※20221128サブタイトルに「(あるいはさやか覚醒)」を追加しました。
「っくしょう…なんだってんだ」
萩原はオープンデッキで、海を見ながら呻いた。
あれから――石田に連れられて「幽霊」を見てから、気分が悪くて仕方がない。部屋に籠れば、壁から今にも女が出てきそうで、目を瞑れば夢に出てきそうで。世俗にまみれた男は、一度超常現象を信じ込んでしまえばたやすいものだった。乱暴に頭を掻くと、また呻く。こうしてオープンデッキに出て爽快な大海原を見ても、気が晴れない。
――あれは幻覚だ、酒を飲み過ぎて、あのガキの錯覚に付き合っちまったんだ。
必死に心の中で否定するも、ふっきることができないのは、心の奥底で信じてしまっているからだろう。
――そうだ、こんな時は…
萩原がニヤリと下卑た笑いを浮かべる。気を紛らわせるには美しいものを思い浮かべるのが一番イイ。
黒髪の美しい女性――暁美ほむら
彼女の姿を萩原は思いだす。萩原の口元が自然にだらしなく緩んだ。
気だるげにテーブルに肘をついて、カードを伏し目がちに見ている彼女の美しさは例えようがなかった。ゾクゾクと萩原の身体が震える。
――たまらねえ
ニヤリとまた笑い、萩原が身体を反転させ、オープンデッキの柵にもたれる。と、萩原の笑みが消えた。昨夜から見知った姿が階段からオープンデッキへあがってきたのだ。
萩原に取っては腹ただしい、昨夜の「賭け」の勝者。蒼い髪の女性。萩原はフン、と鼻を鳴らし、眉をひそめた。彼にとっては人生でたった一回の「絶好の機会」を奪った宿敵だ。
「よお、あんたも朝の散歩かい?」
「一応ね」
萩原に声を掛けられたためか、蒼い髪の女性は脇目も振らず、一直線にこちらへと歩み寄って来た。白いワイシャツにデニムと質素な格好だが、それがかえって彼女の蒼い髪に映え爽やかな印象をもたらす。彼女も中々に…いやかなり美しい部類に入ることを萩原は認識する。ひょこひょこと、警戒心を微塵もみせずにやってくる姿は、敵愾心を露わにしている萩原のやる気を削いだ。隣の柵にもたれた蒼い髪の女性に萩原は声をかける。
「俺は萩原…萩原誠治、あんたは?」
…驚いた、俺はなんでこの女に自己紹介してやがるんだ?
何故か彼女を見ると、自身の事を洗いざらい喋りたくなる衝動にかられる。萩原は彼女が警官であることは知らない。だが、少なからず彼女の醸し出す雰囲気が、萩原の自白めいた衝動に一役買っているのは確かなのだろう。
「美樹よ、美樹さやか」
「へえ…あんたらの名前、なんか変わってんな」
「何よそれ」
「名字と名前が逆みたいだ」
ああ、と言って、さやかは笑った。爽やかな、しかしどことなく世捨て人のような浮世離れした笑み。不思議と彼女とは喋りやすい。それはおそらくさやかが日頃中年男性の多い職場で過ごしているせいもあるだろうが。
「あんた強いな、ポーカー」
「負けるわけにはいかなかったからね」
さやかは歯を見せて、そうして今度はへらへらと笑う。昨夜の屈辱を思い出して、萩原はチッ、と舌打ちした。
「ちくしょう、あれ…いかさまじゃねえのか?」
「実力よ、悪いけど」
「むかつく女だな…ったく、勝ってりゃ今頃…」
「…あんたが勝つことはないわ」
少しだけ、彼女を纏う空気が変わった。横目で萩原を見つめながら、さやかは冷笑を浮かべた。風が彼女の蒼い髪を靡かせる。
「そんなことねえ…俺はこれでも運だけはいいんだ。もう一度賭けたら、今度こそ暁美さんを…」
ガシャン、と柵が大きな音を立てる。
萩原は最後まで喋れなかった、口を塞がれていたからだ、さやかの手で。
「ん…が…お?」
「これ以上…あいつの名前をあんたの汚い口から出したら許さないわ…」
萩原の目が驚愕と痛みで大きく開かれる。さやかの手がまるで万力のように萩原のあごを締め付けてきたのだ。ミシミシと音を立てる萩原のあご。柵に押し付けられ、今にも海に転落しそうな状態になり、萩原は必死に抵抗し始めた。
「無駄よ…あんたの力じゃ私にとうてい敵いっこない」
「な…ぐ…」
さやかは顔を寄せて、萩原に囁いた。目線の高さにあまり差は無い。
「あんたがどこの誰で、どんな人間か私は知ったこっちゃない…けど」
「ぐううう!」
どろりとした死んだ魚のような目。さっきまでの澄んだ蒼い瞳はどこにもない。萩原は震えた。これが先ほどまでへらへら笑っていた女性と同一人物とは到底思えなかった。
狂人――そう、彼女はまるで…凶暴な狂人のようだ。
「あいつを賭けたことと、軽々しく名前を呼んだことは許せないわ…」
くぐもった声で悲鳴があがる。萩原の足が宙に浮く。さやかは右腕だけで男の身体を持ち上げていた。ありえない光景。日常と非日常の境目の風景が今、船のオープンデッキで繰り広げられる。
「これ…以上…あいつに近寄ったら…」
怒りが頂点に達すると、呂律が回らなくなるのか、さやかは喋りにくそうに言葉を紡ぐ。どろりと濁った瞳を充血させながら。そう、さやかは許せなかったのだ、苦楽を共にしている相方が、このような名も知れぬ男にいいように名前を呼ばれ、モノのように賭けられたことが。言葉ではいいつくせない、さやかの怒り。それはまた彼女を想っての――。
「あんたを殺すわ」
そうして、萩原の返事を聞く前に手を離す。どさりと重い音を立てて萩原が床に尻をついた。悲鳴をあげる萩原。
「ひい…あ、あんた、あんたなんなんだ…!」
「なんでもないわ…」
そう言って、さやかが萩原の前に屈もうとした途端、はじかれたように萩原は立ちあがって。叫び出す。
「う、うわあああああ!」
そうして、転がるように逃げて行った。石田が見たら、数時間前の幽霊騒動の時と同じシチュエーションに苦笑を浮かべるだろう。
「………」
萩原の小物ぶりにあきれたのか、それとも一連の騒ぎで疲労を覚えたのか、さやかはため息をついた。そうして海に視線を移す。ゆっくりと左手で目を抑えた。左目は赤く充血していた。うっすらと口から血が滲みだしている。怒りのあまり唇を噛みしめてしまった結果だ。
――いつもの癖だ。
何回か深呼吸をして、さやかはまたため息をついた。そうして項垂れて頭を乱暴に掻く、まるで自分の怒りを抑えるためのように。
海を覗き込む瞳は、いつもの空のような蒼に戻っていた。
* * * * *
「あら、あの元気な子は遅いわねえ」
「そうですね…」
ほむらの部屋で、佐藤教授はくつろいでいた。室内の中央にあるテーブルを囲んで、コーヒーを飲みながら海原を眺めるという贅沢なものだ。
『シ、シーツを洗ってくるわ』
ものすごくあせった顔で、くしゃくしゃになった二枚のシーツを抱え、一目散に出て行った相方の顔を思い出してほむらは口元を緩める。おそらく、ほむらと佐藤教授を気遣ってのことだろう、まあ半分は二人の「乱れた様子」を見られたくないというのもあっただろうが。おそらくもうしばらく彼女は戻ってこないだろう。ほむらはゆっくりと口元にカップを運んだ。
* * *
二等航海士は、ワッチ(当直)を終えたというのに、まだブリッジに残っていた。
「どうしました?」
三等航海士が不思議そうに尋ねる。現在、操船は三等航海士が担当していた。引き継ぎは十分しているので、問題は無いはずなのだが。
「…どうにもレーダーエコーが気になって」
「ああ…そうですか」
船のレーダーは、漁船などの船舶、ブイ等を表示し、その衝突を避けるためのものだが、時には雨雲も映す。現在、天気は晴れているというのに、レーダーには雨雲のような影が数時間前から表示されているのだ。つまり、この船と同じ速度で進んでいることになる。
「トビウオの大群とかかもしれませんよ、あとは潜水艦とか」
そう、魚の大群や、稀に潜水艦をレーダーは映すことがある。二等航海士は三等航海士の言葉で少し安心したのか頷いた。
「そうだな…気にしすぎたかな…だが、注意しててくれ」
海の人間は意外と迷信深い。夜に口笛を吹いたら嵐が来る、船首に飾り付けた女性の像にいたずらすると、大しけが来るなど、時代がどんなに進んでも船だけはそんな過去の迷信が語り継がれていく。そうして、実際それが起きる可能性が高いのだ。
「なんだか、気になるんだ」
嫌な予感がする…とは口にしなかった。言葉にすると具現化する…その恐怖を海の人間は知っている。
しかし、言葉にしなくても二等航海士の予感は数時間後、的中することになるのだ。
お読みいただきありがとうございます。
このSSでエロ以外でもっとも書きたかったシーンが死んだ魚のような目をしたさやかです。日常と非日常の間というか、そういうものも…。普段は明るくて活発なさやかですが、実際はそうじゃない、暗い影の様なものがあるとさんかくは個人的に思っています。そう、あの対影の魔女戦で見せた狂気や凶暴性の様なものが。そういう部分をもっと書いていきたいですねえ…
ではでは妄想の糧にもなるので、感想ありましたらぜひよろしくお願いします!