枯れ葉が舞い散る秋口の深夜。街全体が寝静まっているような時間帯に、彼は公園に足を踏み入れた。
「さて、と。いい感じにあるといいんだが」
呟きながら、彼・・・・・・海野信二(うみのしんじ)はのっそりとした動きで木々が生えている場所へと向かっていく。薄汚れた身なりに、疲れ切った表情。年の頃は50代程に見える彼は、どうやらホームレスのようだ。
月の光を頼りに、海野は目を細めながら進んでいく。小さな林のようになっている場所に入ると、地面をじぃっと見つめながら何かを探しているように見えた。
「ん・・・・・・あるな」
枯れ葉を押しのけるように、地面から生えているものがある。キノコだ。長年の経験から食べられるものだけを選別し、膝の痛みを堪えながら麻袋の中へと放り込んでいく。誰も採っていないのだろう、みるみる内に麻袋は一杯になり、海野は満足気に頷いた。
「これだけあれば十分か・・・・・・ん?」
成果を確認していた海野は、少し遠くに妙なものがあることに気付く。淡い月明かりに照らされているそれは、遠目には服か何かに見えた。
(ありがてぇ、暖を取れるもんならなんでも歓迎だ)
早速回収しようと近付いていくと、どうやらそれは服ではないようだ。全身を覆うような作りのそれは、ぱっと見薄く作られた着ぐるみのように見える。ぺらぺらなのに精巧な出来で、どうやら、フリフリの服を着た少女を模しているように海野は感じた。
「なんだ、こりゃ」
見当も付かないが、まぁ戦利品に違いは無い。拾い上げたそれを麻袋に突っ込みながら、海野は公園を後にした。
「ふぅ・・・・・・」
高架下。トタンやベニヤ板、ダンボールで作られた我が家に戻ってきた海野は、どっかりと座り込んで新聞紙が敷かれている場所にキノコを放り出す。手回し式の懐中電灯の明かりの下、乾くように均等に並べながら、一緒に出てきた変なスーツのようなものを眺めた。
「うぅむ・・・・・・初めて見るな、こんなものは。流行りなのかねぇ」
ブツブツと呟きながら作業を続けると、家の中に入ってくるものがあった。振り向くと、雑種の犬が尻尾を振りながら小さく吠える。そのまま海野にじゃれついてくる姿はとても愛らしい。
「わん、へっへっへ」
「大吉か。悪いがこいつは食わせられんぞ」
この犬は、海野が暮らしている周辺で生きている野良犬だ。海野が名付け親の大吉は、子犬の頃に衰弱している所をホームレス達に助けられ、それ以来懐かれている。この辺りで困窮する日々を過ごしているホームレス達にとっては、人懐っこい大吉は一種の癒しであることに間違いは無かった。
「ほれ、こいつでもかじってろ」
先日食べたネズミの骨を大吉に放ると、嬉しそうに尻尾を振りながらばりばりと食べ始めた。その様子に苦笑しつつ、海野はキノコを並べる作業に戻る。と、
「あ、おい、お前」
あっという間に骨をかじり尽くした大吉は、横に置いておいたスーツのようなものに潜り込もうとしている。海野は止めようとしたが、大吉は構わず潜り込み、そして、
「きゃうんっ!?」
悲鳴のような大吉の吠え声。一体何があったのかと海野が目を凝らすと、スーツがまるで生き物のように蠢いて大吉を包み込んでいく。
「な、なんだぁ!?」
驚きの声を上げながらも、大吉を助けようとスーツに掴みかかる海野。しかし、スーツを引き剥がすことは出来ず、大吉は飲み込まれてしまった。なおも蠢き続けるスーツは形を変え、人型に膨らんで、そして。
「は、あぁ!!?」
蠢き終わった後。そこには、色鮮やかなフリフリ衣装を着た小学校高学年程の少女が横たわっていた。恐ろしいものを目の当たりにしたように、海野は目を見開き後ずさる。
「ど、どういうこった?」
その少女は気を失っているようだ。しかし、元は何かの着ぐるみかスーツだったものが人間になることなどありえない。
(それに、大吉はどこ行っちまったんだ!?)
おそるおそる、気を失っている少女に近付く。胸が微かに上下しているため生きているようだが、もし他の者にバレれば誘拐と勘違いされることもありえた。
(畜生、とりあえず起こすしかないか・・・・・・!)
「おい、嬢ちゃん、生きてるか?生きてるよな?起きてくれって」
海野は少女の肩を掴み軽く揺する。すると、吐息と共に少女の目がうっすらと開いた。
「う、うぅ・・・・・・?」
「お!嬢ちゃん、大丈夫か?」
ほっとしながら海野が声をかけると、少女は開いた目で彼の顔を確認した途端、跳ねるように起き上がって抱き着いてきた。
「ばう、わんわん!」
「うぉっと!?な、なんだぁ!?」
少女は海野に抱き着きながら、ぺろぺろと舌で顔を舐めてくる。まるで犬のような振る舞いだ。全身で喜びを表すその姿に、海野は存在しない尻尾がぶんぶんと振られているのを幻視してしまう。突然のことに、抱き留めた海野の腰と肩が悲鳴を上げた。
(なんだっ、変なクスリでもやってるのか!?大吉みたいなことしやがって!)
と、ここでさっきの奇妙な光景が脳裏をよぎった。スーツのようなものに大吉が潜り込んだ瞬間、それが生き物のように蠢いて大吉を包み込んだ時のことを。
(ま、まさか・・・・・・)
ありえない。ひと昔前の怪奇小説でも、そんな荒唐無稽なことは無かった。海野は浮かんだ考えを振り払うように、しかし及び腰になりながら呟いた。
「だ、大吉、か?」
「わん、わん!へっへっへっ」
名前を呼ばれた少女は嬉しそうに鳴き、満面の笑みで海野を見つめている。間違い無い、見た目は妙な服を着た少女だが、彼女は大吉だ。
「いや、お前オスだろうが!なんでこんなめんこい嬢ちゃんに・・・・・・」
見当は外れなことを言いながら、いつものようにわしゃわしゃと頭を撫で繰り回した。目を細め気持ちよさそうな表情をする大吉だが、海野の手に伝わってくる感触はいつもと全く違う。さらさらの髪の毛はツインテールに纏めてあり、顔はぷにぷにと弾力のある肌に覆われている。へっへっへっという吐息は何故か甘いような匂いがして、普段の大吉とのギャップに海野は頭がくらくらとしてしまった。
(どういうことなんだ・・・・・・?全然分からん、あの変な着ぐるみみたいなのが原因なのか?)
混乱と動揺で汗をかき始めながら、海野はなんとか少女・・・・・・大吉を押し返そうとするが上手くいかない。見た目に似合わず結構な力があるようで、長いホームレス生活で消耗した海野の力では押し返しきれないのだ。と、
「・・・・・・げ」
海野は、股間がむくむくと大きくなる感覚を受け、顔をしかめた。確かに女性経験は10年以上無いが、まさかこんな年端もいかない少女、しかも中身は大吉なのに興奮してしまうとは。海野は嫌悪感を感じながら溜め息を吐き、現状をどうしかしなければと考え始めた。
「はぁ・・・・・・結局これ、どうすりゃいいんだ?誰かにバレたら流石にコトだぞ」
じゃれついてくる少女姿の大吉をあしらいながら、なんでこうなったのかを思い返す。スーツが生き物のように大吉を包み込むその様は、まるで捕食の様だった。
(・・・・・・待てよ。もしかして・・・・・・いや、まさか)
ふと思いついた海野は大吉を抱き上げるようにして全身を確かめ始めた。幼いとは言えどどこも柔らかい体の感触を意識しないようにしながら、何か手がかりは無いかと目を凝らす。
「・・・・・・ん?」
首の裏辺りに、妙なものがある。ファスナーのように見えるそれは、海野には肌に直接くっ付いているように見えた。
「こりゃ、なんだ・・・・・・?」
持ち手の部分をつまみ動かしてみると、どうやら本当にファスナーのようで下ろしていくことが出来る。不気味さを感じる海野だが、今更のことだと首を振って一気に下ろしてみた。すると、
ぷしゅうううううう
「きゃうんっ!!」
「うおぉっ!?」
大吉の鳴き声とともに、下ろした部分から空気が噴き出す。少女の肉体はみるみる内に縮み、平べったくなっていき、挙句スーツのようなものに戻ってしまった。さらに、そのスーツがもぞもぞと動いたと思えば大吉が顔を出す。
「きゅう、くぅん・・・・・・」
「だ、大吉!無事か、おい!」
大吉を抱き上げて様子を見るが、どうやら命に別状は無さそうだ。どことなく混乱しているような大吉を胸の中で撫でながら、海野は今起きたことを考える。
(し、信じられねえ。この着ぐるみ、なんなんだ?)
今まで生きてきた人生でも、こんなものは無かった。十数年前にホームレスになってから世間に疎くはなっているが、こんなものが一般的になっていることはありえない。海野は恐怖と動揺で脳が痺れるような感覚を覚えながら、スーツを隅に押しやり逃避するように寝転がる。大吉の温もりが伝わってくる中、しかし海野は悪寒を感じずにはいられなかった。
翌日。あんなことがあっても、習慣通りに海野は目を覚ました。どうやら大吉は先に起きてしまったようで、家の中には見当たらない。顔が湿っているのは、おそらく大吉に舐め回されたからだろう。
「ん、んん・・・・・・」
上半身を起こし、あちこちが痛む体で伸びをする。ちらりと隅に目をやると、謎のスーツは依然としてそこに存在していた。くしゃりと丸まったその姿は、精巧に少女の姿を模しているからこそ不気味に思える。目を逸らし、海野は家の外へと出た。
高架下、秋晴れの風が吹く中で軽くストレッチをする海野に、通りがかりの青年が話しかける。風体から見て、彼もホームレスのようだ。
「はよっす、ウミさん。昨日少し騒がしかったけど何かあったんですか?」
「おー。大吉がじゃれてきてな。そうだ、キノコ採ってきたから少し持ってけ」
「マジですか、あざっす!あ、代わりにテナガエビのスープ残ってるんで持ってきますね!」
海野は急いで走っていった青年を見て苦笑しつつ、痛む肩を回してぽきぽきと音を鳴らした。
(年は取りたくねえもんだ)
ふと、昨日のことが頭に浮かぶ。もしかしたら、夢だったのかもしれない。しかし現実にスーツのようなものは家の隅にあるし、青年の言葉からも何かがあったと思われる。きっと、現実にあったことなのだろう。
(面倒事は、勘弁してほしいが)
屈伸しながら、海野はあのスーツのことを考える。夢ではなく現実だったとして、あれをどうすればいいのか。一番いいのは適当な場所に捨ててくることだが、あれを持ち運ぶと大吉のように捕食されてしまいそうだ。
(いっそ、どっかの会社とかに売れねえか?いや、ホームレスの言葉を真剣に聞く真人間なんざいないか)
つらつらと考えながら、一通りのストレッチを終わらせ、青年に渡すためのキノコを見繕おうと家の中に入る。相変わらずスーツは隅にあるが、目に入れないようにしながらいくつかのキノコを拾い集めたビニール袋に入れていった。
(大体、実際にこの目で見た俺でも半信半疑なんだ。あんな馬鹿みたいなこと、誰も信じやしねえ)
はぁ、と溜め息を吐く。目先の問題を先送りにしながら家を出ると、丁度青年がプラスチックのお椀を持って歩いてくる所だった。表面上は平静に接しながら、海野の脳裏にはスーツのことがべったりとへばりついている。そのまま、海野は不安げな一日を過ごすのだった。
「いてててて・・・・・・」
夜。海野は家の中で膝をさすっていた。夕方、近所の広場で行われていた炊き出しに行った時、人とぶつかり転んでしまったのだ。幸い大怪我にはならなかったものの、痛みは残り、腫れて熱を持っているようにも思える。顔をしかめながら海野は呟いた。
「はぁ・・・・・・潮時、かねぇ」
元々、海野はホームレスになる前はある大企業に勤める社会人だった。しかし、十数年前に企業の不正が発覚した時、身に覚えの無い責任を無理やり被せられ辞職。仕事一筋だった海野は呆然となって気力を失ってしまい、気が付けばホームレスにまで身を落としていたのだ。
元々、こんな身分で長生き出来るとは思っていない。まだ命があるから生きているというだけのことだ。体が限界を迎えたのなら潔く死ぬ。それも運命ではないのか。
「大吉は、他の奴らが世話してくれるだろうしな」
諦観の声を漏らしながら、海野は段ボールの布団に寝転がった。今日は大吉はいないので、追加の段ボールを体にかけて寒さを凌ごうとする。
(若いあいつが羨ましいよ・・・・・・)
今朝の青年の姿を思い浮かべながら寝返りを打つと、視界に例のスーツが映り込んだ。それを見て、ふと海野は思った。思って、しまった。
(・・・・・・俺が、あれを着たら。どうなるんだ・・・・・・?)
犬である大吉が来た時は、少女の体になった。ならば、自分が着ればあの若々しい体になれるのでは・・・・・・?
(いや、いや!あんな訳の分からないものに手を出したらロクなことにならねぇ。・・・・・・だけど)
もし、人生をやり直せるのなら。もし、若い体を自分のものに出来るのなら。そんな、胡乱でよこしまな考えが頭に浮かび離れない。まるで耳元で悪魔に囁かれているかのように、海野は手を伸ばしてスーツを手に取ってしまう。
「駄目だ、いけないだろこいつは・・・・・・」
呟きながらも、彼の衝動は止まらない。起き上がり、背中部分の切れ込みから手足を入れようとする。
「ん、んん・・・・・・」
思っていたよりもしっとりとした肌触りを感じ、海野は辛うじて残った理性で躊躇する。しかし、それだけだった。躊躇の後、思い切って体を突っ込んでいき、頭までスーツを纏うとする海野。スーツが体に張り付き、みしみしと骨が軋む。
「っぐ、が、ぁ・・・・・・!」
全身に激痛が走る。まるで、体が作り変えられていくような感覚。骨が軋み、肉が踊り、自分が自分では無くなっていくかのような衝撃。初めて味わう痛みと刺激の大波に海野は圧倒され、意識を手放した。
「ぐ・・・・・・」
日が昇り始めた明け方。全身が軋むような、妙な気分で目が覚めた。海野はのっそりと起き上がり、軋みを振り払うように頭を振る。
(俺は、確か・・・・・・そ、そうだ!)
気絶直前のことを思い出し、自分の体を見下ろして確認する。
「っ!!」
暗い家の中のはずなのに、はっきりと見える。フリルの装飾が多い色鮮やかな服に、膨らみかけの胸。腰も肩も痛まず、何より細長くしなやかな手足は間違いなく自分のものでは無かった。
「こ、これは・・・・・・!」
口から漏れる声は鈴を転がしたかのような可愛らしいもので、海野は思わず口を抑える。いつものがさがさとした感触ではない、ハリのある弾力が手のひらに伝わってきた。手持ち鏡代わりのガラスに顔を映してみると、間違いない、あの時大吉だった少女そのものだった。
「ほ、本当に俺なのか、この子が」
もちもちとした感触の頬をさわりながら、呆然と海野は呟く。魔が差したとはいえ、本当に自身が少女になってしまうとは。喜びよりも戸惑いが大きい表情で、海野はまじまじとガラスを眺めた。
「・・・・・・って、そうだ、これ戻れるのか?」
一生このままかもしれないという恐怖が湧き上がり、慌てて首の後ろを確認する。手で触れた感じでは、どうやら大吉の時のようなファスナーのつまみがあるようだ。これならいつでも元に戻れるだろう。ほっと息を吐いて、胡坐をかいて座り込む。と、
「ん、あ・・・・・・」
ただでさえ短いスカートを履いているというのに胡坐をかいたせいで、薄ピンク色のパンツが丸見えになっていた。視界に映り込んでしまったそれに、海野は目が離せない。
「こ、これも俺の体なんだよな・・・・・・いや、どうなってるんだよ本当に・・・・・・」
ブツブツと呟きながら、そぉっとパンツに手を伸ばす。細く白い綺麗な手が股間に近付き、しっとりした肌触りのパンツへと触れた。
「う、ぉ」
確かに、触られている感触がある。のっぺりとした感じは、男と時とは大違いだ。海野は目を白黒させながら、股間に何もついていないという事実を実感して手を引っ込めた。心臓がバクバクと脈打ち、息が徐々に荒くなってくる。
「いや、いやいや。落ち着け、今ならもしかして」
海野は立ち上がる。今の体なら、街中を普通に歩いても怪しまれないかもしれない。いや、こんな年頃の子が早朝に歩いていたら不自然では?思考がぐるぐると回りながらも、海野は家を出て歩き始めた。
「っ・・・・・・」
日の出の光に照らされ始めた街中を、小学高学年程の少女が歩いている。周囲を気にしている様子の彼女は、まるで漫画やアニメの世界から飛び出てきたかのような可愛らしく派手な格好をしていた。
少女は慎重に、人通りの少ない歩道を進んでいく。人とすれ違う度に僅かに体が震え、訝しげな目線を向けられると俯き早歩きになる。明らかに挙動不審な少女・・・・・・海野は、内心酷く緊張していた。
(ば、バレてないんだよな・・・・・・!?女装趣味の変態とでも思われたらコトだぞ!)
しかし、カーブミラーに映った自身の姿はどう見ても少女にしか見えない。目立つ服装を着ていることを差し引けば、怪しまれる様子は無いはずだ。そう理解しながらも、海野の心臓は早鐘を打っている。そもそも、大手を振って街中を歩くということ自体が久しぶりなのだ。
「ふ、ぅぅぅ・・・・・・」
海野は、先日来た公園に入ってベンチにどかりと座り込んだ。大して歩いていないのに妙に疲れている。肉体的にではなく、精神的に。
「でも、なぁ。やっぱいいよなぁ・・・・・・」
海野は自身の膝を見下ろす。つるつるとした膝小僧には傷もしわも無く、肌は瑞々しい。先日ここまで歩いてきた時にはあった痛みもまるで感じない。膝だけではない、腰も、肩も、首も。体全体が若返ったような気分だ。いや、実際に若返っているのかもしれない。
「それに、侮蔑の目で見られることも無いしよ」
ここに来るまで、確かに多少目立っていたがマイナス感情混じりの視線を向けられることは無かった。誰に疎まれることも無く、普通に街中を歩くことが出来る。十数年前には当然だったその事実が、身に染みるように嬉しい。
(ずっとこの体でいるわけにはいかないが、たまにはこうやって散歩するのもいいかもなぁ・・・・・・)
普遍的なはずのことに幸せを感じながらぼんやりとベンチに座っていると、ふと誰かが近付いてきているのが視界の隅に映った。ランニングウェアを身に纏った男性は、ベンチ近くの自販機に用があったらしく飲料水を購入している。と、ちらりと海野を見やると声をかけてきた。
「君、こんな朝早くに一人かい?」
「え、あ」
声をかけられるとは思っていなかった海野は、驚きどもりながら、ひとまず頷いた。
「家出か何かかな?悪いことは言わない、早く家に帰りなさい。ここ最近は、夜じゃなくても悪い人に目を付けられるかもしれないからね。ただでさえ、最近この辺りをホームレスがうろついていたって噂もあるんだから」
最初こそ男性の言葉を大人しく聞いていたが、その物言いにカチンと来てしまった。立ち上がり、男性に食って掛かる。
「あんたに何が分かるってんだ、えぇ?事情も知らないのに知ったような口を聞いてるんじゃない!」
見た目からは想像できない乱暴な言葉に男性がぽかんとしている間に、海野は憤然とした様子でその場から立ち去った。あの男性にはそんな意図は無かっただろうが、海野の心をささくれさせるには十分な言葉だったのだ。
(はっ!ホームレスは「悪い人」ってか!あるいはドブネズミか何かみたいな扱いじゃないか!クソッ、俺だって好きでホームレスになった訳じゃ・・・・・・!)
苛立ちを浮かべながら大股で歩いていく。やや人通りが増えた街並みも目に入らず、海野は高架下の我が家へと戻ろうとのしのし進んでいった。と、
「あー、そこの君。ちょっといいかな?」
「あぁ!?」
怒りのままに声を荒げて振り返ると、そこには壮年の男性が立っている。青い制服に帽子、ホームレスである海野にとっては警戒すべき存在。警察官だった。
「そう、君だ。こんな時間に一人でどうしたんだい?少し、お話を聞かせてもらえるかな」
警察官が近付いてくる。安心させようとしているのか、その顔にはにこやかな笑みが浮かんでいた。海野は焦る。元の体でも、今の体でも面倒事になる予感しかしない。
(こ、この体のことがバレるのは不味いっ・・・・・・!どっかの研究所に送られるかもしれん!)
精神的動揺を抑えられない海野は、すぐに踵を返して走り出した。腰も膝も悪くない少女の体はあっという間に加速し、街中を駆け抜けていく。
「あっこら、待ちなさい!」
警察官の声を背に受けながら、海野はがむしゃらに走る。追いつかれたら終わりだ。焦燥感に呑まれながら、警察官を振り切るために狭い路地を選んで出鱈目に進み続けた。やがて若い体にも限界が訪れ、海野は息を切らしてその場にへたり込んだ。
「はぁっ、はぁっ、んぐっ、はぁっ・・・・・・!」
なんとか息を整えながら辺りを見渡す。そこはどこか埃っぽい、空き家が連なる路地だった。おもちゃ屋や雑貨屋、本屋や花屋などが並んでいる。足音や声が聞こえてこないことから、どうやら警察官は振り切れたようだ。
「どこ、だ、ここ?」
十数年前の記憶も、ホームレスになってからも、こんな場所に見覚えは無い。振り返っても似たような光景が続いていて、どうやってここに来たのかも分からない。完全に、迷ってしまったようだ。
(ま、まぁいい。警察を振り切れたんだ、よしとしよう)
心と体を落ち着けつつ、海野はゆっくりと立ち上がる。早く家に戻り、この着ぐるみだかスーツだか分からないものを脱ごう。いや、いっそここで脱いでしまっても・・・・・・。
「おや、珍しい。本当に珍しいねぇ」
人気の無いはずの場所に声が響き、海野はびくりと体を震わせる。声の主を探すと、近くの空き家だと思っていた家の扉が開き、少女がこちらを見つめていた。
年の頃は今の海野と同じくらいだろうか。椿柄の和服に身を包み、さらりとした黒髪の腰の辺りまで伸ばした少女は海野を見てニヤニヤと笑っている。
「なんだ、そんなに俺がおかしいか」
先ほどの怒りと焦り、そして迷子になってる不安から噛みつくように少女に言う。少女は袖で口元を隠しながら、たおやかに首を振った。
「いや、君がおかしいわけではないさ。ただ、君が今身に纏っているものが、ちょっとね」
どくん。治まりかけていた心臓が再び跳ねる。予想だにしなかったその言葉に、海野は表情を強張らせながら少女を見つめた。
「お前、なんで・・・・・・っ」
「なんでも何も、元は私が販売した皮だからねぇ。大方、どこかに廃棄されたものを拾ったんだろうけど・・・・・・ふむ」
品定めするような視線。どこか不気味な雰囲気を漂わせながら、少女は愉しそうに言葉を続ける。
「随分と相性がいいようだ。これも奇縁、ということかねぇ」
「な、何を訳の分からないことを」
少女の底知れなさに気圧されながらも、何とか呟いた。少女はそんな海野を見て微笑みながら、そっと手を招く。まるで、異界に誘う妖怪か何かのようだ。
「さ、こちらにおいで。それを君に合うように調整してあげよう。なに、心配することは無いよ。すぐに済む」
(な、何者なんだこの嬢ちゃんは・・・・・・!?)
海野は、異様な状況と異様な少女の物言いに怖気づいてしまう。しかし、彼の心とは裏腹に体は一歩、一歩と少女の方へと向かっていった。
「な、は、あぁ!?」
混乱している間に、海野は操られたかのように少女がいる空き家へと脚を踏み入れてしまう。そこは、呉服屋のように反物がずらりと並べられた店だった。ただ一つ、並んでいる反物が全て人の肌のような色をしていることを除けば。
「ひっ・・・・・・!?」
海野の口から可愛らしい悲鳴が漏れる。はやく、逃げなくては。そう思っても足は動かず、着物の少女が近付いてきた。少女の顔が目の前まで来た所で、海野はあまりの恐怖に失神してしまう。最後に彼の耳に届いたのは、優しげな少女の声だった。
「安心しておくれ。君を、幸せにしてあげよう」
「・・・・・・はっ!?」
がばり。海野は一気に飛び起きて、辺りを見渡す。さっきまでいた少女はおらず、おぞましい店の中でもない。それどころか、あの不気味な路地ですらなかった。
「ここ、は」
どうやら、男性に声をかけられた時の公園、そのベンチに寝かされていたようだ。既に時間は昼下がり、公園内では親子連れで子供を遊ばせている様子が見える。
「ゆ、夢・・・・・・だったのか?」
海野は呆然と呟き、考える。ベンチに座った時に眠ってしまい、その間に見た夢なのではないか、と。
(そ、そうだ、きっとそうに違いない!じゃなきゃ、あんな・・・・・・っ!)
恐ろしい体験から逃れるように、さっきまでの記憶を思考の隅へと追いやる。深呼吸を繰り返しなんとか落ち着こうとしながら、海野は今の自分の体を確認した。
「・・・・・・え?」
服装が変わっている。フリフリの装飾や派手な色では無く、ごく普通の、それでいて女の子らしい恰好になっていた。
「い、いつの間に・・・・・・?」
疑問だけが脳に溢れ、じっとりと嫌な汗が溢れてくる。と、そんな不審な様子の海野を見て、さっきまで世間話をしていた母親達がこちらを見ながらひそひそと話し始めていた。焦りながら、とりあえずここから離れようと早足で歩きだす。
(と、とにかく家に戻らないと)
人混みを縫うようにこそこそと歩き、海野は自身で作った高架下の家へと急いだ。戻って、このスーツ・・・・・・皮を脱ぐ。そのことだけを考えようとしながら、周囲の視線を気にしつつ街中を進んでいく。
「あと少しだ・・・・・・!」
遠くに橋が見える。あの下に、海野がいつも暮らしている場所があるはずだ。我慢出来ずに駆けだそうとして、
「待って、止まって!」
ぐいっと、腕を掴まれた。振り向くと、息を切らした男性が立っている。海野に声をかけ、追いかけてきた警察官だ。
「あ、ちょ、離せっ!」
「はぁ、はぁ・・・・・・君、今朝の子だよね?おうちはどこにあるのかな?」
捕まってしまった。焦った海野はなんとか逃れようともがくが、成人男性の力に敵うはずも無い。
(ち、畜生・・・・・・!仕方ねえ、ファスナーを下ろせば元の体には戻れるんだ、イチかバチか・・・・・・っ!?)
捕まれていない片手を首の裏へと回すが、ファスナーの感触が無かった。驚いて背中をまさぐるも、つるりとした若々しい肌に触れるばかりだ。
「背中、痒いのかい?」
そう言いながら、警察官が背中を覗く。不味いと身を固くした海野だが、警察官が特に何か言ってくることは無かった。
(ど、どういうことだ・・・・・・!?)
ファスナーが無い。それはつまり、この皮を脱げないということだ。元の体に、戻れないということだ。さぁっと顔が真っ青になり、海野の体から力が抜ける。
「な、んで・・・・・・」
いつでも元に戻れる。その前提があったからこそ、海野は比較的落ち着いていられた。しかし、その前提が崩れ去ってしまっている。どうすればいいのか分からない。目の前が真っ暗になりながら、海野はされるがままに警察官についていくのだった。
派出所に連れてこられた海野は、警察官の質問にも答えず、ただ呆然としていた。元の体に戻れない、これからは少女の体で生きていかなければならないという事実はそれほどにショックだったのだ。心神喪失状態と判断され、警察病院に保護される形に入院した後、彼はようやく正気を取り戻した。
「ぐ、う・・・・・・」
靄のかかった記憶を繋ぎ合わせ、海野は状況を理解する。彼が警察に保護されてから、すでに一週間が経過しているようだ。
(俺、は・・・・・・)
ぼぅっと腕に刺さっている点滴を眺めながら、ゆっくりと上半身を起こした。殆ど動いていなかったからか、全身が強張っている気がする。と、
「あなた、意識を取り戻したの!?」
病室を通りがかった看護師が目覚めた海野を目ざとく見つけ、慌てた様子で走り去っていった。どうやら、人目を盗んで逃げることは出来ないらしい。数分後、白衣を着た人間が何人か入ってきて、その中の壮年の男性が海野に話しかけてくる。
「体調はどうですか?どこか、痛むところなどは?」
その質問に首を横に振った海野だが、未だに現状を受け入れられていない。皮を脱ぐ手段が無く、元の姿に戻ることは出来ない。更には警察病院に入院している状態では、下手なことをすれば怪しまれてしまう。
(・・・・・・どうすりゃいい?どうすれば・・・・・・)
まだ本調子ではないのか、ぼんやりとする頭で思考を回す。しかし、医者は思考を遮るように質問を続けてきた。
「自分の名前と、年齢は言えるかな?」
そう訊ねられても、海野は答えることが出来ない。仮に本当のことを言っても嘘だと思われるだろうし、最悪気が狂っていると判断されて病室に閉じ込められるかもしれない。だからといって、この体のことは何も知らないのだ。押し黙る海野を見て、医者は優しく語り掛ける。
「あぁ、大丈夫。答えられなくても怒ったりはしません。言いたくないのか、覚えていないのかな。もし、話してもいいと思ったら近くにいる看護師さんに話してくれると嬉しいです」
柔らかい声色でそう言って、壮年の男性は何かを看護師に耳打ちしつつ去っていった。その様子を見つめながら、海野はふと思う。
(・・・・・・そうか。記憶喪失ってことにすればいいのか)
勿論、相手はプロだからバレてしまうかもしれない。しかし、それ以外の方法があるかと言われると、海野には思いつけなかった。
(ゆっくりでいい、ゆっくりそう思わせて、上手いこと退院しよう。そうすれば、最悪家には戻れる)
稚拙ながら必死に作戦を組み立てつつ、海野はベッドに寝直した。どれだけ掛かるかは分からないし、家に戻った所でこの体が元に戻るわけでもない。だが、自分が自分で無いような、元の自分がいなくなるような恐怖感を薄れさせるにはそう考えるしかなかった。海野は毛布を深く被り、現実から逃れるように深く目をつぶる。記憶喪失のフリをどうするか考えながら、いつの間にか眠りに落ちていってしまった。
それから、海野の少女としての日々が始まった。看護師や医者はとても優しく、検査や問診が多いことを除けばホームレス生活よりもよっぽど快適だ。病院着は清潔かつ中性的な見た目で、着る時の忌避感も無い。しかし、周囲が自身を少女扱いしてくることに、海野はどうしても慣れなかった。
「ウミちゃん、お昼ご飯の時間よ!」
看護師がトレーを持ってきた。海野は軽く会釈してトレーを受け取る。味噌汁に白米、もやしとハムの炒め物。ほうれん草のお浸しに、さらにはパックの野菜ジュースやバナナまでついている。ホームレスの頃からは想像も出来ない程豪華な食事だ。
「・・・・・・いただきます」
しっかりと手を合わせてから箸を取る海野。快適で、食事も美味しい。今までの暮らしに比べたら天と地程の差がある。今の「ウミちゃん」の精神状態を考慮してか、病室が一人用の個室というのも海野にとってはありがたかった。
(だけどなぁ・・・・・・)
炒め物と白米を頬張りながら、さっきのことを思い出す。愛想良く『ウミちゃん』と呼ばれるのは背筋が痒くなるような気分だ。元は記憶喪失で押し通すつもりが、問診の際に自身の名字を途中まで言いかけてしまった海野自身が原因なのだが。幸い、下の名前以外は覚えていない記憶喪失で身元不明の子供だと病院側には思われているようだ。味噌汁を啜り、一息ついた海野は呟く。
「美味い・・・・・・」
味噌と出汁の風味に、豆腐の口当たりが体に沁みる。丁寧かつ綺麗に全てを食べ終わり、海野は手を合わせて頭を軽く下げた。
「ごちそうさまでした」
今の所、海野の作戦は順調だ。このまま上手くいけば退院出来るだろう。しかし、退院したとしてどうするのか。最初こそ家に戻ると決めていた海野だったが、警察病院で数日過ごすだけでその決意が揺らいでしまっていた。
(快適過ぎる・・・・・・普通の暮らしが、ここまでいいものだったなんてな)
十数年前に失ってしまった生活は、色褪せすぎて実感の無いものだった。しかし、今の生活は間違い無く幸せだ。少なくとも、ホームレスとして過ごしているよりは。
(体の方も、特に検査に引っかかったりしてないんだよな。バレるかもと思ってたが・・・・・・)
海野が着ている皮。どうやら、現代医療でも見破れないものらしい。なら、脱ぐのも不可能なのか。
(正直、最初は嫌でしかたなかったんだがな。若い体は、うん、悪くない)
軽くリハビリをしただけで、すぐに若々しい運動機能を取り戻したこの体を海野は気に入り始めていた。首も、肩も、腰も痛くない。少し動くだけで息切れしないどころか、体力が有り余っているようなエネルギッシュさ。これで性別が男であれば海野もすんなりと受け入れただろう。だが、自身が女性になったということだけは、未だに受け入れられていない。
「・・・・・・ん」
早速だ。尿意を覚えた海野は、やや緊張しながらトイレへと向かう。男子トイレへと入らないように注意しながら、女子トイレへと足を踏み入れた。作りは男子トイレとそこまで変わりないはずなのだが、海野はなんとなく居心地の悪さを感じてしまう。個室の鍵を閉め、股間を晒して便座に座る。あるべきものが無いという事実が、否応無く感じられてしまう。
「やっぱり、心もとないっていうか、なぁ」
呟きながら力を抜くと、零れ落ちるように尿が溢れ出した。男の時とは違う妙な感覚は、何度やっても慣れない。海野はトイレットペーパーで汁気を手早く拭き取り、病院着を履き直してすぐに女子トイレを後にした。
病室に戻り、ベッドに座ると横の棚に手を伸ばす。そこには、医者に頼んで用意してもらった文庫小説が何冊か積み重ねられていた。しおりを挟んである一冊を手に取り、読み始める。
海野は、ホームレスになる前は小説を読むことが趣味だった。冒険小説や怪奇小説、推理小説など、昔は様々な小説を読んだものだ。実はホームレス時代の家の中にも、何冊かくたびれた文庫小説を置いてあったのだが、歳と共に視力が落ち、最近では全然読んではいなかった。
「ふふ・・・・・・」
活字を目で追いながら、自然と笑みが零れる。少女の体は若々しく、さらには視力も良好なようだ。久しぶりに物語に没頭するひと時は例えようも無く甘美なもので、時間を忘れて海野は読みふける。と、病室のドアがノックされた。どうぞと返事をすると、いつもの看護師が入ってくる。
「あっ、読書中だったのね。ごめんねウミちゃん、ちょっといいかな?」
「あぁ、はい、構いません。どうしました?」
猫を被りながら言うと、看護師は少し複雑そうな表情をしながら説明し始めた。曰く、警察の人が来て『ウミちゃん』に話を聞きたがっていると。事件性があるかどうかの確認かと海野は思い、やや警戒しながらも了承の返事をする。ここで断った方が逆に怪しがられると思ったためだ。
面談室のような場所に通されると、いかにも刑事といったいかつい風貌の男性と、初老の穏やかそうな女性が待っていた。二人は警察手帳を見せながら、ソファに座った海野に話しかけてきた。
「ウミさんは、記憶喪失ということだけれど。名前以外に覚えていることはないかしら?」
「・・・・・・多分、ありません」
穏やかな声で訊ねられたのは、医者にも質問されたごく普通のものだ。海野は記憶を失っているわけではないが、誤魔化す為に目を伏せて返事をする。
「そう・・・・・・。私達はね、貴女が何か事件に巻き込まれたんじゃないかって心配しているの。記憶を失う程だもの、大変なことがあったんだろうって」
(大変といえば、まぁ大変なことはあったけどな)
皮による変身や謎の少女のことを思い返しながら、海野は俯いたまま首を横に振った。警察は、こちらのことを被害者だと思っている。記憶喪失だと押し通せば、強硬な手段には出ないだろうと海野は考えた。だからこそ、申し訳なさそうに答える。
「ごめんなさい。何も、覚えていなくて」
「あぁ、責めているわけではないのよ。ただ、もし思い出したことがあったら、どんな些細なことでもいいから教えて頂戴な」
そう言いながら、女性は電話番号を書いたメモを渡してきた。絶対に連絡しないだろうと思いながらも、海野は表面上は大人しく受け取り、頭を下げる。そのまま、刑事たちは面談室を出ていき、入れ替わりに看護師が入ってきた。
「ウミちゃん、大丈夫だった?」
「はい、ただ少し聞かれただけなので」
当たり障りの無い返事をしながら海野は思う。もしかしたら、この体のまま生きた方がいいのかもしれない。過酷さとは無縁な生活に、若い体。バレさえしなければ、人生をやり直せる。そんな甘美に思える誘惑的な考えを浮かべながら、彼女は病室へと戻るのだった。
数週間後。身寄りの無い扱いの海野は退院を許されなかったが、外出自体は同行者付きで許可された。警察の人間がついてくることは想定外ではあるが、これで元の家の様子を見に行ける。海野は早速申請し、無事外出出来ることになった。しかし・・・・・・
「・・・・・・え?」
線路の通る高架下。一か月ほど前にはそこで住んでいた場所は、綺麗に片付けられ、乱立していたホームレスのボロ家は影も形も存在しない。目を見開いて、動揺と混乱に囚われる海野。尋常では無い様子の彼女に、同行していた警察の人間が声をかける。
「ど、どうしたんだい?何か思い出したのかな」
「い、いえ、そういうわけではないんです、けど・・・・・・」
なんとか返事をするが、海野は目の前の光景が信じられない。バレるかもしれない可能性も気にせず、警察の人間に訊ねる。
「あ、あの・・・・・・高架下が、綺麗になっている気がするんだが・・・・・・」
「ん?あぁ、前はホームレスが住み着いていたらしいんだけど、行政が動いてね。建物とかを撤去したみたいだよ」
その言葉に驚愕する海野。力無く首を振り、呆然と高架下を眺め続けた。
(そんな・・・・・・俺の家も、あいつらも、全部・・・・・・っ!)
視界がぐにゃりと歪む。足元が覚束なくなり、倒れかけたところを警察の人間に抱き留められた。何か、声をかけられているようだが耳に入ってこない。
(お、俺、俺は・・・・・・)
自分が何者なのか分からなくなる。海野信二が生きていたという証拠がどこにも無い。自分がそう思い込んでいるだけで、本当は元々少女だったのではないか?自分は狂っているのか?あるいは、全てが夢だったのか?ぐちゃぐちゃの思考の海に沈み、自分を見失いかけている海野。何もかも煩わしくなり意識を手放そうとしたその時、懐かしい鳴き声が彼女の耳に届いた。
「今の、は」
首を持ち上げ、声の方向を見る。雑種の野良犬が、海野に向かって嬉しそうに駆け寄ってくる姿が見えた。そのまま思いっきりぶつかってきた野良犬・・・・・・大吉は、海野の顔を舐め回しながら尻尾をぶんぶんと振っている。
「わん、わん!」
「ちょ、なんでこんな野良犬がっ」
警察の人間は大吉を追い払おうとするが、途中で手を止めた。海野の表情が目に入ったからだ。彼女はとても嬉しそうに微笑みながら、ぽろぽろと涙を流している。ぼさぼさの大吉を抱き締めながら、安心しきった表情を浮かべて海野は呟く。
「大吉、お前、分かるのか?俺が、俺だって」
「わん!へっへっへ」
返事をするように一吠えした大吉は、再び海野にじゃれついてきた。あぁ、大吉は分かっている。海野が、海野だということを。
「うぅ、うー・・・・・・」
自身の涙と大吉の涎で顔をぐしゃぐしゃにしながら、海野は強く強く大吉を抱き締め続けた。それが、唯一の繋がりだとでもいうように。
大吉を連れて警察病院に戻ってきた海野は、医者たちに質問攻めにされた。記憶を取り戻したのか、あの場所で何を思ったのか、その犬は君の飼い犬だったのか。様々な質問に、海野は虚偽を交えながらぽつぽつと答える。あの場所に粗雑な建物が並んでいたこと、綺麗にされていて何故か悲しくなったこと、そしてこの犬は大吉という名前だということ。
「でも、それ以外は思い出せていません。きっと、この子は私の飼い犬だったと、思うんですが・・・・・・」
かなり汚れていた為に洗われて、今では清潔な見た目になった大吉を撫でながら海野が言う。最悪バレても構わない、元の自分を覚えている大吉と別れたくない。その一心で、医者たちに懇願する。
「お願いします、この子を、私と一緒にいさせてください。一緒にいたら、何か思い出せるかもしれないんです」
医者たちはかなり難しい顔をしていたが、最終的にはOKを貰えた。ただし、退院するまでは警察側で預かる、とのこと。海野・・・・・・ウミは、何度も頭を下げながら大吉を撫で続けていた。
それから、さらに数か月。児童養護施設への入所手続きを終わらせたウミは、大吉と共に警察病院を退院した。お世話になった人たちへの挨拶も終わらせ、彼女は施設へと歩き始める。渡された地図を確認すると、どうやら病院から徒歩で30分程の場所にあるようだ。
「・・・・・・よし。それじゃ行くか、大吉」
「わぅ、わんわん!」
大吉に繋がったリードを握りながら、ウミは嬉しそうな表情で街中を進んでいく。元の体に戻れないと分かった時は動揺したし、10年以上住んでいた高架下が撤去された時は全ての終わりだと思った。しかし、大吉のおかげで精神も比較的安定し、こうして新しい人生の一歩を踏み出すことが出来たのだ。
(これでよかったのか、まだ分からんが・・・・・・まぁいい、どうにかなるはずだ)
そう思いながら、穏やかな雰囲気の漂う街中を歩き、赤の信号機の前で足を止める。人混みの中で信号が青に変わるのを待っていると、道路向かいに見知った顔を見つけた。椿柄の和服を身に纏った、うすら寒い雰囲気の少女。彼女が、人混みの中に立っている。
「っ・・・・・・!?」
酷く驚き、ウミは体を震わせる。あの路地での記憶が蘇って、恐怖がぶり返しそうになった。が、それを抑えて、青に変わった信号の合図で歩き始める。意図的に少女を視界に映さないようにしながら早足で横を抜けようとすると、すれ違いざまに、囁くような声が聞こえた。
「おめでとう。どうか、お幸せに」
優しく、穏やかな声色。はっとして振り向いた時には、少女の姿は影も形も無かった。
(今のは、一体・・・・・・)
白昼夢だったのだろうか。しかし、あの声を聞いてから恐怖は不思議と綺麗に消えていた。戸惑いながら、ひとまず道路を渡り切ったウミは大吉に顔を向ける。
「なぁ、お前には聞こえたか?さっきの声」
「わぅっ?へっへっへっ」
なんのことか分からないように首をかしげる大吉に、ウミは苦笑する。気を取り直して、養護施設へと歩き始めた。
(さっきの嬢ちゃんが何者かも、何が目的かも分からんが)
きっと、自分を祝福してくれたのだろう。ウミは、そう信じることにした。
冬の到来が感じられる寒風の中、ウミと大吉は歩いていく。新しい生活を始めるために。新しい人生を、始めるために。