これで五章はラストです。
「それでは、水輝さんの、命、のほうについてお聞かせ願えますか? 差異はどの程度あるのでしょうか? 矛盾がある場合は困った事になるのですが……」
軽く眉を寄せて優一郎が告げる。凪は微かに笑って首を傾げた。
「水輝のは簡単。立城さんを助けてくれって。宝珠を戻してくれって言ってたわ」
かつて水輝から託された紫色の宝珠は今もまだ凪の中にある。それはだが、誓約の礎にされているものだ。恐らくそれを立城に返してしまったら、誓約は破棄されてしまうだろう。
凪は手の中のカップに目を落とした。薄い緑色の茶の表面が揺れている。
「ああ、あの宝珠ですか」
困ったな、と優一郎が呟いて頭をかく。凪は不思議に思ってどうして、と訊ねた。もしかして優一郎はかつて水輝が凪に渡したことを知っているのだろうか。
「あなたと水輝さんの誓約に紐付けられた宝珠ですよね。やっと腑に落ちました。あなたは渚さんなんですね」
しばしの沈黙の後、優一郎が納得したという顔で告げる。凪は一瞬、返事に窮してから仕方なく頷いた。
「かつてはそうだったわ」
だが今は違う。何故、栄子が自分に凪という名をつけたのかもよく判る。凪は風龍神の使い魔だが、実際のところの役目は違うのだ。風は停滞を嫌う。なのに凪の名は停滞そのものだ。
恐らく栄子はこうなることを読んでいたのだ。
「誓約はあなただけで無く、宝珠とも紐付けられています。水輝さんの意図を違えて成立したのは宝珠の力によるものです」
淡々とした声で言ってから優一郎は出されたカップに手をつけた。少し冷めかけた緑茶を啜る。凪も手の中のカップに口をつけた。
「水輝は誓約を破棄するよう、あなたに頼めと言ったの」
だが凪が今、こうして生きているのはあの誓約があったからだ。そうでなければ龍神の精に焼かれたまま、あっけなく人の生を終えていただろう。
「この誓約は厳密に言うと二つの誓約に分割することができます。あなたと宝珠、そして宝珠と水輝さん」
言いながら優一郎が指を二本立ててみせる。それから優一郎は続けた。あなたと水輝さんの間の意志を齟齬を宝珠が吸収しているのです。語る口調はあくまでも静かで揺らぎがない。凪はしばし黙して考えを巡らせた。
あの時、水輝は狂ったら殺してくれと渚に頼んだ。そして水輝は渚に紫の宝珠を託したのだ。が、渚はその時に心の底で誓った。例え何があっても水輝を守る。
その後、水輝は渚が一人でいるところを狙って襲い掛かった。恐らくその時にはもう、水輝の精神は限界に達していたのだ。打ちひしがれ、身体を幾重にも傷つけられた渚はその後、立城に助けられた。そして立城が記憶を封じようとする。
だが結局、渚は何も忘れなかった。水輝に乱暴されたことも何もかも、全て承知の上で何食わぬ顔で姉弟を演じ続けたのだ。
当時のことを思い出しながら凪は微かに笑った。
「私が水輝を殺すことは出来ないわ。出来る筈がないもの」
そう言う凪の声は無意識に尻すぼみになった。
「誓約を無効にするには宝珠を消滅させるしかありません。そして、誓約に紐付けられたこの宝珠を立城さんに戻したらどうなるか……」
凪は俯いていた。優一郎の言葉にはっと目を見張る。もし、宝珠を戻せば恐らく立城の抱える苦しみは余計に増えるだろう。かと言って消滅などさせてしまえばそれこそ大変なことになる。
「苦しむくらいで済めばいいんですけど……。二つの誓約が立城さんにとって有効になるんです」
指を二本立てたまま優一郎が苦い顔で告げる。凪はゆっくりと顔を上げてその指と優一郎とを見比べた。
狂ったら殺す。何があっても水輝を守る。その二つの誓約は全く方向性が逆だ。あれから水輝が狂気の片鱗を見せていないことは判っている。が、今からもそれが続くとは限らない。
凪はカップをそっとテーブルに戻して膝の上でこぶしを握った。
「思惟を……読んだのね? 私、口にした覚えはないわ」
「またやってしまいましたか……。ごめんなさい。ついつい、無意識に力を使ってしまうことがあるんです」
困ったような顔で優一郎が軽く頭を下げる。いいえ、と凪は静かに答えた。優一郎が悪い訳ではない。こちらの防御が緩んだのがいけないのだ。凪はきっちりと思惟の周囲に防御壁を張りなおし、告げた。
「解決策はない?」
「宝珠を使いこなす術の無いものが、保管するしかありませんね。あなたが適任だったんですが……」
だがそれでは立城の力は戻せない。凪はしばし思案してからため息をついた。立城の器から既に別の紫宝珠が出てしまっている事はわかっている。属性が違う以上、立城にあの宝珠を戻すのは難しいだろう。かと言って凪の持つそれは優一郎の言う通り、安易に戻すことは出来ない。
面倒ばかり押し付けるのね。凪はいまはいない水輝に心の底で愚痴を吐いた。
「とりあえず、立城さんの手にその宝珠を一瞬だけ手渡してください」
そう言いながら優一郎が立ち上がる。凪は頷いて腰を上げた。静かにベッドに歩み寄る。凪はそっと小さな立城の手を左手に取った。右手を自分の胸にあてがって目を閉じる。
身体の中で息づく宝珠をそっと呼ぶ。するとそれは凪の胸から右手に向かってゆっくりと上昇し始めた。徐々に姿を現した紫宝珠を凪は右手にそっと取り上げた。
優一郎を見上げる。
「これを立城さんの手に乗せればいいのね?」
はい、と優一郎が頷く。凪は立城に向き直って心の底で詫びた。左手に乗せた立城の右手に静かに宝珠を近づける。
かつて夜叉という名の存在があった。そして夜叉はある龍神と恋に落ちた。そして夜叉と契りを交わした龍神は多くの龍神に追われ、狩られることになった。討伐せよ、という天命を受けた水輝がその龍神を倒した。
ごめんなさいね。これは私の我侭。
軽く立城の手の上に紫宝珠を乗せる。その瞬間、宝珠は一気に輝きを帯びた。部屋中を激しい紫の光が照らす。
「紫殿、神崎紫殿、矛盾するふたつの誓約のどちらかを選ばれよ」
はっと目を見張って凪は優一郎を見上げた。優一郎は静かな眼差しで立城を見下ろしている。その身体の周囲にだけ、紫の光が及んでいない。澄んだ空気に包まれた優一郎の眼差しは静かだ。
待って。凪はそう声に出そうとした。が、声が出ない。凪は焦って立城を見た。立城は静かな眠りについたままだ。
「紫殿! 貴殿が青龍王と結びし誓約に基き、選ばれよ」
優一郎の澄んだ声に気付いたように立城が微かに目を開く。そして宝珠を乗せていた小さな手がほんの僅か動いた。立城が頼りなく宝珠を握る。その唇が動いて何かを刻む。それを見た凪は息を飲んでその場にへたり込んだ。
何故、知っているの。凪は目を見張ったまま立城を見つめた。
「これで問題ありませんね。それでは、後は御願い致します」
「待って!」
凪は慌てて優一郎を呼び止めた。部屋を満たしていた紫の光は急速に納まりつつある。立城の手の上に乗っていた宝珠がひとりでに浮かび上がり、ゆっくりと立城の胸に漂う。
「凪さん、どうされましたか?」
穏やかな声に問われて凪は言葉をなくした。紫の宝珠がゆっくりと立城の胸に沈んでいく。それをちらりと横目に伺ってから凪はいいえ、と首を横に振った。不思議そうに優一郎が首を傾げる。凪は静かに腰を上げて優一郎に向き直った。
「何でもないわ。ごめんなさい」
にっこりと笑って凪は頭を下げた。
優一郎が誓約の力でバリバリ活動してますね!
次はキャラ紹介を入れます。