わたしたち、結婚したんですよね?
これはデジャヴというやつなのだろうか。
「先輩」
目の前に座ったその人は、つかつめらしい表情をして言った。
「わたしたち、結婚したんですよね?」
「まあ、戸籍上は間違いなく」
俺はいろはが作ってくれた味噌汁を啜った後、重々しくそう言った。
状況に鑑みれば「お前の作った味噌汁を毎日飲みたい」を叶えたシチュエーションではあるのだか、あいにくそんなベタなプロポーズはしていない。
「なんか、いつも通りすぎると思いませんか」
「そりゃなぁ⋯⋯」
俺といろはが一緒に住み始めたのは大学時代に遡る。もう何年も一緒に住んでいるわけだから、嬉し恥ずかし新婚生活というものは皆無に等しい。
「なんか結婚する前にも、そんなこと言ってたよな」
「言いたくなりますよ、そりゃ」
そう言ったいろはの薬指には、結婚指輪がキラリと光っている。変わったことと言えば、そういう装飾品の変化だけではない。
「あれだ、職場で『比企谷さん』とか呼ばれた時に、実感あるんじゃないのか? 結婚したんだって」
「それはまあ⋯⋯ありますけど。名字が変わるのって、手続きもの凄く大変なんですよ」
銀行とか、クレジットカードとか、と指折り煩雑だった出来事を思い出して、いろははゲンナリした表情を見せる。まあ傍から見ていてめちゃくちゃ大変そうだったから、そうなるのも無理はない。
「⋯⋯ということで、先輩には結婚を実感できることをしてもらいたいと思います」
「ほー⋯⋯」
と俺は気のない返事をしながら、得意げに胸を張ったいろはを見ていた。しかしそう言うのであれば、ずっと引っかかっていることがある。
「あれだ、呼び方が先輩のままなのも原因なんじゃねぇの?」
「そう言われましても、先輩は先輩ですし」
ふむ、とまた難しい表情を作ると、いろははふーむと腕を組んでいた。自分でも多少は、思うところがあるのだろう。
「けどまあ、そうですね⋯⋯。ためしに呼び方変えてみましょうか」
「ああ」
さて、ならばどんな呼び名で俺を呼んでくれるのだろうか? 俺が期待して待っていると、不意にいろはは俺の耳元に口を寄せてくる。そして──。
「ダーリン♪ 大好き」
「──っ」
その未知の感覚に、思わず言葉を失ってしまう。
ああ、これはダメなやつだ。本気で襲いたくなってしまった。
「⋯⋯やっぱ、先輩のままでいいわ」
「そうですかそうですか」
いろははそう言うと、ふふんと満足げな笑みを浮かべていた。いや、今のは反則でしょうよ⋯⋯。
「あとはそうですねー、イエスノー枕とか用意してみます?」
「あー⋯⋯」
かなりレトロな発想だが、定番と言ったら定番のアイテムだ。実際に使ってる人がいるのかは知らないが。
「ちなみに毎日イエスだったらどうします?」
「⋯⋯頑張るしかないわな」
俺がそう答えると、いろははふーむと顎に手をやり考え考えし始める。
「⋯⋯やっぱりやめときましょう」
いや、何なの今の間⋯⋯。まあいいんだけど。
「あれですね、やっぱり行ってきますのチューとかの方がそれっぽいですかね」
微かな照れを滲ませながら言ったいろはに、俺はすぐに反応できなかった。それは俺が激務ゆえに、いつもいろはが起きるより早く出てしまうから、というだけではない。
「⋯⋯それはもういいんじゃねぇの」
「え、なんですかその言い方。まさかもう飽きたとか言いませんよね?」
いろはは非難がましい目で俺を見てくるが、もちろんそういう訳でもない。むしろ逆だから言いにくいのだ。
「そうじゃなくてだな⋯⋯。もう毎日してることは、いいだろって話で⋯⋯」
「毎日⋯⋯」
いろはは唇を片手で覆うと、徐々にその手を上げて口元全体を隠した。心なしか、頬が赤い。
「ま、まあ知ってましたけどねっ。先輩、わたしのこと好きすぎじゃないですか?」
「⋯⋯そうじゃなきゃ結婚しないだろ」
俺がポツリと言うと、いろはは口元を押さえたまま目元に隠し切れない笑みを浮かべていた。結婚してもまだ、こう言われるのは嬉しいものらしい。
「っていうか、さっきからわたしばっかり提案してるじゃないですか。先輩もちゃんと考えてくださいよ」
いろははコホンと咳払いすると、仕切り直すようにそう言った。って言われてもって話なのは、さっきから変わらないわけだが。
「新婚さんいらっしゃいに出てみるとか」
「そういう運任せなのはダメでーす」
指でバッテンを作ると、いろはフルフルと首を横に振った。現実感のない案で切り抜けようとしていることなど、お見通しのようだ。
「じゃあ⋯⋯ペアルックとか?」
「それはわたしが恥ずかしいので却下です」
自分で言っておいてなんだが、いろはの答えに安心する。じゃあしてみましょうとか言われたらめっちゃ困るやつだ。
しかし、安堵と同時に訪れる強烈な違和感。何か大切なことを、忘れているような気がする。
「あ」
その正体に気づくと、俺は思わず声を出していた。おもむろに立ち上がると、納戸へと足を向ける。
「何探してるんです?」
「⋯⋯あった」
納戸の奥から目的の物を見つけ出すと、俺は二つのケースを持っていろはに向き合った。
「何ですかそれ。⋯⋯あ」
思い当たる節があったのだろう、いろはの口が開いたまま固まった。
俺が手にしているのは、メガネケースだ。ケースを開けて取り出したのは、黒縁のウェリントン。片方を自分でかけると、いろははほぅっとした目で俺を見ていた。かけたと言っても伊達メガネだが。
「思い出したか?」
このメガネはずっと昔、いろはと付き合う前に買ったものだ。最近はその存在すら記憶の隅に追いやられていたが、ペアグッズを欲しがったのはいろはの方である。
「ペアルックは恥ずかしくても、これなら大丈夫だろ」
そう言ってもう片方のケースを開けると、いろはにも伊達メガネをかけてやる。相変わらず何でも似合ういろはのメガネ姿は、久しぶりすぎてぐっとくるものがあった。
これで結婚した実感が湧くかどうかは分からない。むしろ付き合い始めの頃を思い起こさせるという、全然別の効果しか生まないかも知れない。しかし、いろはの表情を見るに不正解というわけでもなさそうだった。
「じゃああの約束も、覚えてますか」
「⋯⋯ああ」
俺が頷くと、いろはは一歩俺に近づいてくる。
そして鼻が触れ合うぐらいに近くなると、蕩けてしまいそうな微笑みを浮かべて言った。
「このメガネをかけていいのは、二人きりの時だけですよ?」
そうして重ねようとした唇よりも先に、カチャとメガネがぶつかり合う。
くすりと笑い合った後に触れ合わせた唇は、いつもより熱い気がした──。