魔獣は暗闇より(悪魔ほむら×美樹さやかシリーズ) 作:さんかく@
魔獣死すべし1
「円環の理」という名の概念による救済システムの事を美樹さやかは今でもうっすらと憶えている。彼女はそのシステムに組み込まれた一部で当時は万能の力を得、そして全てを理解する知性も得ていた。が、今ではそんなことは心底「くだらない」、口汚い上司の言葉を借りれば「糞のようにバカバカしい」夢物語のように思えていた。今彼女の眼前で繰り広げられている光景を見れば更にその思いは強くなる。綺麗な唇を歪ませ、彼女は舌打ちした。
「おい、美樹…荒らすなよ」
「わかってますよ、主任」
白髪の上司に睨まれながら、さやかはゆっくりと歩を進め、遺体に近づいた。革靴が湿ったアスファルトを踏んで、きゅっと音を鳴らす。
無機質なアスファルトの床に白い人形が横たわっていた。より視点を近づけると、それは人形ではなく人間だとわかる。うら若い女性の全裸の遺体があった。白い透明な肌に豊満な乳房。さやかは屈んでちょうど同じ年頃の女性の顔を見つめる。
――直視する
これが美樹さやかが初めて人と融合した魔獣と戦った時に決めた、「信念」だ。
魔獣や、友である美貌の悪魔よりも人間の方がなによりも汚い、許しがたい存在だと気付いたあの日からの。蒼い、海のような眼で彼女は、女性を見つめ続けた。表情は、無い。そうしてしばらくするとさやかは両膝をついて、合掌する。彼女の背後では白髪の上司も同じく合掌し、女性の冥福を祈る。一分ほど経過した頃だろうか、初老の男が口を開いた。
「美樹…もうすぐ鑑識が来る、俺達は消えるぜ」
「はい」
マル暴である二人はこれから蚊帳の外になる。今まで事件を追っていたのに皮肉なものだ。
「綺麗ですね」
「ああ…一応な」
さやかの呟きに、白髪の男は応じる。もしかしたら体内で本人以外の体液が検出されるかもしれない…。そう岡山もさやかも考えていた。表面は美しいが、内側は検死されない限りわからない。検出されたとして単数か、それとも複数か…。
「……」
妙な音が傍でした。岡山が不審げな面持ちで、傍らの蒼い髪の部下を睨む。
さやかが歯をくいしばり、唸っていた。その様子を上司である岡山は「困った奴だ」と言わんばかりにため息をつく。
「おい、美樹、口切るなよ」
「…はい」
ぎりぎりと歯ぎしりの音が上司である岡山にも聞こえるくらいなのだ、美樹さやかの口内は食いしばりすぎた歯で唇が切れ、すでに血と唾液で溢れている。唇の端から赤い筋が垂れる。
「おい、現場で棄てるな、お前の体液まで検出される」
「…」
こくり、とさやかは頷くと、ごくりと喉を鳴らして自らの血と唾液を飲み始める。
ごきゅ…と嫌な音を立ててさやかの喉が蠢く。
まったく、極端な奴だ…
岡山はそっと舌打ちする。普段はまるで人なつこい犬ころみたいに誰にでもへらへら尻尾をふる色気の無い女性だが、こんな時は死んだ魚のような目をして遺体を凝視する。怒りで身体のどこかを痛めつけながら。
全ての部下の性格を把握し育てあげてきた岡山からすれば、美樹もまた大事な部下の一人だった。彼女の振り幅の大きさに懸念しながら、今後の現場教育の方針を頭で考え、次の行動に移る。一昔前の名刑事の称号を得ている彼は、まさにプロだった。
「美樹…帰るぞ」
重々しく初老の男は呟く。経験を重ねたベテランの重み。
怒りで感情を支配されていたさやかも冷静になり、はい、と小さく呟くと岡山に従い、踵を返す。
「ドウシテ?」
ぴた、とさやかが歩を止める。項から後頭部にあけてゾクリとする悪寒が走り、さやかは遺体の方を振り返った。
腹筋運動をしていたかのように、遺体が上半身を起こしていた。白い生々しい裸体がさやかの方を向いている。
「ドウシテ、タスケテクレナカッタノ?」
美樹さやかの蒼い海のような瞳に、糾弾する女性の顔が映し出される、その口はV字形に開かれていて、さやかを嘲笑っていた。
* * * * * *
自分の悲鳴で目が覚めた。
そして、遠くから、誰かが呼ぶ声が聞こえる。だんだんとそれが近づき、大きくなった。
「さやか…さやか…さやかっ!」
ワン、と耳鳴りがして、さやかは一瞬顔をしかめるが、ぼやけた視界がはっきりしてきて、
目の前の人物が長年連れ添っている友人だと知ると、安堵の表情を浮かべた。だが、いつものように彼女は笑うことができなかった、口が変な形で歪む。
「ほむら…」
「…ようやくお目覚め?」
黒髪の友人、暁美ほむらは押し殺した声で美樹さやかに囁く。恐ろしいほど美しい美貌。少し疲れた様子で、口元は薄く笑っている。白い乱れたシーツが広がるベッドの上で、彼女は蒼い髪の友人に覆いかぶさっていた。さやかの両腕はほむらに押さえつけられ彼女の白い細い指が、さやかの手首に食い込んでいた。
自分は相当夢にうなされて暴れていたのだ…さやかは青ざめる。何故なら、上に圧し掛かっている友人の息は乱れ、いつも身に纏っているキャミソールは肩の紐は落ち、乱れていたからだ。薄暗闇の中、彼女の白い肢体が発光しているかのように輝いて見える。乱れた黒い髪が肢体にへばりつき、煽情的だ。さやかは申し訳なさそうな表情を浮かべ、友人に謝罪する。
「ごめん…ほむら、私、夢を見てたみたい…」
「貴方…いい加減にしなさいよ」
相当な怒りを抑え込んでいたのだろうか、浮かべていた笑みを消し、彼女は苦々しげな表情を浮かべてさやかを見下ろした。凄惨美とでもいうのだろうか、美しいと、怒りの表情さえ見惚れてしまうほどだ。
「痛い…」
さやかは身じろぎしようと腕を動かすが、ほむらの手が強くそれを抑えつけていた。
アメジストの瞳がいつもより輝きを増して、さやかを射る。ほむらの艶やかな声は微かに震えていた。
「泣いていたわよ、また」
「……」
「何か喚きながら、暴れて…馬鹿みたいに…」
泣きそうな声
「なのに、何故、貴方はまた笑おうとするの?…謝るの?」
「…ほむら?」
友人の怒りの原因がわからない。さやかは困惑する。ちっ、とこれみよがしに舌打ちして、美貌の悪魔はさやかに顔を近づけた。互いの息がかかるほんの数センチというところまで接近すると、ほむらは艶のある声で囁いた。
「水を取ってくるわ」
ほむらは身体を離し、ベッドから降りる。
苛立ちを隠そうとせずに、乱暴に髪を掻きあげ台所に向かう友人の後ろ姿をさやかは目だけで見送り、自らの額に手をあてる。汗でべっとりと濡れていた。夢の事を思い出したのか、彼女は身体を震わせ、自分の身体を抱いた。ひどく疲れた顔をして。
――もう10年も経つのだ
ほむらは腹ただしげに目を細め、手に握られたコップを見つめる。友人に飲ませる水が溢れんばかりに注がれていて、今度は自嘲気味にほむらは口元を歪めた。
――なのに、
派手な音を立てて、乱暴に冷蔵庫を閉める。
――何故、あの人は未だにああやって笑おうとするのだろう?
ほむらは美樹さやかの、どんな辛い時でも笑うことのできる性質を好んでいなかった。
辛いのに何をごまかしているのか、何故笑いにするのか…何故そうまで無理をするのか。
はあ、と美しい唇からため息がでる。
さきほどの蒼い髪の友人のうなされ方は尋常ではなかった…とほむらは回想する。彼女の背中に寄り添って、抱き枕代わりと言わんばかりの状態で心地よく眠りに落ちていたのに、一気に覚醒してしまった。うなされた彼女を抑えつけるのに、はじめて人外の力を使ったくらいだ。
ほむらの胸の奥から、どすぐろい、怒りに近い激しい感情が湧きあがり、渦巻く。それがなんであるかはわからないまま、衝動のまま口を開き呟いた。
「…殺したくなるわ」
蒼い髪の友人を自らこの手でとどめを刺してしまいたい衝動に駆られる。いつもそうなのだ、事あるごとにさやかに対してこのような感情が生まれてくる。
10年も経つのに、彼女は決して自分に進んで弱みを見せようとしない。そこがまず嫌だった。
謝ってほしくない
我慢してほしくない
…なのに
自分に対して決して甘えてこない苛立ちそれは裏を返せば、自分に甘えてきて欲しいという感情だ。
だが自己分析の苦手な彼女は気付いていなかった。
そして更にその感情の根源にあるものが、蒼い髪の友人に対する「殺意」の原因でもあるというのに。
「…「犬」のくせに生意気だわ」
と、一人呟き、悪魔は首を振って歩き出した。
ベッドの縁に座り込み、音を立てて「犬」のようにコップの水を飲み干す相方を、悪魔は傍らでさもあきれた風に見下ろしていた。飲んだ後、コホ、コホと咳き込むと弱々しく「ありがとう」と神妙に礼を言われて、気をそがれたのか、ただ黙ってほむらはそのコップを受け取った。しばらく何も言わず、相方を見下ろす。睫毛の下のアメジストの瞳を輝かせながら。
「死にそうな顔ね」
「……うん」
さやかは憔悴しきった表情を浮かべている。よほど恐ろしい夢でも見たのだろう、それが過去のものなのか、それとも全く別のものなのか、ほむらにはわからない。
「……何を見たの?」
「………」
口をつぐむ蒼い髪の友人を見て、ほむらの胸にまた激しい衝動が湧きあがる。
「…しゃべりたくないなら、いいわ、そのまま死ねば?」
「ほむら?」
友人の睫毛の下のアメジストの瞳を見上げながら、さやかは不思議そうに聞いた。
どうにも、今夜は様子がおかしい。
「いったい…どうしちゃったの?」
「…別に、どうもしないわ、貴方は一人で眠ればいい…」
そう言って、踵を返し台所へ向かおうとするほむらの手をさやかは反射的に握った。
「待って…」
「離しなさい」
しごく冷淡な声でほむらはさやかに言い放つ。一度、過去に似たような得体の知れない喧嘩をしたことがあるが、その時もこんな感じだったことをさやかは思い出す。室内なのに、まるで外気に触れているように、周囲の温度が下がる。
さやかが心底困った表情を浮かべ、友人を見上げる。
「ねえ、どうしたの?あんたが何故怒っているかわかんない」
「わからないですって?」
ほむらは凄惨な笑みを浮かべる。そうして、吐き捨てるように呟いた。
「ええ、わからないはずよ、だって貴方は犬ですもんね」
「ほむら」
「私の気持ちがわかるほどお利口な訳ないわ」
「嫌だ…どうしてそんなこと言うの?」
さやかは怖かった、さきほどの身の毛もよだつ夢の後で、共に支え合っている相方に拒絶されるのが。傍にいて欲しい…だが言葉がうまく出ない。どうして彼女には素直に気持ちを語ることができないのか、自分自身でも歯がゆかった。
――遠い過去の確執が今でも心のどこかに残っているとでもいうのだろうか?
いや、とさやかは歯をくいしばる。そうして、口を開いた。必死の思いで。
「……女の人がね、死んでたの」
ぴくりとほむらの身体が一瞬動き、そして止まる。
「ガサ入れにいったら、事務所には誰もいなくて、一人だけ、その人が人形みたいに眠って死んでた。…殺されてたの、たぶん…ひどい目にあってる」
「………」
口から出てくる単語が全て汚らしいものであるかのように、しゃべりながらさやかは苦しそうに呻く。
「その人が私に言うのよ、なんで助けてくれなかったのって…私…」
周囲の温度が上がった気がした。
すう、と冷たい手がさやかの頭に回される。柔らかい感触がさやかの顔を包んだ。
「…貴方はいつもそんな夢を見るの?」
「……ん」
「馬鹿ね」
ひどく優しく頭を撫でられて、さやかの目から涙が溢れた。
嗚咽しないように口を抑えたが、我慢できずに泣きだしそうになる。黒髪の友人はむしろそれを促すように、さやかを強く抱きしめ、背中を叩いた。
「ごめんなさい…言い過ぎたわね」
「…ほむら」
友人の名前を呼ぶと同時にさやかは嗚咽しはじめた。縋りつく友人を見て、ほむらはまた「ごめんなさい」と囁いた。
そうして、ほむらは、さやかの頭に頬を寄せる。
「朝まで抱いていてあげるから」
「うん」
「眠りなさい」
さやかはただ黙って、ほむらを強く抱きしめた。
その仕草に思わず悪魔は微笑んだ。さも嬉しそうに。
* * * * *
白いスーツの男が、大柄な黒服の男を両脇に携えて、颯爽とこちらに歩いてくるのを、山口は気に入らないように睨んでいた。
「お久しぶりです…今日はご機嫌伺いに参りました」
白いスーツの男はにやりと笑うと、遠慮なく、山口が座っているソファの対面に座る。
…嫌な顔だぜ
山口は内心舌打ちした。
そもそも今日、この男が事務所に来るとは誰も聞いていなかった、いわゆるアポ無しの面通しとはふてぶてしすぎる。
ふう、とため息をつき、目の前の男を睨む。
男は年の頃40前後だろうか、それにしては若く見える。そして…中性的な顔立ちで、美しかった。数多くの女を抱いている山口に同性愛の気は無いが、それでも心揺さぶられるくらいなのだ。おそらく若い鉄砲玉あたりのガキなら夢中になるだろう…と山口は思った。ふう、とまたため息をつくと、背後にいる部下に左手を突き出す、高級そうな葉巻が差しだされ、それを口に咥えると、もう一人の側近が、ライターで火を点けた。白い煙がもくもくと周囲に広がる。男はその煙を何故か面白そうに見ていた。
「…8年も音沙汰無くて久しぶりとはいい度胸だな」
ドスの効いた声で、山口は男に睨みを効かす。8年前、ケツ持ちを担当していた「地下室」のある風俗店を潰されたのだ、間接的にとはいえ、この男が商品として運び込んだ少女が原因だった、怨むなというのがむしろ筋違いだ。再び葉巻を咥え、男に向かって煙を吐く。
煙に反応することもなく、ただ山口のすごみをククッと面白そうに笑って男は「その節は」としれっと答えた。そうして、肩まで伸びた髪を掻きあげる。その女の様な仕草に山口は吐気がした。優雅に足を組むと、その足に肘をのせ、面白そうに山口を見つめる。
「私はただその「商品」を運んだだけですよ?むしろあの場のイレギュラーを責めるべきでは?」
「そいつらももう死んでたろ、てめえの部下と俺の部下もな」
苦々しく山口は吠える。この腐れ野郎は一体何をむし返しにここに来たのだ?
「それがもう一人いるんですよ」
「はあ今更何を?…お前、何しに来たんだ?どうやら詫びを入れる訳でもなさそうだが」
「探してもらえませんかね、そのイレギュラーを」
「何?」
後ろで悲鳴があがった。山口が振り向くと、側近の男二人が苦しそうに自らの首を絞め、宙に浮いていた。
「な…なんだこりゃあ」
口から泡を出して側近達が呻く。天井近くまで上がると、ぴたりとそこで止まる。一瞬ピアノ線でひきあげられたのか?と山口は思ったが、その様子も無い。受け入れられない非日常に、まもなく自らの精神が崩壊する…と山口は予感したのか。宗教もへったくれもなく「南無…」と唱えた。面白そうにニヤニヤ笑う男。
「おや、おや、特定危険指定暴力団の幹部たる貴方も可愛いものですねえ」
「お、お…お前なんなんだ」
「さあ?」
男の両目が一瞬妖しく光った。赤色に。
彼の周囲から前触れもなく煙のようなものが発生する。白いドライアイスのような煙。
ひい、と山口は悲鳴をあげた。
「貴方達の警察との癒着ぶりを買いたい、そしてその情報も」
「…な、なに、何が…したいんだ」
すでに山口に幹部の威厳もない。ただ、目の前の男に服従し、死から逃れるのを考えるだけ。男はニヤリと笑って「探してくれますね?」と囁いた。
「…だ、誰を…探すんだ?」
「…8年前のイレギュラー…」
男の目がまた赤く光る。
「あの事件を通報した女子高生ですよ…」
ニタア、と男の口がⅤ字形に裂けた。