ゆっくりと、体を起こす。
――部屋中から不快な臭いが襲い掛かってくる。まわりを見ると、そこかしこに淫汁が飛び散っている。
しかしもっとひどいのは自分の体だ。もう汚す場所がないくらいに汚され、股座からはたらたらと吐き出された精液が流れ落ちてくる。シーツはびちょ濡れでぐちゃぐちゃになっており、そこから漂う一際強烈な臭いが鼻をつく。
「くさいよぉ……」
裏路地で気絶した俺は、アリシアに捕まった後それはそれは手ひどい罰を受けた。あまりに苛烈だったため途中からは記憶が飛んでしまい、再び気づいた時にはこの部屋に閉じこめられていた。いつもの寝室とも、逃亡が失敗したときに凌辱を受けた部屋ともまた違う、見覚えのない部屋だった。
――もう何日、太陽の光を見ていないのだろうか。固く閉ざされた扉には隙間の一つもなく、外の様子をうかがい知ることはできない。もちろん、窓なんてあるはずもない。
だがせめてもの恩情か、部屋の隅には外の昼夜と連動しているランプが置いてあるため、俺は辛うじて正気を保っていられる。
……いや、温情なんかじゃない。あれは俺を狂わせずに長持ちさせるための道具だ。でも、それが分かったことでどうしようもない。今はただ、心が千切れないように耐え忍ぶしかない。
「う…………」
のろりとベッドから起き上がり、食料が置いてある棚に向かう。
――歩みを進めるたびに、左足に括りつけられた足枷から延びる鎖がじゃらじゃらと音を立てる。その先は部屋の隅にある大きな鉄球につながっており、このひ弱な体では一寸たりとも動かすことは叶わない。無理に動かそうとしたところで、自分の無力さをまざまざと突きつけられて惨めになるだけだ。
「うぅ、きもちわるい……」
――本当に、憂鬱だ。いつまでたっても、この激臭とべたついた状態の体には慣れない。……いや、慣れるわけがないか。
アリシアは不定期にここへやって俺を嬲ると、すべてをほったらかしにしたまま外へ出ていく。ここには体を拭くための布もなければ水もない。飲料水はあるものの、体をきれいにするには絶対的に量が足りない。のどの渇きを癒すだけでほとんど使い果たしてしまう。
だからほとんどの時間、俺はずっと汚されたままだ。
しかし憎たらしいことに、アリシアは凌辱の前に必ずこの部屋と俺をきれいにする。自分がしたことのくせに、べたついた俺と致すのは嫌なようだ。毎回顔をしかめながら魔法をかけるアリシアを見て、やるせない思いでいっぱいになる。
「かたい……」
棚の中の乾物を食べ、桶の下部に取り付けられた小さな注ぎ口からちろちろと水を飲む。正直全然お腹が膨れない。ただ、悲しいことに必要な栄養は摂取できているらしく、毎日こんな食事でも体に異常はない。
「はぁ…………」
食事が終わってしまえば、もうやることは何もない。体液が飛び散っていないところを探し、顔を伏せて座り込む。
…………俺が、悪かったのかな。いきなり女になったかと思えばレイプされて。そのまま男としての自我が消えそうになるのが嫌で抵抗して。その結末が、これか。
奴隷の中でも、比較的軽微な罪を犯した者などは割と短期間で解放されることもあると聞く。――そしたら、俺はどうなのだろう。もしかして、一生? どこか怖くて今まで聞いてこなかったが、もし本当にそうだったらどうしよう。
この状況から逃げることなんて、どうやってもできない。……ってことは、ずっと、ずーっと、性の捌け口として暮らすのか? このまま永遠に、この部屋で?
「…………っ、えぐっ、ひっく……」
感情があふれ、ぽたぽたと涙が零れ落ちる。拭っても拭っても、次々と流れ出てくる。
幸いなことに、アリシアはどうしても外せない用事があるらしく一週間ほどここには来ない。だから、人目をはばかることなく泣ける。すべての希望が潰えたとしても、こんなみっともない姿は見せたくない。それがせめてもの、最後の抵抗だ。
……だから、だからさ。今だけは、許してほしい。
「ぅ、あ、うわああああん!」
声を抑えることなく大声で泣きわめく。鼻水も垂れてきたが、構わずそのままにしておく。
……泣けば、少しは心も落ち着くという。嫌な想像ばかりが頭をもたげるが、まだ可能性がなくなったわけじゃない。今は少しでも精神を回復させる時だ。
……そう思い、俺はただ泣いていて。だから声を掛けられるまで、部屋に人が入ってきたことに気づかなかったのだ。
「な、これほどまでとは……!」
「――ぇ?」
耳慣れない声だ。びっくりして顔を上げると、ローブを纏った白髪の女が目を見開いて俺を見ていた。
「うっ……。それにしても、ひどい臭いですね……清めよ!」
「……ぁ」
充満していた臭気と、こびり付いていた体液が跡形もなく消え去る。清潔になった部屋の様子を見て、白髪の女が満足そうに頷く。
…………本当に、誰だこの人は。町の中でも見たことがない。
「あの、だれ、ですか……?」
意を決して問いかける。女はびっくりしたように少し固まったあと、ゆっくりと口を開いた。
「っ、そうでした。自己紹介をしないといけませんね。私はグレース。あなたを…………助けに来ました」
「――え?」
助けに、来た…………?
「あの、どうして」
「すみませんが、今は悠長に説明している場合ではありません。とにかくまずは、その邪魔な鎖を消してしまいましょう。…………解けよ」
ぱきん、と足枷が真っ二つに割れ、俺の左足が自由になる。括られていたところは少し赤くなっていた。半ば呆然としながら、手で皮膚をゆっくりと撫でて傷を癒す。
「さあ、これを着てください」
グレースが羽織っていたローブを俺に差し出してくる。
「ありがとうございます…………」
服を着るのは久しぶりだ。あまりに久しぶりすぎて、布が体に当たるたびにむずがゆさを感じる。
「あの人……アリシアでしたか。しばらく帰って来ないとはいえ、かなりの手練れです。行けるだけ遠くに行くのが最善の策でしょう。さ、こっちへ」
グレースが俺の手を引く。
……普通なら、一も二もなくついていくところだろう。でも俺は、その場から動かなかった。
「ど、どうしたんですか? ほら、行きましょう?」
俺の拒絶は想定外だったようだ。グレースの困惑した感情がひしひしと伝わってくる。
「ほら、早くしないと……!」
ぐいぐいと引かれる体を必死に押しとどめる。……ごめんなさい。でも、俺はここにいなきゃいけないんです。
「どうして――」
「分かってますよ」
「……え?」
「グレースさん。あなたは、ご主人様のお知り合いなんですよね?」
そこかしこで凌辱されても、誰も助けてはくれなかった。それどころかアリシアに余計なことを吹き込んで、さらに俺を貶めようとする奴までいた。
……だから、これは罠だ。外に出てしまえば、そこですべてが終わりだ。待ち構えていたアリシアが俺を回収し、そこからはこの部屋での扱いが天国に思えるほどの過酷な生活が始まるのだ。
「自分は、しょせん奴隷ですから……。助けてくれる人なんて、いるわけがありません」
「…………」
「それでも、ありがとうございます。一瞬とはいえ、夢を見ることができました。さあ、もう行ってください」
でも、どうしてだろう。覚悟を決めたはずなのに、涙が止まらないのは。
「ぅ……っあ……」
部屋には、俺がすすり泣く声だけが響く。
「ひ……っく」
「――――顔を、上げてください」
「っ……ぁ……」
「はあ、しょうがないですね」
「……ぇ」
くい、と顎を持ち上げられ、グレースと目があう。
「あなた、生きたいですか?」
「――っ」
唐突な質問だ。どうすればいいのか分からず、答えに窮する。しかし、グレースは俺を見つめて、さらに続ける。
「もし生きたいというのなら……私と一緒に、来てください」
「……!!」
その目が、あまりにも澄んでいたから。だから俺の口は、自然と言葉を紡いでいた。
「はい……! 連れて行って、ください……!」
がっしりとグレースの手を握る。――信じよう、この人を。
「もちろんです。では行きますよ!」
先ほどの涙は、もはや遥か彼方だ。晴れやかな気持ちで、手をつないだまま扉に向かう。
………しかし、最後の関門が俺を絡めとった。
「~~~っ!」
「だ、大丈夫ですか?」
扉を超えようとした瞬間、体中に衝撃が走った。なすすべなくその場に崩れ落ちる。……そうか、淫紋か。
このまま先へ進めば、絶え間なく絶頂を繰り返すことになる。そうなれば、気が狂って死んでしまうかもしれない。暗澹たる未来を想像し、先ほどまでの元気はどこへやら、その場から動けなくなってしまう。
「ちょっと、大人しくしててくださいね」
「……ひゃっ」
グレースがへたり込む俺の体に触れる。驚いて見上げると、目をつぶったままなにやら長大な祝詞をぶつぶつと唱えていた。目の錯覚かもしれないが、光が立ち上っているようにも見える。
「これで、よし――」
「え、……っ!!!」
触れられていたところから大きな力が流れ込み、下腹部に収束する。慌てて下を見ると、淫紋が徐々にその形を崩していた。
……やがて、完全に紋様が消失する。
「さあ、外に行きましょう!」
おそるおそる一歩、また一歩と踏み出す。――今度は、何も起こらなかった。
扉をいくつか開け、足早に階段を上る。そして――
「あ……」
木々のざわめきと、小鳥たちの歌声が聞こえてくる。遠くには町が見える。……森の中か、ここは。
「っ…………」
瞳に涙を溜める俺を、グレースがやさしく撫でる。
「ほら、泣かないで」
「大丈夫、ですっ」
だってこの涙は、悲しみの涙じゃないから。俺は手で目をぬぐうと、グレースの方を向き高らかに宣言した。
「……お待たせしました、行きましょう!」
「ええ……。あら? そういえばあなたの名前、聞いていませんでしたね」
「あ」
しまった。名乗ってもらったのに名乗り返さないのは失礼というものだ。
「カエデ、です」
「はい、よろしくお願いします。……とはいえ、実はもう知ってたんですけどね」
「え」
「ふふ、助ける人の名前も知らないなんて、そんなことありえないでしょう?」
「……もう、なんですか、それ」
久々に、笑った気がした。
……ほどなくして俺たちはその場を離れた。進むにつれ、森はどんどん深くなっていった。
町はどんどん小さくなっていき、やがて完全に見えなくなった。
これで一章の本編は終了です。今後の投稿予定については活動報告をご覧ください。