背負ってきた筵を降ろし、通りに面した位置に陣地を確保する。
ここまで歩き詰めだったせいで、結構な疲労がたまっているようだった。肩のあたりを指で揉みながら、一刀は周辺を見渡している。
自分の暮らしている田舎とは、空気ひとつとっても同じではない。どちらがいいと言うつもりはないが、商売をするなら人は多ければ多いほどいいのである。
足を伸ばして豫州にまで来るのは久しぶりのことで、気合いが入っているのは確かだった。
帰りに、白蓮に渡す土産でも見繕ってやるとするか。市場の活気を見ていると、そんなことを自然に考える。
「やっ。そこのお人、筵はいらんかね。丈夫で長持ち、地元じゃ評判の筵だよ」
目についた通行人に、商売口調で声をかけてみる。
猫の耳のような装飾のついた頭巾。それを深々と被っているから、振り返った顔を見てはじめて女だと気づくことができた。
上背はあまりなく、どちらかといえば貧相な身体つきをしている。女としての魅力は、初見の段階ではかなり薄い。とはいえ、昵懇にしている白蓮だって、なにか目立つような部分があるわけではないのだった。
結局、一緒にいたいかどうかでそんなものは決まるのではないか。過ごしていてなんとなく心地がいいから、白蓮とはずっと関係が途切れないでいる。そういう存在は、むしろ貴重なのではないかと最近思えるようになってきていたのだ。
今頃、白蓮は慣れない仕事に四苦八苦しているのかもしれない。ただ、飛び抜けたものがない代わりに、ほとんどのことを並以上にこなせる人材は希少で、上役がそれに気づけば間違いなく重宝されるはずだった。
声をかけた女。黙ったまま、こちらを睨みつけているようだった。瞳から放たれる力。軽く気圧されるくらいのものがあるのか。
おもしろいと思った。筵を売り歩くついでに、めぼしい者を見つけては親交を結ぶ。それが一刀の日常になっていて、活気のある城郭に来ると、むしろそちらが主目的になる場合もある。
「聞こえていなかったのなら、もう一度言おう。筵を買ってはくれないか。見た目は貧相だが、これは使い物になるぞ」
「はあ、誰の身体つきが貧相ですって? それと、薄汚い視線で私を犯すのはやめてもらえないかしら。孕んじゃったらどうしてくれるのよ、気持ち悪い。どうせなら、無駄口を叩くしかないその口も閉じていたらどうなの? 息をするだけ周囲の迷惑になるってことが、米粒ほどの貧弱な頭脳じゃ理解できていないようね」
なにを勘違いしたのか、女はとんでもなく不機嫌になっている。
初対面でここまでの暴言を吐かれた経験はなく、逆に興味が湧いてくる。よく見ると、眼だけでなく顔立ちも悪くない。衣服に使われている素材も上質そうで、もしかするとどこぞの名門の子女なのかもしれなかった。
「被害妄想もいいところだな、それは。ははっ。だいたい、視線だけで人を犯せるというなら、おまえはすでに数人孕んだも同然ではないか。ほれ、このままでは穴という穴まで犯されてしまうぞ? それが嫌なら、俺の眼を閉じさせてみるがいい」
「うっわ……。これだから、男って人種は嫌いなのよ。わかったら、どうしようもないその眼を自分の指で潰しなさい。いいわね? 私が帰ってくるまでにそうするか消えていなければ、番兵に通報させてもらうから」
頭巾の女は、そう言って地面に唾を吐くと去っていった。
いまの調子だと、本気で通報されかねない。なにもしていないのは事実だが、ちょっと調子に乗って煽りすぎた節もある。いろいろと気になる部分は多いが、今後のことを考えると役人に眼をつけられるのは得策ではなかった。
ひとまず商売を続け、きりのいいところで切り上げる。今回ばかりはそうするしかない、と一刀は半ば諦めた。
「兄ちゃん兄ちゃん」
隣で雑貨を売っている初老の男が声をかけてくる。
視線には多分の憐れみが含まれていて、女に散々けなされた自分に同情してくれているようだった。
「声かけた相手が悪かったね、兄ちゃん。あの子は荀家のご令嬢で、このあたりでは男嫌いで通っているんだ。だから、声をかけるのは兄ちゃんみたいな余所者の男だけなのさ」
「ほう、荀家のな。なるほど、それは相手が悪かったようだ」
荀家の令嬢、と聞いて一刀はぴんときていた。
王佐の才。そう評される才媛が、このあたりにいることは人づてに知っていた。そんな評判を得ているくらいなのだから、勝手に大らかで懐の深い人物だと想像していたのだ。それがまさか、初見で情け容赦のない毒舌をぶつけてくる女だったとは。
「気を悪くしないであげてくれよ? あの子だって、小さな頃はずっと社交的だったんだ。なのに、名門の子だってことに眼をつけた悪党連中に身柄を狙われてね。なんとか事前に助かったんだが、それ以来男にゃあの態度なのさ」
「いつの時代も、小悪党というのは碌なことをしないものだ。反吐が出るな、まったく」
「ほんとなあ。そういう事件、最近また増えてきてるらしいじゃないか。俺たちのような貧乏人には無縁のことだが、嫌な世の中だねえ」
男の言葉に、一刀は頷いた。
国の中枢の乱れ。やがてそれは地盤の端々にまで浸透していき、治安すら悪化させる。どこの地方にも、腐った役人が掘って返すほどいるという。賄賂による汚職。それが、堂々とまかり通る場合すらあるのが実情だった。
筵を売って各地を歩いていると、そうした汚さがいくらでも見えてくる。
募った不満は怒りとなり、いつかはすべてを焼き尽くす炎となる可能性すら秘めている。そうした危機感を、朝廷内部の人間は理解できているのか。
兆候がはっきりしてからでは、手遅れになる。そしてその燻りは、すでに散見されるようになっていた。
「話を聞いて、俺も気分が晴れたよ。あんたにとは言わない。だけど、よければ誰かに頼んで、俺が非礼を詫びていたとご令嬢に伝えてもらえないだろうか」
「へへっ。優しいんだな、兄ちゃんは。あれだけこき下ろされたんだ、普通の男なら怒ってそれどころじゃなくなってるよ」
「とにかく、お願いする。あまりのんびりしていて、役人に手配されるのも嫌なのでな。世話になった、親父さん」
「おう、任せときなって。ああ、それとなにかの縁だ。兄ちゃん、名前を聞かせてくれよ」
「劉備。幽州涿郡から来た、劉備玄徳だ」
「劉備さんか、覚えておくよ。こっちに来た時は、また顔出しなよ。いつもだいたい、このへんで商売してるからさ」
まとめた筵を背負い直し、一刀は城郭の大通りを離れていく。
荀彧のことは、しばらく忘れられそうになかった。強烈な毒舌と、鋭い視線。自身に満ち溢れているようで、どこか危なっかしいあの態度。
白蓮の対極にいるような女だが、それで印象だけは鮮烈に残っている。
「荀彧。王佐の才を持つ女、か」
王とはほど遠い位置にいる自分。それなのに、後ろ髪を引かれてなんになる、という思いが立ち込める。
劉家の血脈。母は、そこに誇りを持てと常々言っている。狂信的とすら言える信念。だが、そうしたものを持てる者こそが、なにかを成し遂げるのではないかという気持ちも湧いてくる。
「歩こう。いまは、立ち止まっている場合ではない」
わだかまりを振り切るように、歩を進めた。
天から降り注ぐ陽光。ちょっと眩しくすらあり、一刀は額に手をあてて日除けをつくっている。