大きな振動にブリッジが揺れる。
「周囲に異常は?」
三等航海士が叫ぶ。望遠鏡を覗いたまま答える甲板員。
「周囲クリア―」
二等航海士が、機関士に指示を出す。
「エンジン及び浸水確認」
機関士が船内電話で、機関室と連絡を取る。
「エンジントラブル、浸水無し」
三等航海士は頷くと、操作スタンドの正面にある傾斜計を見る。
「傾き、15度から20度、真下にあると思われる障害物を避けるため、全速前進する」
機関士がエンジンテレグラフのレバーを握る。
「フルアヘッツー(両舷全速前進)」
N号が力強くうなりをあげる。大きな白い船体が今、全速力で大海原を掻きわけんとしていた。
* * *
「さやか」
ほむらの言葉にさやかは頷くと、立ちあがり、体育会系の男と同じように軽やかに勾配を駆け上がった。柵に手を伸ばし、下を覗き込む。
青い海の底からなにやら黒い影が見える。かなり大きい。スピードをあげたN号と一緒に黒い影も動きだす。
――鯨?それにしては大きすぎるわ
壮大な景色に見惚れながらも、さやかは必死に思考を巡らす。自然の前に、全てのものはなんと無力なものか。
「どう?」
いつの間にかさやかの傍にほむらが立つ。どうやら瞬間移動の力を使ったようだ。乱れる黒髪を抑えながら、さやかと同じように下を覗き込む。
「わからない、鯨なのかなんなのか判別できないわ」
「そうね…」
考え込むようにしてほむらが黙りこむ。しばらくして口を開いた。
「…このままだと、危ないわね」
彼女は絶対絶命の窮地に陥れば陥るほど、冷静になる。まるで人ごとのように呟くということは、この場はかなり「危険」だということだ。さやかはゾッとした。
「とにかく、下のモノがなんなのか確認して、移動できれば…」
さやかは手を口にあて、考え込む。元々、水の中はさやかのフィールドだ、海の中に飛び込めば、確認はできる。でもあんな巨大なものをどうやって移動すれば――
――ああ、そうか
さやかは思いついた。
「ほむら、私行ってくるわ」
さわやかに相方に微笑むと、さやかは柵に手を掛けた。と、ほむらの白い手がその手を掴む。強い力で。
「行くって…どういうつもり?」
微笑むさやかをしばらく睨んで、合点がいったのか、ああ、とほむらも微笑んだ。
「…頼むわね、おまわりさん」
「もう、おまわりさんは関係ないんじゃ…んっ」
襟元を掴まれ、ぐいと引き寄せられると、さやかは半ば強引に飼い主にキスをされた。
ゆっくり顔を離し、見つめ合う二人、さやかが笑みを浮かべた途端、ほむらは天使のように微笑んで、両手で相方を突き落とす。
「ちょ、ちょっと、ほ―――!」
叫びながら、さやかは一直線に海へと落ちていく。相方の白いワイシャツと海の青が映えて美しい――満足気にほむらは目を細める。派手な水音を立てて、さやかは海へと沈んだ。
* * *
ゴボ…
自らの発する泡の音以外、何も聞えない。
沈黙の蒼の世界
太陽の光に照らされた水面のなんと美しいことか。さやかは身体を動かしながら、水中を歩く。蒼い髪が水中で揺らめいている。
――水深は何メートルだろう?
底が見えない、おそらく50メートル以上はあるだろう。キョロキョロと周囲を見渡すと、N号の船底が見えた。そうしてそこに黒い大きな物体が併走していた。
あまりの巨大さにさやかは目を見開く。確かに――それは鯨だった。だがここまで巨大な鯨をさやかは見たことがない。恐らくN号を仲間か何かと思っているのだろう。自然の壮大さに、再びさやかは目を奪われる。警察の仕事や、そして魔獣退治全てが馬鹿馬鹿しくなるくらいだ。自然とはなんと壮大なのだろうか。
ォォォ……
鯨の鳴き声のようなものが聞えて、さやかが我に帰る。
――よし、そろそろ方向転換してもらわないとね
そうしてさやかは目を閉じた、かつての姿を呼び起こすために。
全神経を集中させる。
さやかの背後から「ソレ」が現れた。自然をも凌駕する巨大な存在が。
Oktavia_Von_Seckendorff
* * *
「?レーダーエコーが増えたぞ」
二等航海士が叫ぶ、三等航海士も画面に視線を向けると、確かに光点が増えていた。しかもかなり大きい。
「真下に何か巨大なものが二つもいるようですね」
鯨か、それとも潜水艦か――
轟音を立てて船が揺れた。
* * *
オープンデッキで悲鳴がところどころであがる。
「馬鹿ね…しくじったのかしら?」
柵にもたれながら、黒髪の美女が呟く。乱れた髪を気にすることもなく、海面を見つめていた。と、しばらくしてその美貌に笑みが浮かんだ。
海面から泡が出てきて、蒼い髪が現れる、いつも見慣れた相方だ。
ほむらはちらりと周囲を見やると、誰も自分を見ていないことを確かめ、柵から身を乗り出し、海へと飛び込んだ。
* * *
「レーダーエコーに動きがある」
二等航海士の言葉と同時に、見張りの甲板員からやや大きめに声があがる。
「サードオフィサー、左舷側に鯨が現れました」
どよめきと共に、他の乗組員も左舷側に視線を向ける。N号と同じくらいの大きさの巨大な黒い影が姿を現した。
「すげえ…」
操舵手が感嘆の声を漏らす。舵はオートパイロット(自動操舵)になっているので、手は下ろしたまま、鯨に見入っていた。
「…潜水艦みたいだな」
二等航海士の言葉に頷く三等航海士。もともとは、潜水艦の方が鯨を模倣したのだが。
だが、二等航海士の言う通り、鯨はかなり巨大で、まるで某国の最新鋭の潜水艦のようだった。
ゆっくりと、N号から鯨は離れていく。N号の傾斜角は0度に限りなく近くなり、安定していく。
「よし、傾斜角0度、針路固定、スローダウン」
* * *
「わあ、なんなんだ今の!」
石田が椅子を抱きながら立ちあがった。オープンデッキはまるで台風の後のような状態だ。特に大きな怪我も無かったのか、乗客はそれぞれのテーブルを起こしたり、散乱した荷物を拾い集めたりと思い思いの行動を起こしていた。白い制服を着たスタッフも応援に来る。
『ただいまの振動は鯨によるもの――ただいまの振動は鯨によるもの』
船内アナウンスで男の声が響き渡る。
『鯨は回避したので、以後、振動は起きません、怪我等異常があればスタッフまで連絡ください』
「大丈夫ですか?石田さん」
高橋が声をかける、岡田がどこか打ったのか、もたれかかっていた。
「ああ、大丈夫…てか、暁美と美樹は?」
不思議そうに石田は呟いた。そうしてきょろきょろと周囲を見渡すが、あの二人は見当たらなかった。
* * *
船内放送のマイクを置いて、二等航海士がため息をつく。
「いや、でも助かりました、セカンドオフィサーがレーダーを気にしていなかったら、対応がここまで迅速にできたかわかりません」
三等航海士が二等航海士に話しかける。二等航海士はさわやかに笑った。
「いや…サードオフィサーも同じことをしたはずだよ。なにせこんなに大きなエコーが映っているのに、肉眼で見えないなんてね」
そうしてレーダー画面を見やる。鯨のエコーが遠ざかっていく。もうひとつの突如現れたエコーは消えていた。錯覚だったか――と二等航海士が顔をあげ、左舷の窓を見やり、身体を強張らせた。
最初、大きな烏だと思った。人間ほどの大きさをした烏だと、尋常ではない大きさに内心驚きながらも凝視すると、それは烏ではなく人間だと気付いた。
恐ろしいほど美しい黒髪の女性。黒のワンピースに、黒い――羽根。ぽかん、と二等航海士の口が開く。彼女は空を飛んでいた。そして、両腕で何か白いものを抱えている――人だ。白いものはワイシャツだった。蒼い髪の女性が何やら喚きながら黒髪の女性に抱きついていた。
ありえない光景にただただ、二等航海士は身体を強張らせるばかり。と、黒髪の女性が気付いたのか、こちらを見る。見開かれる二等航海士の目。
ゆっくりと人さし指を口にあて、黒髪の女性が微笑んだ。
――誰にも言っちゃだめよ?
二等航海士は、ゆっくりと頷いた。微笑む美女。そうして、風のように姿を消した。
「……セカンドオフィサー?」
訝しがる三等航海士に、二等航海士は「なんでもない」と返答する。そうしてさらに付けくわえた。
「窓に天使がいたのでね」
海の男は美貌の悪魔を「天使」と認識した。
「そうですか…私も見たいものです」
三等航海士は、彼なりのジョークだろうと思い、優しく微笑んだ、彼自身の本音も添えながら。