※この作品はR-18です。

雪の雫/盈虧燻発   作:水ようかん -Mzyukn-

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間違い
盈虧1日目


 

 アパートの隣室から、しばしば怒罵と啼(てい)泣(きゅう)を聞く。

 わざわざ詮索するつもりもないが、どうやら、そこは若い男と女の愛の巣だったようだ。

 

 だった。

 

 今や燃えるように情熱的な愛はそこになく、苛虐渦巻く魔窟と化している。

 

 しかしまぁだからといって、私自身がどうこうするつもりはない。

 特段親しいわけでもない人間の内情にずかずかと踏み入り、己の独断で他人を裁量することを、私は好いていなかった。

 それはそれとして、これ以上騒音が続いて安眠を妨げるようなことがあれば、然るべき手段を取らせてもらうつもりではあるが。

 

 つまるところ、私は私の利益となるところか、権利を害されるところの範囲でしか、事の可否を判断していないのだった。

 

 一頻り隣室の怒鳴り声が止み、しんとした空気が取り戻されると、私はベランダに干してあった衣類を乱雑に籠に放り込み、秋の夜空を眺めながら煙草に火を点けた。

 秋の星空と言えば、やはり代表的なのはペガスス座を構成する秋の大四辺形だろう。

 南南西の方角に浮かぶ四つの二等星は、仄明るい街の光の中にあってもなお容易に見つけることができる。

「えっと、あれがα星マルカブ、β星シェアト、γ星の……」

 

「――アルゲニブ」

 

「そう、アルゲニブだ。……うん?」

 

 声のした左方を見遣ると、ベランダのパーテーションの向こうで、私と同じように煙草を銜(くわ)えた女が空を見上げていた。

 その顔には、薄暗いベランダでも見て取れる数と大きさの痣や擦り傷が散見され、その生々しさと痛々しさに思わず目を奪われてしまう。

 しかしかといって、何故かその女に対して悲哀や憐憫といった感情を抱くことはなく(突然声をかけられたことへの驚(きょう)駭(がい)もなかったわけではなかったが)、諸処の青黒い肌を凝視することに特段の躊躇はなかった。

 上からの月光よりも下からの街明かりに朧に照らし出されたその横顔は――おそらく肌寒さによるものではないだろう――幾(いく)許(ばく)か自らの胸を締めつけた。

 

 女はふうと煙を吐くと、徐(おもむろ)に栗色の髪を掻き揚げて耳を露わにする。彼女自身の趣味か或いは同棲する男の指示によるものか、ひい、ふう、みい、その右耳には、イヤーロブ一つ、ヘリックス二つ、インダストリアル一つ、トラガス一つ、計五つのピアスが開いており、それらは時折銀色に煌めく。こちらからは窺い知れないが、おそらく左耳も同様だろう。

 私自身、ピアスは左右のイヤーロブに一つずつしか開けていないので、「開ける時痛かったのかな」「なんかごちゃごちゃしてるな」の他に特に思うところはなかったが。

 私と彼女が隣人となって数ヶ月経つが、こうして相手の顔をじっくりと観察するのは、実のところ今回が初めてのことであった。

 

「――星、好きなの?」

 

 どれほどの間彼女の横顔を見つめていたのか、次句にはっとする(この時既に、手の中の煙草は三分の一ほどが灰と化していた)。

 

「ま、まぁ、昔ちょっと、ね」

 

 やや上ずった調子で答える。

 こちらに疚(やま)しいことはないのだが、なんとなくこれ以上彼女を視界に納めるのが憚られ、彼女と同じようにして秋の星空に目を移した。

 

 私の返答が悪かったのか、彼女は特に何かを言うでもなく、ちりちりと煙草が燃える音と、その煙を吐く音だけが、両者の間にあった。

 眼下の街並みは、徐々にその明かりの数を減らし、薄群青色の帳を広げつつあった。

 

「…………いつもうるさいでしょ、ごめんね」

 

 再び静寂を破る声に、私は殆(ほとん)ど燃え尽きかけていた煙草から口を離した。

 

「あぁ、まぁ、特に気にしてない――ッスよ」

 

 先程まで、いざとなれば文句の一つでも言ってやろうかと意気込んでいた私だったが、こうやって面と向かって話をするとなると、威勢のよさはとうに鳴りを潜め、当たり障りのない言葉を返すに留まっていた。

 結局どうやら私という人間は、如何に自分に正当性があると考えていようと、他人に苦言を呈するという能動的行動を厭う嫌いがあるのだった。どころか、恐らく同年代であろう相手に、取って付けたような敬語を使い始める始末だった。

 

「あいつ、普段は優しいんだけど、時々ああやって荒れる時があるからさ」

 

「…………」

 

 これはあれだ、典型的なDV男と「この人には私しかいない」系勘違い女だろう。勝手に共依存している分にはこちらからどうこう言うつもりは毛頭ない。

 

 とはいえ、一度こうして顔を合わせたのだから、今後は多少静かになってくれることを願う。

 或いは、騒ぎを起こしているのはこの女ではなく男の方なので、どうにもならないかもしれないが。

 だとすると、どちらかが部屋を出ない限りこの問題は解決しないのかもしれない。私のこの苦悩は永劫溶けることはなく、隣人の騒音に悩まされ続けるのだろうか。

 

「――あんたさ」

 

 そう思うと、私は段々腹が立ってきて、普段なら決して口にしないであろう、赤の他人への諌(かん)言(げん)を口にしていた。

 

「恋人同士なんだったら、そんな関係は間違ってると思うよ」

 

 少し彼女が目を丸くするのが見える。

 だが一度言ってしまったものはもう引っ込められない。

 他人の事情にずかずかと踏み入るのをよしとしないはずの私が、半ば己の意思に反して、堰を切ったように文句を垂れ流していた。それは老婆心とは程遠い、単なる利己と独善の吐露であった。

 

「どういう事情と経緯があってそんなことになってんのか知らないけどさ、嫌なら逃げたっていいと思う」

 

 今日初めて顔を合わせ言葉を交わした程度の人間に突然説教を食らうのは、あまりいい気分ではないだろう。

 だが私にだって堪忍の限界はある。自分が我慢したのだから相手も我慢すべきだ、という観念を支持するわけではないが、これくらいは言ったって罰は当たらないだろう。

 そうした私のエゴによって放たれたこの諌言が、実際彼女にどのように受け取られたのかは推量の域を出ないが、何言かを発しようとしては躊躇うように口を噤み、かと思えばまたもごもごと唇を蠢かせている辺り、どうやら譫(せん)語(ご)や徒(あだ)言(ごと)とはなりえなかったらしかった。

 

「……あなた――」

 

 待ちかねたというわけではなかったが(彼女の言葉を待つ間に私は二本目に火を点けていた)、漸く返答が発せられようとしていた。

 

 が、その続きを聞くことはできなかった。

 

 隣室から、つまり彼女の部屋の中から、再び怒号と罵声が響いたからだった。

 それに肩をびくりと震わせると、彼女は慌てて部屋の中へ戻ってしまった。

 

「…………」

 

 どうにも尻切れ蜻蛉の感が拭えないが、まぁ、彼女もこうしてベランダで煙草を吸うのであれば、また会って話をすることもあるだろう、そう思うことにした。

 

 普段チェインスモーキングをしないのに火を点けてしまった二本目の所在を考え倦(あぐ)ねながら、私は綺羅星の穹(きゅう)天(てん)を見上げたのだった。

 

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