魔獣は暗闇より(悪魔ほむら×美樹さやかシリーズ) 作:さんかく@
「ほむらちゃん…どうしたの?」
まどかは隣で俯いたまま、何もしゃべらない黒髪の友人に声を掛けた。
艶のある黒髪、白磁のような肌、アメジストの瞳…とても美しい、この世のものとは思えぬ美貌。中学時代初めて会った時から綺麗な人だとは思っていたが、10年後の今はそれに拍車をかけたように美しい。思いつめたような横顔がゆっくりとこちらを向いた。
「…まどか、いきなり訪ねてきてごめんなさい」
「ううん、全然いいよ、ほむらちゃんなら大歓迎だよ」
そう言ってにっこり笑うまどか。黒髪の女性は目を細める。
「…あなたはいつも優しいのね」
「そんなことないよ、普通だよ?…それよりほむらちゃん」
「え?」
まどかが真っ直ぐな瞳でほむらを見つめる。
「何か…悩んでいるよね?とても苦しそう」
「……まどか」
平日の昼休み、ほむらはまどかの勤める幼稚園を訪れていた。
幼稚園の敷地の片隅の木陰のあるベンチに二人腰かけて。幼稚園の先生であるまどかは淡い色を基調とした質素な服にエプロンをつけていた。漆黒の服を着て、まるで烏のようなほむらと対照的だ。
「……さやかちゃんのこと?」
「…!」
ほむらが目を見開く。まるで心を読まれてしまったとでも言う様な驚いた表情。
「やっぱり…」
まどかは優しく呟いた。
「ねえ、ほむらちゃん、私、何にも力になれないかもしれないけど…話してくれないかな?」
「まどか…」
かつて、結界の中でも同じように彼女から優しくされたことをほむらは思いだす。
私は全く成長していない…この子にこんな心配をかけるなんて
ほむらは目を瞑った。そうして、しばらく何かを考えているかのように黙り込んだ。
そうして、ゆっくりと目を開けると、一言、一言を考えながら紡ぎ出す。
「ねえまどか、…どうして、あの人のことってわかったの?」
「なんとなくだけどね、フフフ…」
そう言って、まどかも黙りこむ。そして、こちらも何か意を決したかのように言葉を紡ぎだした。
「…ねえ、ほむらちゃんおかしいって笑わないでね?」
「ええ、あなたが言うことをおかしいだなんて、私は決して思わないわ」
うん、とまどかは頷くと、語りだした。
「私ね…ほむらちゃんと、さやかちゃん二人とずうっと前に会った事がある気がするの」
「……」
「遠い昔から知っていたような、前世で深い関係だったような変な感じがして。それでね」
両手を合わせて、少し照れたようにまどかは笑った。
「さやかちゃんは、なんというのかな…私の家族…子供みたいで、なんだか放っておけないの」
それは彼女が円環の理として機能していた時、美樹さやかを取りこんでいたためだろう。そうほむらは思った。あるいは、遠い昔の改変の無い世界での幼馴染であり、親友だった記憶がそうさせるのか。
「ほむらちゃんもね」
「え?」
意外そうな表情を浮かべ、ほむらはまどかを見つめる。
「とっても気がかりな…昔から気がかりな友達みたいで、気になるの」
「まどか…」
ああ、やはりこの子はどこまでも優しい。
「だからかな?二人が仲良くしていると、すごく安心して嬉しくて、ああ、私はずっと昔からこうなるのを願ってたんだって思うの。だから二人の事はなんでもわかる気がして、えへへ、変かな?」
照れたように笑う桃色の髪の女性が愛しくて、ほむらは思わずその頭を抱き寄せた。
「え、ほ、ほむらちゃん?」
「あなたは優しいわ…まどか」
ほむらの白い腕に頭を抱かれ、顔を赤くするまどか。それを見てゆっくりと腕をほどくと、寂しそうに微笑みながら、ほむらは囁いた。
「夢を見るのよ」
「夢?」
あの時もこういう風に、まどかに悩みを打ち明けた事をほむらは思いだした。成長していない自分に苦笑しながら、ほむらは語る。
「あの人がいなくなってしまう夢」
「…いなくなる?」
ええ、とほむらは頷く。
「あの人を助けられるのは私だけなのに、私はその時何もできなくて…」
「それで、いなくなるの?それって、この世界から?」
「ええ、どこにも…いなくなってしまうの」
――美樹さやかが消失する。
そう考えただけで、ほむらはゾッとした。
そして同時に不思議に思うのだ、今まで、このように、まどか以外の人間に対して、ここまで考え込んだことがあっただろうかと。だが、それよりもほむらは怖かった。
――怖い
そうなのだ…私は
美樹さやかを失うことが怖いのだ
無意識に、ほむらは自分の身体を震えながら抱いていた。
* * * * * *
かつて同僚であり、今は魔獣と成り果てた男に蹴りあげられ、さやかの身体が宙に浮く。
轟音と共にさやかの身体がビルの壁に激突した。
「ぐうあっ…」
ビルの壁に全身を強打し、そのまま、びしゃり、とうつ伏せに湿った地面に叩きつけられた。仕事用の黒いスーツが泥を吸いこみ、薄汚れた斑点を作る。
「……たか…さき、さん」
顔をゆっくりとあげ、さやかは呟く。トラックと激突するレベルの衝撃だが、保有する能力「痛覚遮断」をとっさに使用したことで、どうにか言葉を発することはできるらしい。とはいっても、身体の損傷はあまりにも酷く、彼女の肢体は瀕死の状態のそれで、びくん、びくん、と痙攣を起こしていた。げほ、と口から血が零れる。さやかの顎から、泥だらけの地面へと垂れる赤い糸。
「フフフ・・・いい表情」
うっとりとした表情で白いスーツの男はさやかに見惚れる。
唇にあてた指はわなわなと震え、半ば開いた口は煽情的だ。まるで性的興奮を得ているかのように、男の顔は恍惚としていた。中性的な顔から醸し出すその色気は、同性愛の気が無い男性でも虜になるほどのものだ。
「…っ、…っ」
必死に顔をあげて高崎の方を見るさやか。嗚咽しているのか、それとも痛みに耐えているのか、身体を痙攣させながら首を上下に動かしている。泥に汚れた蒼い髪がさやかの顔に垂れかかり、彼女の表情を隠していた。全身に蒼い光が浮かび上がっている。もし、ある種「霊的」なあるいは「見えないものを見る」能力がある者がその場にいたならば、彼女の全身を包んでいる蒼い光に音符記号がまるで踊っているようにまとわりついているのが見えるだろう。
「いい事を教えてあげましょう」
いつの間にか、さやかの傍に男は立っていた。泥だらけの地面に立っているというのに、染みひとつついていない、白いズボンに靴。
すう、と男はその指を唇から喉元へなぞるように下ろしていき、芝居がかった仕草で手をさやかの元へ伸ばす。
「私は女性に興味はありません」
ようやく、男の存在に気付いたのか、さやかが視線を移す。泥で汚れた彼女の中性的な美貌には怒りの表情が貼りついていた。怒りの焔が渦巻いている蒼い瞳。満足気な男。
「…だが、貴方はイイ、実にイイ…」
そうして腕を半円を描くように回し、踊るようにその場でくるりと身体を回転させると歌うように囁いた。
「見せてください…弱き、力なき者の抵抗、そして」
ニイ、と口がV字形に開く。爬虫類のような表情。
「救われない魂を、二度と光の射さない底なし沼に永久に沈んだ時の絶望の表情を」
赤い、血のような瞳。
蒼い、空のような瞳が互いを映す。
「…貴方はもう救われない…美樹さやか」
「………へえ、そうなんだ」
にやりと、さやかは不敵に笑った。口元から血は流れたまま。どうやら回復魔法が効いてきたらしい。
「別に…どうでも…いいわ、そんなこと」
人が絶望に陥る所をもう何百篇も見てきた。そして、救われずに死に至る人達も。それに自らの手でもう何度もさやかは人を手に掛けている。いまさら彼女は救いなどというものは求めていなかった。円環の理さえ。ゆらり、とまるで幽鬼のように立ち上がるさやか。折られた腕は回復していないのだろう、右手はゆらゆらと不自然に揺れていた。至近距離で、見つめ合う二人、一触即発だ。殺意に満ち溢れ、極限に緊張した間が生まれる。
「…それよりも…私は、あんたを…殺すわ」
ビリビリ、と蒼い電気がさやかの左腕を走る。
「剣」を具現化する直前だ。さやかの左の掌が開かれ発光する。
「それはゾクゾクしますね」
男はいつの間にか、さやかから数百メートル離れた場所へ移動していた。テレポーテーションだ。身体を抱きしめ、くねくねと身体を捩じらせる。
「だが、その前に、貴方はかつての同僚を殺さなければなりませんよ?」
待ち構えていたかのように、「高崎」だった魔獣が咆哮した。
オオオオオオ…オオオオオ
大柄な体躯を黒のスーツで包んだ「魔獣」。
まるで狼のような咆哮。さやかは顔をしかめ、対峙する。
「ガオアアアアアアアア」
口から唾液を撒き散らしながら、魔獣がさやかへ飛びかかってきた。
大柄な体躯が軽やかに飛ぶ。逡巡するさやか。
『ためらわず殺しなさい』
相方の艶のある声。
が、
「……くう…」
さやかの左手から光が消える。
天使は愚かだった。
「オオオオオオオオオ」
「高崎」が右手を繰り出し、さやかの顔面を殴りつける。野太い男の拳が若い女性の顔面にめりこみ、そしてものすごい勢いで、さやかの頭は後ろにのけぞった。飛び散る血。
ゴッ、ゴッ、ゴッ…
尋常じゃない力で殴打され続けるさやか。
痛覚遮断
痛覚遮断
痛覚遮断…!
激しい猛攻を繰り返す「高崎」を眼前に、さやかは痛覚を遮断し続ける。殴られ、飛び散る自分の血を見ながら、さやかは、彼が「生前」格闘家であったことを思い出す。魔獣としての力をうまく使いこなせないのか、まるで人間のように、さやかをただ殴り続ける。
「くう」
――殺せない、殺せない…!
かつて同僚である男をさやかは殺せないのだ、いまだ、手に掛ける決心がついていない。
美しい黒髪の相方の姿がさやかの脳裏に浮かぶ。心配してさやかを抱きしめた優しい悪魔のことを。
『もう、あんなのはごめんよ』
『魔獣はためらわず殺しなさい』
――ほむら…
顔が変形しかける頃、ようやく、さやかが反撃とばかりに右足で「高崎」の腹を蹴り、同時に横へ移動した。「高崎」の拳が壁へめり込む。が、甘かった。
「ガアアアアア」
「高崎」の壁にめりこんだ拳には、アスファルトの瓦礫が握られ、そのままその手は思いっきり半円を描くように振られ、そしてさやかの頭へヒットする。
ガツン、と不自然な大きな音が立ち、さやかはまるで電池の切れた人形のように、くるりと身体を回転させながら、地面へ倒れた。
* * * * *
震えるほむらの手にまどかの手が重なった。
「…まどか?」
ほむらの眼前には、まどかの優しい表情。10年経ってだいぶ大人びたその表情に、ほむらは見惚れた。
「大丈夫だよ、ほむらちゃん、さやかちゃんは消えたりしない」
「……どうして、そう言えるの?」
思わず、縋るようにほむらはまどかに聞いた。まるで昔結界の中で縋ったのと同じように。
「ほむらちゃんが、さやかちゃんが傍にいて欲しいって思い続ける限り、さやかちゃんはずっと傍にいるよ。だって…」
強くほむらの手をまどかは握る。
「さやかちゃんは、ほむらちゃんのこと好きだもの」
「嘘」
ほむらは驚く。蒼い髪の相方からそのような事を聞いたこともないし、そのようなそぶりも見たことがない。
ただ、お互いに「まどかを守る」という利害の一致で暮らしているものだとほむらは思っていた。
その割りには過度なスキンシップも日常で繰り返しているが、それについて…ほむらは自覚が無かった。
「嘘じゃないよ、二人の事は私がよく知ってる。だから、ほむらちゃんも、自分の気持ちに気付いて」
「自分の気持ち?」
ほむらは混乱した。彼女は自己分析がうまくできていない。彼女自身が自覚しているのは、「まどかを愛している」ただそれだけなのだ。
「……私はまどかを愛しているわ」
まどかは苦笑しながら、真っ直ぐにほむらのアメジストの瞳を覗きこむ。この10年で、彼女はだいぶ成長していた。
「そうじゃなくって…ほむらちゃんの気持ちは嬉しいよ、私もほむらちゃん好きだもの、でも、私はさやかちゃんのことも好き、みんな好き…だから」
「だから?」
「ほむらちゃんも、きちんと自分の気持ちに向き合って…そうしたらきっと」
「きっと?」
「さやかちゃんは消えたりしない」
まるで予言めいたまどかの台詞に、ほむらは戸惑う。
もしや円環の理の記憶が戻りかけているのだろうか?私が自分の気持ちに向き合うことで何に気付くというのだろう?ほむらの心に数多くの疑問符が生まれてくる。
だが、不思議とほむらの不安が消えていったのも確かだ。彼女の言葉は、いつでもほむらを勇気づけてくれる。ゆっくりと、まどかの手を握りかえすほむら。
「ありがとう…まどか」
と、ほむらが急に顔をしかめ首を抑えた。美しい友人の予想外の動作に驚くまどか。
「どうしたの?ほむらちゃん?」
「いえ…なんでもないわ…」
だが、明らかにほむらは動揺していた。抑えている首のあたりは、昨夜蒼い髪の相方が、お返しといわんばかりに噛んだ場所。
二人は――互いに相手に「跡」を残すことで、危険があれば意思疎通の代わりに「跡」に痛覚が走るようにしていた。
――あの人、まさか…
心配の反動からか、相方に殺意が湧いてくる。ほむらの表情が険しくなるのを、まどかはただ傍で心配そうに見ていた。
* * *
確か、刑事になりたての頃だったと思う。
死体を見て、私は泣いた。
『おい、おめえ仏見るの初めてじゃねえだろ』
何か答えようとした私は、結局言葉ではなく、嗚咽で上司に返答した。容赦なく、上司である初老の男の罵声が返ってくる。
『あほ、初めてじゃねえのに、なんで泣く?……少女…だからか?』
『………ちが』
私は首を振った。違う、そうじゃないと。
『……無惨な死…だからか?』
当たっていた、でも半分は違う。だが、うまく言葉に出来ない、声にならない。
『ったく、この阿呆が…』
ちっ、と舌打ちが聞こえて、そうして、私の頭は煙草の匂いで包まれた。がっちりとした初老の男の腕が私の頭を抑えたのだ。そのまま男の脇に、私はがっちりと頭を固められた。上司の腕で私の視界は遮られた。ただ、煙草の匂いと、上司の声しか聞こえない闇の世界。
ひどく安心した気分で、私は上司の腕を縋るように掴んだ。
『最初のうちはこうなるんだ、溜めこむな、馬鹿が』
『…しゅ…しゅにん…ごめ…な…』
洪水のように、私の目から、口から涙と、唾液と、そして嗚咽が流れた。
『…今だけだぞ、美樹』
そうして頭を乱暴に撫でられた。こんな風に父親に優しくされたことはあっただろうか?
『強くなるんだ…強くなれ、美樹』
『…すみ…ま…せん』
ああ、この人が父親だったなら、きっと私は――
『続くぞ…この苦しみは』
『……』
『これからはもっと苦しくなる、救いなんてない』
『……』
『一生、お前についてまわる、だから、全部飲み込めるくらい』
* * * * *
――――『強くなれ』
「!」
さやかの目が見開かれた。蒼い瞳に宿る強い光。
「ふはあっ…」
強く息を吐いて、さやかは立ち上がった。
「おや、意識を取り戻すとは、しぶといですね」
意外そうな表情を浮かべる白いスーツの男。だが、実はこの展開を待ち望んでいたのだろうか、次第に口元を緩めた。
「…主任」
さやかは今この場にはいない者を呼んだ。
――ありがとう、と心で呟きさやかは顔をあげる。
彼女の瞳にもう迷いは無かった。
「コオオオオオオオ」
「…高崎さん」
対峙するスーツ姿の二人。警察官であり、同僚、そして今は魔獣とそれを狩る者。大柄で無骨なシルエットと細身のシルエットが向き合う。
「高崎」だった男の赤い瞳
さやかの蒼い瞳
高崎だった男の大きな体躯が躍動してさやかに飛びかかるのと、さやかの左手から「剣」が具現化するのは同時だった。一瞬さやかが身体を後ろに逸らし、そして男よりも段違いに速いスピードで突進する。まるで一筋の蒼い閃光のように。
鈍い音を立てて、「魔獣」の背中から無常に光る剣が現れる。黒いスーツから飛び散る血しぶき。魔獣の胸にもたれかかるようにして、さやかは「高崎」を剣で貫いた。
「グアアア」
魔獣が咆哮した。
まるで噴水のように血しぶきがあがり、地面へと落ちる。
「ごめんなさい…」
右手で彼を抱きしめたいのだろうか、さやかの折れた右腕はゆらゆらと揺れて。
涙はとめどなく彼女の目から溢れていた。
「私も後で、そちらに逝きます…だから…だから」
嗚咽が漏れた。
――許してください
そうしてさやかは異国の言葉を囁いた。
さやかの剣が発光する。
断末魔の叫びをあげながら、「高崎」は燃え上がった。
中の魔獣を焼き尽くす。
『お前、いい刑事になるよ』
無骨だが、優しい同僚の顔。
内なる魔獣が焼き尽くされて、残るのはただ穏やかな死体のみ。
――もう何度も見た、もう何度も見たんだ!
さやかは自分に言い聞かせる。だが、無理だ、慣れるわけがない。泣きながら、さやかは剣を引き抜いた。
ずるり…と嫌な感触。
そうして、どさり、と音を立てて、仰向けに高崎の遺体は倒れた。表情を失くして、疲れ果てたように、さやかは高崎を見下ろす。
パチパチパチパチパチ…
乾いた、殺伐とした空間に拍手が響き渡る。
「素晴らしい!元同僚をようやく倒しましたね、コングラッチュレーション!」
白いスーツの男…畑山はさも嬉しそうに微笑み、さやかの後ろ姿に向かって両手を広げる。
「………」
ゆっくりとさやかは畑山の方へ振り返る。表情は欠落していた。
「おやまあ、ずいぶん殴られましたね」
フフフ、とさも楽しそうに笑う。さやかの右の頬が少し腫れていた。そうして瓦礫が直撃した頭は損傷したままで、血がどくどくと顔に流れていた。まるでゾンビ映画のやられ役だ。回復魔法を唱えながら、さやかはゆらゆらと男に向かって歩き出す。びちゃ…びちゃ…と足音が鳴る。
「おお、怖い、怖い、もしや私と戦うおつもりで?」
先ほどさやかは男を殺すと発言したはずなのに、このすっとぼけた反応に、とうとうさやかは声を発した。怒りが頂点まで達すると、うまく言葉が出ないらしい、まるで犬のようにオオオと吠えた。やけに発達した犬歯。怒りが彼女を別のものに変えていくようだ。面白そうにそれを見つめる畑山。
「あんたっ、は、…私がっ、殺…す、殺してやるわ!」
無表情から一変して、さやかの表情は怒りに満ちた。
まるで静電気が全身を走っているかのように、髪を逆立てながら、剣を具現化する。かつて魔法少女と言われていた時代、彼女の魔法は怒りに身をまかせてパワーを増強させるものが多かった。愚直な性質の彼女らしい、増強方法。それは諸刃の刃であり、当時のほむらの心配の種でもあったが、10年経った今も彼女の手法は変わっていなかった。
「おやおや、可愛らしいものですねえ」
細められる畑山の目。口元を舌で濡らす。
「…虫けらが」
かっ、と畑山の目が見開かれた。
その瞬間、さやかの身体がおもちゃのように吹き飛ぶ。
ドガン、と大きな音を立てて、ビルの壁にあたり、そしてそのまま見えない糸で引っ張られているかのように、さやかの身体は宙を舞い、あちらこちらの壁に激突する。その力は、先ほどの魔獣の比ではない。
口笛を吹きながら、まるで指揮棒を操っているかのように男は手を動かし、さやかの身体を好き放題壁にぶつけ続ける。そうしてとうとう大きな音を立てて壁が崩壊した。崩れた瓦礫の下敷きになるさやか。
「あらあら、全然手ごたえのない…つまらないですね」
煙を立てる瓦礫の山を見つめ、男はうすら笑いを浮かべる。が、次の瞬間、男の顔が強張った。
ガラ、と音を立て、瓦礫が崩れた。そうして、手が現れる。宙を彷徨い、しばらくして、しっかりと瓦礫を掴んだ。
「…ゴキブリ並みですか」
ヒュウ…ヒュウ…と口から風が漏れるような音を立てながら、さやかが瓦礫から現れた。脇腹に瓦礫に埋もれていた細い鉄の棒が突き刺さっていた。おそらくそれが「音」の原因だろう。
「戦えるわ…」
ぐはっ、と口から血を吐きながら、さやかが瓦礫の山の上で立ちあがる。
「私は、まだ戦える」
強い意志を秘めた蒼い瞳。
そうなのだ、私は戦わなければならないのだ。そうさやかは思った。かつて彼のために絶望の淵に追いやられた少女達のためにも。
「…本当に、貴方って人は…あの時に大人しく仲間に殺されていればよかったものを…」
額を抑え、畑山が呟くのと、さやかが飛びかかるのは同時だった。男の頭に剣を思い切り斬りつける。が、その剣は虚しく宙を斬り、代わりにさやかの首を男の手が捉えた。
「ぐう…」
男は右手でさやかの首を掴み、そのまま片腕で軽々と持ち上げる。さやかの足が宙に浮く。
圧倒的な力の差。万力で締めあげられたように、さやかの首がミシミシと音を立てて軋む。
「かはっ、かはあっ!」
まもなく窒息しかけるのだろう、さやかの顔が蒼白く変色し、口から舌が伸びてくる。
それをさも、愛おしげに見つめる畑山。
「死になさい、美樹さやか君」
轟音、そして閃光。
二人の間に閃光が落ち、さやかは畑山から切り離された。
どしゃ、と音を立てて倒れるさやか。
そして白いスーツの男は見えない風に飛ばされたかのように宙に浮き、さきほどのさやかと同じように、壁に激突する。
「かはっ、」
苦しそうに咳をしながら、さやかが目を開ける、と、更に大きく見開かれて驚愕の表情を浮かべた。
「何をしているの美樹さやか」
圧倒的な美貌がそこにあった。黒い羽根を大きく広げ、腕を組んでこちらを見下ろす悪魔。
「ほむら…」
ひゅう、ひゅうと息を漏らしてさやかは相方の名前を呼ぶ。
悪魔のアメジストの瞳はゆらゆらと怒りで揺れていた。ゆっくりと身を屈め、さやかの顔を見つめると、囁いた。
「馬鹿犬」
パアン!
乾いた音が響くと同時に、さやかの顔が勢いよく横を向く。口から血が飛び散った。ほむらがさやかの顔を平手で殴打したのだ。動揺するさやかに容赦なくほむらは殴打を続ける。
そうして、襟元を掴むと乱暴に顔を引き寄せ、口を塞いだ。
「…んっ」
乱暴で濃厚なキスを悪魔は天使に与える。しばらく顔の角度を変えながら悪魔は天使の口内を貪り、そうしてゆっくりと離した。血と唾液の橋が二人の口の間に生まれる。
「…あとでたっぷりとお仕置きしてあげるわ」
妖艶な笑みを浮かべ、ほむらはさやかを解放した。乱暴に手を離し、さやかはまた地面に倒れこむ。
「…おやおや、貴方さまがこんな虫けらとそのような関係だとは」
ほむらの背後から男の声がする。最初から察知していたのか、驚くことなくほむらは振り向いた。白いスーツの男がほむらの眼前に立っていた。もちろん無傷だ。ほむらは艶のある唇から舌を出し、ぺろりと口の周りについたさやかの血を舐める。
「…死んでもらうわよ、魔獣…」
「どうしてです?私は貴方さまに危害を加えるつもりはありませんが?」
心外だとでも言わんばかりに男が両手を広げる。嫌悪感を剥きだしにして悪魔が囁いた。
「私の「モノ」に手を出した報いを受けるがいいわ」
「おや…仕方ありませんねえ」
その余裕はどこからくるのか?男はこの世界の改変の主である悪魔に対して、恐れるそぶりも見せず、構えた。それを冷酷に見つめる悪魔。アメジストの瞳が血の色に変わる。
空の色が変わる、渦巻く大気。
悪魔の美しい黒髪が逆立つ。
「どこからでもかかってきなさいな…魔獣」
悪魔は不敵に笑った。