軽い足取りで飛び石を一つずつジャンプして踏んで行く。幼い少女はあどけない笑みを浮かべて広々とした庭を横切った。主の不在のためか庭はどことなく荒んでいる。
えい、と軽い掛け声をかけて玄関の広い敷石に飛び移る。それから少女は精一杯手を伸ばした。が、背丈が足りないために呼び鈴に手が届かない。
「もー」
不満に頬を膨らませて少女はひらりと宙に浮かんだ。ぴんぽーん、と口で言いながら呼び鈴を押す。が、思った通り返答はない。少女は中空に浮かんで首を傾げながらくすくすと笑った。肩できれいに揃えられた黒髪が少女が笑うのに合わせて揺れる。
「返事がないから入っちゃいますねぇ。えい」
少女はドアノブを回して玄関のドアを開いた。しんと静まり返った玄関のフロアに入ってそっと着地する。背伸びしてドアノブを引っ張り、きっちりと扉を閉めてから少女は歩き出した。
吉良瀬の屋敷は静まり返っている。少女は思案しながら歩を進めた。やがて少女の耳に微かな水音が届く。少女は迷わず音のする方に向かって歩いた。段々と水音は近くなっていく。どうやら誰かがシャワーを使っているらしい。少女は思わずおお、と喜びの声を漏らして足早に音のする方に向かった。
広いバスルームのドアを開ける。脱衣室に入ると水音は更に大きくなった。少女はえへん、と一度咳払いをして曇った硝子の扉を小さな手でノックした。ほどなく中から返事が聞こえてくる。どうやらシャワーを浴びているのは若い女性らしい。らっきー、と胸の中で呟きながら少女はドアに向かって声をかけた。
「あーのー、すみませーん。ちょっとここの屋敷の人に用があるんですけどー」
にやにやと笑いながら少女はドアをじっと見つめた。やがてドアの向こうに人影が現れる。ドアがそっと開く前に少女は顔に浮かべていた笑みをきれいに消した。薄く開いたドアの隙間から覗いた顔を見た少女は僅かに目を見張った。が、すぐににこにこと笑みを浮かべる。
……なーんでまた、一人っきりでこのコがいるかな。
少女は内心で呟いた。少し開いたドアの隙間から顔を覗かせたのは紛れもなく奈月だった。
「あなた、何者よ!」
鋭い目で奈月が少女を睨む。少女はぺこりと頭を下げて言った。
「こんにちはあ。アタシ、明音っていいますぅ」
にっこりと笑って明音と名乗った少女は奈月を見た。どうやら奈月は髪を洗っている最中だったらしい。濡れた髪にはまだシャンプーの泡が残っている。
「あかね? あなたは何? 首を回したりする気!? それとも宙に浮いてラップ現象びしびし起こすとか!?」
「は?」
眉を寄せて明音は奈月を訝りをこめて見つめた。どうも前の奈月と違う。明音の知る奈月はこんな喋り方はしていなかった。もっと大人しい、優しい口調をしていた筈だ。
「ええと、あの? オネエサン、寝ぼけてたりします?」
思わずストレートに訊いてしまう。すると奈月が明音に負けないくらい顔をしかめた。
「寝ぼけてるんじゃなくて! 寝てるのよ! これは夢なんだから。とりあえず、風呂が終わるまで待ちなさい。そーしたらホラーの続きに付き合ってあげるから」
そう叫んで奈月が勢いよくドアを閉めようとする。だがその寸前に明音はドアの隙間に足を突っ込んだ。派手な音がしてドアがつかえる。
「なに言ってるんですかぁ。ここはリアルですよ、り、あ、る。現実ですよぉ。夢なんかじゃありませんー」
にこにこと笑いながら明音は言った。どうやら奈月は夢を見ているつもりらしい。が、それにしても夢の中と思っているとは言え、奈月の性格はかなり変わっていないだろうか。
こりゃあ、何かあったか中身がばっくり入れ替わってるって見るのが自然かな。明音はあどけない笑みを浮かべたまま胸中で呟いた。
「語尾を変に延ばすのやめてくれない? あたし嫌いなの。その喋り方」
もう、最近の小学生はなってないんだから! 嫌そうに顔をしかめて奈月が言う。明音はがーん、と口の中で呟いてその場にへたり込んだ。
「そんな……。アタシ、出来るだけ可愛く喋ってたつもりなのにっ」
めそめそと泣きながら明音は言った。
「判ったわ、悪霊憑きね! いたいけな少女の身体に憑いた悪霊なのね! そうでしょ?」
ドアを大きく開けて奈月がびしりと明音を指差して叫ぶように言う。明音は何だかなあ、と思いながらちらりと目を上げた。相変わらず奈月はきれいな身体をしている。
「いいです、もう。オネエサンに訊いても無駄っぽいし」
唇を尖らせて言ってから明音はすっくと立ち上がった。
「悪霊退散!!」
くるりと背を向けた明音に奈月が叫ぶ。もー、と顔をしかめて明音は振り返った。
「それ言うならオネエサンはなんなのー? オネエサンだってヒトの身体に入ってるっしょ」
ドアのところで仁王立ちになった奈月に明音はため息混じりに告げた。すると奈月がしばし黙る。明音は肩を竦めてやれやれと呟いてから続けた。
「水輝ちゃんいないかと思って探しに来たんだけど、もーいいです。自分で探すから」
そう言い放って明音は再び奈月に背を向けた。
「お兄ちゃんの居場所がわかるの!?」
慌てたような声が飛んでくる。お、やー? そう内心で呟きながら明音はゆらりと振り返った。水輝を兄と呼ぶ者は恐らく一人しかいない。ははあん、と呟きながら明音は奈月を指差した。
「もしかしてオネエサン、水輝ちゃんの妹?」
まあ、水輝を兄だと呼ばわるのだからそれ以外の何でもないだろう。そうは思ったが明音は一応、訊ねた。
「そうよ。あたしは莢花。池田莢花よ」
おお、大正解。そう思いながら明音はへえ、と笑った。
「じゃあ、莢花サンって呼んでいい?」
どうやら一度死んだ莢花が何らかの事情で奈月の器に宿っているらしい。事態を面白く思いながら明音は首をちょこんと傾げた。
「別に断らなくても。それがあたしの名前なんだし」
「そだね」
明音は苦笑して肩を竦めた。それまでずっと攻撃的だった莢花からは険が大分取れている。まあ、水輝ちゃんの名前を出せば当然か。ある程度の事情を知っている明音は胸中でそう呟いた。
かつて水輝はこの莢花ともう一人の女性と三人姉弟を演じていたことがある。そして水輝は妹として存在していた莢花に手をかけた。夜叉の力を手にして木龍神を討とうとした水輝はだが、結局は勝つことが出来ずに今に至る。その折、木龍神の生まれ変わりである立城が弟の真也を殺すに至ったのだ。
どういう経緯で莢花が奈月の器に宿っているかは判らない。が、事態そのものは明音にはとても面白いものに思えた。
「じゃ、アタシは莢花サンがお風呂終わるまでどっかの部屋で待ってますねー」
そう言って明音は莢花に手を振った。
「ごめんね。着替えたら直ぐ行くから、あかねちゃん待っててね」
ころりと態度を豹変させて莢花が言う。ドアの向こうに姿を消した莢花に明音は心の中でおいおいと呟いた。
「水輝ちゃんの名前出しただけでこれかぁ。ったく、ヒトってのは現金なもんだねえ」
そう呟きながら明音はバスルームを後にした。
明音の外見は可愛い女の子ですが、中身は……。