グロも多分……ない、はず。です。
「なぎささんは、栄子さんの元には居られない運命にありました。栄子さんは、僕と立城さんになぎささんの身柄を、なぎささんの気持ちを射止めた者に譲ると宣言されました」
「ほーん」
そっぽを向いたまま水輝は気のない返事をした。栄子の判断は賢明だ。立城か優一郎の許であれば凪は穏やかな生活を送れるだろう。……尤も、主が潰えるまでの間に限られるが。
水輝は歯に挟んでいた煙草を手の中で握り潰した。小さな音を立てて煙草の火が消える。水輝は手の中に何気なく火を生んだ。が、その炎は以前までの色とは異なっている。青白かった水輝の炎には今は黒い影が差し込んでいた。だが水輝は構わずその炎で吸殻を焼き消した。
「僕は、なぎささんの気持ちが水輝さんの下にあることを知っていました。というか彼女がご自分でそう仰ったんですけど。だから、なぎささんは、既になぎささんの心を射止めている水輝さんのものになるべきだと僕は主張しました」
手の中に引き寄せた新しい煙草を咥えて水輝は残っていた炎で火を点けた。
「へえ。それで?」
一応、優一郎を促す。だが水輝は胸の中で別のことを思い出していた。
The rose is red,the violet blue,
The gillyflower sweet, and so are you.
These are the words you bade me say
For a pair of new gloves on Easter day.
かつて渚に教えた歌が脳裏に蘇る。いつか好きな男に歌ってやれ。そう言いながら水輝はあの時、心の底でそんな奴はずっと現れなければいいのにと思っていた。気付いた時にはもう、水輝は狂おしいほどに渚のことを想っていたのだ。そして共に年を重ねるうち、水輝は渚も同じように自分を想ってくれていることを知った。
何度、渚を想いながら自慰をしただろう。それでも欲求が収まることはなかった。壁越しに渚の気配を感じる度、水輝は切ない気分に打ちひしがれた。
なのにおれは狂って渚を犯した。
「しかし、なぎささんは僕の主張を退け、水輝さんに知らせるのは止めてほしいと仰いました。そして、僕の物になると宣言されました」
「良かったじゃないか。渚を手に入れたんだろう?」
そう言って水輝は淡い嗤いを浮かべた。吸い込んだ煙を天井に向かって吐く。
「なぎささんは、巧妙な自殺をはかろうとしました。僕のあの領域の中で、一度、水輝さんのことを愛していると述べたにも関わらず、それを覆す発言をしました。水輝さんへの想いで満たされていた紅いサファイアは砕け散り彼女自身を傷つけました」
優一郎はあくまでも淡々と語っている。水輝は僅かに眉を上げて優一郎を見上げた。
「それで? だから宝石をもう一つ用意しろと」
そういうことか。水輝は感情を殺してそう言った。
「伝言、よろしいですか? サファイアを砕いたときに、なぎささんが仰った言葉です」
「てめえ、おれの話、少しも聞いてねえな」
呆れて言いながら水輝は頭をかいた。あくまでも優一郎は一方的に話を進めるつもりらしい。
「『私を踏みつけて進むのよ、水輝。あなたは絶対に立ち止まってはいけないの。振り返っては駄目』」
水輝のぼやきを完全に無視して優一郎が淡々と告げる。水輝は目を見張って硬直した。
Lavender's blue, diddle, diddle,
Lavender's green;
When I am king, diddle, diddle,
You shall be queen.
くそったれ、と水輝は低い声で呟いた。
「どいつもこいつも勝手なことばっか言いやがる」
憎々しさをこめて水輝は吐き捨てた。
「水輝さん、申し訳有りません。どうしてもこれを伝えなければいけないと、急いていましたので」
優一郎が軽く頭を下げる。
「おれの意志はどこまでも無視されるのか」
そう呟きながら水輝は立ち上がった。咥え煙草で部屋を横切り、大きな姿見の前に立つ。そして水輝は右手のこぶしを鏡に叩き込んだ。砕けた硝子が水輝の手に深い切り傷を作る。零れた血の雫に力をかけ、水輝は両手の間にそれを包むようにして挟んだ。
血は既に濁っている。水輝は肩越しに優一郎を振り返った。
「おれが作りさえすれば何でもいいんだな?」
確認の意味をこめて水輝は訊ねた。
「はい。誓約が履行され、僕のものになる寸前に、なぎささんは別の誓約を歌いました。その結果、なぎささんの精神と身体は半分崩壊した状態にあります。回復には水輝さんの作られた宝石が必要です」
そう言いながら優一郎が頷く。
「その宝石に、水輝さんの意志を篭めてください」
「そんな真似できるか、ばかばかしい。何でおれが」
水輝は即座に切り返した。すると優一郎が口許に嗤いを浮かべる。
「この世に止めるのも、止めを刺すのも、水輝さんの意志しだいです」
あー、そうかい。水輝は怒りをこめて返してから手の中の血の雫に向き直った。宙に浮かんだ数滴の血の雫はやはり濁っている。黒い影の差したこの血で本当に宝石など作れるだろうか。
まあ、考えても無駄か。水輝は手の中に力を呼んで意識を集中した。意志などこめる余裕はない。宝石の形を作るのが精一杯だ。
奈月もいない。渚は標としての使命を選んだ。おれは結局、一人か。そう呟いて水輝は歯を食いしばり、手の中で力を凝縮した。輝きを帯びた血の雫がゆっくりと渦を巻き始める。
やがて渦を巻いた血の雫が一際強く輝いて一個の丸い宝石になる。前に作ったものよりも随分と透明度が低い。だが水輝は構わず肩越しにそれを優一郎に放った。
「それでいいんだろ?」
じゃあ、おれは行くぞ。そう続けて水輝はドアに向かって歩き始めた。
「水輝さん」
手の中に宝石を受け止めた優一郎が水輝を呼ぶ。水輝は足を止めて優一郎を横目に見た。血だらけになった手に舌を這わせて血を舐め取る。
「ありがとうございました」
優一郎の礼の言葉に水輝は答えず、ドアに向かって再び歩き始めた。大きなドアを乱暴に足で蹴り開ける。
「待ってください。代価として何をお支払いすればよろしいでしょうか?」
背後から優一郎の声がかかる。水輝は肩越しにちらりと優一郎を見てからため息を吐いた。
「せいぜい渚と宜しくやってくれ」
それだけ告げて水輝はその場から姿を消した。
みずきはこんらんしている。