「――たまには普通にデートしよう」
「は?」
端麗な顔貌を疑念と
今日は晴天。自室で日がな二人で漫然と時間を過ごすというのも私は好きだが、折角の共通の休日なのだから、どこかへ出かけるという日があってもいいのではないか。
そう思って提案してみたのだが、私の予想に反して、葵の反応は芳しくなかった。
「こうやって二人で過ごすのも好きだけど、たまにはどこかに遊びに行くのもアリなんじゃないかと」
頭の中で繰り返していた追補を口にする。
すると葵は呆れたように溜め息を零し、こちらに向き直った。
「あのねぇ鞠那」
「うん」
「わたしが誰の為に部屋片付けてると思ってるわけ?」
言われるまで(意識的に)見ないようにしていた私の自室は、ここで初めて私の視界に飛び込んでくる。
ローテーブルの上ではジャンクフードやお菓子の食べかけが放置され、カーペットには栓の開けられたジャック・ダニエルが引っ繰り返って中身をぶち撒けていて、シングルベッドの傍らには毛布や脱ぎ散らかされた衣服が散乱し、シーツの真ん中には何やら液体(凡その見当はつくが)の沁みが残っていた。
有り体に言うと、目も当てられぬ惨憺たる光景が広がっていた。
「……いや、私のせいとは限らないし」
「ほらやっぱり憶えてない」
葵が嘆息混じりに自らのスウェットの襟をぐいと下に引っ張る。
彼女の首元や鎖骨の辺りには、無数の吸引性皮下出血、要するにキスマークが
「昨夜大変だったんだけど」
「……えーっと」
酒にはそれなりに強いと自負していたが、どうやら私は、ホラー映画鑑賞大会と称して彼女を誘い、『ミスト』や『エルム街の悪夢』を見終えた辺りからすっぽりと記憶を無くしてしまっているようだった。ちなみにクエンティンのケツアゴが気になって劇中の内容はあまり憶えていないし、そういえば頭ががんがんと早鐘を打つように痛かった。
「私、何か変なこと言ってないよね?」
「それは教えない」
「うわー、怖えー……」
別段葵に対する好意を秘匿しているわけでもないので、看過すべからざる失言などはないだろうが、彼女の首元の痕から鑑みるに、昨夜は
「鞠那の部屋なんだから、このクソ汚れたままで平気だって言うならわたしは別にいいけど」
葵の口から「クソ」という悪罵が出てきたのに少し胸を高鳴らせる。
私だって機嫌が悪い時はもっと口汚いが、普段対象が取り巻くイメージのせいだろうか、清廉な彼女が口にしたそれは格別の文句だった。
大きく開いた二重の瞼やライトブラウンのショートボブが彼女に温和な印象を齎すが、それは本質たりえず、私の前でだけ露わになるピアスのようであった。
無論彼女のそのピアスを知っているのは私のみにあらず、知る限りもう一人いるのだが、そこはまぁいいだろう。
「……いや、片付けます。手伝ってください」
こちらとしては、一緒に部屋で過ごすのも外へ出かけるのも甲乙つけがたい値千金、だったのだが。
(アオちゃん帰った後にこれを独りで片付けるのは、面倒臭いし)
恐らくこれら惨状の主たる原因は昨夜の酩酊した私自身にあるのだろうが、身も蓋もないことを言うと、私は彼女を巻き添えにしたのだった。
一時間かかった。
記憶を失くすほど呑んで昼前に自然と目が覚めたのは殆ど奇跡と言って差し支えなかったが、散乱したゴミを片付けてそれなりの体裁を取り戻す頃には、既に日輪は中天に座していた。
「――さて、わたしに何か言うことは?」
「恩に着るぜ」
「言い方が気に入らないんだけど」
「まぁまぁ」
ともあれ、念願叶って私達はカラオケに来ていた。私も彼女も、スイーツ(笑)とかアフタヌーンティー(笑)とかそういう性分でもなかったし、ショッピングと洒落込むにしても互いの嗜好には隔たりがあったし、街中をぶらつくこと数十分、最終的に目についたカラオケに吸い込まれるのは当然と言えば当然だった。
宛のない外出はカラオケに帰結する、と記銘するが、多分三日で忘れるだろう。
「よーし何歌おっかな。あ、採点入れる?」
「どっちでもいい」
「じゃあ入れよ。何か食べる? やっぱポテト?」
「ん」
「ん」
ここに来るとやはりテンションが上がる。大声で歌うというのはカロリーも消費するし、何よりストレスの発散に
注文した山盛りフライドポテトも届き、端末に歌いたい曲を交互に入力し、私はマイクを手に取る。
1曲目は、私のBUMP OF CHICKEN『才悩人応援歌』。2曲目は、葵のHY『366日』。3曲目、My Chemical Romance『Welcome to the Black Parade』。4曲目、ずっと真夜中でいいのに。『ミラーチューン』。UNISON SQUARE GARDEN『シャンデリア・ワルツ』。Janne Da Arc『マリアの爪痕』。Linkin Park『Breaking the Habit』。相川七瀬『トラブルメイカー』。Neru『アブストラクト・ナンセンス』。164『天ノ弱』。須田景凪『雨とペトラ』。Eve『ドラマツルギー』。amazarashi『バケモノ』。Lady Gaga『Bad Romance』。Papa Roach『Forever』。9mm Parabellum Bullet『ハートに火をつけて』。SiM『A』。東京事変『電波通信』。
さて、結構長い時間歌っていたので私達は一旦休憩の時間とすることにした。
絶えることなく歌詞を流し続けていたTVの画面では、バンドやアイドルが代わる代わる新譜の発表と宣伝を繰り返していた。
私はソファに横になってスマホでSNSを眺めたり、プレイリストから次に歌う曲の候補を探したりしていた。他方葵は、私の分のドリンクを入れに行ってくれたり、お手洗いに行ったりと、何かと忙しなく動き回っていた。
「――アオちゃんはあんまりカラオケ来ないんだっけ」
「うんまぁ、好きじゃないから、かな」
そんな葵も漸く腰を落ち着け、脚を組んでアイスコーヒーの砂糖とミルクを掻き混ぜている中、なんとなく訊いてみた。
葵はグラス片手にスマホへ落とした眼差しをまんじりともさせず、やや歯切れの悪い答えを寄越してきた。
(……睫毛長いなぁ)
その横顔を
「訊いといて会話広げる気ナシかよ」
こちらをちらりと一瞥する葵。すぐさま視線が手元のスマホに戻るが、意識はそのまま幾分かこちらに割かれているようだった。
「あぁごめん。好きじゃないなら、掘り下げるのも違うかなって」
「確かにそうは言ったけど」
「でもカラオケ好きじゃない割には、結構色々曲知ってるよね」
少なくとも、ある程度の好みや選曲の傾向を私に合わせられる程度には、音楽に関して造詣があるよう見受けられた。私自身音楽などの嗜好に関してはそれなりに偏屈なところがあるのは自覚しているが、それに追随できるのは流石と言う他ないだろう(断じて私が他の人とカラオケに行くと選曲面で浮いてしまうということではない)。
「そりゃわたしだって聴くのも歌うのも好きだし。聴くのはまだしも、歌うのは音痴の人じゃなければ大体皆そうでしょ」
私は頷いた。特に私は学生時代バンドをやっていたというのもあり、人前で歌ったり演奏したりすること自体には全く抵抗がなかった。担当していたのはベースだったが。
「……でも歌が上手くても歌うのが好きじゃない人はいるかもしれないよ。子供の頃めっちゃ練習させられたとか」
「重箱の隅をつつくようなことを言うんじゃない。白いカラスの証明じゃあるまいし」
「なにそれ?」
「あー、説明めんどい。それくらいググれ」
言われるがまま、彼女が口にしたそのままの言葉で検索してみる。
「へー、『取るに足らない部分ばかり気にして、難癖をつけること』だって。物知りだね、アオちゃん」
「重箱の方かい」
そんな中、ふと、彼女のスマホの画面が目に入る。何やらトークアプリの返信をしていたらしく、私はそこに男の名前があるのを見逃さなかった。
その名前を目にした時、私の中にむわりと煙のように立ち上る何かが現れた。
(……いつものやつだ)
それを無視することは容易だった。というより、平時ならば常にそうしていた。節制でも自律でも呼び名は何でもよかった。ただその名を冠するほど高尚なものではなかった。かといって卑欲や本能ほど、ある意味では澄んでもいなかった。
方法は単純だ。余計なことを考えず、他のことに気持ちを向ければいい。何でもいい。今夜の食事を考えてもいいし、煙草に火を点けてもいい。或いは、眠ってしまうのが一番いいかもしれない。
けれど私はそうはしなかった。
生憎ここは密室で、薄暗くて、私と葵の二人だけだ。
最早、内に湧き出たその
「…………」
グラスをテーブルに置くと、中の氷がからんと音を立てる。スマホも同じように置く。習慣によって為せる業か、
対面に座る私が腰を上げるのを彼女は視界の端に捉えていただろうが、お手洗いに行くとでも思ったのか、特に意に介していないようだった。
その私が彼女の傍を通り抜けて扉のノブに手をかけることなく、自らの隣に立ったところで、彼女は漸く画面から私に顔を向けた。
「なに?」
怪訝に眉を
それに言葉で答えることはせず、或いは沈黙こそが答えだったのか、片脚を彼女の両腿の間に差し込み、ソファに膝を立てる。金木犀の香り漂うライトブラウンの髪を
彼女のスマホをそっと奪い、テーブルに伏せる。ヘリックスの複数開いた耳を甘く
例によって両者間の暗黙律が、
「ちょ……ここでヤる気?」
今更何を言われたところでやめるつもりはなかったし、そもそもやめられなかった。
渦巻く執着と妄念の帰結が、自らの身体を
「マジで? やめてよーもうこんなとこで」
ソファの
得られるはずの充足感は、清風のように吹き抜けることはなく、曇り淀んだ心中を晴らすに能わなかった。
「ねぇ……やめてってば…………」
弱々しく放たれる拒絶の意思も、今や私にとってはあまりに脆くか細く、手折るに難くない。
「やめて…………まりな……」
そんなはずはない。何かの間違いだ。
駄々を
噛みつくといっても、初めは歯が触れる程度のものだった。だが、自らの内に積もる
「痛いって………………ねぇ……」
いくら彼女の骨が細かろうと私の咬合程度でどうにかなるものではなかったが、それでも皮膚或いは皮下組織を傷つけてしまったらしく、口を離すと歯列に沿って赤い痕が残っていた。
その咬創に舌を這わせ、そこから首の根元に再び噛みつく。
皮と肉の感触がした。彼女の身動ぎに応じて、皮の下の筋肉が蠢くのが分かった。
彼女を傷つけたいわけではない。彼女を怯えさせたいわけでもない。
けれど、ある種純粋な内なる声が私を導いて、こっちこっちと手招きをしているようだった。その声は内から出でたものであり、耳を塞ぐことはできない。私の身体を奪い取って、白昼夢に浸している。私は
何故彼女の首筋に噛みつくことを選んだのか、私自身にすら判然としない。だがきっと、これが取りうる中での最善手であり、さもなくばもっと深く強く彼女を傷つけてしまう可能性があるだろう。
胸の奥に
そのまま指同士を絡ませ、ブラウスの下から手を差し入れる。
「――やめてってば!」
鋭い叫び声が室内を
しかしジュースとクーラーの風で身体が冷えてしまうのも、テーブルにぶつけた腰がずきずきと痛むのも、床に落ちたスマホが固い音を立てるのも、
葵は、息を荒らげたままこちらを見下ろしていて、その瞳が私の中の異物を塗り潰した。
茫然とへたり込んだままで動けない私を罵るでもなく、葵は身なりを整え、床に落ちたスマホを拾い、ショルダーバッグを引っ掴んで立ち上がった。
「――――っ」
その後私をちらりと
テレビ画面では、相も変わらず新曲のデモ映像が流れ続けている。
押されたわけでもぶつけたわけでもない胸が、痛いくらいに早鐘を打ってその鼓動を