩の声が耳に届いた。わたしに気づいた様子もなく、先輩は真剣な目で折本さんを見つめている。
思わず足を止めると、次の瞬間、先輩ははっきりと言った。
「俺と一緒になってくれ」
────は?
思わずそう口にしてしまいそうになるのを必死に我慢しながら、わたしは頭の中の疑問符を捕まえるのにいっぱいいっぱいになっていた。
今、なんて言った? 一緒になりたいって⋯⋯それを折本さんに、言ったの──?
固まっているわたしの視線の先で、折本さんはふっと笑みを零す。
「いいよ」
はぁぁ、と先輩が安心したかのように息を吐き出す。
その姿は、事実は、雨よりも濃く黒い染みをわたしの心に広げていく──。
「──っ!」
わたしは踵を返すと、店を出た瞬間走り出した。
さぁさぁと泣くように降る雨。どうしようもなく重い湿気に満ちた空気と、打ち捨てられた雑巾みたいな心。
その全てから、逃げるように。
* * *
それからどうやって家に帰ったか、よく覚えていない。
ぐっしょり濡れたストッキングとスーツを着たまま、わたしはベッドに突っ伏している。
具合が悪くなったから直帰する、と連絡を入れて、それからどうしていたんだっけ。
けどもう、そんなことはどうでもよかった。というか、今となっては全部が全部どうでもいい。
わたしはバカだ。こんな簡単なことにも気付かないなんて。
今思えば、いくらでも予兆はあった。頻繁に連絡を取り合っていることだけじゃなくて、それを隠しているのがどういうことなのか、考えれば分かるのに。
結局わたしは怖くて、信じられなくて、その事実から目をそらしていただけ。先輩が優しくしてくれるから、わたしの作戦が上手くいったんだって思い込みたくて、自分を騙していただけだった。
「⋯⋯っ!」
また鼻の奥がツンとして、嗚咽が漏れそうになる。どうして。なんで。わたしの何が悪かったの? ──そんなどこまでも女々しい言葉だけが、ぐるぐると頭を回っている。
こんなの、全然わたしらしくない。いつものわたしなら、あの発言を撤回させてやるって今頃息巻いているはずなのに⋯⋯そんな気力すら、今のわたしには残っていなかった。
ガチャ、と玄関扉の開く音がする。
時計を見上げれば、もうとうに夜と呼んでいい時間になっていた。
姿見の前に立つと鞄からファンデを取り出して、ささっと涙の跡を隠す。無駄なあがきだと思ったけれど、わたしは最後までわたしらしく、先輩と向き合いたかった。
「おかえりなさい」
「おお、ただいま。寝室にいたのか」
リビングに向かうと、帰宅したばかりの先輩に向けてそう声をかける。先輩は何かを背広のポケットに入れると、ぱたんと鞄の蓋を締めた。
「ちょっと話があるんだけど、いいか?」
「⋯⋯はい。わたしも話があります」
先輩が何を言うかなんて、もう分かっている。
どうして先輩の気持ちがわたしから逸れて行ってしまったのかは、分からない。だけど⋯⋯このまま素直に振られてやるつもりなんて、さらさらなかった。
だって、あまりにも惨めだから。一人舞い上がって勘違いして、不都合な事実から目をそらしていたわたしを、わたし自身が許せそうにない。それならわたしは、わたしの手で幕を引きたい──。
「あ、そう⋯⋯。いや、けっこう重要な話なんだけど」
「奇遇ですね。わたしも大事な話です」
だけど先輩の方も、一筋縄では引いてくれない。
わたしたちはダイニングテーブルを囲んで椅子に座ると、いつになくしかつめらしい表情で向き合った。先輩は背広のポケットに手を突っ込むと、肩肘を張った様子でわたしを見つめている。
「あー、ならこうしよう。お互い同時に、言いたいことを言う。それでいいか?」
「あんまりよくはないですけど⋯⋯」
こんなところで意地を張り合っていても、時間が過ぎていくだけだ。しぶしぶそう言うと、わたしは椅子に座り直した。先輩もわたしの前で同じように身じろぎをして、ぴんと背筋を伸ばす。
「じゃあ、せーので言うぞ」
「はい」
すっと同時に息を吸って、吐き出す。
そして。
「せーの」
そして全てを。
「俺と」
「わたしと」
想いの全部を、吐き出すように。
「結婚してください」
「お別れしてください」
「え」
「えっ?」
わたしたちは互い違いに、正反対の言葉を口にした──。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました。
次回、最終話です。