白の布団にくるまって、まったく寝つけないでいた。外を吹く風の音の他に聞くものはなく、あの男が近くにいるのかさえわからない。不安に駆られてパニックを起こす意味はないと必死に自分に言い聞かせ、ほんの僅かに残った正気、落ち着きを握り締めて、体を休めることを徹底する。
逃げ場がない。夜明け―ここにある数少ない区切り―になればまた奴が来るだろう。なすすべはなくただその時を待つ他にないこの気分は、まるで袋小路で迫りくる壁に押し潰されるのを待っているようで、握る手を滑らせそうになる。
現実を直視しないことで正気を保つのが、今できる逆説的に最善の行動だった。
そして、夜明けは予想以上に早かった。
落ち葉を踏む音に、引き戸を開ける音が続く。
「二刻もなかったけど、眠れたかい」
鉛を飲んだように腹が重くなるというのを実感した。全身が強張って動かない。そのうちに男は牢の扉を開けて、布団の中へ侵入している。
「やっ、……」
確保したパーソナルスペースはまたもその蹂躙を男に許した。危機とはわかっているのに体をまだ動かせないでいる。
「いったい……!」
抱き枕のように乱暴に抱かれたのもあって、使い倒された肢体が鳴いた。しかし彼がしたのはそれだけだった。
「……俺さ。他人が嫌いなのよ」
唐突で、独りよがり。相手の目なんかちっとも見ないで、独り言みたいに、頭の上で呟いていく。
「新しい人間関係とか作るのほんっとに嫌いで。でもさ、こうやって、関わるときのリスクを徹底的に排除した相手なら、自分の意識の中に受け入れられるってわかってさあ。俺って他人が嫌いなんじゃなかったんだよ。他人と関わることで不利益を被るのが嫌なだけなんだなってさ。……わかってる。一方的だからこんなの人間関係でもなんでもないってことくらいはわかってるけどさ、言いたいことは、わかるだろ」
何一つわからない。それはきっと自分が幼いからではない。赤の他人のままごとに付き合わされるいわれもない。
「不思議なもんでさ。どんだけ人のことが嫌いでも、人と関わってなきゃ死んじまうんだよ。君が人を食って生きるように、俺も君を食い物にして生きるんだよ。何も不思議なことじゃないだろ。自分がそれで生きられるなら、それで起こる他人の死は不当なものにはできないんだよ」
考えるのをやめた。何を言おうと愉快犯の戯言だ。
「こんな話したってなんの意味もないよな。昨日ここに置いていき忘れたものがあって」
布団から出てもうひとつ水の入ったバケツを持ち込んでくる。
「人を殺したことがあるならわかると思うけど、水飲まないとすぐ死んじゃうでしょ。それと尻拭く新聞。トイレは空のほうのバケツ」
「えっ、ごはんは」
「だーめ。君の体をきれいにしなきゃ。……食べないと歯が真っ白になってくの知ってる?それってお腹の中もそうなんじゃないかな。さっ飲んで」
恐る恐るバケツに顔を近づける。本当にただの水のようで、何も臭わないし、肌触りからも何も入っていないらしいことがわかる。傾けて滝のように飲んだ。
「何も入れてやしないよ」
ほんの少し落ち着いた気がする。そして味から考えるに、これは流水汲んできたもののようだ。
「よし。今日は数少ない友達が来てるんだ。相手を頼むよ。じゃ」
「は」
入れ替わりで痩せた男が現れた。さっき取り戻した落ち着きは砂のように脆いものだった。また鉛を飲む。
「ほんとにちっちゃい。いいのこれ」
「いいもなにも妖怪だからね。一回昼に帰ってくるわ。噛まれないようにね」
「えっ噛むの?」
ルーミアのことを人と思っていないような口ぶりに当人は目眩を覚えた。彼らにとって他の生き物とは、当然のように享受するべきただのコンテンツなのだ。
二人きりになった。牢の扉は開いている。ここで預言通り噛みつかなければ逃げ出すチャンスは二度と巡ってこないかもしれない。
近寄ってくるにつれ昨日の記憶で叫びだしそうになるのを噛み殺し、じっと耐える。
「何しよっか」
男の細い手が右肩にかかる。抱き寄せられるまま男の胸に飛び込んで、出せる力の限りを尽くして肩に噛みついた。
「いっっった!」
怯んだところで突き放したが、扉をくぐることは叶わなかった。駆け出したその足を男が掴んでいた。
「そんな嫌うこともないだろ、昨日もされたらしいじゃんか」
「い、や!離して!」
仰向けになったところを覆いかぶさられる。シャツの下に骨のような手が入り込み肌を揉みしだいていく。
「痛っ」
「ん、どうした」
入れた力に対して大袈裟だと思ったのだろう、服を捲って痣だらけの胴を目視した。
「これ…… あいつがやったのか」
微かに首を縦に振る。しかし返答は期待したものではなかった。
「大丈夫。俺にそんな趣味はないからさ」
「やあぁ」
体の外にも内にも、自らに秘めておける場所はなくなっていた。胸を握りつぶされるような苦しみを伴うこの感情を表す言葉をルーミアは知らない。恐れ、辱め、自分の知るどんな言葉も、ちょうど表すにはあまりにも貧弱だった。
「すげ。ここぷにぷに。マジでスジになってんだ」
「だめ。ほんとにだめ」
なんの畏れも遠慮もなく、いまだ秘裂と呼ぶにふさわしいその肉をかき分けて、指をねじ込もうとする。それを震える手で押さえると、その指が止まった。
「どしたの。今更嫌がる理由なんてないじゃん」
「昨日おまた乱暴されて、……ずっと痛いの」
尻のほうに流れたらしい、赤黒い血の跡を見る。
「ふうん」
少し考えて、
「ま俺には関係ないっしょ」
「やだっ! だめ、あ、あぁ」
めり込んだ大人の指がそのまま腹の中で情け容赦もなくうねる。乾いた粘膜は容易く破れた。
「痛いってばあ!やめてって!」
「でも濡れてきてんじゃん。あったかいね」
彼のそれは昨日のほど破壊的ではなかった。しかしそれで気休めになるわけでもない。歳と体格の差が大きすぎた。
「いっ、ああ……は……いたい」
いくら身をよじってみせようと、痛みからは逃れられず、むしろ男のキュートアグレッションをくすぐるだけだった。
「俺今まで表は良い人でやってきたけどさ、こんな楽にQOL上げられんなら、初めからモラルなんか持たなきゃよかったよ」
一人の男が内に秘めたサディズムのやり場を見つけた瞬間を見た。その瞳に浮かぶものは、紛れもなく、ひたすらに純粋な、愛だった。歪んだ方向に彼の愛が倒れ込んでいる。
「あーきもちい」
体内に他人がいる。鬼畜の所業はルーミアの心を直接削り取って貪っていく。抵抗を許されず、ひたすら人形でいることを強要された。
どう時間が過ぎていったのか覚えていない。気づけば錆臭い体液を股から垂れ流し、床に寝かされていた。
「は、……はあ、」
自らの弱さを知っているつもりでいた。今までうまくやってきて、正面きっては人間にすら勝てないことを、実際には知らなかった。この半日で、人間が自分をいつでも殺せると丁寧に教え込まれた。もう、プライドにこれ以上削れる部分は残っていない。
「痛いばっかりじゃ辛いよね」
腕に冷たい痛みがつたう。シリンジの細い針を刺されていて、押し出された無色の液体が青い脈をほのかに冷やす。
「え、」
頭が熱い。青天井に情欲を掻き立てられていく。息をいくら吸っても胸がすっきりしない。
「やっ」
血と精に代わりだらだらと露を垂れ流す股を男の指が撫でる。ふつう感じるものとはまた違う、激烈な、なにか新しい感覚に押されて、反射的に腰を引いた。
「さっきと感度ぜんぜん違うでしょ」
尻を押さえつけられて逃げ場を失ったところで二本の指が中を擦りつける。快か不快かもわからない変な感情が頭のリソースをほとんど奪ってしまい、思考がほぼ止まっている。傷ついた粘膜を刺激されていて、その感覚は痛みであるはずなのに、そうではなかった。未知の感覚の裏で、痛みはことごとくが快感に代えられていた。これ以上に身体を傷つけられたらただじゃ済まないはずなのに、快感にやられて許してしまう。
「いっ、や、とめて!あぁっ!」
視覚と聴覚が狭まる。暴力的な量の性感を前に、膀胱が容易く決壊した。それでも男の手が止まらない。
「いった?るーみあちゃんザコ?」
「ちがう!なんかちがう!」
感と情のピークが存在せず、一定の感覚が常に脳を蹂躙しにかかる。しまいには自分の叫び声も、男が何を話しているのかもわからなくなった。
気を失っていたらしい。二本目の注射が刺さったのに気づいて目が醒めた。またあのヒートが襲う。
「ああああぁぁぁぁぁぁ……」
抱え込まれて身動きひとつ取れない。飽かず肉欲に駆られた男のものが内壁を乱雑に擦り上げた。それまでの経験を軽く超える刺激に対して何もできず、考えることもままならない。
腹を食い破られた獣みたいに蠢き鳴いていたような気がする。この間の出来事は時間の感覚がめちゃくちゃになっていて、恐ろしく長い時間を、されるままにされ、叫んで正気を確かめていた記憶はあるけれど、過ぎ去ってみれば一瞬のことだったようにも思える。
して、饐えた体液の上に倒れ込んで、ひりつく喉を酷使して、まだ生きている。
空の胃袋を何度もひっくり返したようだ。自分が下敷きにしている、尿やその他と思われる液に混じって、黄緑の筋が舞う。
「きったねえな」
またバケツの水で大雑把に洗い流された。しかし男は一枚のタオルも渡さずに帰ってしまった。
「う、そ……」
秋の終わり。気密性のない掘っ立て小屋に吹きすさぶ寒風が無慈悲に体温を奪う。
アドレナリンが完全に切れた。薬で前借りした虚脱感が一気にそのツケを払わせに来る。目も開けていられない。
まだ内臓をかき混ぜられる感覚が残っている。疼痛もより酷くなって帰ってきた。
齢幼く自らの死に、面と向かう日が来ようとは、今まで一度でも考えただろうか。未だ命に意味を与えられない頃に死に直面したときの、曖昧模糊、かつ莫大な焦りに心を衝かれはすれど、体は依然として衝き動かされない。
理性では気づいている。もはや逃れられず、ここで死ぬまでいたぶられるに決まっている。楽になりたければこのまま弱って死ねばいい。わかっている。なのに、考えると胸が痛くなる。
疲労と冷えに意識が抗うことはできなかった。
川まで運ばれて汚れを冷水できれいに流されている間も、ルーミアは起きなかった。血の気が引いて体温が立ち上がってこない。
布団に放り込んだがその布団さえ一向に温まらない。ルーミアは栄養失調で熱を作れなくなっていた。
まだもう少し、死なれては困る。男は一緒に布団に入り。およそ動物とは思えないくらい冷たくなっているルーミアを抱いて寝た。