昼さがりの午後──
七月も残りわずかというところでようやく梅雨が明けていた。強い日差しが部屋に差し込み、風に揺れるカーテンの陰影を床に映している。
家の外から子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。本格的な夏の空を迎え、浮足立っているのだろう。
しかし、屋外の晴天とは対象的に私の内面はどんよりと沈んでいた。掃除機をかけていても食器を片付けていても、いつも心にもやがかかっているように感じている。
夫の浮気を疑い始めて二週間。その間、帰ってくるとなんとなく態度がよそよそしい日が幾度かあった。そういう日は決まって帰りが遅く、私のからだに触れようとしなかった。
浮気の現場を見たわけではない。もしかしたら、思い過ごしかもしれない。
そうであって欲しいと思いながらも、私の中の根拠のない憶測......女の感とも呼べるものが私の琴線に訴え続けている。
「......はぁ」
私はもう何度目かわからないため息をついた。
珍しく家の電話が鳴り始めた。
直後、言いようのない不安が胸をよぎる。受話器を取りに行くのをなんとなくためらった。
急かすように呼出音が鳴り続ける。結局、私は立ち上がり受話器を取った。
一時間後──
私は駅前にある喫茶店へと向かっていた。
店に入ると電話の主はすでに席に座っていて、私に気付くと軽く会釈した。
「急に呼び出してしまって、すいません」
「いいのよ、こちらこそ仕事中なのにわざわざごめんなさいね」
「いえ、俺はたまたま外回りでこっちに用があったんで......」
半袖の白いシャツにグレーのスラックスといったクールビス姿の若い男──
夫の同僚の山岡好雄くんだった。
「急に暑くなりましたよね。何飲みます?」
「それじゃあ、私もアイスコーヒーにしようかしら」
山岡くんが店員を呼んで私の代わりに注文してくれた。
届いたアイスコーヒーを一口飲んだところで、私は早速本題に切り出した。
「......それで、電話だと話しにくいことって、何かしら」
「はい…あの…言おうかどうか、迷ったんですけど……」
山岡くんのいつになく神妙な顔つきに、私の胸騒ぎが高まっていく。
「昨日、仕事終わりに会社からちょっと離れたところにあるラーメン屋に行ったんです。その店はホテル街の中を抜けた先にあるんですけど……歩いてる時に偶然見たんです」
話しづらそうに伏し目がちだった山岡くんが顔をあげた。
「......優介がホテルに入っていくとこ」
「………えっ…」
私は言葉を失った。そのまなざしはいつになく真剣で冗談を言っているようにはとても見えない。
やはりというべきなのか、私の直感は当たっていた。それでも、その話をそのまま鵜呑みにすることはできなかった。
「本当なの?見間違いじゃなくて?」
「......はい。もちろん、他人の空似ってことはあるかもしれませんけど......でも、一緒にいた女性も知っている人だったので......おそらく......」
私の胸騒ぎがより大きくなっていく。それでも確認せずにはいられなかった。
「......相手の人って...」
山岡くんは私から視線をはずして、テーブルの中央付近を見ながら口を開いた。
「......瞳さんです」
予想だにしなかった名前を聞いて私のからだに震えが走る。
..まさか....瞳が...
にわかには信じられなかった。
瞳とはお互いに良き相談相手だった。前の夫とうまくいっていなかった時も話を聞いてもらっていたし、瞳からも彼氏とうまくいっていないという相談を受けていた。
お互いの悩みを共有している瞳が私を裏切るようなことをするはずがない。それこそ、見間違いじゃないのか...
「....あの......美月さん...」
思考が停止していた私が顔をあげると、山岡くんが心配そうにしていた。
「......ごめんなさいね......教えてくれて、ありがとう......」
バッグを手に立ち上がり、伝票を持った。
「あっ、いいですよ、俺が──」
「......いいの........それじゃ...」
私は会釈すると足早に店を後にした。
午後八時頃──
専業主婦である私には馴染みが薄いが今日はいわゆる華の金曜日だ。連れ立って歩く人たちの賑やかな声が背後を通り過ぎていく。仕事から解放されたサラリーマンやOLが流れ込み、夏夜の街がいよいよ活気づいている。
私は夫の会社から車道を挟んだ反対側の歩道にいた。物陰に隠れて会社から出てくる人を見張っている。
喫茶店から帰ったあと私はしばらく呆然として自宅のソファに座っていた。気が付くと日が傾いてリビングに西日が差し込んでいる。
夕飯の準備をしようと腰を上げたところで、携帯のディスプレイが発光しメッセージの着信を知らせていた。
『ごめん、今日も残業で遅くなる』
胸に不安がよぎる。
もしかしたら、今日も瞳と──
そう考えたら居ても立っても居られなくなり、車のキーを持って玄関へと向かったのだった。
外回りからの直帰でなければ、まだ夫は会社にいるはずだ。おそらく、瞳も......
歩道を行きかう人から不審な目で見られている気がした。
.......なんだか、ストーカーみたいね...
私は自嘲しながら、会社の入口へと視線を送り続けた......
俺は会社近くの中華料理屋を出て、駅へと向かっていた。
仕事終わりのビール。夜風を浴びながらほろ酔いで歩く。
いつもだったらもっと気分がよかっただろう。その時、俺は昼間に美月さんと会ったことを思い出していた。
優介の浮気とその相手を伝えた時のあの表情......
呆然自失とはあんな時のことを言うのだろう。おれは今さらながら美月さんに伝えたことを後悔していた。最初から優介を問いただしていれば、美月さんは何も知らず今も幸せな新婚生活を送っていたんじゃないか。俺が余計なことをしなければ......
そんなことばかりずっと考えている。
「......はぁ」
なんで俺が他人の家庭のことでこんなに思い悩まなきゃいけないんだ。やっぱり明日、優介のヤツに......
ふと、どこかで見た背格好の女性が視界に入り立ち止まる。それもそのはずだ。闇に紛れてわかりづらいけど、その女性は昼間にあったばかりの美月さんだった。
立ち止まった俺の足音に気付いたのだろう、美月さんが振り向いた。
「......こんばんは。どうしたんですか」
若干の気まずさを覚えながらあいさつすると、
「......いえ......ちょっと...」
美月さんもまた居心地が悪そうにしている。
その時だった。ちょうど会社から優介と瞳さんが連れ立って出てきていた。
ヤバい──
別に当事者でない俺が焦る必要はないのだが、それが表情に出たらしい。
俺の様子から何かを察した美月さんが振り返る。
そして、並んで歩く二人をじっと見つめている。俺は内心、ハラハラしていた。
美月さんが知っているかわからないが、二人が歩いている道をまっすぐ行けば最寄り駅、途中で路地を左に曲がればホテル街へとつながっている。
優介に余計なことはするなと念じる中、二人が路地に差し掛かる。
瞳さんが後ろを気にした後、優介の腕に抱き付いた。そのまま方向転換した二人は路地の奥へと消えていった。
......あのバカ野郎っ!
こんな美人で巨乳の奥さんがいながら何を考えているんだ。しかも、わざわざ会社の近くにあるホテルに行かなくったって......
美月さんは二人の姿が見えなくなっても立ちつくしたままだ。夫の不貞に加え、その相手が自分の親戚だったんだ。相当ショックを受けているはずだ。
こんな時、なんて声をかければいいのだろう......俺は自分の人間力を試されているような気がした。
逡巡したあと、結局俺はあたり障りのないフレーズを選んでいた。
「.....美月さん......大丈夫ですか...」
大丈夫なわけはない。だけど、それ以外に思いつかなかった。
美月さんはむこうを向いたまま目元を拭う仕草をしたあと振り返った。
「......えぇ......ごめんなさいね...」
「いえ.....おれは、全然......」
物憂げな表情。目元が赤くなっている。
「……もしよければ、俺から優介に話しましょうか?」
美月さん首を横に振った。
「いいの......ありがとう......それじゃあ、私行くわね...」
「...は....はい...」
かける言葉の見つからない俺は見送ることしかできなかった。
ビルの間を美月さんがとぼとぼと歩いていく。その背中がひどく悲しく見えた。
これは夫婦の問題だ。俺が口をはさむべきだはないのだろう......
それでも力なく歩みを進める美月さんのことを、やはり放っておくことはできなかった。
気が付いた時には、遠ざかっていく後ろ姿を追いかけていた。
二週間後──
会社から飛び出した俺は一目散に最寄り駅へと走り出した。
すれ違う人が何事かと俺のことを見ている。でも、そんなことはどうでもよかった。
秘かに憧れていた人がこの先で待っているんだ。
今日は速攻で仕事を切り上げて帰るつもりが、俺のミスを見つけた瞳さんに捕まってしまった。
そのため会社を出るのが遅れた。時計を見ると約束の時間を三十分以上過ぎている。
会社の階段を降りながら今から向かうことを電話で伝えたが、もしかしたら呆れて帰っているかもしれない......
そんな不安が募る中、俺は駅前のモニュメントのそばで佇む女性の姿を見つけ一転、安堵した。
「はぁ、はぁ、すいません......遅れてしまって」
「お疲れ様。そんなに急がなくてもいいのに...」
息を切らしている俺を見てほほ笑む女性──
俺は優介の奥さんである美月さんと待ち合わせをしていたんだ。
ピンと一本筋の通ったような美しい姿勢。資産家の一人娘とのことなので、幼少からの躾が身に染みついているのだろう。
さらさらのロングヘアに気品のある顔立ちで、優しく母性の強そうな眼差しをしている。
今日の美月さんは白いブラウスにひざ丈の黒いスカートというモノトーンの組み合わせだった。シックな服装が清楚な印象をさらに強めている。
その一方で、豊満すぎる胸がブラウスを突き破らんばかりに自己主張していた。貞淑なイメージと隠しきれないエロスが互いを打ち消し合うことなく併存している。
「それじゃあ、行きましょうか」
俺は美月さんを連れ立って歩き出した。
二週間前のあの日、美月さんに追いついた俺は、結局気の利いた慰めの言葉をかけることはできず、何かあったら連絡をくださいと自分の携帯の番号をメモに書いて渡していた。
美月さんが俺を頼ることなんてないだろう。そう思いつつも携帯を頻繁に確認すること数日、知らない番号から着信があった。出てみると、相手はまさかの美月さんだった。
美月さんと優介は再婚するにあたり、二人の両親や親戚、友人たちから猛反対されていたらしい。十四の年齢差を考えれば、当然といえば当然だろう。
結局、美月さんたちは周囲の反対を押し切る形で入籍した。それなのに、やっぱりだめだったとは今さら誰にも言えない、と漏らしていた。
人生経験の乏しい俺に的確なアドバイスなど送れるわけもなく、美月さんが心情を吐露するのをほとんど黙って聞いていただけだが、結果的にそれでよかったらしい。
孤独な美月さんは相談相手というよりは、悩みを共有している話し相手を求めていたんだ。
以前はなんとなく俺にそっけなかった美月さんが頼ってくれることが純粋に嬉しかった。
数度の通話を重ねてただの世間話もするようになった頃、会社の近くに学生時代から優介と通っている個人経営の居酒屋があると話したら、そこに行ってみたいと言われたんだ。
美月さんと二人で会える。すっかり高揚した俺は会う日時を即刻決めていた。
着いて早々、俺は後悔していた。
店内は仕事おわりのサラリーマンや学生で溢れ、喧騒に包まれている。落ち着いて話せる雰囲気ではないのは分かっていたが、やはり選択ミスだった。
「すいません、もっと静かな所がよかったですよね?」
「あら、いいじゃない。賑やかで」
あまりこういった大衆的な飲食店に来たことがないのだろうか、美月さんはもの珍しそうに周囲を見渡している。俺たちは酔客の間を通り抜け、二人掛けのテーブル席に腰を降ろした。
正面に座っている美月さんが店内と完全にミスマッチしていて浮いて見える。東京なら白金あたりを歩いていそうな佇まいをしているんだ、こんな小汚い店の雰囲気に馴染むはずがない。
そう思っていると俺は今さらながら美月さんと二人でいることに緊張してきた。優介はこんな美人とひとつ屋根の下に暮らしているのか。俺が思っているよりやつは肝が据わっているのかもしれない。
緊張からか電話で話す時よりも会話がぎこちなかったけど、酒が回るにつれて俺は段々と饒舌になってきた。
「美月さんたちはどこか行くんですか?来週」
翌週の水曜から俺の会社は夏季休暇に入る。去年までは一カ月以上あった夏休みがたった数日となり、俺は改めて社会人の厳しさを身をもって痛感していた。
「実家に帰省するくらいかしらね......私の実家は本家にあたるから親戚がたくさん集まるの。だから帰ると忙しなくて」
親戚が集まるということは瞳さんとも顔を合わせるんだろうか。美月さんが少しだけ憂鬱そうな顔をしている気がした。
その時、俺は本来の目的を思い出した。今日は美月さんに少しでも気分転換してもらうつもりでここに来たんだ。
俺はなるべく明るい雰囲気になるように努めた。おそらく美月さんも知らないであろう、中学から現在までの俺と優介に関する話をのべつしゃべりつづける。
美月さんは聞き上手だった。俺のくだらない話を相槌を打ちながら聞いてくれる。美月さんが笑ってくれるだけで俺は嬉しかった。
ますます気をよくした俺は酔った勢いのまま立て板に水の如く話しつづけ、気が付けば美月さん相手に会社の愚痴をこぼしていた。
「......なんか、やたらと目つけられてるんですよね、俺。瞳さんに......今日もそのせいで待ち合わせに遅れちゃったし」
自分の仕事のミスは棚に置いてくだをまき続ける。
「すごい厳しいんですよ......まったく、自分は不倫してるくせに」
直後、ハッとして顔をあげる。美月さんはなんともいえない笑みを浮かべている。
やっちまった......
調子に乗ってべらべらとしゃべりすぎた。せっかく盛り上がっていた空気がトーンダウンしていく。
「す、すいません......」
「いいのよ、気にしないで......」
軽く顔を横に振りながら美月さんが微笑する。
「それよりも、うちの夫の話、もっと聞かせて」
「......はい...」
おれは再び学生時代のバカバカしい話をつづける。美月さんがまた笑ってくれる。その笑顔に救われたような気がした。
「......山岡くん、そろそろ.....」
俺がすっかりいい気分になって話していると美月さんが申し訳なさそうにしている。慌てて腕時計を見るともう二十二時にさしかかろうとしていた。
「すいません、全然気づかなくて......」
「いいのよ......楽しかったから」
立ち上がると足元がおぼつかない。調子に乗って飲みすぎたらしい。
「大丈夫?顔、真っ赤よ。お冷、頼む?」
「いえ、大丈夫です......」
俺はカバンをもって立ち上がった。そして、出口に向かった歩き始めたその時、テーブルに足を取られ前のめりになった。
「痛でっ──」
ムニュウウウウウウウゥゥゥゥッッッ!!
直後、圧倒的なふくらみが俺の左腕に押し付けられた。
「ほら、大丈夫?」
倒れかけた俺が何かをつかもうとして伸ばした腕を美月さんが抱きかかえるように捕まえてくれた。
その拍子に腕が豊満な乳房にめり込んだんだ。
「すっ、すいません.....!」
俺はすぐに美月さんから離れて謝った。
美月さんと会話をしながらついチラチラと見ていたオッパイに図らずも触れてしまったのだ。平謝りしながらも俺はその柔らかな感触を思い返していた。
爽やかな夜風を浴びながら俺と美月さんはふたり並んで駅へと向かっていた。
「大丈夫?駅まで歩ける?」
失態を犯した俺を美月さんが心配そうに見つめる。その顔は俺ほどではないだろうけど、酒で赤らんでいた。
歩いているとすれ違う人から視線を感じる。みんな美月さんを見ていることに気付く。
お淑やかな美人なうえにすごい爆乳なんだ。それは否が応にも注目されるだろう。
美月さんの隣に歩いていると、別に俺の彼女でもないのに優越感が込み上げてきた。
美月さんとはじめて会ったのは一年ほど前のことだった。
結婚を考えている人がいると優介に言われた時はすごく驚いたのを憶えている。その時はまだ学生だったし、そもそも優介に彼女がいるという話も聞いてなかったんだ。
そのあと紹介された人を見てさらに驚いた。ひとまわり年上のものすごい爆乳の美人、しかもその人は俺が紹介したことが縁で優介が家庭教師をすることになった玲奈ちゃんの母親だったんだ。
つまり俺は、間接的にふたりの恋のキューピットになったというわけだ。
美月さんを一目見た時から俺は強く惹かれていた。すべてを包みこんでくれるような笑顔に、おおきなオッパイ......まさに、俺のドストライクだった。
俺はそんなことはおくびにも出さず、美月さんの両親に挨拶にいくことを躊躇している優介の背中を押したのだった。
「今日は誘ってくれてありがとう」
「いえ、俺のほうこそありがとうございました。なんか俺ばっかりしゃべっちゃいましたけど、楽しかったですか?......」
「もちろん、私の聞いたことのないうちの夫の話を聞かせてもらえて楽しかった」
街灯が美月さんの柔和な笑顔を照らしている。
「......最近ね、うちの夫の帰りが遅い日に家で一人で待ってるのが、なんだかちょっと怖くて......いろいろ余計な事、想像しちゃうの」
「......はい」
「だから、今日会えて嬉しかったし......助かった...かな」
美月さんがやや垂れがちな目をおれに向けた。
「私ね、山岡くんってもっと軽薄な人だと思ってたんだけど、誤解してたみたい」
「えぇっ......俺、何かしましたっけ?」
気付かないうちに何かやらかしていたのかと思いを巡らす。
「うちの夫がね、山岡くんが合コンばかり行ってるって言ってたから......大きい胸の女の人目当てで」
あいつ、余計なことを......
「それに、もしあの時声をかけてくれなかったら、私まだひとりで悩んでいたと思うの。......本当に、ありがとう」
「いえ、おれはただ放っておけなかっただけなんで......」
美月さんが俺に感謝してくれる。やっぱり、あの時追いかけたのは正解だったんだ。
その後も楽しく会話しながらふたり夜道を歩いていった。が、しばらくして俺はハッと気づいた。
来た時同様に迂回して駅に向かうつもりが、いつもの癖でラブホテルの密集地帯を通り抜けようとしていた。
このままではまた軽薄だと思われかねない......そんな考えが頭をよぎった時、急に美月さんが立ち止まった。そして、一点をずっと見つめている。その視線の先に目をやると、今まさにホテルに入ろうとしている優介と瞳さんの姿があった。
あいつら......!
怒りに駆られた俺は走り出した。
「待って!」
美月さんが俺の腕を掴んで制止する。
「......なんで止めるんですか?」
美月さんは何か言いたげに俺を見つめたあと、目線をはずして小さく呟いた。
「......いいから」
夫の不倫をみすみす見逃す理由が俺にはわからなかった。ただ、もう二人はホテルの中に入ってしまっている。俺は追いかけるのを諦めた。
俺たちが痴話喧嘩でもしていると思ったのだろうか、周囲のカップルの視線が突き刺さる。
「......行きましょう」
美月さんが歩き出す。その後ろ姿があの日の光景と被って見えた。
仕事で疲弊した人、日頃の鬱憤を飲み屋で晴らした人、夫の不倫に悩む人......
様々な事情を抱えた人々が一緒くたとなった電車内で、俺は揺られながら立っている。となりには表情の暗い美月さんがいる。せっかく盛り上がった雰囲気がすっかり冷めていた。
次は俺の最寄り駅。美月さんともそこでお別れだ。そう思うと急激に寂しくなった。
それにこのまま美月さんを家に帰すのも心残りだった。誰もいない暗い家で、浮気をした夫の帰りを待つ美月さんを想像すると......胸が痛んだ。
思い悩んだ俺は一か八か提案してみた。
「......美月さん、俺まだちょっと飲み足りないなぁって思ってるんですけど、よかったらうちで飲みなおしませんか?」
美月さんは少し間を開けたあと、返事をした。
「......それも、いいかもしれないわね...」
その言葉に俺は内心、舞い上がっていた。