夜歩く(大人悪魔ほむら×大人さやかR18G短編集) 作:さんかく@
半分に欠けた月の下、泥水を掻きわけて男が走っていた。
「…ちっくしょう…」
息を荒げながら、悪態をつく。その獰猛な顔つきに不似合いな「恐怖」の表情を浮かべて。
組の詰め所のあるビルからこの廃墟ビルまでどれほどの距離を走ったか、男はもうわからなかった。引き締まった体躯を包んだ黒のスーツもすでに泥にまみれていた。薄暗い闇の中、月明かりを頼りにただ男は走る。生き延びるために。と、びしゃり、と大きな水音を立てて男は立ち止った。
男の数メートル先に立ちはだかる黒い人影。月明かりが徐々に人影を照らしていく。
「コォォォォォォォォォォォォ…」
限界まで開かれた口から異臭と煙を漂わせながら、「人だった」者が咆哮する。男と同じ黒服、非常に大柄な体躯。
「この化けものがぁ」
男が両手を前に突き出す。
パン、 パン
乾いた音を立てて男の持つ銃から閃光が走った。音の数だけ人影が揺らぐ。しばらく動きが止まる。しかし、
「ムダ…ダ…」
奇妙にしわがれた声が「人外」から発せられた。猛禽類を思わせるその鋭い目は赤々と輝き、その口はV字形につり上がっていた。まるで鮫のように笑っている。そのまま「人外」はノーモーションで一気に男に詰め寄った。男の目が恐怖で見開かれる。
「来るなぁ!」
悲鳴と共に、立て続けに起きる銃声。しばらくして銃声は途絶え、それから数秒後断末魔の叫びが闇に響き渡った。
* * *
「……はあっ、はあっ」
息を荒げながら、美樹さやかは壁にもたれた。じっとりと湿気のある壁が彼女のスーツを
濡らす。
「…すう…はああ…」
肩を上下させ、深呼吸をし呼吸を整えるが、なかなか調子が戻らないらしく、彼女は舌打ちをした。肩まで伸びた蒼い髪は汗でべっとりと顔に張り付き、その髪と同じ色の瞳は焦点が定まらないのかゆらゆらと揺らめいて何も捉えていなかった。う、と短い呻き声をあげて彼女は苦しそうに上体を前傾させた。ごぼ、と音を立てて彼女の口から液体が飛び散る。血だ。彼女の血は音を立て、泥水の中へ吸い込まれていく。
「ごほっ、ごほっ…」
数回咳き込んで、また苦しそうに深呼吸する。彼女の顔色が次第に白へと変色していく。唸りながら、腹部を抑え、それでも彼女は歩きだそうとする。彼女は被弾していた。それも常人なら既に死に至るほどの数の。官の支給品である黒のスーツは泥と血でまみれても判別できないが、その下のワイシャツは元々そうであったかのように赤く変色していた。
「主任…」
ガクガク、とまるで壊れた自動人形のように小刻みに動きだし、さやかは一歩進んだ。びしゃり、と泥水が跳ねる。――失敗した。とさやかは思った。
* * *
『主任、あいつらは人間じゃないんです、逃げて!』
美樹さやかは叫びながら銃を撃ち続けた。顔に弾を受けて、のけ反る暴力団員。しかし、すぐに起き上がり襲いかかる。
『なんだよ、こりゃあ!』
叫びながらも白髪の男はホルスターから銃を取りだす。さやかと初老の男は車から降り、襲いかかる「人外」の群れから逃れるため、闇の中へと駆けだした。
* * *
あの時は、暴力団の事務所を張り込んでいる時にまさか魔獣とはち合わせるとは思わなかった。しかもその組員と「融合」して襲いかかるとは。
車で逃走すべきだった、とさやかは激しい後悔に襲われていた。己はともかく、彼は、上司である岡山は死んではならないのだ。決して。
『意味なんて、この世にはどこにもない、すでに存在しているものは価値があるんだ、意味を考える必要なんてねえんだよ』
彼の言葉は美樹さやかに力をくれた。世界を改変した事実を知る者の、未来に対する不安、そして今、ここにいる存在の不安をささやかながら緩和してくれたのだ。
「ぐはっ」
再び、さやかの口から血が零れる。美樹さやかは十分に回復魔法を使う余裕が無かった。彼女は焦っていたのだ、こうしている間にも上司に危険が迫っているのではないかと。そして――ひどく大きな断末魔の叫び声があがった。さやかの目が見開かれる。唸り声をあげて、そうして満身創痍の身体を自ら痛めつけるように、さやかは駆けだした。時折苦痛で顔を歪めながら。路地裏には所々に暴力団員の死体があった。魔獣と融合している者とそうでない者が殺し合い、無数の銃弾が飛び交った結果だ。いまだ「人」と「魔獣」とを区別して戦おうとする美樹さやかにとっては、この状況はひどく過酷で、危険過ぎた。判別がうまくいかず、恐怖に支配された「人間」である組員達に銃で撃たれ、そして短刀で刺された挙句がこのザマなのだ。50メートルほど走っただろうか、さやかは足を止めた。
「ダレダ…」
誰何するしわがれた声。さやかの数メートル先に人影が二つある。直立不動の大柄な体躯の男と、その伸びた腕の先にぶらりとさがった死体。首をへし折られている男は大柄な男と同じ暴力団員だ。長く息を吐いた後、さやかは苦しそうに言葉を紡ぐ。
「…あんたこそ…誰よ…人間?」
失血のため震える腕で銃を構えるが、照準が全く定められない。もう目も開けないのか、彼女はまるでウインクしているかのように左目だけ閉じていた。ニイ、とV字形に口を開くと男は笑う。その双眸は血のように赤い。
「アア…ソウダヨ、オマエモカ?」
「笑えない…わね」
さやかが失笑し、引き金を引くのと、「人外」が彼女に接近するのは同時だった。弾は外れ、男の手がさやかの喉元を捉える。が、さやかは身を捻り男から逃れ、勢いよく身体を反転させながら左手を男の鳩尾に繰り出した。尋常でない衝撃音と共にさやかの左手が男の身体にのめり込み、そして突き破った。あり得ない光景。男の背中から血塗れのさやかの掌が現れる。そのまま握りこぶしを作り、また開くが、その瞬間さやかが悪態をついた。「剣」が具現化できないのだ。
「…っくしょうっ…」
剣を具現化して、灼熱の光で浄化するつもりだったのが、全くの無駄骨だ。逆に突き破られた男の鳩尾周辺の肉がミチミチと音を立て収縮し、さやかの腕を締め付ける。ギシギシと音を立て軋む骨。さやかは悲鳴をあげた。そのまま顔を鷲掴みされる。脳を潰すつもりだろう。
「あ、あ、あ、あ、あ、」
軋む脳、朦朧とする意識の中、さやかは遂に「死」を意識した。その瞬間脳裏に浮かぶのは、美しい黒髪の女性の顔、彼女は心で激しくその女性に謝罪する。ニヤリと残忍な笑みを浮かべる「魔獣」。
「モウ…オワリカ」
「終わりなのはあなたよ」
闇の中、艶のある声が響く。
「ダレダ…」
猛禽類のような目を光らせ、男は振り返り、背後にあるビルの壁面を凝視した。何もない壁から美しい女性の顔が現れる。そうして、ゆっくりと首、肩、腰と全身が現れ、黒いドレスの女性の全貌が現れた。長い黒髪に白磁のような白い肌の美貌は、魔獣と融合した者でさえも虜にするのだろう、男は感嘆の声をあげ、惚けたように女を見つめている。腕を組んだまま、女は男を冷酷に見つめると、ぞっとするような艶のある声で囁いた。
「離しなさい…「ソレ」は私のよ」
男は何も言わず手を離す、瞬時に言いなりの奴隷と化しているかのように。びしゃり、と音を立てて美樹さやかは倒れた。うつ伏せで泥まみれの彼女を見て、美貌の女性は一瞬表情を曇らせるが、またすぐに冷酷な表情に戻る。
「それじゃあ死になさい」
ニイ、と女が口をV字形に開いて笑うのと、男の身体が半分に裂けるのは同時だった。キインと甲高い音と共に一筋の閃光が走り、左右に身体が分かれる、まるで魚を開いたように。
「?ォォォォォ…」
慌てて己の身体を抱きしめ接着しようとするが、すでに裂けたものは元には戻らない。
「無駄よ」
女性の目が見開かれる、アメジストの瞳が血のような色に変わる、と幾何学模様の光の線が女性の周囲に現れた。光は男の身体に吸収されていき、そして再び中から拡散した。
「オオオオオオオオ」
断末魔の叫び。「魔獣」の身体は光の拡散と共に粉々に飛び散っていった。
「……………」
しばらくして訪れる静寂。微かに聞えるのはうつ伏せに倒れたさやかの荒い呼吸だけ。音も無く、美貌の女性は移動し、さやかの傍へ立ちつくす。そうして彼女は怒気を含んだ声で囁いた。
「立ちなさい」
艶のある唇は微かに震えて。長い睫毛の下に隠されたアメジストの瞳はゆらゆらと揺れている。黒のパンプスがさやかの腹部を蹴りあげた。悲鳴をあげるさやか。
「ふざけないで…私が間に合わなかったら、貴方どうなっていたかわかる?」
もはや瀕死のさやかは言葉を発することもできず、ただ金魚のように口をぱくぱくと音も無く動かすだけ。それを見て、くやしいのか、唸り声をあげて女性はヒステリックに叫んだ。
「死んでいたわよ!貴方、犬のように死んでいたんだわ!」
それは、さきほどまでの冷酷無表情な女性とは全く別人のようだった。泣きそうな怒りの表情を浮かべた彼女は人間らしさに満ち溢れたそれで。彼女は泥にまみれるのを全く意に関せず、さやかの前に屈むと、おもむろに顔を重ねた。唇を割って、口内に舌を差し込む。
びくん、とさやかの右脚が跳ねた。どれくらいそうしていただろうか、女はようやく顔を離した。ずるり、とさやかの口から女の赤い舌が抜き取られる。唾液がさやかの口を濡らした。紙のように白くなっていたさやかの顔に徐々に赤味が増し、生気が戻っていく。虚ろだった蒼い瞳にも強い光が戻り、さやかはようやく言葉を紡げるようになる。
「………ほむ…ら…」
覚醒したと同時にさやかは相方の名前を呼んだ。本能的に。黒髪の女性――ほむらは口を緩め、そうして左手でさやかの額を軽く叩いた。
「一分よ」
「え…?」
唇を舐めながら、ほむらは目を細めた。不思議そうに見上げるさやかの額を再び叩き囁く。
「貴方に「力」を少し分けたわ、これで回復魔法は使えるはず…一分で「回復」しなさい、いいわね?」
「そんな…わっ…」
さやかは悲鳴をあげた。身体が宙に浮く。否、ほむらの白い手がさやかを持ち上げたのだ。満身創痍の黒のスーツの女性が少し小柄な黒のドレスの女性に抱きかかえられる様は一種
微笑ましくもあった。
「とんだ泥まみれのワンちゃんね?」
ほむらの目は血の色へと変化していた。悪魔としての力を放出しているのだ。
「……悪かった…わね」
苦しそうに咳き込みながらも赤くなるさやかを見て、悪魔はさも嬉しそうに微笑んだ。
「あら、せっかく「抱っこ」してあげているのにそれはないわ」
「………ありがと」
くすくすと悪魔は笑う。
互いにこのような体勢で抱きかかえるのも、かかえられるのも初めてだった。と、ほむらの表情が険しくなる。
「コォォォォォォォォォ」
「ォォォォォォォォォォ」
闇の中から数体の人影がゆらりゆらりと近づいてくる。ほむらは相方を抱きかかえたまま目を細め、そうして見開いた。ドン、と大きな破裂音と共に衝撃波が発生し、人影は全て吹き飛び浄化されていく。すごい…とさやかは思わず唸った。これが世界を改変した悪魔の力なのだ。ここ一帯の魔獣は一掃され、先ほどまでの禍々しい空気が嘘のように消えた。あるのは静謐な闇と、そして死体だけ。しばらく二人は無言だった。美樹さやかは「回復」に集中する。
「………ッ」
さやかの身体に無数の音符記号の光が現れる。その光が体内に入っていくのと同時に、黒い小石のようなものがさやかの腹部や胸あたりから溢れてきた。撃ち込まれた弾丸だ。目を瞑り、回復のイメージを浮かべさやかは身体を修復していく。その様を眉を顰めて見守る悪魔。しばらくして、「修復」が完了した。
「ありがとう、ほむら…もう大丈夫」
そう言って、さやかは己の身体を抱きかかえている悪魔の腕から降りようとする、が――
「…ほむら?」
ほむらはさやかを解放しない。彼女はただ無表情に自分の腕に抱きかかえられているさやかを見つめていた。その瞳はアメジストの色に戻っていて。
「………心配したわ」
その顔がとても険しくなる。はっ、と息を飲むさやか。一瞬でさやかは理解した。ほむらがどれだけ自分の事を案じてくれたのか、そして己の未熟な戦いがどれだけ負担を掛けたのか。そして――彼女がいなければ自分がどうなっていたか。さやかはふがいなくて、唇を噛んだ。
「………ごめん」
「言葉なんてどうとでもなるわ」
怒っている――とさやかは思った。そう、悪魔は怒っているのだ。
「言葉なんていらない――」
そう言って、悪魔はさやかを抱きかかえたまま、その唇を塞いだ。
* * *
さやかの上司である岡山は無事だった。そして周囲の記憶も悪魔によって改竄されていた。
「貴方の上司は無事よ…そして貴方の周囲の人達の記憶も改竄しているわ」
「ほむら…」
「これでもご不満?」
さやかは静かに首を振る。
「…ほむら、私、なんて言っていいか…」
「そうね、言葉では全然足りないわ、だから――」
だから――?と聞こうとしたさやかの口は軽く塞がれて。
「さやか、飛ぶわよ」
「え…ちょっと待って……わあ」
間の抜けた相方の声に悪魔はニイ、と笑う。背中から現われる大きな黒い羽根。まるで巨大な烏のようだ。風が舞い上がり、ふわり、と悪魔は宙に浮く。思わずさやかは左手を悪魔の首に絡めた。ゆっくりと上昇を続け、月が間近に見えた頃、悪魔は水平に飛んだ。しばらく無言のまま飛び続けた後、悪魔は腕の中に大人しく収まっている相方を見つめる。相方は――規則的な寝息を立てて、気持良さそうに眠っていた。疲れ切った寝顔。ふ、と悪魔の口元が緩む。その表情はとても――。
半分に欠けた月の下、静かな夜の海に美しい歌声が響き渡る。その旋律は物哀しく、だがとても優しくまるで子守唄のようだった。
END