「里花」
調理室から出てきた妹に桜が手を振ると、彼女は喜色満面の笑みを浮かべて駆けてきた。
「お姉ちゃん……!」
「お疲れ様。今日の部活はどうだった? 楽しかった?」
「うん、今日はパウンドケーキを作ったの。お姉ちゃんの好きなサツマイモを入れたから、良かったら食べてね」
「ほんと? 嬉しいなぁ……ありがとう」
サツマイモ──もっと正確に言うなら大学芋を好物としているのは銀子なのだが、彼が好きということで、桜は自分も好きになったようであった。
(まぁ、あの人も……今も好きかどうかは分からないけど……)
銀子は、ライドウであった時よりずいぶん変わってしまった。故に食の好みだって、もう昔とは違うかもしれない。
(……そもそも、私だって……あの頃とは全然違う。"穢い"って、嫌われたって仕方がない……)
「お姉ちゃん……」
小さな声で呼び掛けながら、姉へと抱きついていく里花。
「……え?」
深く考え込みそうになったところで、里花のぬくもりを感じて、桜はふと意識を取り戻した。
「何だかツラそうに見えて……。ねぇ、大丈夫……?」
心配げに眉を下げて尋ねてくる里花の頭を優しく撫でて、桜は『平気だよ』と笑みを返した。
「なら良かったけど……でも無理はしないでね?」
「ありがとう、里花。じゃあ、帰ろうか」
「うん」
ふわりと笑んで、そっと手を繋いでくる妹のことを桜は、天使だと思っている。
(あの時、里花が私のことを護ってくれたから……だから今、私はこうしていられるんだわ……)
──里花に取って、生涯忘れることのない痛み。その痛みが少しでも緩和されますようにと祈りながら桜は、彼女を家へと連れて帰った。
* * *
「お姉ちゃん、今日もジムに行っちゃうの?」
「今日も何も、ほぼ毎日行ってるでしょ?」
『そうだけどぉ』とむくれる里花の頬を、桜は優しくむにる。
「里花も来たらいいじゃない。見学だけでもOKだよ?」
「……やだ、男の人……いっぱいいるから……」
「……そうか、ごめん」
怯えて顔を俯かせる里花を、そっと抱き締める桜。
「大丈夫だよ。今度は私が里花を護るから……」
「お姉ちゃん……ありがとう……」
「こちらこそだよ……」
抱き締める腕に力を込めて、妹のつむじにそっと口付ける。
「……唇がいい」
「……なら、顔を上げて」
「ん……」
桜の言葉に応じて、彼女を仰ぎ見るように顔を上げた里花。その唇に、桜は軽く口付ける。
「あ……んぅ、……」
里花の口から、うっとりとした声が漏れる。
「……ふふ、里花は甘えん坊さんだね」
「お姉ちゃんに対してだけだもん」
その言葉は真実で、酷く人見知りする里花は誰かに甘える以前にマトモに話もしない。それは恐らく、"あの日"の出来事が心の傷になっているせいだと思うが……ならば余計に自分は強くならなきゃいけないと、決意を漲らせる桜。
「それでいいよ、今はね。でもお姉ちゃん、里花がもう怖い思いをせずに済むよう、頑張るからね」
そう言って微笑み、里花の頬を撫でたあと、桜はジムへと向かった。
* * *
「こんばんは、師匠」
幼い頃から通っているMMA(総合格闘技)ジムの扉を潜り、金色の髪の選手へと頭を下げる桜。
彼はこのジムのオーナーかつ、桜の指導者で、日本での就労資格を持つ外国人だ。日本での生活が長く、言葉に不自由はない。
「こんばんは、桜。今日はどうしますか? スパー? ウエイト?」
「そうですね……えっと――……」
話しながら、ジム内を見回す桜。今日は割り合い人が多くいるようだ。
「生徒さん結構来てらっしゃいますし、私ミットを持ちますよ」
桜はロバート・リベラという選手に弟子入りしてもう長く、そして無料でジムに通わせてもらっているため、出来うる限り彼の手伝いをしている。
「ありがとうございます。ですがそれには及びません。今日の生徒さん達は男性ばかりで、希望はグラップリング。私が相手します」
ロバートは桜が抱えている"トラウマ"を知る数少ない人物で、彼女が異性に強い拒否感を抱いていることを理解しているため、申し出を断った。
「師匠……」
「桜は己を鍛えて下さい。あなたには使命がある。そうでしたね?」
「……ありがとうございます」
桜はロバートの気遣いに心から感謝し、深く頭を下げた。
* * *
「ん-、すっきりした……!」
ひとしきりジムで身体を動かし、伸びをする桜。
シャワーも済ませ、これからはまたバイトの時間だ。
「さて。じゃあ、行ってきます。師匠」
「はい、行ってらっしゃい。桜、頑張って」
桜は師匠に礼をし、生徒達には手を振って、ジムを後にした。
それから程なくして、バイト先へと辿り着く。
「こんばんは、マスター。入りますね」
「おお、連日お疲れ。水月ちゃん。今お客さん少ないし、先に賄い食べちゃう?」
「ありがとうございます、いただきます」
桜は自身の雇い主である居酒屋のマスターが賄いにと用意してくれた海鮮丼を受け取り、バックヤードへと移った。
「お。今日はデートじゃないんだな」
昨日、休日を返上して働きにきた桜のことを『恋人に振られた』とからかった田口という少年が、彼女の普段の服装──Tシャツにスキニーといったカジュアルな格好を見てそう言った。
「まぁね」
「ってことは、やっぱ振られたわけか」
「何でよ」
「だってまだ付き合ってるなら、今日また会ってるはずだろ? 仲直りするためにさ」
「…………」
「だんまりってことは図星」
「うるさい」
桜はピシャリと田口を跳ね除け、早々に食事を終えてフロアに出ようとした。
「早ッ。真面目かよ。もっとゆっくりして行けばいいのに」
「あんたこそ、しっかり働きなさい。店に迷惑かけないの」
眉を寄せ、田口の頬を抓り上げる桜。充分加減はしているが、田口が大袈裟に『いてて……!』と叫んでいると、部屋の扉が開き、安積美弥──放課後の校舎で抱き合った相手が中へと入ってきた。
「こんばんは……って、どうしたの? 二人共」
「ちょっと指導かな」
「何が指導だ! 純粋に暴力だろ!」
「うるさい」
「……水月さん」
「何?」
「田口くんと、仲いいのね」
「やめてよ」
吐き捨てるように言い、田口から手を離す桜。そんな彼女の不機嫌な面持ちを見て、美弥は嬉しげに微笑んだ。
「私の勘違いならいいの。……行きましょ、水月さん」
桜の手を取り、部屋を出る美弥。彼女は閉店時間になるまでずっと桜にべったりであった。
* * *
「お疲れ様」
バイトを終えて、店を出る桜。その後を美弥が慌てて付いて行く。
「水月さん、このあと良かったらカラオケでも行かない?」
「なに言ってるの。明日も学校だよ? もう遅いし、早く帰りなさい」
「分かってるけど、でも……もう少し水月さんと一緒にいたいの……」
「……家、ここから遠いの?」
「んー、歩いて20分ぐらいです」
「なら家まで送るわ」
「いいんですか!?」
「ええ。その代わり、帰ったらちゃんと寝て。学校、遅刻しないようにね?」
「はい……!」
「よしよし」
『良いお返事』と美弥の頭を撫でてやり、桜は彼女と連れ立って歩いた。
* * *
「あ~あ、もうおうちに着いちゃった」
歩幅を緩め、粘りに粘ってゆっくり歩いたところで30分が精々であり、不満げに唇を尖らせる美弥。
そんな稚い仕草は可愛らしいが、桜に取ってはそこまでだ。悪いが彼女に対して恋愛感情はない。
しかし美弥もそれは分かっているのだろう。それ以上ごねたりはせず、『また明日』と控えめに挨拶をして家へと入っていった。
「おやすみ。ゆっくり休んでね」
手を振り、来た道を戻っていく桜。そうして夜道を歩くうち、『ふぅ……』と小さく息を吐く。
(美弥も紬も里花も、女の子って……みんな自分の心に素直よね。とっても可愛らしい……)
心からそう思うのに、でも自分は彼女達の想いの全てに応えることは出来ない。今、この胸を占めるのは銀子のことだ。
(会いたい……)
自分のような穢れた女が、そう望むことは罪なのかもしれない。そう思うからこそ、前世の記憶を所持しながらも、今世では彼に会わないとそう決めたはずなのに……その決心は彼への懐かしさと愛しさを前に、脆く崩れ去った。
(少し、話が出来ればそれで良かった。その思い出を宝物にして、生涯独りで生きて行こうと……そう思っていたのに……)
「会えば、欲が出てしまった……。また欲しい、会いたいと……そう願ってしまったの……」
桜は静かにそう呟き、自身の腹部をそっと押さえた。
* * *
今宵は新月。クラブ・クレティシャスのオーナーである銀子は店に顔を出しはしていたが、憂鬱な溜息を吐いていた。
「ママ、ご機嫌斜めなようだね」
「……あ、ごめんなさい。せっかくお店に来てくれてるのに、つまらない思いをさせてしまって」
「そんなことないよ。でも、良かったら少し外に出て、気分転換なんてどうかな……?」
熱っぽい目で銀子を見詰め、彼の手をそっと握り締める老紳士。
そこそこ常連客である彼に、多少のサービスは良いかと思い、銀子は優しく手を握り返し、微笑み掛けた。
「いいわね。じゃあ、今からデートしましょ」
そう言って席を立ったところで、桜と目が合った。
「……雪さん!?」
再会した夜以降、彼女が店に来たことは一度としてなかったため、驚いて目を瞬く銀子。
桜は何も言わずに会釈して、そして踵を返した。
「ちょっと、待ってちょうだい……!」
慌てて桜の腕を掴み、歩を止めさせるが桜はその手をそっと外し──
「どうか、気になさらないで」
笑みを浮かべて、そして去って行った。
「雪さん……!」
追い駆けようと思った。だがすぐに思い止まった。
追い駆けて、そして捕まえて、自分は彼女をどうするつもりでいるのか。
そのまま彼女を抱けるならいい。だが何も出来ないのなら、追い駆けるという行為は、ただの自己満足でしかないと、そう思ったからだ。
(罪悪感を払拭したいから追い駆けるなんて、そんなのはいけないことよね……。でも、じゃあ私はどうすればいいのかしら……。このままだと、お別れすることになるんじゃ……)
自分達は、奇跡と思しき再会を果たしたのだ。それなのにまた別れることになるなんて──と。今世こそ別れは避けたいとの思いで、銀子は頭を悩ませた。