「銀子様……!」
長い金の髪を、頭の高い位置で結んでいるスーツ姿の見目麗しい女性……いや、男性へと手を振り、駆けていく桜。
彼女に『銀子』と呼ばれた男性は微笑み、手を振り返した。
「約束の時間にはまだ早いわ。そんなに急いでこなくても良かったのに」
「銀子様こそ」
「私はちょっとこの辺で用事があってね。それで早くに来ていたの」
「そうでしたか」
ニコニコと、ご機嫌な様子で改めて自分の恋人を見詰める桜。
以前は葛葉ライドウと名乗っていた彼──銀子とは、前の世でそう長くはない時間、共に過ごした仲だ。
その時には悲恋で終わり、約二ヶ月前に再会した時、彼は『今世ではもっとたくさん、恋人としての時間を過ごしましょう』と言ってくれた。
以降、二人は時々会って一緒に食事をしたり、映画を観たり、買い物をしたりする仲だ。
「さて、じゃあそろそろ行きましょうか」
「はい」
銀子は行きつけのイタリアンレストランに入り、二人でシェア出来る料理をいくつか頼んだ。桜に自分で選ばせると、彼女は遠慮して安いものしか頼まないからだ。
クラブ・クレティシャスのオーナーであり、葛葉一族のお目付役であり、とある裏組織やサマナーによる世界的ネットワークの監視役でありと、三足の草鞋を履いている彼はそれなりに金を持っているのだが、桜は人に物を貰ったり奢って貰うことを苦手としているようで、プレゼントを渡したり、食事を奢ったりすると、必ず後日それ相応の何かを返してくるため、銀子は極力金を使うことを控えている。
(それならいっそ、家に招いて私が何か作ればいいんでしょうけど……)
ともあれ会話に花を咲かせながら、楽しく食事を終えたあと店を出る。
「雪さん、どこか行きたいところはある?」
彼が今世の"桜"ではなく前世の"雪"と呼ぶのは──『ライドウは通り名なだけで名前ではないし、今は見た目が女性なので銀子と呼んで欲しい』と言った際、桜のほうは『雪で』と言ったからだ。
ついでに言えばその時に、銀子は『一人称も今の世で慣れ親しんだものに変えてはどうか』と提案した。以降、桜は『わたくし』ではなく『私』と言うようになった。
「公園を少し歩きませんか?」
銀子は『いいわね』と頷いて、駅から程近い、海沿いの公園へと足を向けた。
* * *
まだ夜の8時前なので、そこそこ人が多いが、公園はかなりの広さがあるため、そう気にはならない。
「潮風が気持ちいいですね。走りたくなる」
「そう言えば朝、走ってると言ってたわよね」
「ええ、ここでよく走ってますよ。ジムから近いので」
総合格闘技を習っている桜は早朝ジョギングを終えて、ジムでシャワーを浴びてから学校に行くことが多い。
「あら、そうだったの。この辺に私、部屋を借りてるのよ」
「そうでしたか。ならもしかすると、会ったことがあるかも」
銀子は若きサマナー達に部屋を提供したり、悪魔絡みの事件で人を匿うことが多々あるため、いくつか物件を持っている。その一つが今話した通りこの近くにあるのだが、桜がこの公園でよく走っているのなら、そこに暫し腰を据えても良いかもしれないと思った。
(とは言え、部屋で二人きりになるのはねぇ……)
ちら、と桜を盗み見る銀子。前の世では背が高く、肉感的であった彼女は今世では身体を鍛えているせいか手足がすらりと細くなっており、かつ洋服は着物のように胸を抑え付けはしないため、豊かな乳房が全く隠せていない。
(特に今日なんて……)
デートだからか、ミニ丈のキャミソールにミニのタイトスカート。その上にシアーシャツを羽織るといった装いで、明らかに露出過多だ。臍までは見えないが、腰や腹部がチラリと見えている。
顔も25歳であった前世より幼くはあるが、やや垂れ目気味の色気のある面差しで、今日は化粧を施しているぶん、余計に艶っぽく見える。
それに人を惑わす、芳香異体。熱を発すると、余計に強く沙棗花の匂いが香る。
──その全てが男の欲をそそるものだ。だから困る。
約100年振りに再会した日は流れというか、勢いで抱いてしまったが、二度目に会った時、彼女は制服を着ていたので、未成年であるという事実を嫌と言うほど突き付けられて、それから銀子は自重するようになった。
(雪さんが、18歳になるまでは……)
100年待ったのだ。あと十ヶ月など、瞬きの一瞬に過ぎないと。そう思うことでやり過ごそうとする銀子。だが部屋で二人きりになったりしたら……理性を保てる自信がない。
(歳を取っても男は男よね……)
『ふぅ……』と息を吐く銀子の顔を、桜は覗き込んだ。
「銀子様、どうなさったんですか? どこか具合でも?」
「……え? いえ、何でもないのよ。大丈夫……」
ジッと、瑠璃色を帯びた瞳に見詰められると弱い。銀子はすっと静かに彼女から目を逸らし、話題を変えた。……と言うより、逃げた。
「そろそろ遅いし、もう帰りましょうか」
「……そうですね。そうしましょう」
「家まで送るわ」
「いえ、大丈夫です。銀子様こそお気を付けて。それでは、ご馳走様でした」
丁寧にお辞儀をした後、駆けて行く桜。
「あっ、……」
切り出し方が不自然すぎて傷付けたかと思ったが、ここで追い駆ければまた済し崩し的に身体を重ねてしまうからと、銀子は彼女の背へと伸ばし掛けた手を、躊躇いがちに、そっと下ろした。
* * *
「こんばんは、今日って忙しいですか?」
銀子と別れ、バイト先である居酒屋に顔を出した桜。すぐに同僚やマスターから『忙しい!』と声が返ってくる。
「じゃあ、今から入ってもいいですか?」
「え? 水月ちゃん、いいのかい? 今日って何か、約束があったんじゃ……」
「マスター、言うなって。あの格好で分かるだろ? デートだったんだよ。で、振られたからここに来たってわけ」
「……田口、あんた最近寝不足だって言ってたよね? 私が今すぐ寝かせてあげようか?」
眉を寄せ、腕で首をロックする仕草をする桜を見て、田口と呼ばれた少年は慌ててマスターの後ろに隠れた。
「バ、バカ! お前……素人相手にチョークかけようとすんなよ!」
「チョークじゃなくてスリーパーホールドだよ」
「どっちも同じだ!」
「違うんだけど」
などと遣り合う合間に桜は店のエプロンを付け、伝票をチェックし、酒を作っている。
「マスター、これ3番テーブルに持って行きますね……って、あら? 新しい子が入ったんですか?」
お盆の上にビール瓶を乗せて、オロオロとする少女に目がいき、マスターに尋ねかける桜。マスターは『今日からだよ』と頷いた。
「よろしくね。分からないことがあれば、何でも聞いて」
「あ、ありがとうございます! その、あの……すみません! さっそくなのですがこれ……どこに持って行けばいいのか分からなくなっちゃって……」
「伝票は?」
「ご、ごめんなさい! 付けるの忘れました……!」
少女は今日がバイト初日なせいか必要以上に委縮している状態で、その上、失敗に失敗を重ねてしまい、『もうどうしていいか分からない』と涙目になっている。
「大丈夫よ、それ貸して。で、あなたはこれ、3番テーブルに持っていって」
桜は少女とお盆を交換し、1番テーブルから順にビールのオーダーについて聞いて回った。
「すみません! ビールですが、注文分ちゃんと来ていますか?」
「頼んでないよ。タダでくれるなら貰っちゃうけど!」
「えー。これお客さんに奢ったら、ただでさえここお給料少ないのに、苦しくなっちゃいます」
「うちそんなに時給安い!?」
桜とマスターとの掛け合いで、幸い客達は笑ってくれて、不快にさせることなくオーダーした人物を見付けることが出来た。
「お姉さん、それ多分こっちー」
「お客さん! 良かったです、見付かって。……あ、ぬるくなってしまったので冷たいものをお持ちしますね」
余所行きの笑顔で桜はビールを取り換え、事なきを得た。
「あ、ありがとうございます……!」
厨房に戻ると先程の少女が、ギュッと手を握り締めてきた。
「お礼なんて言う必要ないよ。バイト同士、助け合お」
少女が未だ泣きそうな顔をしているので、肩を優しくぽんぽんと叩いて励ますと──
「あ……あの、さっき田口さんが言ってたことってホントですか……?」
ぼそりと小さな声でそう聞いてきた。
「さっきのって? デートとか、振られたとかっていうやつ?」
「はい……」
「それなら、デートは本当。振られたのは違う、かな……?」
苦笑し、曖昧に返したその言葉に少女は、『私、立候補してもいいですか?』と言ってきた。
* * *
「……はぁ」
バイトが終わり、深い溜息を吐く桜。バイトの新人である少女には上手く言って交わしたが、相手の好意を受け入れられないということは、多少なりともストレスだ。『申し訳ない』との思いが募る。例えそれが憧れとか、一過性の想いであったとしても。
「……ジムに寄って帰ろうかな」
サンドバッグを叩けば気が晴れるかもしれないと、足が向きかけたところで電話の呼び出し音が鳴る。
画面を見ると、桜が人探しを依頼していた探偵事務所の名前が記されていた。
「はい」
「水月さん。お探しの人、ようやく見付かりましたよ」
「……えっ、本当ですか!?」
「はい。手の甲に、悪魔のタトゥーがある男でしたよね? 今、タトゥーの画像を送るんで確認願います」
言われて少し待つと、スマホに画像が送られてきて、そこには"あの日"、脳裏に焼き付いた悪魔の顔が映っていた。
「……見ました。こいつで間違いありません」
「良かった。ではこの男、岩城の素性をお伝えします」
探偵は男の名前と年齢、住所と電話番号。それと彼の職業を桜に伝えた。
「援デリの打ち子……?」
「ええ。彼は人に恨まれることが多いせいか、あまり家から出ないんですけど、援デリのキャストになりたいと言えば比較的簡単に会えると思いますよ」
そう言って探偵は、男との連絡手段を教えてくれた。彼は『これで依頼は終了』と思ったことだろう。だが、桜は引き続き仕事を頼んだ。
「……その男の交友関係を洗って下さい。出来れば恋人とかセフレとか、親しい人」
「分かりました。また連絡します」
「入金しておきますので、お願いします」
会話を終えた桜は、スマホを握り締め──
「ようやく見付けた。……必ず殺してやるから、待ってなさい」
にっこりとした笑みを浮かべて、月明かりの下、踊るような足取りで家へと帰って行った。