さあ来い、とばかりに大きな影に向かって刀を構えたところで水輝は眉を寄せた。先ほどまで不気味に空を覆っていた影が悲鳴を上げながらどこかに飲み込まれていく。それを見上げながら水輝はあー、と気の抜けた声を上げた。手にしていた刀の峰でとんとんと肩を叩きながら水輝は苦笑した。
「やっと起きたか。相変わらず呑気なやつめ」
そう呟いてやれやれと肩を竦める。水輝は煙草を引っ張り出して咥えながら手近なコンクリートの破片に腰を下ろした。
廃墟まで追い詰めた矢先だった。それまで水輝を襲う気を放っていた影は急になりをひそめてしまった。恐らく冥界の黒妖牙が向こう側から影を撃ったのだ。深々と息を吐いて水輝は頭をかいた。
「……いきなり暇になったな」
目星をつけていた影はこれで恐らく全て一時的には消えただろう。まずい状態に陥っていた立城の元には凪が行っているから安心だ。どうやら奈月は奈月で当分はこちらに戻れそうにない。
となるとだ。水輝はそう呟いて煙草をぼんやりとくゆらせた。
「激しく暇だなー……」
「み、ず、き、さ、まぁぁぁぁぁぁぁあ!」
嬉しそうに声を上げながら水輝の背後から千佳が駆け寄ってくる。水輝はその声にぴくりと眉を片方跳ね上げてすっと立ち上がった。ばたばたとけたたましい足音を立てて近付いてきた千佳の手をするりと避ける。すると千佳は見事に水輝の腰掛ていたコンクリートの破片に足をとられ、その場にすっ転んだ。
「……毎度毎度、何で同じことが出来る」
地面に突っ込んでぴくぴくと手足を震わせている千佳を冷めた目で見つめ、水輝は冷ややかに言い放った。そのまま千佳を避けてコンクリートの破片に座り直す。千佳はしばし手足を震わせてからがば、と身を起こした。
「ひっどぉぉぉい! 千佳、がんばって仕事したのにぃ」
毎度のごとく、声を上げて泣きながら千佳が鼻声で訴える。あっそう、と気のない返事をしつつ水輝はのんびりと煙草をくゆらせた。どうするかなー、とぼやいて煙を細く吐き出す。
無視されたと感じたのだろう。千佳が膨れ面で水輝の横に無断で腰を下ろす。水輝は横目にちらりとだけ千佳を見やり、また正面を見た。廃墟と化したここはかつてはけっこうな規模のオフィス街だった。それが今はもう、コンクリートの瓦礫となっている。
いま、この国の各地にこういった廃墟は点々と存在する。先ほどのように冥界の獣がはみ出してその地を荒らすケースもあるが、大抵は龍神による穢れの払拭が間に合わず自滅するパターンに陥っていった場合が多い。澱みは澱みを呼ぶ。吹き溜まりのようにある箇所に溜まり、限界が訪れると内側から弾け、崩壊してしまうのだ。
かと言って全てを浄化して回る訳にもいかない。浄化すべきでない場所、というのも中には存在しているのだ。
「水輝様、なんかナーバス?」
「たまにはな。おれだって考えることくらいある」
千佳のおずおずとした声に水輝はため息混じりに応えた。珍しいのー、と千佳が無邪気に笑う。ふん、と鼻を鳴らして水輝は余所を向いた。
この世界に存在していた龍神の多くは既に冥界に旅立った。新しく生まれてくる気配は今のところはない。そしてそれは龍宝珠界の出産ラッシュとリンクしている。いま、龍宝珠界ではこうしている間にも多くの命が生まれているのだ。
そして人として死んだ宝珠は再び人として生まれ、龍宝珠界の新たな命となる。それを繰り返しているあの世界の人口はいま、爆発的に増えているのだ。
だが界として見ると人口は限度いっぱいに近い。それ故に龍宝珠界ではあちこちで戦が繰り広げられている。手っ取り早く人口を減らしてしまおう、という龍宝珠界自身の判断だろう。
龍宝珠には感情がある。人と同様に出会いに喜ぶことも出来れば、別れに悲しむことも出来る。そしてそれらの感情は全てストレートにこちらの世界に転写される。水輝は考えを巡らせながらため息をついた。
「ねぇねぇ、水輝様ぁ。ヒマなら千佳と遊ぼうよぉ。最近、ぜっんぜん構ってくれないんだもん」
つまんないよ。唇を尖らせて千佳が不服を唱える。水輝は横目にじろりと千佳を睨んだ。
「何でおれがお前と」
そう言いながら水輝は無造作に腕を伸ばした。千佳の額に残っていた汚れをコートの袖で拭う。乱暴に拭かれたにも関わらず、千佳は嬉しそうに笑った。
「きゃっ。水輝様に触ってもらっちゃった」
えへへ、と笑って千佳が顔を緩める。それを横目に見て水輝は阿呆、と口の中で呟いた。だが貶されたにも関わらず、千佳はにこにこと嬉しそうに笑ったまま水輝の腕にしがみついてきた。水輝は反射的にそれを振り解こうとして何となく思い止まった。それが悪かったのだろう。千佳が口許を緩めて水輝の腕に胸をすり寄せる。
「寂しかったんだからぁ。ずぅっとシカトされて」
「別に無視してた訳じゃないだろうが」
水輝は右手にまだ握っていた刀を宝珠に戻した。紅の煌きを何気なく日の光にかざす。千佳は以前のように宝珠を見て眼の色を変えたりはしない。既に千佳はハンターではなくなっているのだ。
出会ったばかりの頃、千佳は飢えに負けて人に手をかけようとしていた。ハンターの群れからはぐれ、ストレンジャーと化した千佳を守る者はなく、そしてまた千佳の行動を止める者もなかった。
無力な人間を千佳が捕らえようとした矢先、間に割り込んだのが水輝だった。襲われかけていた人間を保護し、同時に千佳を捕獲した。千佳は水輝の持つ宝珠の輝きに狂ったように暴れ回った。
結局、千佳は水輝に強制的に龍神の力を注がれ、ストレンジャーから淫魔へとその性質を変えた。そして水輝に絶対服従を誓う存在になったのだ。
千佳はわりとよく出てきます。