咎人
――落ち着け、焦るな俺。
そう自分に言い聞かせながら、後ろに座るアリシアからは見えないような位置に器を置いてスープをよそう。しっかり着色しようとするあまり、例の赤い粉を入れ過ぎてしまったきらいはあるが…………味見したところ少し辛い程度だったので、まあ問題なく食べられるだろう。
よし、あとは……
「ねえ、カエデ」
「……な、何かな?」
前ポケットから例の薬をこっそり取り出そうとした瞬間、いきなりアリシアが話しかけてきて心臓が止まりそうになる。
「その唐辛子さ、そんなに入れて大丈夫なの? 私、辛すぎるのはあんまり好きじゃないんだけどな」
「だ、大丈夫。ちゃんと味見したから……」
「ふーん、それならいいけど。…………ところでさ」
「は、はい!」
「なんでそんなしおらしいわけ?」
「あ、それはその、昨日の夜と今朝のことで流石に反省したので…………」
「そう……殊勝なことね」
それ以上の追及はなく、部屋に静寂が満ちる。
――ああびっくりした。心が落ち着くのを待ち、気を取り直してポケットに手を突っ込む。ちらりと後ろを確認すると、幸運にもアリシアはこちらを向いておらず少し俯いた状態で目をつぶっていた。
急いで向き直り、例の薬を片方のスープに振りかけて…………ん? 待てよ。確か――
『寝る前に何かに3滴混ぜて飲めば一晩中ぐっすり、もし丸一日惰眠を貪りたいなら6滴混ぜれば大丈夫!』
…………それならさ、これ全部入れたらどうなるんだ? もしかして、一週間くらいずっと寝たままになるとか?
6滴より多く入れてはいけないと言ってはいたが、この薬は実際に自分が飲むわけではない。そんな添付文書みたいなものより、俺は自身の逃亡が成功するかどうかに深い関心がある。
――よし、全部入れよう。そう決意した俺は、瓶を逆さにしてドボドボとアリシアのスープに薬を注ぐ。色は……大丈夫そうだな、よし。
ほっと一息つき……そこで、ふと思い出す。そういえばこの薬、少し苦いんじゃなかったか!?
やったことはしょうがないので、びくびくしながらアリシア用のスープを掬い取って味見する。……ちょっと苦いが、辛みの方が勝っている。大丈夫、だと思う。
――これで、すべての準備は整った。空の薬瓶をポケットに仕舞い、他の料理も皿に盛ってテーブルに並べる。もちろん、薬入りのスープはアリシアの前に置く。
そして、どこか緊張した空気の中、俺たちは食事を開始した。
「これ、案外パンに合うね」
「……どうも」
さっきから、アリシアが黒パンと肉野菜炒めしか食べていない。まさか、カンづいたか? …………確かめるか。
「あ、あの、スープ冷めちゃうからさ。早く飲んだ方がいいかな~、って思うんだけど……」
「……それもそうね」
そう言うとアリシアは――――一気にスープを飲み干した。
よし! このためにわざわざ小さい器に入れておいたのだ。大きいと一気に飲んでくれないかもしれないからな。
「……いやに嬉しそうね」
「え? あ、いや、ただおいしそうに食べてくれたから嬉しくなっただけで……うん、それだけだから!」
「……ふーん」
アリシアは気のない相槌を打つと、無言で食事を再開した。俺も逸る気持ちを必死に抑え、極めて平静を装いながら食べ進める。
――そして二人とも食事を終え、手が止まった時である。
ガタン、と大きな音が鳴った。正面に座るアリシアから力が抜け、ずるずると椅子から滑り落ちる。そして地面に落下すると、目を閉じた状態で動かなくなった。
恐る恐る席を立ち、アリシアの隣に移動する。…………身動き一つしない。
(よっしゃあああああ!!!)
作戦成功である。発作を起こしたみたいに突然崩れ落ちたのが少し気にかかるが………。まさか本当に死んでいるなんてことはないだろう、たぶん。数々の恨みはあれど、さすがに人殺しは目覚めが悪すぎるからな…………
少し息を整えてから、そっと傍を離れる。そして抜き足差し足で出口へ向かい――ふと、あることに思い至った。……逃げるのはいいが、この先どうやって生活するんだ?
――いつの間にか俺の目は、家の奥へ続く扉を凝視していた。
……確か、ここのはずだ。ドクンドクンと心臓が音を立てる。震える手でドアノブを掴み、おっかなびっくり右に回す。
「開いた…………」
鍵は、かかっていなかった。
いくつもの棚と、中央にある高級そうな机と椅子。そう、例の書斎である。
「ええと、確か……」
薄暗い部屋の中をきょろきょろと見渡す。記憶が正しければ、金貨が入っていた棚は…………
「――これだ」
棚に右手をかけて一気に引く。……しかし、まったく動く気配がない。
もしや鍵がかかっているのかと上下左右を見回すが、そんなものは見受けられない。もしかして、魔法で施錠しているのか? まずいぞそれは…………
「あ」
ふとあることに思い至った。気を取り直して両手で棚の持ち手を掴み、全体重を使って力いっぱい棚を引く。するとどうだろう、少しずつ棚が動き始めた。はじめ棚が動かなかったのは、推測通り大量の貨幣で棚が重くなっていたからのようだ。
「おおお……!」
歯を食いしばりながら棚を引っ張っていると、ついに宝物がその姿を現した。金銀のまばゆい光が視界を彩る。俺は半ば夢に浮かされたように、きらきらとした輝きに手を伸ばす。
「ぐへへ」
取れるだけ取っておこう。これだけたくさんあるんだし、迷惑料として少々拝借しても問題あるまい。
そう思い、俺は手に持っていた麻袋に金貨や銀貨を次々と流し入れた。そのまましばらく夢心地で作業をしていたが、何回か手を往復させるうちに段々と脳内麻薬が減少していく。そしてついに、200枚ほど取ったところで掬い取りを中止する。
「……これくらいにしておこう」
取り過ぎたところで、重くて運べませんとなっては元も子もない。それに、袋が破けてしまう可能性もある。だから、金貨と銀貨はこんなもので十分だろう。あとは……
「銅貨も、一応取っておくか…………」
思い返せば、買い物のときは専ら銅貨を使っていた。細々した支払いをする時もあるだろうし、少しは持っていても損はしないだろう。
そうしてもう一度棚に手を伸ばした、その瞬間だった。
「おい」
「…………え」
――そこに、鬼がいた。一歩一歩、ゆったりとした足取りでこちらに近づいてくる。
「あ……あ……」
ドン、と背中が壁に当たる。どうやら俺は無意識のうちに後ずさっていたようだ。……そしてもう、逃げ場はない。
「これ、結構重いね」
アリシアがお金の入った麻袋を持ち、俺に見せつける。そして何を思ったのか、それを無造作にひっくり返した。それぞれの硬貨が擦れ合うじゃらじゃらという音と、それらが地面で跳ねたときの軽い音が部屋に木霊する。
しばらくの間、アリシアは空の麻袋を持ったまま不気味に笑っていた。そして、おもむろに口を開く。
「薬、持ってるでしょ? 出しなさい」
震える手で空の薬瓶を差し出す。アリシアはそれをひったくるように奪い取ると、光に透かすようにして観察し始めた。
「空、か」
ぽつり、とアリシアがつぶやく。俺はあんまりにも恐ろしくて、口を開くことができなくなっていた。その様子を知ってか知らずか、アリシアはそのまま話を続ける。
「あの店員に睡眠薬を渡すよう頼んだのは、この私。で、お前はあろうことかそれを主人である私に使ったわけ。しかも、規定量を大幅に超えた量をね」
アリシアがしゃがみ込み、俺に顔を近づける。
「私も一応さ、万が一に備えて解毒薬は大目に飲んでたよ。でもさ、まさか全部使っちゃうとは思わなかったよ。一気に大量に摂取したもんだから、解毒が間に合わなくて普通に昏倒しちゃったの」
アリシアが呆然とする俺の頬を撫でる。
「もし私の魔力が高くなくて、薬物耐性が低かったら…………私、死んでてもおかしくなかったんだよ」
「あ…………」
もしかしたら、俺はとんでもないことをしてしまったのかもしれない。顔から血の気が引く。
「奴隷の分際で主人を殺そうとして、しかもお金を盗んで逃げようとするなんて……私、どうしたらいいのかな??」
「…………そ、そんなつもりじゃ――」
――気づけば俺の体は横倒しになっていた。頬にじんじんとした痛みが走る。
……叩かれたのだ、思いっきり。その衝撃で俺は倒れたらしい。
「お前は…………まだそんなことを言うのか!!!」
アリシアの口が炎を吹く。怒髪衝天とはまさにこのことだろう。直視できなくて思わず顔を背けたが、頭頂部を掴まれて強制的に目線を合わせさせられる。
「ごめんなさい、ごめんなさい…………」
「……は? いまさら何?」
「ごめんなさい、もうこんなこと絶対しませんから……」
「うるさい、黙れ!!!」
「……ひっ」
アリシアの語気が一段と荒くなり、頭頂部にを締め付ける力も一段と高まる。
「謝ったら、それで許してもらえるって本気で思ってる? そんなのあり得ないから。これだけの大罪を犯したのに、ただで解放されるわけないでしょ?」
アリシアはそう言うと、静かに目を閉じて集中し始めた。
「……次起きた時が楽しみね。いったいどんな声で泣き叫んでくれるのかしら?」
俺を掴む腕の根元から電流のようなものが迸る。それはすぐに俺の頭まで到達した。次の瞬間、体が痺れて動かなくなる。
「……ぁ」
――そして間もなく、俺の意識は闇に沈んでいった。