「……」
生きていた。いつの間にか布団に寝かされている。
窓から昼の匂いがする。そろそろ日付の感覚がめちゃくちゃになってきた。ここへ来て何日目かわからない。
「起きたね。これ以上は遊べないよね」
男が木箱を抱えて牢に踏み入る。
「エスカルゴって知ってるかな。収穫前に絶食させて腸をきれいにするんだけど」
箱から取り出されたのはのこぎりだ。
「……俺もさ、ルーミアちゃんと一緒に絶食してたのよ。なんでかわかるよね。それでさ、選んでもらおうと思って」
牢から出て何かを抱えてやってくる。
「…!」
「この子知ってるよね」
あの日顔を出さなかったミスティア・ローレライ。床に投げ飛ばされて微かにうめいている。
「君たちも俺も、誰か食べなきゃいけないわけじゃん。どっちが屠殺されるか、話し合って決めてよ」
箱からのこぎりの他に片刃のナイフまで取り出され二人の間に置かれる。
「話し合いって……」
「早くしなよ、食べないと傷が治らないまま両方とも死ぬよ」
目を開けた。全身に嫌な汗をかいている。右翼が折れてほとんどなくなっていて、わずかに残った根元の羽も、そのすべてがきれいな紅色に塗り潰されていた。
「ミスティア、どうしよう」
「……どうしようったって、決めるしかないでしょ」
「だから、決めようがないじゃないの」
状況を覆せるほど体力は残っていない。ともに押し黙ったのち、
「こうなると思ってさ、拳銃持ってきたんだけど」
そう言って箱から取り出されたコルトの回転式拳銃のシリンダーには、見える限り全弾入っている。
「六つある薬莢のうち、一つに火薬が入ってる。どこに撃ちたい? そういや、ここに散弾ぶち込んだことがあるんだけどな、そりゃ味気なかったよ。死んじまうんだもん」
ミスティアが短く叫び背を仰け反らせる。銃身を血の滴る股ぐらに押し込まれていた。ルーミアが呆気にとられているうちに、男は躊躇なく金を引く。
「!!、っあ、は……」
「先攻が死んだら後攻はやらなくていいわけだから、先攻は十六・七パーセントぶん不利なんだよね。だから誰もやりたがらないわけよ」
引き抜かれた銃身が赤い光沢を放つ。
「拳銃でも十分内臓を吹っ飛ばせる。ガスがお腹を破裂させるのさ。たださっき言ったように、簡単に死んでほしくはない。次からは右の太腿いくよ」
シリンダーを回しつつ視線をルーミアに向けた。これでどちらかの死を明確に示されたことになる。
「自分で撃ってもいいよ。そのほうが、諦めがつきやすいかもしれない」
「ひっ、……や、やだ、」
「女将ちゃんはもうやったのに今更やめるなんて薄情じゃないの、ルーミアちゃん」
逃げなかった。足がすくんだのか、ミスティアを意識してのことなのか。頭がぐちゃぐちゃでもうわからないが、とにかく、逃げなかった。
「ほんとに自分でやらないの、ごー、よん、……」
右の裏腿にまるい跡がつくくらい押しつけて、引いた。撃鉄が情けない音で信管を叩くのを聞いた。
「何回引こうと確率は六分の一。六回引けば当たるってわけじゃない」
一回につき六分の一。命を賭けるには高すぎる。この五秒の間に玉のような汗を額に湛えていた。そして勇気をふり絞って、
「あの。誰かの肉を食べるのに、どうしてあんたが参加しないの」
「……ああ。俺はルーミアちゃんのぶんを引いたから、俺のはルーミアちゃんが引いてくれるよね」
銃把を握らされる。男の腿に誘導されて、
「シリンダーの回転はもう止まってる。てことは、この銃は俺の生死を知ってんだよね。結果は、そのトリガーを引けば簡単なサインで教えてくれる。俺の血肉がルーミアちゃんの顔に飛び散るほんの少し前に、音と光でね。さあちゃんと持ちなよ、弾は一発しかないのにそんなに震えちゃってどうすんの」
「……!!」
「な。確率は六分の一。目論見通りにゃ行かんもんだよ。さ、次」
ミスティアは遂に返事も叫びもしなくなった。回されるシリンダーをぼうっと見つめている。
「俺、自分が生きたいのか死にたいのかよくわかんないんだよな。でも生きようとしてブサイクな面晒してる君らを見てると、なんか元気になるっていうか。愛くるしいよね」
突然だった。耳ごと吹っ飛ばすような爆音を聞いて何が起きたかその瞬間に理解することはできなかった。顔を真っ赤にして息を荒げながら右脚の付け根を押さえるミスティアを見てようやく頭が追い付いた。
「ああああぁぁぁぁ……あっつい……!!」
「よし。決まったね」
安堵する自分を自ら責められるほどの余裕を持ってなどいなかった。錆びだらけののこぎりを見せつけられてへんてこな鳴き声をあげているミスティアが感じているあらゆる感覚や感情は、幼いルーミアも察するに余りある。ただそれをなんとかする手は持っておらず、どこから来たかわからない割れるような頭痛と吐き気に耐えるしかなかった。
「関節外すよ」
「っっっ!!!!!!」
ミスティアの立てた膝を腰の方に打ち込むと、銃創から暗い血が軽く吹き出て、脚の力が抜けた。股関節を外したようだ。
「右脚押さえて。……ルーミアちゃん早く」
今更べそをかき始めたミスティアが、右足首に乗っかるルーミアと涙目を合わせる。罪なきルーミアに恨みを持つまいと必死で気持ちを抑え込もうとしているように見えた。
「あああもう…… なんで私が……」
「なんで女将ちゃんが死ななきゃならないかってのは、簡単なことだよ。君が人を食べるように、今度は君の順番が回ってきただけのことさ」
「さあしっかり押さえろよ、暴れたら余計に痛いだけだから」
股関節のしわの部分にのこぎりの刃が乗っかって、わずかに食い込んだ。応じてミスティアの情けない声の漏れが激しくなる。
「いっった、あ、あああああ!!!!」
のこぎりが前後に動くと驚くほどスムーズに刃が肉に沈んでいった。絶叫や過呼吸と連動してミスティアの胸郭が痙攣のように激しく上下する。
絵の具を洗ったボトルをひっくり返したように広範に畳の上を血が汚す。ミスティアがもういくつも神経が繋がっていない脚を動かして暴れようとするたびに赤色の染みが飛び散った。
「ああっ!?」
のこぎりが床についた。腿裏はまだわずかに肉が繋がっていたが、男がそれを引きちぎった。
付け根の断面があらわになる。血色が透ける筋肉の周りを黄色の皮下脂肪が取り囲んでいるのが見える。ルーミアが人食いとして日常的に見てきたことだったが、とても直視できなかった。色鮮やかな暴力もそれをさらに彩る悲鳴も、目眩を起こすのには十二分だった。
「止血しないとね」
手に下にはガストーチ。手慣れた様子で、平然と、青白い炎を断面に押し当てる。
さっきより数段勢いのある、かすれた鳴き声に変化した。床をあっという間に赤一色にしてきたその断面が少し目を背けるうちに黒く焦げ、脂がばちばちと脚からはじけ飛びつつ燃焼していった。
「くっさいな。外でやったほうがよかったね」
彼女から舞い上がる煙が渦を巻き、鼻腔にこびりつく。
「くっっっっそ、ああ……!」
空の胃がすぼみ始めた。命拾いしたはずなのに、ミスティアなんて友達というほどでもないのに、自分に起きたことのように、血みどろの悲鳴それらひとつひとつが心臓をきつく締め付ける。
「さ、お仲間が命を分けえてくれた。ありがたく頂戴しなきゃ」
両刃のナイフで、のこぎりや銃弾による傷がない部分を削いで、手渡してくる。
「はっ、え、……?」
「食べなよ」
力の抜けた口にその肉を押し込まれた。切り取られたばかりの新鮮な素肌が舌の上を滑る。
「吐くな」
「えあっ、やら、!」
「……食べろって、言ってんでしょ……!」
絶え絶えの息でミスティアが叫ぶ。
「あんた、食べなかったら、私無駄死にじゃないの!」
口を押さえられてどうにもならなくなった。震える顎をなんとか締める。同胞の肉が僅かに押し返しながら潰れると、過呼吸に乗って彼女の血肉の風味が呼吸器全体を撫で上げた。
「ん、ぷあっ、うえええ」
だめだった。濃厚な胃酸が鼻と口から吹き出して、全て洗い出してしまった。
「食べ物を粗末にできないよね」
「ごめんなさい」
諦めるという選択はなかった。気づいたら謝っていて、床で吐瀉液にまみれたそれを手づかみで口に押し戻していた。
「よしよし。俺も自分のを取り分けますか…… と、薬がないじゃん。流石にちょっとかわいそうなことするからね。ちょっと買ってくるわ」
ふらっと出ていってしまった。
「……ミスティア」
「、るさい。ああもう…… 死にたくない」
言いながらミスティアはすでに覚悟を決めていた。あるいは諦めだったかもしれない。とにかく、来たる死を迎えるべくして、悪態をついているだけなのだ。
「ルーミアなにやってるの」
切り取られた脚にかじりついて、肉を貪っている。吐き戻す素振りもない。
「二人で逃げないと。牢を出るにはあいつを殺すしかないでしょ。帰ってくるのはまだ後になる。それまでに、できるだけ体力戻さなきゃ」
できるかはわからない。しかしミスティアの反応は、ルーミアの想像したものとは違った。
「は、なに、言ってんの。私やっと腹くくったのに、そんな、こと、言われたら」
「だから何よ、ミスティアの気持ちなんか関係ない。あんたが死んだらやっぱり悲しいでしょ」
「人の気も知らないで。……もう疲れたのよ、私は。羽も脚もない。どうやって生活したらいいわけ」
「今私のわがままに付き合わせた責任とって、一生養ったげるわ」
「そう、じゃないでしょ、……これじゃ人前になんて」
変に話を進めるんじゃなかった。ただのわがままどまりでよかったのに。
あとは来るべき時を待つだけだった。ミスティアもあれからずっと押し黙っているし、これからの出来事の予感を少しも感じさせないような、恐ろしい寂静が、この牢屋を支配していた。あの男が置いていった箱の中から果物ナイフを出して、布団の中で握りしめている。
ミスティアには生きていてほしかった。狭い狭い人間関係の、数少ない知り合いで、こんなことのあとで知人を失いさえしたら、いよいよ正気でいられるかわからなかった。
そして、来る。
「おまたせ。結構買いだめしておいたのにさ、いつの間にか使い切っちゃってたのよ」
親指ほどの大きさのアンプル、シリンジ、すでに光沢を失った針を持って、戻ってきた。注射器を組み立てて、アンプルの首を折る。
「ま、それだけの実績があるってことで」
不意を突かねばならない。平時でさえ勝てるかわからない相手だ。
「ルーミアちゃん捌いてみる?」
ミスティアの腕に針を刺し、シリンジに入った液体を静脈に押し出していく。ルーミアにその様子を見せつけるようにして薬を打っているので素直に布団から出られない。
「どれでお腹切ろうかな…… あれ」
兇器だらけの箱の中をがちゃがちゃ漁っているうち、違和感を抱いたようだった。