血と悪魔(大人悪魔ほむら×大人さやかR18短編集) 作:さんかく@
さやかを巡るほむらと杏子の昼ドラ的な争いで、ドロドロになりそうな予感を秘めた前編。直接描写は無いが、事後描写あり。
「暇だなあ」
美樹さやかは一人呟いた。
休みだというのに、相方が朝からどこかへ出かけてしまった。
――すぐに帰ってくるわ
…とは言っていたものの、さやかとしては何時帰ってくるかわからない相方に気が気ではない。さやかはタンクトップの姿のまま、しばらく陽光を浴びてぼーっとしている。その姿は光合成を行っている植物のようだ。仕事の反動なのか、休日のさやかはこのようにだらしない。ようやく、ふう、とため息をつくとベッドから降り、すたすたと本棚の方へ行く。ほむらの家なので、ほむらの本しかない。適当に2、3冊取ってまたベッドに戻るとさやかは本を開く。
「げ、原書じゃない…」
茶色の表紙をした本をひろげると、そこにはドイツ語がびっしりと埋まっていた。
さやかにわかるのはこれがドイツ語だということだけ。黒髪の相方が大学時代に第二外国語でドイツ語を専攻していたのを、さやかは思い出した。確か英語よりもドイツ語が得意と言っていたような気がする。流暢にドイツ語を読みあげる姿を思いだして、もしかして、彼女はドイツ人のクォータ―か何かかとふと思った。
「とりあえず、これは無理ね…」
そう言って、もう1冊の方を手に取る。
ひろげると、今度は化学式がびっしりと埋まっていて、さやかは目を瞑った。
「じゃあ、雑誌でも」
雑誌の内容は、株や投資のものだった。経営者のインタビューなどもあってどちらかといえば企業経営者向きの雑誌だ。
「幅広いわあ…」
友人のキャパの広さにさやかは舌を巻く。記事の中で投資で大儲けした素人の記事があったが、額を見て、相方の方が上回っているのを確認し、ほくそ笑むとさやかは雑誌を閉じた。
「だめだっ、娯楽が無いわっ!」
両手をあげて叫ぶ。どうにも美樹さやかという人物は一人でも騒がしいようだ。今度はベッドのサイドテーブルに置かれたピンクのボールを手にした。握ると「キュウ、キュウ」と鳴る、ペットの玩具だ。
「とお」
と、おとなげない声を発してボールを窓にあてた。「キュウ」と音を立てて、さやかの元に帰ってくる。面白い。さやかは満面の笑みを浮かべて窓相手に遊びはじめた。
昔聞いたことのある歌を歌いながら、リズムに合わせてボールを投げる。
ガチャ
と、相方が帰って来た。
気恥ずかしかったのか、慌ててボールを後ろ手に隠すと、「おかえり」と微笑んだ。
「…随分、暇だったみたいね?」
美貌の相方はあきれたようにさやかを見下ろした。どことなく疲れているようだ…とさやかは思った。
いや、全然?と見え見えの嘘をついたら、後ろ手のボールに気付かれ、情けない顔をするさやか。しつけはしたつもりだけど…と黒髪の相方は呟いた。そうして掌をさやかに差し出す。思わず、調子に乗って、さやかはその掌に自分の手を乗せた。
「お手は大丈夫なのよね…」
と、ほむらは手を引っ込め、しばらく考え込んだ後、いきなりさやかの眼前に手を出した。
「待て」
そう言うと、服を脱ぎ出した。
セーターとスカートが次々と床に投げ捨てられる。
キャミソール一枚の姿になった相方の姿に思わず見惚れるさやか。
「ほら…おいで」
ほむらは白く細い腕を広げた。キャミソール姿が煽情的過ぎて、長年連れ添っているはずのさやかも何故か初めてその姿を見たといわんばかりに動揺していた。
「え…あ、う、うん?」
思わず相方の美しさに見惚れて身動きできないさやか。顔は心なしか赤い。腕を広げたほむらの傍へ近寄るか、近寄るまいか躊躇している姿は、まるで尻尾は振っているけど身動きできない犬のようだ。腕を広げたまま、不審げな顔をするほむら。
「ちょっと…どうしたの?」
「え…と、なんか恥ずかしいわ」
漫画のように頭を掻いて苦笑いする蒼い髪の相方を、ほむらは不満そうに見つめる。
そうして、はあ…、と長いため息をついて、ほむらは白くて細い両腕を下ろした。顔を俯き加減にすると、長い黒髪が垂れる。しばらくして、ほむらは手を腰にあて、顔をあげた。
「この馬鹿犬」
と囁いて、今度は人さし指で「おいで」と合図する。ようやくひょこひょことさやかがほむらに近づき、ほむらはまったく、とでも言う様に舌打ちしながらさやかを引き寄せ、抱きしめた。さやかも腕を回す。互いの柔らかい身体の感触をしばし楽しむかのように、じゃれ合う。
「…ねえ、今更何を恥ずかしがっているの、貴方?」
「え、だ、だってなんかこう改まってすると、ねえ?」
自分の心臓がかなり激しく脈打っているのがわかるのか、さやかは更に顔を赤らめた。
そうして、相方にばれませんように…と何かにお願いした。
が、それは無理な話だったようで。視線を黒髪の友人に向けると、悪魔はそれはもうご満悦な表情で…さやかを見て笑っていた。
「な…」
「ふ…ふふふ…」
そうして、ほむらはさも可笑しいとでもいうように笑いを堪える。
「あ、ああもう、笑わないでよ!」
顔を真っ赤にして、身体を離そうとするさやかをほむらは引きとめて、更にしなだれかかる。そうして、さやかの心臓あたりに耳を押しあてた。気持良さそうに目を瞑る。
「だめよ、貴方の心臓がどこまで激しくなるか…聞いてやるわ」
「やめて、そんな羞恥プレイ!ちょっと…」
「貴方って私のこと好きなんでしょ?」
「な」
さやかが固まる。上目遣いのほむらと視線が絡み合うと、心臓がドクンと一段と激しくはねあがった。嬉しそうに口元を緩めるほむら。
「あ、ああ、もう…やめてよっ、違うのよ!これはっ、違うの!」
「あら?じゃあ嫌いなの?」
「え、いや、そんなことっ、ないわっ!」
左手を大きく横に振り、大げさに否定のジェスチャーをするさやか。どうあってもユーモアに繋げたいのか、真剣な話が発生しそうな場合、彼女はこういう風に誰も見ていないのに笑いを取ろうとする。
「…貴方のその性格もなんとかしないといけないわね」
「な、なんでよ性格は関係無いでしょ!」
「大ありよ」
ほむらは身体を離して、パンと両手を叩いた。
ひゃあ、と情けない声をあげてさやかの身体がベッドまで飛ばされる。思いっきりベッドが軋む。
「もお、何すんの!」
「あら、決まってるじゃない」
いつの間にか、ほむらはさやかの上に跨っていた。
「今日は思いっきり遊んであげるわ、ワンちゃん」
そうして、にんまりとほむらは微笑んだ。
* * *
美樹さやかは彼女のことがよくわからなくなる時がある。
何を考えているのか、とか、どうして今笑ったのか、とか、愛しい人を取り戻せたのに、なんであんなに悲しそうなのか…とか
「悪魔」とか「魔法少女」なんて余計なことは省いた目で、世界のことが知りたくて、彼女自身を知りたくて、大学でさやかは抽象的でかつ古典的な学問を専攻した。確かに役には立ったと思う、しかし未だ目的である彼女自身には至っていない。
…それに、先ほど終えたばかりの「行為」も、何故、彼女は人外の力を使い、さやかの身体の一部を変化させて行ったのか、さやかにはわからなかった。
「ねえ…」
肩まで伸びた蒼い髪は乱れたまま、さやかはベッドの上で身体を側面に向けた。目の前には背中を向けて眠っている黒髪の友人の姿。艶のある長い黒髪、華奢な細身の肢体、そして透けるような美しい白磁のような肌。シーツ以外何も纏っていないあられもない姿は、蒼白い月に照らされて、まるでそこに存在するのが嘘のように美しかった。
「どうしたのよ」
どんなに声を投げかけても、相方の背中は何も答えてはくれない。さっきからそうだ。「あれ」から、かれこれ10分は経つだろう。ほんの数時間前はあんなに笑ってじゃれててくれたのに…と口を尖らせて、さやかはそっと身体を相方に擦り寄せた。自分がこんなに自然に相方に対して甘えるようになっているのに驚きながら。
「ほむらってば…」
彼女の肢体はひんやりと冷たい。だが、中は焼けるように熱かったのをさやかは思い出す。長い艶のある黒髪から花の香りがした。むせかえるような、薔薇の香り。あまりにもいい香りだったからか、さやかはそのまま相方の髪に顔を埋めたまま深呼吸した。暁美ほむらが高級な猫なら、美樹さやかのその仕草は、まるでしつけのなってない無粋な雑種犬のようだ。
「フ…」
黒髪の友人が、息を漏らす。肩を二、三度震わせたのは、笑いを堪えたためのようだ。
しばらくして、はあぁ…と長いため息を漏らしたあと、ようやく艶のある唇を開く。
「……犬にデリカシーを求めるのは無理なようね」
唇と同じく艶のある声。
ゆっくりとさやかの方に身体を向ける。恐ろしいほど美しい容貌、黒い艶のある髪は乱れて頬にかかり、ほんの少しだけ紅潮した頬は、人外の彼女に微量の人間らしさを与えていた。穏やかに微笑んでいるが、そのアメジストの瞳は熱を帯びたように揺らめいていて。あまり見たことのない表情を彼女が浮かべていたので、さやかは驚いた。
「…余韻を楽しむって言葉貴方知らないの?」
「へ?」
ぱちん、と軽やかにほむらがさやかの額を叩く。手慣れた手つきだ。
「馬鹿ね、ほんと…しつけに失敗したわ」
「しつけって…」
シーツの中で、睨み合う。といっても、睨んでいるのはさやかだけで、ほむらは平然と目を細め面白そうにさやかを見つめていた。
「待て」
「え」
ほむらは指先で、さやかの鼻をつつく。
「…「待て」も全然聞けないし、動きは単調だし、貴方ってほんとダメ犬だわ」
「…何よそれ………あっ…」
驚いたようにさやかが声をあげる。まるですっかり忘れてたとでもいうように。クスクスとほむらは笑いだす。さも可笑しいとでも言う様に。対してさやかは顔が真っ赤だ。…彼女の意図したことを理解して。
ほむらの顔を直視できなくなって、さやかは身体を反対に向けようとするが、今度はほむらにそれを阻止される。
「な、何よ、離してよっ」
「あら?さっきまで私の余韻を邪魔してたくせに?」
「あ、謝るからっ!ごめんってば!」
「だめよ、こっち向きなさい」
「やめて、見ないで、恥ずかしいから!」
笑いながら、ほむらはさやかの身体にのしかかる。情けない声をあげる相方を目を細め見下ろすと、口元を綻ばせながら囁いた。
「…飼い主の義務を果たすわ…」
「な、なによ義務って」
「しつけ直しよ」
今度こそ「待て」を成功させるわ…と囁いて、シーツを被った飼い主はそのまま覆いかぶさった。シーツの中では、さやかの悲鳴と、ほむらの笑い声が聞こえるのみ…。
* * * * * *
――私はあの人のことを「愛」してもいないし「好き」でもない
昨日聞いた、黒髪の女の言葉を佐倉杏子は思い出し、反復する。
「どういうことだ…ったく」
美樹さやかを巡って争うゲームに彼女は乗った。そうして宣戦布告した。
杏子には渡さないと。しかし、あの台詞はどういうことだ?
カラン、と喫茶店のドアが開く。
「杏子ちゃん…」
「よお、まどか呼び出して悪いな」
「ううん」
暁美ほむらとの邂逅を終えた杏子は、翌日、同じ場所にまどかを呼び出していた。
革張りの椅子に座ったまま片手をあげると、まどかに向かって杏子は微笑む。彼女のチャームポイントである八重歯が、やけにまどかには眩しく見えた。
「何か飲むか?」
「うん、紅茶…お願いしていいかな?」
そう言って、まどかはゆっくりと杏子の対面に座る。昨日ほむらが座ったソファだ。
暁美ほむら――昨日、邂逅していた女性の事を思いだすと、杏子はまるで自分が夢を見ていたような気分になる。それほどまでに、彼女は美しく、そして異質な雰囲気を身に纏っていた。
異質…か、杏子はふと口元を緩める。杏子自身、以前は魔獣と戦っていたし、「魔法少女」としての力も備えていた。ほむらが異質なら、杏子だって異質といえる。しかし、あの黒髪の女性の持つ雰囲気は違う…うまくいえないが、もっと禍々しいものだ。
あんな女の元にさやかを置いていて大丈夫なのだろうか?8年前に味わった激しい後悔がまた蘇り、杏子は表情を曇らせる。
「…杏子ちゃん?大丈夫?」
まどかの声で杏子は我に帰る。
「あ、ごめんまどか、ぼうっとしちまった」
「もう…」
しょうがないね、とまどかは笑う。
紅茶がくると、まどかはゆっくりとカップを口に運んだ。
カチャ、とカップを置いて、まどかは一息つくと、その澄んだ瞳を杏子に向けた。
「…杏子ちゃん、ほむらちゃんとはちゃんと話せた?」
「ああ、ちゃんとかはわからないけどね、話せたよ…「ゲーム」に乗っかってくれた」
「ゲームって、さやかちゃんを…?」
「ごめんな、まどか…あたしには穏便な会話なんて、出来っこねえや」
そう言って、杏子は腕を後ろに組む。
「ううん…皆仲良くしてほしいって私は思うけど、それは私のエゴ。まずはお互いの本心を知らなきゃ…いけないよね…」
寂しそうにまどかは微笑む。
この10年で、まどかはだいぶ大人びたと杏子は思った。出会った頃は気立ての良い、お人よしで無邪気なただの優しい子だったのに。今はどこか…信念というか、芯が通っていると思う。
――あのね、杏子ちゃん、聞いてくれるかな
――なんだよ、いいぜ言ってみな
――可笑しいって笑わない?
――バーカ、笑うわけねえよ、そんな真剣な目してたらさ
そうして、桃色の髪の少女は、蒼い髪の少女に恋をしていることを杏子に告白した。
一瞬、とても複雑な気持ちになった。だが、不思議と嫌気はしなかった。そうして、杏子は自分もその少女が好きだということをまどかに告白した。
対立することなく、交流を深めることができたのは、互いにシンパシーを感じていたからか、それとも…
…前世というものがあるのなら、あたしはこの子と会っていたのだろうか?
そう思えるくらい、杏子はまどかと一緒に過ごす度に既視感を覚える。特に互いの共通の想い人のことを語り合う時にはその気持ちが強くなるのだ。
かつて遠い昔、違う世界で二人は魔女となった美樹さやかを救うべく、危険に身を乗り出したが、その事実をもはや知る由もない。
「ほむらってさ…」
「?」
「すっげえ綺麗だよな」
「うん、怖いくらい綺麗でしょ?私もいつも会う度に緊張しちゃって」
フフフと笑うまどかを見て、杏子は不思議そうな表情を浮かべる。
「なあ、まどか、あいつ…あんたのこと好きなんじゃねえの?」
「え?…う、うん、そうなのかな?」
まどかは動揺する。仕方のないことだ。だが、杏子は高校時代からあの得体の知れない女が、まるで縋るようにまどかを見つめていることに気付き、なぜかそう思ったのだ。
「まあ、いいさ、でもあたしたちってさ…全っ然、男の影が無いよな」
二人同時に吹き出した。そうなのだ、中学から今まで…確かに告白されたりなどのイベントは発生し、ある程度青春を謳歌したが、現在本格的に付き合っている異性は二人ともいなかった。
「杏子ちゃんもてそうなのに…あの人はどうなったの?専門学校時代の?」
「ああ…あいつか、いや、三日も続かなかったよ、あたしがグーで殴ったら、姿を消しちまった」
そう、なんとなくだが、雰囲気が似ているという理由で、杏子は告白してきた男と付き合ったことはある。だが、関係を持つまでもなく、すぐに解消された。
…どうしてもあいつの影を追ってしまう。
どうしてだか自分でも杏子はわからない。あの蒼い髪の友人が気になって仕方がない。誰かに似ているのだ…そう、どこか遠い昔、とても大切で敬愛している人がいたような気がする。その人に彼女は似ている…掴みどころのない変な話だが、杏子はそう思っていた。
潔癖で愚直なまでに真っ直ぐで、傷つきやすくて…放っておけない。
…尽くしたい
そう思ってしまうのだ。
はあ…と杏子はため息をついた。
「なあ、まどか」
「なあに?」
「ほむらはあいつを手放す気はねえってさ」
「…そう」
フフ、と悲しげに笑って、でも、とまどかは言った。
「あの二人…一緒にいるのが当たり前みたいに自然なんだよ、見ててそう思う」
「そうか?」
「うん、なんかね女王様と騎士みたい」
「はあ?お姫様じゃなくて?それじゃ従者じゃねえか」
「え、あ、そうなるのかな?」
「なにげにまどかひどいな」
「そうかな?」
えへへ、とまどかは困ったように笑う。だが、杏子だって、忠犬扱いされているさやかを見ればそう思うのでは…とまどかは思ったが、それを語るのも野暮な気がしてまどかは喋るのをやめた。
「でもあいつさ…変なこと言ってた」
「なんて?」
「さやかのこと「愛」してもいないし、「好き」でもないってさ…どういうことだと思う?」
まどかは杏子の言葉を頭で反復しているかのように、しばらく黙り込んだ。
何か気付いたように瞳は揺らめいて。
「そう…なんだ」
「?どうしたまどか」
ううん、なんでもない…とまどかは戸惑いを打ち消すように笑った。
だが、その瞳は未だ揺らめいていた。
* * * * * * *
「はい、松岡さん、点滴換えとくから」
「いつもありがとうな、佐倉さん」
にい、と八重歯を見せて、赤毛の看護師は老人に笑いかける。野性的な美しさを持つこの看護師は、口は悪いが、献身的で、昔堅気な老人にかなり人気があった。松岡という老人も、この看護師にはかなり好感を持っていた。まるで一昔前の任侠ものに出てきた女優さんのようだ…と松岡が看護師を見つめていると、なにやら様子がおかしい。
点滴台を掴みながら、窓の外を呆けたように見ている。
「…どうしたんだい?佐倉さん」
「あ、いや、なんでもないよ松岡さん、じゃ御大事にね!」
そう言って、足早に回診車を運び廊下に出て行った。
…心臓の高鳴る音が聞こえる
佐倉杏子は緊張に身を震わせた。
久しぶりに感じたのだ…魔獣の気配を。
高校を出てから、正確にはさやかと会えなくなってから、杏子が魔獣と接触する機会は減っていた。おそらく5本の指で収まるくらいに。その現象に何か意味があるのか杏子は考えたことは無い。
ちりちり…と項に痛みが走り、背中に悪寒が走る。
…戦えるだろうか?
「力」は身体に漲っている…しかし、変身はできなくなっていた。過去の戦いを頭で反復しながら、急ぎ足で交代と着替えをすませ、病院の外へ出た。
――あいつらって暗いところ好きだよねえ
――ああ、そうだったなさやか
病院の裏は廃墟ビルが立ち並ぶ、カップルが喜びそうな心霊スポットだ。
薄暗い闇の中、ビルとビルの間に、10mほどの山積みになった瓦磔があった。その上に、杏子は登る。通常の人間では信じられないほどの身軽さとスピードで。ブーツがきしりと鳴った。風が赤い髪をたなびかせる。
ふう、と息を吸うと、杏子は手を組み祈る。杏子には祈りの風習はないはずだったが、これをすると妙に落ち着くのだ。そうして右手を宙に出すと、そこに神経を集中する。
…出てこい
と、コマ送りになった映像のように、いきなり杏子の右手に槍が現われた。
ほっ、と杏子がため息を漏らす。変身が出来なくなったことで、「獲物」も出てくるか危惧していたようだ。
「コオオオオオ…オオオオ」
白いゆらゆらとしたモノが現われた。魔獣だ。
…三体か…きやがれ
舌で自分の唇を舐める。槍を握る手に力を込めた瞬間、目の前に閃光が走った。
それはあっという間のことだった。
三つの閃光が魔獣を消し去った。
ガキイン、と金属音が響く、ビルの壁には3本の剣。
その剣には見覚えがあった。
杏子の心は震えた
そうしてゆっくりと頭上を見上げる。ビルの屋上を。
すらりとした、細身のシルエットがそこにはあった。
「お…お前」
「……杏子?」
前よりも伸びた蒼い髪を靡かせ、杏子を見下ろす瞳、空のような蒼い瞳。
ずっと会いたかったその人の、懐かしい声を聞いた瞬間、杏子の目には涙が滲んだ。
さやか…と声にならず、ただ口だけを動かして。