誘惑禁止条例 ※性犯罪被害は条例違反にあたらない 作:大中小太郎
彼女の旧姓は、西条という。
西条藤次の、元妻だ。
「…………」
「…………」
彼女はいま、『懐かしの我が家』にいた。
離婚する前、夫と住んでいた、このマンションの一室だ。
その光景は一変していた。
もちろん間取りや家具の大半は変わっていない。
しかし、住んでいたからこそ、些細な変化が大きく感じる。
例えば、全体的に綺麗だ。
床はもちろん、テーブルの隅、ソファーの色艶、窓や壁や調度品が、明らかに輝いて見える。
他にも、テーブルを囲う椅子の数が増えていたり、花が飾られて品のある香りがしたり――
認めたくないが、自分が家事を担っていた頃に比べれば、雲泥の差だった。
(当てつけ?)
不愉快を覚えた。
ノータイムで被害妄想に直結するのはさておき、どこか見せつけられるような気分だった。
かつては自慢していた、そこそこ高価なマンションの部屋。
そこは自分が住んでいた頃より綺麗で、いまは別の女のもの。
対して自分は、質素な実家の汚い部屋住み――
そういう落差に気付いてしまったことで、劣等感を刺激されてしまったのだ。
「粗茶ですが」
と、手元にカップが置かれたことで、我に返る。
自分の知らないカップだ。茶葉は妖魔界のものなのか、新鮮だがいい香りがする。
お茶を置いたのは、ニナというらしい妖女だ。
十代にしか見えないが、妖女は三十を越えても十代にしか見えないようなチート種族なので、実年齢は分からない。
(女と子供がいるのは知ってたけど、こんな何人もいるなんて……)
正面には銀髪と浅褐色の、エキゾチックな美少女――シーアというらしい。
年齢以上に注視すべきは、彼女が妊婦であることだ。
テーブルを挟んだ対面席に行儀良く腰掛けており、小柄に反して風格を感じる。
たぶん彼女が、元夫の新しい妻なのだろう。
(というか、隣の人……木城クレア? いやまさか、芸能人がうちに居るわけ……)
テーブルの左側で見守っているのは、見覚えのある美女だ。
最近、炎上させてやろうとしたら返り討ちにされた女優と、よく似ている。
先ほど、ユスティネと呼ばれていた金髪美女と共に外出したのは、彼女の子だろうか。
「……っ」
ひとまず、容姿については『相手が格上』と認めざるを得なかった。
もっと言えば、この中で一番の年増で、顔面偏差値が低いのは、自分だった。
なぜそんなことを気にするのかと言えば、彼女にとって女の価値を計る主要な物差しだからだ。
故に、屈辱感を覚える。
人間女性の中では若く見える美人だった自分が、いま最も『低い』ということに。
自分と別れた夫が、自分よりも若く美しい女性を何人も囲っているということに。
婚活を始めた当初は、イケメン高収入を獲得して元夫に見せつけ劣等感を与えてやることを想像していた。
しかしいざ乗り込んでみれば、立場はまったく逆。
藤次やシーアたちからすれば、まるでその気のないところで、元妻は自傷行為めいたストレスを高めている。
「それで、ご用件は?」
張り詰めるような沈黙を前置きにして、とうとうシーアが口を開く。
元妻も小さく肩を震わせながら、唇を引き結んで睨み付けた。
ニナとクレアは――格闘技のゴングが鳴る音を幻聴した。
「あなたが、彼の
「はい。この通り、指輪を贈っていただきました。
私のような若輩には、籍とこの子だけで十分でしたのに」
顔だけはにこやかに確認する元妻と、はにかみを浮かべるシーア。
言葉を深読みすると――
「お前は
「あなたいい歳して指輪してませんね」
――だ。
再婚活動が絶望的な元妻は、口の端をひくつかせる。
「そう……彼の相手は大変でしょう? 家事とかお金のこととか口うるさかったり」
「いいえ、とても素晴らしい方です。きっと元奥様の頃からお変わりになられたのでしょう。
ただ、何かと私たちを甘やかそうと、色々なものを買い与えたがるのは困りものですね」
アイツは女に家事をさせるしケチだぞ、結婚したら不幸になるぞ――
とても可愛がってもらってますが、あなたは違ったんですか? である。
強い――と、元妻は内心で冷や汗を掻く。
チクチク言葉による女同士の格付けに、まるで怯む様子がない。
「他の方々は?」
シーアから視線を外し、ニナとクレアに目を向けて、元夫との関係を問う。
「私たちは『内縁』、さっき出て行った金髪の子もね」
「一緒にいた子供は私の娘になります」
ニナは元妻への軽蔑を隠さず、クレアは仕事用の笑みで答えた。
「あなたの子?」
「そうですが、うちの子がなにか?」
怨敵を見るような目を向けられ、クレアは怯みこそしないが怪訝な顔になる。
「そう、彼とはいつから?」
「藤次さんとの交際について聞いているのでしたら、今年の夏あたりからですが」
クレアは嘘偽りなく答えたが、元妻は吐き捨てるように笑う。
「嘘つかなくていいから。あいつなんでしょ、父親」
「…………はい?」
「だから、あなたでしょ? あいつの不倫相手」
鬼の首でも取ったような顔で追及する元妻に、クレアとシーアとニナはそれぞれ顔を見合わせた。
「……ああ、なるほど。そういう考えで乗り込んできたわけですか」
察しが付いたらしいクレアは、呆れたように溜息を吐いた。
その目に同情と軽蔑を感知して、元妻は声を荒げる。
「なにとぼけてんの!? 人の旦那に手ぇ出しておいて!
おかしいと思ったのよ急に離婚なんて! あんたがあいつと組んで嵌めたんでしょ!?」
話が見えないシーアとニナは、突然の怒声に驚くでもなく、ただ不可解そうに首を傾げた。
彼女らへの説明も兼ねて、クレアは再確認する。
「つまりこうお考えなのですね?
あの子は私と藤次さんの子であり、あなたが彼と結婚している間に設けた隠し子だと。
あなたが彼と離婚になったのは、愛人の私がそそのかし、邪魔な妻を追い払ったからだと」
「そうよ」
「よって離婚の際に自分が慰謝料を払ったことや、財産分与がなかったことも不当であり、
自分にはそれを受け取る資格があるので取り立てに来たのだ――と」
「正当な権利でしょ!?」
元妻は頷き、シーアとニナは唖然とした目で元妻を見ていた。
こいつ本気で言ってのか? という意味での唖然だ。
「僭越ながら、とんだ勘違いです。
私が藤次さんと交際を始めたのは、彼が指輪を外した後のこと。
あの子は私の元夫との子です。相続問題などに備えてDNA鑑定も済んでいます」
DNA鑑定とまで言われて、元妻は目を丸くする。
「そもそも彼とあなたが離婚したのは、あなたの不義理と浪費が主因でしょう。
嵌められただなんて、まるで他の誰かに罪をでっち上げられたかのように……」
その思考に呆れ果てたというクレアの態度に、元妻は顔を紅潮させる。
少なくとも、自分がとんだ勘違いをしていたことだけは理解した。
「だ、だからっておかしいでしょ!? 離婚してこんなすぐに女ができて再婚なんて!
前から関係があったに決まってる!」
彼女のような人間に見られる傾向として、苦しくなると勢いだけで主導権を取り戻しに掛かる。
「私も、シーアさんたちも、純粋にご縁があったというだけのことです。
私たちでなくとも、彼ほどの男性なら、周りの女性が放っておかなかったでしょう」
芸能界で揉まれたクレアに、まくし立てるだけの手法が通じるはずもなかった。
それはシーアやニナにも言えることである。
「で、あんた、他に何か用があるの?」
ニナが鬱陶しそうに問う。
「なによ、その言い方……」
「ここに乗り込んできた理由は早合点だって分かったでしょ?
ならもう用は無いじゃない。ここからどう粘っても、ビタ一文も持ち帰れないと思うけど?」
「っっっ!」
淡々と指摘するニナに、元妻は言葉を詰まらせる。
怒りで顔は真っ赤になり、額に血管が浮いていて、いまにも憤死しそうな顔色だ。
「ニナ、止めなさい」
シーアは制止した後、改めて元妻と目を合わせる。
「ですが、元奥様から他にご用がないのでしたら、お引き取り願います」
「なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないの!?」
「私が留守を預かる妻だからです」
元妻がどれだけ激昂しても、シーアが気圧されることはなかった。
むしろ相手に反比例して、目と雰囲気が冷たくなっていく。
「だから、ここは私の家でもあるって――っ」
「離婚されたのですよね? 法的にも道義的にも、あなたの家ではありません」
「そういう問題じゃないでしょう!?」
逆に元妻の頭は熱暴走を起こしていた。
クレアやニナの言うように、元夫の隠し子疑惑を追及して暴き、納得の行く金額を約束させるつもりだった。
それが勘違いだと分かったいま、詫びて退散すべきだが、引くに引けなくなってしまっている。
元夫の新しい女たちに返り討ちにされ、大人しく帰るということを、感情が選択させない。
そんな彼女が選んだ反撃は――
「だいたいなんでアンタらみたいな妖女が結婚なんかすんのっ!?
子供が欲しいだけならヤることヤって妖魔界に帰ればいいでしょ!
どうせアイツの年収いいからって『誘惑』でたらし込んだんじゃないの!?
男なら誰でもいいならそこらのジジイでもいいでしょなのにいい男ばっかり横取りして――」
――罵詈雑言をぶちまけることだった。
蓄積していた妖女への憎悪が、ここで堰を切っている。
異世界からやってきた生殖したがりの原始人、
『誘惑』という魔法で狙った男を落とせるチート、
本来は自分たちというか自分のものになるはずのハイスペ男を盗んでいく泥棒猫、
自分のように罪のない人間女性を貶めていく、とにかく卑猥で卑怯で卑賤な異民族――
頭ではそれが不当な偏見だと分かっていても、心の奥底にはそういう感情が凝り固まっていた。
それを、ここぞとばかりに吐き捨てる。
もはや、ここに来た目的すら投げ捨てている。
ただ『妖女に言ってやった』という精神的勝利を持ち帰ることに、全てを注ぎ込んでいた。
「ここは日本なの妖魔界じゃないの! 日本の男が稼いだ金は日本の女に使われるべきなの!
なのにあんたら妖女は男に媚びた顔と体で盗み取って! 泥棒よ泥棒! 迷惑なのよっ!
だいたい男も子供も無理して欲しがるものじゃないでしょなに必死になってるの!?
とっとと妖魔界に帰りなさいよいますぐいますぐ帰れ帰れ帰れ帰れっ!」
発狂とはこのこと。
シーアたちの沈黙を感じ取った元妻は、「勝った」と思った。
異常者に対する沈黙を、強者に言い負かされた沈黙として曲解した。
「……言いたいことは、それで全てですか?」
「なんていうか……救えないのね」
「ええ、悲惨ね」
しかし、シーアたちは誰も気圧されていなかった。
シーアは寒気のする無表情、ニナは軽蔑、クレアは同情混じりの溜息。
虫が前脚を広げて威嚇しているけど、触れたくないので叩き潰さない――という様子だ。
西条藤次が離婚届にサインした理由が、よく分かった。
「とりあえず、あんた自分がなに言ってるか分かってる?」
仕方なさそうに、ニナが淡々と説く。
「『男の稼ぎ=女のもの』で、『妖女が男と結婚するのは泥棒』で、けど『男も子供も欲しがらない』?」
元妻の支離滅裂に聞こえた発言を繋ぎ直して、ニナはこう結論付けた。
「あんたが欲しくて守りたいものって、居もしない旦那の財布だけなのね」
無我夢中の叫びに滲んでいた本性を暴かれ、元妻は背筋が凍る。
直視しかけた自分のおぞましさ――それを否定するために、手元のカップに手を伸ばす。
「ご自身が不法侵入していることをお忘れ無きように。
その熱いお茶を顔に掛けようものなら傷害罪ですよ」
「そ……そんなつもりじゃ、ないから」
クレアの警告を聞いて、元妻は気まずそうにカップから手を離した。
「元奥様」
正確に呼吸を読んだシーアの声が、元妻の口を閉ざした。
「お気が済みましたなら、どうぞお引き取りを。
そして、二度とこの家の扉を叩かぬように」
シーアは淡々と、幸い人語を理解する虫に窓を開けてやるように、退室を促す。
「っ! っ! っ!」
言葉に出来ない屈辱感が、奇怪な呼吸音だけを生み出す。
何か言い返そうとしても、言葉が浮かばない。
自分が元夫の金目当てで突撃してきた醜い人間であると、流石に自覚させられる。
それを省みるのではなく、どうにか「そうではないことにしたい」と必死になり、しかしその手段が無い。
「あの人に、電話してくれる?」
元妻の頭に浮かんだのは、元夫だった。
思考の正常さはさておき、追い詰められたときに頼る存在として、彼女は藤次を思い浮かべた。
もちろんそれは、慕っているというのではなく、甘えや依存に分類される卑しい感情だったが。
「電話、というと?」
「だから、私が来てるって連絡してよっ!」
シーアの確認に怒鳴り散らすと、シーアたちは耳元で放屁の音でも聞かされたような顔になる。
「ご自身で連絡は取らなかったのですか?」
「あいつ着信拒否してるの! 逃げてるのよ!」
「であれば、私たちが取り次ぐわけにはまいりません。
それに、いまはお仕事が長引いておられるそうなので――」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!?」
椅子を蹴倒すように立ち上がり、元妻は感情のままに叫ぶ。
「そもそも全部あいつのせいじゃない! あいつが作った問題じゃない!」
今度は、全ての原因を元夫にあるものとし始めた。
自分の不徳から目を逸らすために、男を槍玉に挙げるという浅知恵に、全力を注いだ。
「あいつがつまらないことで離婚なんかするから!
なんで私にだけ不幸を押し付けてなんで幸せになろうとするの!?
どうせ若い女に乗り換えたかっただけでしょ別れなさいよあんな男!!」
元妻はテーブルを叩きながら泣いて喚く。
もはや彼女の願いは、元夫とシーアたちの間に、少しでも亀裂を走らせることだった。
自分が得をしないなら、得をしている者たちのそれを壊してやりたいという、惨めな熱意だ。
「どうせ家事とセックスさせる奴隷が欲しいだけなのっ!
そもそもアンタたちみたいな歳の子と結婚して上手く行くわけないでしょ!?
お腹の子供のことも含めてもっとよく考えて――」
『――黙れ――』
シーアの両眼が、魔力を宿して発光した。
言葉は日本語ではなく、妖魔界の母国語だ。
しかし、知らない言語であるというのに、言葉の意味だけは脳までダイレクトに飛び込んできた。
「っ」
元妻は椅子に座り直す。
正確には腰を抜かしたのであり、その先に椅子があった。
一瞬だけ魔力光を宿したシーアの眼を見て、それが銃口であるかのように震えている。
『誘惑』の能力から派生した眼力だ。
相手の精神状態に影響を与える眼を、精神的な威圧に用いたものである。
妖魔界だと親が子供を叱るときに使うくらい卑近なもので、人間でも胆力があればちょっと怖いだけだが、元妻にそういう気骨はなかった。
「あなたがどんな方かは、旦那様からも聞いておりますし、私たちなりに調べてもいました。
一応、言葉を交わしてから人柄を推し量ったつもりですが――離婚した旦那様は正しかった」
一呼吸をおいて日本語に戻したシーアは、軍法裁判めいた面持ちで断言した。
小さく震える元妻は、自分がなぜこんな目に遭っているのか分からないという顔をしている。
それを見たニナは――純然たる慈悲で、溜息の後に口を開いた。
「はぁ……あんたが自分の不徳で野垂れ死にしようと知ったことじゃないし、
だから説教してやる義理もないんだけど、知りたくも無い精神構造が見えたから教えてあげる」
故郷の内乱が起きる前は秀才と知られていたニナは、こう切り出した。
「あんた、『自分の人生は、最低限、幸福であるべきだ』って思ってるでしょ?」
「……当たり前でしょ?」
ようやく喋れるようになった元妻は、不可解そうに眉根を寄せる。
「そうね、幸福を追求するのは当たり前よね?
でも私が言ってるのは、
幸福を追求するのではなく、下限を設定している。
しかもその最低限を、得るのではなく貰うものとして認識している。
元妻の頭でどうにか理解できるラインを見極めながらの指摘だった。
「それが大間違いでしょ。無条件で得られる幸福なんてあるわけないじゃない。
そんな認識でいることが許されるのは子供だけ。
大人になったら自力で獲得するものだし、もっと言えば大人は子供に幸福を与える側なの。
これを道理とする世界に、与えられて当然っていう幼児メンタルで生きてれば、そりゃあ虐げられてるように感じるでしょうし、結婚っていう成熟した大人のすることにも向かないでしょうよ」
ニナは、解読した元妻の心理に基づいて、彼女が抱いている不幸感の出所を明かしていく。
「おまけに、あんたの想定している『最低限の幸福』ってこうでしょ?
貧しくなくて、辛くもなくて、周りは概ね善人で、仕事は上手く行って、趣味の時間もある。
伴侶や子供は自分にストレスを掛けず、国や社会は極端な内戦状態でも経済危機でもない。
知ってる? それ世界の平均値からすると、楽園みたいにパーフェクトな『すごい幸福』なの」
戦火を見て来た人間の闇が、ニナの瞳を過ぎる。
「そ、そんな最底辺と比べたって仕方ないでしょ!?」
それに対する恐怖ゆえか、元妻も咄嗟に抗弁した。
「そうかしら? あんたには必要な認識だと思うけど。
10点満点の生活水準を、『マイナスではないだけの0点だ』って思ってるあんたには」
向上心から現状に満足しないことと、贅沢を求めて現状を無価値とすることは、別物だ。
「最低限を満たして1点、より裕福や成功があって2点や3点、SNSで見る海外セレブでようやく10点満点――ええ、そりゃ不幸でしょう。
妥協しても楽園レベルになる高い『理想値』があって、現実がそれを下回っていたら『不幸せ』なんだもの。
世間の上澄みや海外のいいとこ取りで構築された脳内理想郷を基準にして見る現実は、さぞかし地獄でしょうね」
他から見れば楽園のような環境に生まれても、常に楽園以上を下限にしているので、理想が高いほど世は地獄。
「これに加えて、幸福になるための手段が『与えられること』しかない。
自分を幸福にしようと考えても、『与えられるための努力』しか積まない。
自力で獲得する力を培っていないから、望んだものはなかなか得られず、不幸せ。
誰かが誠心誠意で与えてくれた幸福も、望んだものと違えば『得られてない』から不幸せ。
いま手元にごまんとある幸福も、理想値以下を不幸とする思考の前では、ああなんて不幸せ」
ニナはお茶を一口飲んで、スマホを持ち上げながら微笑む。
「幸福を追い求めながら、いまある幸福を無価値にして、自ら不幸感を量産していく――
そんな手前勝手な悪循環に嵌まっている人間には、与えるだけ無駄よ。
婚活なんかより、出家して仏教でも囓ってその迷妄を晴らした方が幸せになれるんじゃない?」
ニナがテーブルに置いたスマホには、元妻のSNSページが表示されていた。
「な、なんで……それ……っ!?」
「旦那様に許可もらって、SNSにも触れさせてもらってたの。
仕事の役に立ちそうなものしかフォローしてない旦那様が、唯一フォローしていたプライベートの女性アカウント。内容を見てれば、元奥様だとお察しするには十分でしょ?」
元妻は青ざめた。
一連の炎上、自分の醜態が凝縮されたような一件が、筒抜けだったと知って。
「こんなので人の心が分かるとは言わないけどさ、あんたは本音をぶちまけるタイプでしょ?
大方、炎上がきっかけで生活が下り坂になったから旦那様を頼ろうとしてたんだろうけど……
これだけ生き恥を引っ提げて、よくもまあ復縁を迫れたもんね」
ニナは頬杖をつき、先ほどのシーアにも劣らぬ軽蔑の眼差しを元妻に突き刺す。
元妻が藤次と寄りを戻そうとしていたことも、把握されていた。
「人手はいくらあっても足りないけど、性根の腐った乞食はいらないの。
あんたがこの家に戻ってくることなんて、審議される前から満場一致で否決されてんのよ」
元妻は何か言い返そうとしたが、先ほどシーアの眼光に感じた恐怖心が、口を閉じさせる。
下唇を噛むように歪んだ口元に、その葛藤が表れていた。
「申し遅れましたが、私は木城クレアと申します。
奇遇ですが、先の炎上騒動でご縁があったようですね?」
追い打ちを掛けるように、今度はクレアが口を開いた。
「っ!? 木城クレアって……まさか本物っ!?」
「顔を見ただけで気付かれないようでは、私もまだまだですね」
芸能人として一言を加えつつ、クレアも冷たい微笑を元妻に送る。
「ロイヤーAIのログにあなたのアカウントがありました。
無関係な他人だからと見逃していたのですが、こうなると、然るべき措置を執るべきでしょう」
交際相手である藤次の元妻が、SNS上で自分をキャンセルしようと動いていた。
胸に秘めておいたその件を、元妻は知らずに掘り返してしまったのだ。
「だ、だったらこっちだって! このことっ、ネットでばら撒いてやるから!
マスコミとか、週刊誌とか! 木城クレアの熱愛報道! スキャンダルよ!」
苦し紛れに訴える元妻だが、クレアの微笑は揺らがない。
「どうぞ、無意味です。
なにやら誤解なさっているようですが、私は別にアイドルというわけではありません。
交際や結婚の報告でファンが離れるようなタイプの芸能人ではないのですよ」
「っ!」
強がりではないと、元妻は理解する。
元妻の認識では、女優やアイドルとは、容姿だけでバカな男どもを釣る娼婦紛いだった。
どうせ顔がいいから持て囃されてるだけですぐに姿を消すに違いないというか消えろ――と。
しかし昨今、そういう芸能人は淘汰気味である。
妖女の到来で美人の希少性が失われ、歌も演技も、よりスキルが重視されるようになったのだ。
そうしたクレアと比べると、容姿以外に取り柄がなかったのは、元妻の方だった。
「お話を聞いて、あなたは私たちにとって有害であることがはっきり分かりました。
ですので、私が持つ資本と人脈の限りを尽くし、対処させていただきます」
そのとき、部屋の呼び鈴が鳴らされる。
クレアが席を立ち、来訪者を確認して、玄関扉を開いて案内した。
「例えば、シンプルに警察へ突き出すとか」
警官だった。
男性と女性が数人、その後ろにはユスティネとアイナの姿もある。
デザートを買ってきてと送り出されたユスティネだが、まさか本当にコンビニまで行ったりはしていなかった。
アイナを連れて、マンションの警備員に事の次第を伝え、警察を呼んでもらった運びである。
ただの痴話喧嘩なら民事不介入だが、
「住人の元妻が、不当に作られた合い鍵で家宅侵入して、妊娠中の後妻に詰め寄っている。
再三退去するよう言っても退去しない」
となると、母子の身を案じないわけにもいかない。
どうか仲裁だけでもというユスティネの訴えは聞き入れられ、万が一に備えて付近のパトカーが向かわせられたのだった。
「け、警察っ!?」
元妻にとっては恐怖である。
前科と言えるものがある身だ。仕方なくやってきた警官も物々しく見える。
「なんでよっ!? なんで家に来ただけで警察なんか呼ぶのっ!?」
もはや元妻の声など誰も聞きはしない。
クレアは警官たちに事情を説明、ニナはちゃっかり録音していたことを伝えている。
「元奥様」
ただ一人、シーアだけが、いつの間にか元妻の背後に立って、肩に手を置いていた。
猛禽の爪のように指が食い込み、背後から殺気めいたものが叩き付けられる。
本能的に硬直した元妻に、シーアは平坦な声で告げる。
「
守られることばかり考えている
ゆっくりと、シーアの手が元妻の背中を押す。
微速で前進する重機に押されるように、元妻は警官の方へと進まされた。
「今後は、他人の幸福に薄汚い靴跡を残されませんように」
耳元で囁かれた元妻は、幽霊でも見たような顔で、女性警官に引き取られる。
「なんでなの……なんでこうなったの……私がなにしたの……」
ぶつぶつと呟きながら、警官に腕を引かれて部屋を出て行く元妻。
残していった言葉を聞いたニナは、ほとほと呆れたという顔で、額に手を沿えた。
「ここに至るまで、何を聞いてたんだか……」
反応しない元妻に、言葉が届いたかどうかは分からない。
いずれにせよ、彼女が取り戻したかったものを取り戻すことだけは、叶わなかった。
○
――かくして、元妻は家宅侵入の現行犯で連行された。
不起訴処分とはなったが、次に同じことがあればと釘を刺され、合い鍵も手放すことになる。
しかし、刑事は免れても、民事レベルで木城クレアが追撃した。
見逃されていたネット上での侮辱投稿を皮切りに、元妻の行動で違法性のある部分を、顧問弁護士を通じて追及。
もはや逆ギレする気力も失ったのか、元妻は謝罪文を提出、示談金の支払いと、西条家への接近禁止を受け入れた。
その後、藤次たちとの関わりを断った彼女だが、生活の改善は見られず。
相変わらず貯金を切り崩して美容へ注ぎ、財布となる男を求め、様々な婚活会場へ足を運ぶ。
――幸福になるための手段が与えられることしかない。与えられる努力しか積まない。
ニナから追及された気質はなにも変わらず、むしろ自らの正当性を証明しようとするように。
歳と職が原因で男を紹介されなければ、運営や相談員に食ってかかり、聞き飽きたような正論にまた反発。
パーティに参加すれば必死さを隠せず、狙った男につきまとい、妖女がいれば露骨に牽制して口論にまで発展。
男性からはストーカー被害を訴えられ、幾つかのパーティには出禁となり、業界のブラックリストに名を連ねた。
婚活以外は家に引きこもり、SNSでは開き直ったように妖女や男性への暴言暴論を繰り広げる。
その内容は、妖女や妖女を選ぶ男性を悪し様に語るもの。
どこか、妖女を選ぶ男性を減らし、人女を選ぶ男性を増やそうという思惑も嗅ぎ取れたが、世間がそれに応えることはなかった。
ネット民はインプレッション稼ぎの匂いを感じてか、打って変わって相手にしなくなる。
結果、注目を集めようとより過激な文言を並べたアカウントは、無事に凍結された。
SNSが半身も同然だった彼女にとって、その喪失感はどの程度であったか……
以降、彼女がどんな日々を送ったのかは、誰にも分からない。
はっきり言えるのは――彼女の婚活が実を結ぶことは、ついぞ無かったということだ。
もっとも、
「ただいまー。いやぁ、遅くなってごめん」
「お帰りなさいませ、旦那様」
「入れ替わりでパトカーが出ていったみたいなんだけど、何かあったのかな?」
「さあ? 特に変わったことはありませんでしたが」
西条藤次がそれを知るのは、もう少し先の話である。
ご一読いただきありがとうございました。
怒濤の説教回でしたが、元妻とはこれでお別れです。
ざまぁ展開の作り方、もっと修行が必要ですね。