「ポートテン(左に10度)」
「ポートテンサー(左に10度了解)」
二等航海士の指示に従い、クォーターマスター(操舵を担当する甲板員・操舵手)が
舵を操る。船の操縦は車と違い複数で行う(漁船やタグボードなどの船、小型船は別)。N号のような客船の場合、ブリッジに当直航海士、操舵手、見張りなど船員が数多くいる。広い海原だが船はブレーキはついていない、すぐに止まることもできない、舵の効きも時間差がある。また海象、波の大きさによっても針路の微調整が伴う。大きな動く建造物をこれまた動く滑走路で操縦するようなものだ。細心の注意を払って二等航海士は指示をした。
月の明かりを元に、二等航海士は空と海の境界線を探す。暗い水平線がうっすらと見え、 そこに二つ三つと灯火が見える。おそらく漁船だろう。水平線から目測で漁船との距離を測ることができる。8マイル以上離れており、灯火に動きはないおそらく漂泊しているのだろう。二等航海士は針路固定の指示を出した。
* * *
船内の客室スペース内を二人の男が歩いている。時間は午前三時、それぞれ室内で思い思いの時を過ごしているか、あるいは夢の世界の住人となっているこの時間、何故か萩原は軽薄な茶髪の男とつるんでいた。
「おい…本当に見たのか?」
「ほ、本当…」
茶髪の男は言葉も途切れ途切れに頷いた。萩原は眉をしかめる。数時間前トランプを興じていた時のノリのよい明るい雰囲気はかけらもない。幽霊という存在を信じない世俗にまみれた男は、彼の青ざめた顔を見て、ケッ、と笑う。
「情けないなあ、お前男だろう?というより、こんな時間まで何してた?」
「え、えへへ実は元カノと電話してたらこんな時間になってて」
海に出ると、電波が届かなくなり、携帯がつながらなくなることもある。部屋の中では通話ができずに外で話してたということか。頭を掻きながらへらへら笑う男を見て、萩原は心底嫌そうな表情を浮かべた。
――フルハウスよ
へらへら笑いながら、自分よりも上位の役を引き当てた蒼い髪の女性を思い出す。
――ちっくしょう…おぼえてろ
舌打ちして、前を向く。船内の客室スペースは淡い照明のおかげで比較的明るい。清掃の行き届いた赤い絨毯に、たまご色の壁、すべてが豪奢なつくりだ。
「おい、どのあたりで見たんだ?」
萩原が男を見下ろす。がっしりとした体躯の萩原は、上背もある。ひょろりとした茶髪の男は少しばかり目線をあげて口を開いた。顔はまだ青ざめている。
「あの先の…ひ…」
萩原を見つめた後、場所を示そうと視線をそこに変えた途端、茶髪の男の目が見開かれた。
「おい…どうした?」
萩原は男の肩に手を置くと、乱暴に揺する。だが男の身体は硬直して、視線は動かない。その表情は青ざめ、恐怖で慄いている。怪訝そうに眉をひそめ萩原がその視線を追う。
――特に何もない
穏やかな光のもと豪奢な雰囲気を漂わせている船内には何もない。
はあ、と萩原はため息をつき、今度は男の腕を拳で軽く叩く。
「おい、馬鹿、しっかりしろ、何もないじゃないか…それとも俺をからかっているのか?」
「違…あ、あんた見えないのかよ?マジか?」
恐怖で顔を強張らせながら、男は泣きそうな声で叫ぶ。指で前方を差し示す。ちょうど3mほど先の個室のドアの前だ。
「女の人だよ!女の人が立ってるんだってば…」
「馬鹿…何もねえよ、ほら行くぞ」
そう言って、萩原はそのドアの前へ向かう。
「ま、待って、行っちゃだめだって!」
「しっかりしろ、ほら…」
嫌がる男の腕を掴み、半ば強引にドアの前まで引き摺るように歩く。そうしてドアの前に着くと、萩原は得意げな顔で男を見下ろした。
「どうだ?いないだろう、そんなもの」
「ひぃ…き、消えた…」
「馬鹿!最初からいないんだって…」
男を怒鳴ろうとした萩原の声が途中で止まる。ドアがゆっくりと開いたからだ。
萩原の身体が強張り、その口元に自分の手をあてる。
――しまった、こんな時間に非常識だった…
そう、こんな時間にドアの前で騒がれたら迷惑以外の何物でもない。萩原は覚悟して部屋の住人に謝罪しようと心を決めたが
「…佐藤教授?」
「あら、萩原君じゃないの…どうしたの?」
ドアから顔を出したのは恩師である初老の女性だった。寝間着にストールを巻いてやや眠たそうに萩原を見あげている。
202号室――ここは教授の部屋だったのか
「す…すみません教授こんな時間に…」
「あらあら、石田君まで、一体?」
「せ、先生!ゆ、幽霊が」
「馬鹿!」
萩原が茶髪の男――石田の頭を軽く叩く。
――こんな非現実的な事を恩師に喋る奴がいるか?しかも、化学を専攻した奴が。
だが佐藤教授はまるで子供が騒いでいるのをしょうがない、とでも言う様に微笑む。その微笑みに、萩原は得も言われぬ気持ちになり、心が痛くなる。ああ、きっとこの人は他人を責めるなんてこと思いもつかないのだ。
「あらあら、石田君がそんなこと言うなんてねえ、それでどんな方なの、その幽霊って」
調子を合わせて、佐藤は石田に優しく微笑みながら尋ねる。
「な…長い黒髪の女の人で、さっきも、ドアの前にいたんです!」
「黒髪?」
一瞬怪訝そうな表情を浮かべる佐藤だが、すぐに穏やかに微笑み。
「石田君、暁美さんがあまりに美しいものだから、脳内に残像でも残っているのではないの?」
「ひあ?ち、違いますよ、暁美じゃなくて、まったく違う人でしたってば!」
そう、石田は暁美ほむらと同期のゼミ生である。佐藤は何度も彼がほむらにモーションをかけているのを見ていた。だがほむらの方は実験以外はいたって無関心で、おそらく石田のことは覚えていないだろう。白衣を着けた、ゼミ生時代の二人を思い出し、ふふ、と佐藤は笑う。そうして、肩をすくめ、佐藤は石田に優しく言った。
「とりあえず、今日はもう寝なさい二人とも?今日もイベントが目白押しよ?…私も朝は用事があるのだし」
「あ、すみません教授、ほら!行くぞ…石田」
萩原はしょぼくれた男の腕を掴んだ。おそらく今更名前を知ったのだろう、すこしぎこちなく名前を呼ぶ。石田は頷くと、萩原と共に教授に非礼を詫びて歩き出した。
「ったく…お前ほんとお騒がせな奴だな、ちゃんと社会人してんのか?」
「………だって、ほんとに見たのに」
萩原の話を聞かず、子供のように口を尖らせる男を見て、萩原はため息をついた。
「おい、こんな夜中に付き合わされた俺の身にもなれよ、夜、酒を奢…どうした?」
石田がまた身体を強張らせて動かなくなったからだ。そうしてゆっくりと後ろを振り返る。
…またかよ、と思いながら萩原も振り返る。
今度こそ、萩原も動かなくなった。
先ほどのドアの前に人が立っていた。
女だ、長い黒髪の。
「ひ…」
萩原の至近距離で、石田の歯がカタカタと鳴る音がする。縋るように萩原のがっしりした腰に石田の手が回された。気持ち悪いと思う余裕は萩原にはなかった。
濡れそぼった髪の下の白い顔、死んだような魚の眼で二人を凝視している。蒼白い顔のひび割れた口元が動いた。
「…ドウ……シテ…?」
「うおおおおああああああああ!」
「ひいいいい!」
石田をまるで恋人のように強く抱きしめて、萩原は絶叫した。