「もうすぐ夏休みですねー」
それは食事を摂り終えた後の、何気ない一言だった。
昼時をとうに過ぎた学生食堂。四人がけの席で真向かいに座った、一色いろは。もはや見慣れた光景だ。
「ってことでー、休みになったら海に行きましょう。海!」
「絶対に嫌だ⋯⋯」
思考タイムゼロ秒で、俺はそう返していた。
夏休み、つまるところの夏季休暇というもの自体は心踊るものだ。しかし、だからと言って海になんて選択肢はないのである。
「もー、何でですかー」
「いや、休みの間はバイト結構入れてるから忙しいし」
「でもずっとバイトってわけじゃないですよね?」
「それはそうだけど⋯⋯。一色」
俺が改まった調子で呼ぶと、きょとんとした大きな目が俺を捉えた。
「夏、海、暑い、人多い。俺の嫌いなもののオンパレードだ。絶対に行かない」
「うわ、めんどくさ⋯⋯。わたしの水着姿見たくないんですか?」
「⋯⋯⋯⋯別に?」
「いや何ですか今の間。いいじゃないですか、一日ぐらい」
「いや、そもそも水着とかこっち持ってきてないし。わざわざ取りに実家へ帰るのもな」
「なら遊びに来がてらお米ちゃんに持ってきてもらっては?」
「え、何それ素敵」
東京に遊びに来るついでに届け物をしてくれる小町。俺の部屋を訪れるなり「もーお兄ちゃんったらこんなに部屋散らかして!」と文句を言いながら片付けを⋯⋯。
って、それはない。なぜならそもそもそんなに部屋を散らかさないし、一色が来るとたまに掃除をしていってくれるからだ。
最近ではマイカップを持ち込む始末で、そのうち歯ブラシやら生理用品やら持ってきそうな勢いである。そんなものを見られたら「何、お兄ちゃん彼女できたの⋯⋯?」と要らぬ誤解とショックを与えてしまうだろう。
「いや、やっぱ駄目だろ。小町、受験生だし」
「あー、そう言えば⋯⋯。もうそんなに経つんですね」
一色は俺の言葉を聞き届けると、しみじみとそう言った。
小町と一色が初めて会ったのは小町が総武高校に入学するのが決まった直後ぐらいだから、そう思うと時の流れというのは早いものだ。
「じゃあ買いに行きます? ついでにわたしに着てほしい水着選んでもいいですよ」
「行かねぇ⋯⋯」
「と言いつつ?」
「だから行かないっての⋯⋯。ちょっとしつこいぞ」
「むぅ⋯⋯」
溜め息混じりにそう言うと、一色は明らかにむっとした表情を浮かべる。じとりと湿度の高い視線で俺を見た後、にわかに立ち上がった。
「わたし、諦めませんからね」
一色は捨て台詞を残すように言うと、トレイを持って歩きだす。
ここまで言うってことは、何か嫌な予感するんだよなぁ⋯⋯。
そんなことを考えながら、俺はかける言葉もなく一色を見送るのだった。
* * *
その日の晩のことである。
「ん⋯⋯?」
バイトを終えてアパートの部屋に入ったところで、ポケットの中の携帯が震える。
着信の画面を見ると、徹也さんからだった。ディスコではなく直接の電話なんて、ひょっとしたら初めてじゃないだろうか。
「もしもし」
「比企谷くん、海に行こう」
「はい?」
受話器の向こうから聞こえた言葉は、これを藪から棒と呼ばなかったら何をそう言うんだって内容だった。
徹也さんは俺と同じくバリバリのインドア派。どこか外に遊びに行こうなんて誘われたことは一度もない。
「いや、行きませんけど」
「否定が早いよ。というか、行かないとマズイんだ」
「あのー、それってどういう⋯⋯?」
「僕たちからエペが奪われる。寧々から比企谷くんを海に連れ出さなきゃ禁止だって言われて」
「あー⋯⋯」
そういうことか、と納得してしまった。これはつまり、一色と寧々さんが裏で繋がっているのだ。
というか、二人ともやり方がエゲツねぇ⋯⋯。ハマっている趣味の時間を奪われたら、何を楽しみに日々を生きていけというのか。
「背に腹はかえられませんね⋯⋯」
「理解が早くて助かるよ。けど、一つ問題があるんだ」
徹也さんは電話口でほっとした声を出したのも束の間、深刻な声音が携帯電話のスピーカーを震わせた。
一体何だ? エペでも現実世界でも、何があろうと冷静沈着な徹也さんに沈痛な声を出させるとは。
ひょっとしたら⋯⋯一色のことだ。海に連れ出すだけではなく、裏でもっとハードルの高い要求が出されている可能性がある。
「な、何ですか。問題って」
まさか浜辺でスイカ割り──ダメだ危険過ぎる。俺の頭がかち割られる未来しか見えない。
あるいは砂浜に埋められて女体を作られ、ぷーくくくという典型パターン──ダメだ危険過ぎる。サウナ好きの俺としては砂浜から脱出したのち海という広大な水風呂でクールダウンし、外気浴ワンセットで整ってしまう可能性まである。いやない。流石に夏の海でそれはない。
そんな心配を心配を胸に、俺は固唾を飲んで次の一言を待つ。
果たして、徹也さんの答えは──。
「僕、水着持ってない」
「俺の心配を返せ」
ちなみに次の日、徹也さんと水着を買いに行きました。まる。
* * *
そうしてやってきた、大学生になって二度目の夏季休暇。
「寧々さーん、隙ありっ!」
「うわっ! やったな~!」
弾ける太陽。きらめく海。
件の約束通り、俺たちは海に来ていた。
「⋯⋯楽しそうですね」
「うん」
真夏の太陽の下ではしゃいでいるのは、水着美女二人である。
わたし、脱いだら凄いんですよと言わんばかりの抜群のプロポーションを披露するあざと可愛い後輩は、白のビキニ姿。グラマラスボディを惜しげもなく顕にしているのは、同じくビキニ姿の寧々さんである。
かたや男二人は、パラソルの下で体育座り。だって外、暑いんだもん⋯⋯。
しかし、それにしても──。
「⋯⋯跳ね回ってますね」
「だいぶね」
「⋯⋯」
「義輝くんも誘った方がよかったかな」
「来ると思います?」
「来ないね」
「でしょうね」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
無為な会話をしながら見つめる先は、ビーチボール⋯⋯ではなく、楽しそうな一色と寧々さんの姿。
目の保養になりすぎるのも困ったものだなんて考えている、ふとしたタイミングで二人がこちらを向いた。
「おーい、てっちゃーん!」
「先輩たちも一緒に海入りましょうよーっ」
「「いや、俺(僕)はいいから」」
めっちゃハモっていた。
そんな俺たちを見て、一色は「なんだこいつら」って顔をする。それを横からニコニコ見ている寧々さんが一色に水をぶっかけて、また水着JD二人のじゃれ合いが再開した。
それにしても俺が海とは、似つかわしくないにも程がある。特にこんなに賑々しい海水浴場なんて、俺が行き先に選ばない場所トップスリーに入るぐらいだ。
なにせ夏の海には危険がいっぱいなのだ。暑さによる熱中症や、後を絶たない海難事故。浅瀬で遊んでいてもクラゲに刺されるかも知れないし、それにこういう場所ではナンパ男も──。
「あ」
と考えていたところに、二人組の男が一色と寧々さんに話しかけていた。
茶髪の男と、パーマらしきモジャモジャ頭。その雰囲気から、明らかにナンパであった。一色の表情が「何だてめぇら」と言っているのが、遠目でも分かる。
「徹也さん、あれ止めに行きま──」
そう言って徹也さんの方を向いたら、もうそこには居なかった。海の方を見ると、一人でビーチフラッグでもやってるのかって速さで猛ダッシュをかける徹也さんの姿がある。
はっえぇぇ⋯⋯。どこにそんな瞬発力があったんだ、あの人。
「大丈夫か?」
俺が一色の元まで駆けつけた頃には、もう徹也さんがナンパ男を追い払った後だった。
もう安全だとは分かりつつもそう声をかけたのだが、一色は不満顔だ。
「来てくれるのはいいですけど、遅いですよ」
俺の手首を取りながら、一色はぷくっと膨れて見せる。
うーん、これはあざとい。あざとポイント八万点差し上げちゃうレベル。
「あれは徹也さんが速すぎるんだよ。⋯⋯でもまあ、怖い思いさせたんなら悪かった」
俺がそう言うと、一色はキョトンとした顔をする。
しかしそれも一瞬のこと。すぐに唇は三日月を作り、にんまりと悪い笑みを浮かべた。
「そうですね。わたしたちを二人にした責任を取って──」
俺の手を掴んだまま、一色は身投げでもするように浅瀬へと倒れ込んだ。当然俺も巻き込まれて、ザパンと全身海に浸かる。口の中に、しょっぱさが広がった。
「ぷはっ。ちょっ、何やってんの?」
「こうやって最初からしてればよかったんです、よっ!」
続いてザッパーンと水をかけられ、ワカメみたいになった髪がまた潮水で濡れる。やりやがったな、コノヤロウ。
「一色⋯⋯。ハンムラビ法典の内容は知ってるか?」
「当然、知ってます、よっ!」
「なっ⋯⋯! けほっ、けほっ」
またまた海水をぶっかけられ、鼻に入って軽くむせてしまった。
ここまで来たら我慢ならん。八幡、オコだよ!
「うりぁっ!」
「きゃ⋯⋯」
可愛く悲鳴を上げると、一色は心なしか潤んだ目で俺に批難を向けてくる。
しかしそれに怯んではならない。あざと可愛い後輩の手の内など、俺には分かっている。
「どうした、もう終わりか?」
「こういう時の先輩、本当性格悪いです⋯⋯ねっ!」
そう言いながらも、一色はまた不意打ち気味で水面をかいた。
キラキラと太陽の光を反射する水飛沫。
濡れた健康的な肌。
弾ける笑顔──。
夏って、イイネ!
* * *
「つ、疲れた⋯⋯」
「いや、先輩本気出しすぎですから⋯⋯」
浜辺に上がる頃には、もうくたくただった。
向かったパラソルの下には、徹也さんたちの姿はない。海を振り返ると、どこで借りたのか沖の方でボートで浮かんでいる二人の姿が見える。
「ああいうのでいいんだよなぁ⋯⋯」
疲れがそのまま声になってしまったかのように、思わずそう呟いていた。それを耳聡く聞いていた一色は、ぺたんとレジャーシートに座りながらこちらを見上げる。
「わたしとボートに乗りたかったんですか?」
「そういう意味じゃねぇ⋯⋯」
どうせ海で遊ぶというのなら、ああいうまったりした感じの方が性に合っているというだけの話だ。
もしあんなものに乗ろうものなら、素肌と素肌が触れ合うことになり色々まずい。意識しないようにした結果死ぬほど気にしてしまって違和感バリバリ、挙動不審な様子にドン引きされるまで思い浮かべられた。
「まあでも、疲れたんなら⋯⋯」
そう言う一色の横に、座ろうとした瞬間。
「おわっ」
ぐいと腕を取られて、気付いたら俺は一色の膝に頭をのせていた。何かこれ、最近もされたような⋯⋯。
「わたしの膝で休んでていいですよ?」
「いや、けっこ、うっ⋯⋯」
起き上がろうとしたら、額を押さえつけられて止められる。何してんの君、と一色の目を見ると、にこりと笑みが深くなるのみ。
いや、素肌と素肌の接触ヤバいって考えてたばかりなんですが? 逸り出した心臓を誤魔化すように、俺は一色に向けて言う。
「⋯⋯俺を甘やかしてもロクなことにならないぞ」
「知ってますよ。専業主夫が夢ですもんね?」
今それを持ち出すとは、一色も意地が悪い。
ふいと視線をそらすと、額を押さえつけていた手が俺の髪を撫でた。潮の湿気と香りを含んだ髪が、優しくかき分けられる。
「でもこういうのも、いいですよね」
「⋯⋯何が」
そう言って仰いだ顔には、さっきより一等優しくなった微笑みが浮かんでいる。その表情の中に微かな愁いを感じたのは、俺の気のせいだろうか。
「海ではしゃいで、パラソルの下でゆっくりして。こういうの、高校の時はできなかったなって」
その言葉で、一色の表情に得心がいった。あるいはずっと前から、一色のしたかったことの一つなのかも知れない。
それ自体健気だと思うし、膝枕なんて甲斐がいしい行為もその願いに含まれているとしたら、どうにも面映い。
しかし。
しかしである。
そんな感傷に浸る会話も悪くはないのだが、いかんせん体勢がよろしくないのだ。
膝枕されながら、一色の顔を見上げる。そしてその一色はビキニ姿。顔を見ると同時に、必ず、どうしても視界に入るものがある。
いやねぇ、本当⋯⋯立派に育って⋯⋯じゃなくて。本当にこれはヤバイ。何がヤバイって戸部風に言ったら「べべべーべ・ベーベベ」ってぐらいにヤバイ。
「⋯⋯なあ、もう充分だから」
そう言って頭を上げようとしたら、また額を押さえられて止められる。
何すんの、と再び一色の方を見ると、ふっと勝ち誇った笑みが口端にのっていた。
「先輩のえっち」
いや、もう⋯⋯本当、一色さんさぁ⋯⋯。
俺はまたも一色から目をそらすと、水平線の向こうの入道雲を見て思った。
⋯⋯夏って、怖イネ。
後輩と海に行く話でした。
俺ガイルのメインヒロインで一番海のイメージがあるのって、いろはすなんですよねぇ。
感想・お気に入り・評価など頂けると作者が喜びのあまりシャンプーとトリートメントを三日連続で間違えます。
それでは、引き続きお楽しみ下さい!