『あなたにお礼がしたいのよ』
一週間前、恩師である佐藤教授から電話があった時、ほむらは驚いた。彼女にお礼がしたいと、佐藤教授がゼミの客船旅行に招待してくれたのだ。
『教授、私はそんな、何も』
『あら、あなたは私を助けてくれたわよ』
去年の大晦日、ほむらは佐藤教授の家である事件を解決した。それは教授と「絵」のモデルとなった女性の深い愛が引き起こしたものだったが。
『でもそれは私だけの力じゃありません』
そう、あの時ほむらは蒼い髪の相方と一緒だった。
『知ってますよ』
フフフ、と笑いながら佐藤は優しくほむらに言った。
『あの元気な子も連れてきなさい』
――ほむらの口角があがった。
頭をあげて、ほむらは振りかえる。
カウンターの方では、数名とグラスを交わしている佐藤教授の後姿が見える。その横に、まるで母親の傍にくっついている大きな子供のように、蒼い髪の女性が所在無げに座っていた。
フフッ
ほむらの形のいい唇から笑い声が漏れた。
――彼女の「相方」である美樹さやかもこの船に乗り込んでいたのだ。
ほむらの目が猫のように細められた。
* * * *
『え、私も参加していいの?』
朝食の時、ほむらがゼミ旅行のことを喋ると、さやかは素っ頓狂な声をあげた。
『あら、嫌なの?』
――どこだろうとさ、私はあんたについてくよ
…そう言ったじゃない、昔
それに数カ月ほど前の佐藤教授の事件には、行き先もきかずに快く応じてくれてたではないか。ほむらはコーヒーカップを持ちながら、口を尖らせた。それを見て、さやかは微笑んだ。
『全然、どこでもあんたについてくよ』
『そう…まあ当然よね』
どうでもいいとでもいう風にほむらが囁く。聞きたかった、欲しかった言葉を簡単にくれる相方の眼差しを避けるように、ほむらは伏し目がちになる。頬が微かに紅潮していた。
『あ、ほむら照れた?』
してやったりな笑顔を浮かべるさやか。むっ、としたように睨むほむら。途端にテーブルがカタカタと揺れ始める。フォークとナイフが宙に浮いてさやかの眼前で止まる。
『わあ!またこのパターン!』
思わず両手をあげてさやかはフリーズする。
『ごめんなさ…あいた!』
軽く音を立てて、白い手がさやかの額を叩く。ワンテンポ遅れたフェイント攻撃だ。手がヒットした時の相方の顔がお間抜けだったので、ほむらはくすくすと笑う。
『ひっど!反則!』
『ほら、黙って早く食べなさいな?』
そうして、さも何もなかったかのように、ほむらは優雅にフォークとナイフを操り玉子を切り取ると、さやかの口元へ運ぶ。あ、とほむらは口を開け、相方にも同じようにするよう促す。むっとした表情のまま、さやかが口を開けると、玉子を優しく押し込んだ。食べ物で気持ちが和らいだのか、目を瞑って美味しそうに中のものを咀嚼する相方を見て、ほむらは目を細めて微笑んだ。
こうして、美樹さやかもこの旅行に参加することになったのだ。
* * *
カラン、と音を立ててグラスが鳴る。グラスの中には琥珀色の液体。
ここのお酒は中々美味い。美樹さやかは口元を緩めて、バーテンに「同じモノを」とおかわりを頼んだ。
「あら、やっと打ち解けてきたみたいね」
傍にいる初老の女性教授が微笑む。蒼い髪の女性を彼女はまるでわが子のように優しく見つめていた。さやかは頭を掻きながら、えへへと笑う。
――いつもへらへらしているんですよ、あのひと
黒髪の教え子が、同居人への不満を大層嬉しそうに喋っていたのを、清子は思いだす。清子自身は、さやかのこの笑顔をかなり気に入った。「へらへら」というより、犬が愛想よく尻尾を振りながら見せる表情に似ていると思った。まあ、確かに可愛いが、それもまたお間抜けな顔ではある。
「ええ、なんとか、先生のおかげです」
さやかは照れたように言う。当然だ、先ほどまでさやかは所在無げに一人カウンターで酒を飲んでいたからだ。清子教授の計らいで、「知り合い」として、OGのほむらと共にゼミ旅行に参加できたとはいえ、さやかは哲学という、全く違う専攻の出身だ。完全にアウェイな気がして気遅れしていたのだ。佐藤教授がカウンターで一緒に飲んでくれるようになってから、数名のゼミ生とも話をするようになり、ようやく落ち着いてきたところだ。
「そうよかったわ、じゃあ、私はこれで…」
「ちょ、ちょっとちょっと!待ってくださいっ、もう少しだけでも!」
慌ててさやかが清子の腕をすがるように、両手で掴む。コロコロと笑う清子、どうやらからかっているらしい。年齢の割に彼女はユーモア精神があった。
「あらあら、甘えん坊さんね」
「だって…」
どうにも、まだ清子無しでは心もとないらしい、さやかは縋るように初老の女性を見つめる。黒髪の教え子が彼女を放っておけないのが分かる気がする。
「仕方ないわねえ、じゃあもう少しだけよ?」
こくりと嬉しそうにさやかは頷くと、バーテンの差し出したグラスを口に傾けた。
* * *
「ねえ、あの人誰なのかな?」
「え?ああ、あのカウンター佐藤教授と喋っている人?」
副ゼミ長の女性が、高橋に話しかける。
「ああ、あの蒼い髪の人はね、佐藤教授の知り合いなんだって」
「へえ…うちの専攻じゃないよね」
興味深げに女子学生はさやかを見る。美樹さやかは不思議と同性に興味を持たれることがしばしばある。はあ、とほむらはため息をついた。
「同居人よ」
え?と高橋と女子学生が不思議そうにほむらを見る。
ほむらが、アメジストの瞳を女子学生に向けた。あまりの美しさに、女子学生は顔を赤くして固まった。
「私の家の同居人なの」
「え…暁美さんと一緒に暮らしているんですか?」
「そうよ、もう長い間ずっとね」
高橋が思わず「羨ましい」と漏らし、周囲から笑い声が起こった。そんな高橋の肩を叩き萩原が「お前は正直だなあ」とニヤリと笑う。じっ、とほむらが見つめるものだから、女子学生は顔を赤らめて、伏せた。
「ああ、思い出した、美樹だ、いつも暁美と一緒にいたよなあ」
茶髪の男が目を輝かせてしゃべる。女子学生は今度は茶髪の男に視線を向け、そうなんですか?と訪ねた。ほむらの目が険しくなる。男が自慢げに喋ろうとした時、萩原がおっ、と声をあげた。トランプの札を持ちながら、悦に入った表情を浮かべる。
「悪いな、あがりだ」
そう言って、萩原は得意げにカードを置いた。
「……」
ほむらは黙ってカードを置く、2番手あがり。
「わあ、萩原さんってトランプ強いんですねえ」
副ゼミ長が感嘆の声をあげた。いい気になったのか、男は腕を組んで自分がいかに運が強いのかを過去の出来事と絡めて語りだした。そこそこ成功を収めている中年男の脱線していく話に、皆、半ば辟易する。その中でほむらだけは涼しい顔で目を瞑っていた。相方の話題から逸れただけでもましと思っているのか。
「ところで暁美さんよお」
いきなり萩原が馴れなれしくほむらの名を口にする。
話を聞いていなかったのか、ほむらの反応はかなり遅かった。周囲がざわつきはじめた頃、ようやくほむらは目を開く。
アメジストの瞳が萩原を捉えた。
思わず萩原は唸る。そのにやけた顔から笑いは消えた。
――恐ろしいほど美しいのよ
いつだったか、彼女の美貌を称えた佐藤教授の言葉を思い出す。
この世のものじゃない…と、萩原は思った。手がいつの間にかカタカタと震えている。彼女の瞳を覗き込んだ瞬間、何か得体の知れない、底知れない恐怖を萩原は感じたのだ。
…だが、そこがいい
世俗に染まった男は、再びにやけた下卑た笑みを顔に貼り付けた。その恐怖さえも、彼女の妖艶な魅力と共に萩原にとっては刺激的なものだった。
「賭けをしねえか?ポーカーで…」
ぎらぎらした目でこちらを見てくる男に、半ばあきれたようにほむらは失笑する。いや、冷笑なのかもしれない。
「何を?」
ようやくほむらが口を聞いてくれたことにいい気になったのか、萩原は身を乗り出して囁いた。
「あんたとデートがしたい」
ざわ…とテーブルがざわついた。
女性に対する礼儀を欠いた男の申し出に、副ゼミ長が不快感を顔に露わにする。
「ちょっと、萩原さん、それってセクハラ…」
「あなたは」
副ゼミ長の言葉を遮ってほむらが口を開く。
「何を賭けるの?」
「何でも、何でも賭けるぜ…」
「そう…」
ニヤリとほむらが笑った。そうしてゆっくりとカウンターへ視線を向けた――