「多輝。複数存在くらい、黒妖牙さんなら容易いことだよ。ここで呼べばいい。そのうち来るってば」
「……そんなにあの扉まで行くのが面倒なのか」
低い声で多輝が呻くように言う。誰でも一日かかると言われれば辟易するに決まっている。しかも車などでなく歩いてだ。そのことを優一郎は説明した。おまけに今は斎姫を放り出して来ているのだ。新しく宝珠を二つも器に取り込んだ斎姫がどうなるか判らない。
「黒妖牙さん。会って下さい。来ないと立城さんに聞いたことを、使者、に伝えたくなったりするかもしれませんよ」
「…………横着なガキだ」
ぼそりと呟いて多輝がいきなり腰を上げる。手を引っ張られて優一郎はつられて立ち上がった。優一郎の手を離した多輝が右腕を伸ばす。横抱きにされた優一郎は目を見張った。
「銀の翼」
小さな声で多輝が呟く。次の瞬間、多輝の背中には大きな鳥を思わせる銀色の翼が生えた。驚く間もなく多輝が大きく羽ばたきをする。
「捕まってろ」
そう言うが早いか、多輝は唐突に飛び上がった。いきなり高速で空を駆ける。優一郎は右手に必死で刀の柄を握り、風を直接浴びないよう、顔を背けた。そうでなければ呼吸が出来ない。
見る見るうちに黒い扉が大きくなっていく。どこからどこまでが床か判らないため、優一郎はとにかく必死で多輝にしがみついていた。不意に多輝が空中で急ブレーキをかける。襲ってきた激しい抵抗に優一郎は思わず呻いた。その直後、多輝が急降下する。絶叫マシーンのごとく身体を唐突に下方に持っていかれ、優一郎は必死で声を押し殺した。
急に多輝の動きが緩やかになる。優一郎は全身で息をしながら真横に立つ黒い扉を見た。一体、どれだけの大きさなのだろう。見上げて見てもどこが扉の上なのか判らない。横幅も広すぎて端が見えないくらいだ。その扉の前に多輝は静かに降り立った。床に足がついた途端、優一郎はその場にへたり込んだ。
乱れた呼吸を整えるために何度か深呼吸をする。改めて扉を見ようとした優一郎の視界の隅に奇妙なものがひっかかった。優一郎は眉を寄せて視界の隅に映る赤いものに目を凝らした。
赤い髪をした者が膝を抱えて扉の前にうずくまっている。それを見た優一郎は思わず駆け出そうとした。が、走り出す前に襟首を強い力で引っ張られる。振り返ると多輝が黙って優一郎の襟首を捕まえていた。
「今は放置しておけ。どうせ声をかけても無駄だ」
「わかった」
優一郎は大人しく頷いた。そして改めて扉に向き直る。この大きな扉が恐らく冥界の門だろう。だが冥界の王、黒妖牙の本質はこの門そのものだ。このままでは黒妖牙とは会話など到底出来ない。優一郎はしばし考えてから多輝の方を見た。
多輝が虚ろな眼差しで扉を見上げ、深く息を吸う。優一郎は嫌な予感を覚えて多輝を止めようとした。
「冥府の門を叩け!」
怒声にも似た声を張り上げながら多輝は右手のこぶしで直接に漆黒の扉をぶっ叩いた。力をこめていたのだろう。多輝がこぶしを繰り出した瞬間、激しい音がして扉の殴った部分がほんの少し欠ける。
「多輝。そこまで! 命は完遂した。僕のほうを向いて」
「いてえええええええええ!」
優一郎の声と悲壮な叫びが重なる。優一郎はぎょっとして声のした方を見た。再度、こぶしを固めて身構えていた多輝の目の前で扉が音を立てて内側に開いていく。人一人がようやく通れる程の隙間が出来たその先に、黒い服に身を固めてうずくまる男の姿があった。情けない声で呻きながら左の脛を押さえている。
「だから、呼び出しに応えたほうが良いって言ったのに」
ぼそりと呟いて優一郎はやれやれとため息をついた。呻いていた男ががば、と頭を上げて勢いよく立ち上がる。男は手にしていた鎌の先でびしりと多輝を示して声を荒らげた。
「てめえ! 向こう脛は超絶に痛いんだぞ!」
「うるせえ、ぼんくら。とっとと入れろや」
怒鳴った男に負けず劣らずの不機嫌そうな顔で多輝が吐き捨てる。男が多輝を鋭い眼差しで睨みつける。端正な顔立ちやその雰囲気から優一郎は男が黒妖牙であると見抜いていた。多輝は最初からそのことは判っていたのだろう。当り前の顔をしている。
しばし多輝と睨みあった後、黒妖牙は不愉快そうな眼差しを優一郎に向けた。
「多輝。やめろ。命は完遂した」
鋭い声を多輝に飛ばしてから優一郎は黒妖牙に向き直った。
「黒妖牙さん、申し訳ありません。お騒がせしておいて恐縮ですが、任務を継続してください」
にっこりと笑って優一郎は告げた。すると黒妖牙が嫌そうに眉を寄せる。
「何の用だ。貴様が来るようなところじゃないぞ、ここは」
そう黒妖牙が嫌そうに吐き捨てた直後、多輝が凄まじい目で黒妖牙を睨みながらこぶしを固めた手をすうっと持ち上げる。冥府の門を叩け、と呟いた多輝に圧されるようにして、黒妖牙が慌てて言い直す。
「えーと、とりあえず用は何だ。割と早く終えてちゃっちゃと帰って欲しいぞ、オレは」
「多輝。君は僕を主とし、僕の役に立つ存在だ。だけど、他の誰かにとっては、役立たず、だ。僕の命を聞くんだ。こっちを向いて」
優一郎はとりあえずは黒妖牙の声を無視して多輝に声をかけた。多輝がやれやれとため息をつく。
「俺を戻したら帰れなくなるぞ。戻すなら帰ってからにしろ」
ぼそぼそとした声で多輝が告げる。優一郎はその言葉に目を細め、しばし多輝を見つめた。多輝はじっと黒妖牙を見つめている。
「多輝。帰っておいで」
優一郎は多輝の目の前に回りこみ、手を伸ばした。左手に多輝の頬を包んで唇を奪う。その瞬間、多輝は目を見張り、やがて諦めたように息をついた。その直後、多輝の身体から一気に力が抜ける。脱力した多輝を片腕に支えて優一郎はにっこりと笑った。
おいおい、と黒妖牙が呆れたようにため息をつく。
「僕はホモじゃないですよ。ほら、見てください」
優一郎の腕の中には女性に変質した多輝の姿があった。だがその背にはまだ銀色に輝く翼が残っている。黒妖牙は優一郎と多輝とを交互に見つめ、頭をかいた。
「いや別にお前がノーマルだろうがバイだろうが、それは構わないんだがな。……本当に何をしに来たんだ?」
「いえ、僕も良くわからないんです。さらにこんなことを頼むのは気が引けるんですけど、僕たちを立城さんの下に戻していただけないでしょうか?」
それも立城さん分の貸しの返済の一部ということで。にこやかな笑みを浮かべたまま、優一郎はそう告げた。やれやれと頭をかいた黒妖牙が鋭い目を中空に向ける。
多輝は割とスカスカ? なので、こういうことは起きやすいです。