目を開く。見慣れない天井を見止め、水輝は僅かに目を細めた。全身が泥にでもなってしまったように重い。水輝は疲れた息をついて腕を持ち上げてみた。顔の前にかざしてみる。どうやら手足は何とか残っているらしい。続いて水輝は震える手で胴体に触れた。
「……あー。焼肉食いてえ」
掠れた声で言いながら水輝は胴体のあちこちを触り、ほっと息をついた。どうやら誰かが癒してくれたようだ。
「わかりました! 焼肉ですね!」
急に聞き慣れた声が聞こえてくる。水輝は驚きに目を見張って声のした方を向いた。どうやら自分は誰かの力によって浮かんでいたらしい。下を覗き込んだ水輝はどこかに向かって走っていく奈月を見止め、唖然と口を開いた。
「いや、あの。えーと」
混乱しながら水輝は身体を起こした。すると水輝を取り巻いていた風が止む。水輝はくるりと宙で一回転して身軽に床に降り立った。が、まだ身体がどうも本調子にならない。バランスをとりそこなって思わずよろけてしまった水輝に慌てたように奈月が走り寄る。
「あの、とりあえず、これで!」
胸に飛び込んできた奈月が水輝の首筋に抱きついて唇を寄せる。水輝は目を丸くして息を飲んだ。いつになく積極的だなあ。そう心の中で呟いて水輝は奈月の腰を抱いた。懸命な奈月の口づけに応える。しっかりと腕に奈月を抱いて水輝はしばし口づけを交わした。
次第に身体に力が戻ってくる。どうやら奈月が治してくれたらしい。そのことに感謝しながら水輝は顔を上げた。ありがとな、と奈月の頭を撫でる。顔を赤くして照れてみせる奈月に微笑みかけてから水輝はおもむろに振り返った。
見知らぬ女性が立っている。水輝は苦笑してその女性に軽く頭を下げた。
「悪いな。手間かけさせて」
中年の女性が水輝の言葉を受けてにこやかに微笑む。
「いいえ。ご無事で何よりです。……ああ、申し遅れました。わたくし、如月栄子と申します」
そう告げて栄子が深々と頭を下げる。水輝はそれを受けて胸に手をあてがい、きっちりと一礼した。
「これは失礼。わたしは水龍神の長、青龍神水輝と申します。このたびは……って、あー、舌噛む」
途中で挫折して水輝は苦笑しながら顔を上げた。栄子が口許に手をあてがい、ころころと笑う。つられて笑いながら水輝は頭をかいた。
「でもよくあんな物騒な時に割って入れたな。下手したら死んでたぞ」
そう言って水輝は奈月の腰を引き寄せた。腕にしっかりと抱えた奈月が戸惑いの目で水輝を見上げる。視線に気付いた水輝は不思議に思いながらどうした、と訊いた。
「えっと、あの、物騒って?」
「あー……いや、まあ」
まさか自滅行為にも等しい術を使ってしまったとは言えず、水輝は言葉を濁した。実際、こうして助かったのは奇跡に等しいのだ。だが正直にそうとも口に出来ず、水輝は視線を泳がせた。腕の中で奈月が首を傾げている。
「いいえ。わたくしは風に流れたあなたを保護しただけですわ」
静かに栄子が語る。それを耳にした水輝はぴくりと眉を上げた。相手が風龍神であるということは判る。そして栄子は恐らく風龍神のトップに位置する存在だ。だがあの場に割り込むにはかなりの力量が必要だ。しかもその上、水輝は八重に結界を敷いていたのだ。とても内部の状況を外側から感じることは出来なかった筈だ。
誰が。水輝は内心で呟いて無意識に奈月の肩を抱く腕に力をこめた。急に強く抱き寄せられた奈月が小さな悲鳴を上げる。水輝はそれを聞き取って悪い、と詫びて腕から力を抜いた。
「えっと、あの、その」
困惑した声を漏らした奈月の思惟がごく微かに読める。水輝は目を細め、次いで栄子を見た。栄子は穏やかな笑みをたたえている。ふうん、と呟いて水輝は栄子に片手を上げた。
「ま、世話になっといて礼も何も出来ないが、そのうち身体で払うから」
にっこりと笑って言う水輝に困ったように栄子が笑う。
「まあ。それは楽しみですわ。折角ですからこれからというのはいかが?」
さらりと栄子が告げる。水輝はにっこりと笑ったまま答えた。
「生憎、今はゆっくりと楽しんでる暇はなくてな。栄子さんとはかなり楽しめそうだからたっぷり時間が取れる時にお願いするよ」
そう言って水輝は奈月の肩を抱いたまま歩き出した。奈月が不思議そうに水輝を見上げつつ横に並んで歩く。
「あら。せめてお茶でも飲んで行かれませんこと? とっておきの紅茶を用意いたしましたのよ」
軽く栄子が手を叩く。水輝はその音に足を止めた。広々としたドーム状の部屋の隅に一人の女性が現れる。三人分のティセットをトレイに乗せた女性が静かに頭を下げる。水輝は眉一つ動かさず栄子を振り返った。
「用意してくれて悪いんだけどさ。おれもちょっと忙しくてね」
ごめんな。そう言ってから水輝は再び歩き出した。外界に続く階段に迷わず向かう。腕にしっかりと奈月の肩を抱えたまま、水輝はゆっくりと女性の元に向かった。女性は階段のこちら側に立っている。無言で見つめる女性の脇を過ぎながら水輝は小声で囁いた。
悪かったな。
水輝は感情を押し殺して女性の脇を過ぎ、奈月を連れて切り離された空間から現実の世界へと戻る階段を降りた。水輝が通り過ぎた後、女性の顔には穏やかな微笑みが浮かんでいたが、それを水輝が見ることはなかった。
うっかり自分も焼き肉が食べたくなりました。