自由を渇望するもののその自由を得られないまま
苦しみもがき続ける少女。彼女もまた
『希望を求めて彷徨う人々』の一員なのです。
【1994年 天武日本国首都東京 綾小路獅子王の自宅】
暖かい日差しと、少しだけ冷たい風。
冬から春へと季節が変わっていき、冬の終わりが近付いていた。
「巴(ともえ)、準備は出来ているか?」
「ええ。私は大丈夫だけれど、桜華の支度がまだかかるみたい」
獅子の様な髪と髭、獰猛な顔をした男は腕時計を見つめ苛立っていた。
「あれだけ事前に支度を整えておけと言ったのに。
時間が無いんだぞ」
「冷静になって頂戴。
桜華にとっても初めての音楽鑑賞になるのよ。
思いっきり御洒落をさせてあげなくちゃ」
その男の傍らにはモデルの様な体型と美しい美貌を兼ね備えた女性が寄り添う。
「遅れてしまい申し訳ありません!」
やがて屋敷の入口から若い女性が、ドレス姿の少女と共に走ってきた。
肩で息をしながら、2人の方に目線を向け頭を下げる。
「良いわね、桜色のドレス。
桜華(おうか)にピッタリだわ」
水色のドレスを着た女性が少女の手を握った。
「さぁ行きましょう桜華。
今日はきっと素敵な演奏会になるわよ」
「うん、私もママのバイオリンが聴きたかったんだ!
パパもそうでしょ?」
無邪気に微笑む少女。
彼はその言葉を聞いた瞬間、顔を歪めて彼女の頬に平手打ちをする。
あまりの痛みに大声で泣く事も出来ない。
女性は慌てて少女の近くに駆け寄った。
「あなた、何をするの!?」
「何回言えば解るんだ桜華。
私の事は御父様(おとうさま)、巴の事は御母様(おかあさま)と呼べとあれ程言っただろう。
それにその言葉遣いを直せ。
次期総帥であるお前がその体たらくでは、下の者がついてこない」
機械の様な冷たい表情のままそう言い放つ男性。
側にいたメイドはあまりの恐怖に身動き1つ取れない。
「あなた、桜華はまだ子供なのよ?」
「子供だからなどと言う甘い考えは捨てておけ。
幼い頃に身に付いた所作は一生残り続ける。
子供だからこそ帝王の威厳を身に付ける必要があるのだ。
解ったか、解ったなら返事をしろ」
少女を睨み付ける男性。
その迫力に気圧される様に、少女は俯きながら言葉を返した。
「……申し訳ありませんでした、御父様」
綾小路財閥。
天武日本三大財閥の中で最も高い総資産を保有し、首都東京を中心に関東全域を活動拠点としている企業集合体だ。
総帥である綾小路(あやのこうじ)獅子王(ししおう)は先代以上の剛腕経営で知られており、政治家との癒着等黒い噂が絶えない。
だがそれ以上に強大なカリスマ性と、国民への貢献度の高さによって一定の支持を集めている。
その妻である綾小路(あやのこうじ)巴(ともえ)は天武日本を代表するバイオリニストで、この日の演奏会に出席する予定だった。
「会場にはあと数分で到着する。
お前は桜華についていろ。
私は巴と一緒に楽屋に行く予定だ」
豪華なリムジンの座席に腰掛け、発売されたばかりの携帯電話で会話をする父親の隣にいた桜華は必死に涙を堪えていた。
「桜華、これで涙を拭きなさい。
これから人が沢山いる所に行くのよ、気持ちを切り替えないと」
巴はハンカチを取り出すと桜華に手渡す。
彼女は獅子王の機嫌を損ねない様に細心の注意を払っていた。
歳が離れた夫婦。
天才的な才能は持っていたが貧乏だった巴と、財閥の華麗な表側を彩る才能を欲していた獅子王の思惑が一致し2人は結婚した。
2人の繋がりは金のみであり、巴も獅子王に愛情は持っていない。
娘である桜華を夫である獅子王の暴虐から守ろうと必死だったが、彼女にはそれ程権限が無かった。
「はい、御母様」
そんな政略結婚の結果生まれてきた桜華は当時5歳。
母親のバイオリンと、父親の苛烈な教育に挟まれ辛い日々を送っていた。
天武日本国際音楽祭。
1年に1度開催される大規模な演奏会は上流社会の者達の嗜み、演奏者の晴れ舞台、天武日本の芸術性の披露など様々な意味を持ち合わせている。
世界で通用する腕を持った兵達が集まり、自らの演奏技術がどれだけ優れているのかをアピールする勝負の場でもあった。
公に優劣が付くワケでは無いが、称賛された者には大きなスポンサーが付き多大な名誉と金を得る事が出来る。
綾小路財閥は総力を挙げて巴を支援しており、巴の演奏の成否は財閥の威信に直結する為失敗は許されない状況だった。
「お待ちしておりました」
リムジンから降りてきた3人を、多くの護衛を引き連れた男が出迎える。
「留守の間、屋敷の管理は染井(そめい)に一任させている。
演奏会の間、桜華の世話は任せたぞ」
「かしこまりました。
御嬢様、どうぞこちらへ」
口元と顎に髭を蓄えた男が桜華を呼び寄せた。
彼女は彼の近くに足を運んでから振り返り、巴に呼びかける。
「御母様の演奏、楽しみにしていますわ」
怒られない様に、暴力を受けない為に。
桜華は恐怖や強迫観念によって、喋り方まで矯正されていった。
黒沢(くろさわ)輝(あきら)と共に、綾小路桜華は演奏会が行われる会場に入る。
この音楽祭を鑑賞する為のチケットは高額で、興味本位で足を運べる様な代物では無かったが黒沢は事前に座席を確保していた。
金の力で舞台が一番見易い場所の座席を獲得し、そこに桜華を座らせる。
「御母様は何時出て来るんですの?」
黒沢も財閥の幹部で言葉遣いや躾に厳しい。
自分の言動や行動を逐一報告されるので桜華は常に言葉を選ばなければならなかった。
「全体から数えると4番目の登場になります。
解らない事も多々あるでしょうが最後まで鑑賞してください。
御嬢様にはいずれ巴様の様なバイオリニストになってもらわなければならないのですから」
桜華にはまだ、音楽に関する興味が芽生えていない。
母親の演奏する姿を見た事はあったが、苦悶の表情で歯を食いしばりながら弾き続ける姿を見るのが嫌だった。
巴は最早趣味や嗜好でバイオリンを弾いているワケでは無い。
常にクラシック界の頂点にいなければならないと言う重圧と戦っていた。
頂点に立っていると言う事実こそが彼女にとって大切な事だったのだ。
会場が薄暗くなり、いよいよ演奏会が始まる。
黒沢の隣で緊張しながら座っていた桜華は、タキシードを着た少年が舞台の上を歩きピアノの前に立ったのを見て驚いた。
「まだ、子供……ですわよね?」
「妙ですな。
プログラムにはトップバッターを務めるのはピアニストの氷室仁美だと書いてあったハズですが……」
会場にいる観客からも微かなざわめきが起こる。
彼等は事態を飲み込めず、端正な顔立ちの少年の姿を見て訝しんでいた。
「母、氷室(ひむろ)仁美(ひとみ)の息子……氷室(ひむろ)零(れい)と申します。
母の演奏の前に、僕の演奏を聴いてください」
まるで女性の様な透き通った声は、整っていながらも儚げな顔によく似合っている。
プログラムに無い『飛び入り』に対して観客から文句が出るかと思われたが、意外にも観客席は静かだった。
それは日本を代表するピアニストである氷室仁美の息子の『お手並み拝見』と言う意味があったのかもしれない。
この大舞台でしくじれば、彼がピアニストとして生きる手段は完全に失われ母親の名声にも大きな傷が付く。
観客は心の中で意地悪な笑みを浮かべながら、彼の手腕を見届けようとしていた。
「超絶技巧練習曲 4番『マゼッパ』」
ピアノの前にある椅子に座った少年が弾く曲名を宣言すると、再び会場がざわめいた。
「リストが作り出した最難関曲じゃないか」
「プロのピアニストでも難しいと言うのに、子供に弾けるとは思えない」
遠くからそんな声が聞こえてくる。
桜華は子供心に、彼が何か凄い事をしようとしているのだと言う事だけは把握した。
だがいざ少年が演奏を始めると、そんな声はすぐに止み、会場全体が静まり返った。
このマゼッパと言う曲は『指で鍵盤を押す』と言うピアノの基本動作を極限まで難しくした曲だと言える。
素早い指捌きが問われる箇所や指を限界まで伸ばして普通は押せない位置の鍵盤を押しに行く場面がある等、ピアニストへの挑戦と言っても過言では無い部分が目白押しだった。
そんな『曲を作り出した本人で無ければ美しく弾く事は出来ない』とまで謳われた曲を、少年は冷静に時折熱を込めて弾き続ける。
桜華にはまるで彼の手が3本あるかの様に見えた。
普通の人間の目では追いきれない程のスピードで指が動き続けている。
「こんな……こんな世界があったなんて」
桜華は目の前で繰り広げられている光景と、音の洪水の様な演奏に心を奪われていた。
隣にいた黒沢でさえ、激しく心を揺さぶられている。
慌てて我に返ると、この状況が危険である事が解ってきた。
(不味い、巴様の演奏技術は確かなものだ。
だがこのガキの演奏はそれを軽く超えている。
生まれ持って身に付いた天才的な才能と言うやつだろう)
10分近く弾き続けていたのだろうが、会場にいた観客には一瞬に感じられる程濃密で、有意義な時間だった。
演奏を終えた少年が、観客に向けてお辞儀をする。
呆気に取られていた者達は我に返ると立ち上がって割れんばかりの拍手を送った。
「素晴らしい、文句の付けようが無い完璧な演奏だった!」
「まるでリストが君に憑依したかの様な動きだったぞ!
末恐ろしい少年だ!」
美少年、そして美青年であったリストと同等の美貌を持つ少年が舞台から去った後も観客の興奮がおさまる事は無かった。
氷室仁美が弾くピアノソナタ『月光』は、『マゼッパ』とは対照的な、静かで落ち着いた曲だったがそれだけに『マゼッパ』の印象はさらに強まる。
「一体どういう事なんだ!
あんなガキが演奏するなんて私は聞いていないぞ!」
舞台から離れた楽屋の廊下で、音楽祭のスタッフに怒りをぶつけていた獅子王の顔は獰猛な肉食獣そのものだった。
「一誠(いっせい)さんの直訴が通った形になりまして……
何しろ9歳であれだけの演奏が出来るピアニストは他にいないものですから」
獅子王の剣幕に対して青ざめながらしどろもどろで釈明をするスタッフの背後から、落ち着いた低い声が響く。
「これはこれは獅子王さん。
お久しぶりですな」
息子と同じ端正な顔立ちは、老いがさしかかっている事もあり渋みを増していた。
「一誠さんじゃありませんか」
獅子王は丁寧な言葉遣いをしながらも、明らかに怒りを露わにした表情で相手を睨み付ける。
「演奏会のメンバーにも教えずに御自身の息子を音楽祭に出演させる等、正気の沙汰とは思えませんが」
「サプライズと言うものですよ。
息子は妻を超える才能を持っている。
神から与えられた才能をね。
その才能を発揮すべき場所が音楽祭であり、この登場のさせ方が息子にとって一番良いと思っただけの事です」
綾小路財閥の総帥が睨み付けてきてもその圧力を跳ね返す程の力を彼は持っている。
金の世界で最も上にいるのが獅子王ならば、音楽の世界で最も上にいる存在が一誠であったからだ。
天武日本のナンバーワン指揮者であり、音楽界においては圧倒的な権力と発言力を持つ男。
獅子王はかつて金の力で音楽界の勢力図を塗り替えようとした事があったが、一誠に阻まれたと言う苦い過去がある。
2人は音楽の世界においては間違いなくライバルであった。
どちらの『金の卵』が優秀か常に競い合っていたからだ。
「あの観客のスタンディングオベーションで勝ちを確信していたのならばとんだ勘違いも甚だしい。
巴の演奏で即挽回してみせましょう。
本物の『音楽』を客に聴かせる良い機会だ」
「……私はね獅子王さん。
貴方に勝てないと本気で思ってるんですよ?
特に金が絡む世界では。
ですが、音楽は織田政権のもと神聖な『芸術』として守られている。
純粋に、より良い演奏をして客を喜ばせられるかが勝負だ。
だからこそ私のフィールドである音楽の領域では、勝てないと思ったとしても負けを簡単に認めるワケにはいかないんです」
1度も目を逸らす事無く、一誠はそう言い切った。
獅子王は言い返す言葉が無く、ただ相手を睨み付ける事しか出来ない。
音楽の頂上に辿り着く存在を作り出す。
2人はその野望を実現させる為に火花を散らしていた。
桜華の自室は、夢見る少女の純朴さと豪華な内装が上手く合致し、1つの世界を構成している。
パジャマ姿でベッドに腰掛けた桜華の腕には、クマッタ人形が抱かれていた。
(あんな魂に響く様な演奏、聴いた事が無かった。
私も、あの人みたいになれたらいいのに)
彼女にとって衝撃的とも言える演奏会から既に数日が経過していたが、マゼッパの音色は鮮烈な記憶として残ったままだった。
母である巴のバイオリンは物心がついた頃から聴いていた。
彼女が泣いていれば楽しい音楽を。
眠る時には子守唄の様な静かな音楽を。
巴は自分の娘である桜華に愛情を注ぎ、桜華もそれに甘えてきた。
だがその美しい旋律を吹き飛ばす様な強く、激しく、完璧な速さから生み出された音は彼女の音楽に対する概念を根底から変えてしまったのだ。
(何時か、あの人と肩を並べられる様な音楽家になりたい)
豊かな才能を持つ巴の娘だからこそ、音楽への憧れは非常に強い。
まだ考えもしていなかった『将来の夢』がハッキリとした形を成した。
「桜華、ちょっとこっちへ来て頂戴」
扉の向こうから聞こえてきた母親の声に呼応し、桜華はパジャマ姿のままドアを開ける。
ドアの前に立っていた巴は、海の色の様な美しい青色のドレスを身に纏いバイオリンを手にしている。
「そのままで良いから、こっちへ」
巴は言葉を返そうとした桜華の手を引き、巴の自室まで連れて行った。
彼女の自室には桜華も何度か足を運んだ事がある。
棚の上には数多くのトロフィーやメダルが並んでいた。
「桜華。私は子供の頃、とても貧乏だったわ。
芽の出ないバイオリニストだった母さんに、自分の様にはなるなと言われなけなしの金を使って音楽の勉強をしていたの。
高校を卒業した頃、貴方のお父さんに拾われた。
豊かな生活を保障する代わりに、音楽界のトップになると言う条件付きでね」
桜華は今までの純粋な笑顔とは違う、狂気を内に秘めた笑顔を見せる巴の姿を見て怯えていた。
無償の愛情を注いでくれていた今までの母親とはまるで違う顔。
そんな母親の顔を見るのは生まれて初めての事だった。
「血を吐く様な努力を重ねて、ようやくトップに立てた。
そう思ったわ。でも、貴方も聴いたでしょう?
ピアノと言う違う種類の楽器とは言え、あんな神がかった演奏をされてしまったらとてもかなわない。
私は努力で地位を守ってきたけれど、あの子は持って生まれたものが違う。麒麟児なのよ」
巴のカリスマ性には陰りが見え始めていた。
武器の1つだった美貌も、年齢を重ねるにつれて徐々に衰えている。
彼女は焦っていた。
今の演奏技術を数年後に保っていられる自信が無い。
自分が財閥にとって不用な存在と判断されればゴミの様に捨てられてしまう。
贅沢な生活を、思うままに金を使える人生を失いたくなかった。
獅子王との縁を保つ方法は1つしか残されていない。
「私がトップを走っていられる時間は短い。
その残された時間で、貴方に今の私の全てを授けてあげる。
バイオリンの演奏技術だけじゃなく、音楽界のトップに立つ者としての立ち居振る舞いもね。
私の今まで積み上げてきたものを受け取って、もっと完璧な存在になって頂戴。
あの子を超えるのよ。
ピアノのインパクトに負けない、バイオリニストになってほしいの。
解るでしょう?」
巴は両手を桜華の両頬に当て、歪な笑みを浮かべる。
桜華はその笑顔を見ながら、母親の期待に添いたい自分と夢を叶えたい自分がいる事を感じていた。
桜華も氷室零に匹敵する様な音楽家になりたい。
そして、そうなれば母親もきっと喜んでくれる。
「私は天武日本で一番のバイオリニストになってみせますわ、御母様」
「そうよ、その意気よ桜華。
日本一、いえ世界一を目指す為には私以上の努力を積む必要があるわ。
私だけじゃなく、専属講師を貴方につけてあげる。
貴方ならきっとトップに立てるわよ」
全ては己の為、そして自分を庇ってくれる母親の為。
桜華は翌日から厳しいレッスンを受ける事になった。
綾小路家の英才教育は苛烈で、桜華は普通の子供とは全く異なる生活を強いられていた。
当時桜華は5歳。
通常ならば幼稚園に通っているハズの幼い子供は殆ど外出を許されず、専属講師による指導が1日の大半を占める。
バイオリンのレッスン、経営学、上流社会に適応する為のマナーや立ち居振る舞いの勉強。
数学は既に高校生や大学生が習う様な内容。
語学に至っては天武日本語(古文も含む)・英語・信国語・EU諸国連合公用語・アラビア語のワールド5言語をマスターしなければならない。
屋敷の中でただひたすら勉強を続けるだけの毎日。
1日のカリキュラムが終了するのは夜中近くになり睡眠時間は5時間程しか与えられない。
15時間と言う長い時間が全て学びに費やされる。
彼女は『綾小路財閥』と言う名の鳥籠の中に閉じ込められた小鳥だった。
同年齢の子供達が外で遊び回る中、クラスメイトとの触れ合いとは無縁の環境下でバイオリンを弾いた。
夏休みも冬休みも無い。
毎日が『綾小路家の後継者』を目指す為の勉学。
威圧的な父親から逃れ、母親の愛情を受けたい一心で孤独と苦しみに耐え続ける。
そうすれば、両親が喜んでくれるのだと信じて。
そんな生活が続き、何時の間にか3年の月日が経過していた。
「御嬢様。
もうすぐ巴様がニューヨークで開催される世界音楽祭に行く事になりますね」
「私も付いていきたかったのですけれど、留守番していろと言われてしまいましたわ」
肩を落として溜息をつく桜華の肩を、妖は優しく叩いた。
「いずれきっと御嬢様だって世界に羽ばたくバイオリニストになれますよ。
そうなれば、ニューヨークはおろか世界中で引っ張りだこの存在になるハズです。
頑張ってください」
学校には通っていなかった桜華にも、孤独を癒やす者が2人いた。
1人は綾小路財閥で働いているメイドの娘であった五十神(いそがみ)妖(あや)。
「姉様が毎日頑張ってるのを、私は誰よりもよく知ってる。
その苦労はきっと報われるわ」
そして黒沢輝の娘、黒沢(くろさわ)美香(みか)。
2人には桜華が挫折しない様に付き添い、励まし続けると言う責務が課せられていた。
五十神妖の先祖は、戦国時代に活躍した『饗談(きょうだん)』と呼ばれる忍者である。
多くの者が漠然と抱いている忍者のイメージと言えば闇夜に現れ敵を次々斬る恰好良い姿が浮かぶかもしれないが、実際の忍者の仕事は地味なものだった。
忍者の仕事は信長が天下統一を果たした後形を変える事で生き残る。
情報収集やスパイ、相手を唆してその気にさせる力等が重宝された。
妖もそんな母親から指導を受け、現代の忍者になる事で綾小路財閥から恩恵を受けようとしていたのだ。
「妖、お前は桜華御嬢様の『友達』として常に御嬢様の側にいろ。
御嬢様が挫折しない様に支え続けるのだ。
辛いと愚痴をこぼされても励まし、御嬢様が勉学に励む様誘導する役目を果たせ」
黒沢美香の『役目』は妖とは少し違っていた。
「美香、桜華御嬢様にとってお前は妹の様な存在だ。
世界一になる姉を尊敬し、御嬢様を守れ。
いずれ御嬢様は多くの者達に称賛される事になる。
その時お前は皆の先頭に立って御嬢様を称賛するのだ。いいな」
妖が『親友』の役割を果たして桜華を支え、美香が『妹』として桜華を持ち上げる。
閉じた世界の中で桜華が挫けない様にする為の策だったが、それ故に寧ろ美香の方が病んでしまった。
妹分として振舞っている間に、美香は桜華に依存し傾倒する様になる。
桜華が美香にとっての『世界の全て』になってしまっていた。
桜華を称賛しない者は敵。
そして桜華を愛するナンバー2は己しかいない。
美香はそうした歪んだ感情を育みながら成長していく事となる。
綾小路獅子王と巴がニューヨークに出発する2週間前。
獅子王は腹心である黒沢と染井を連れ、古都の料亭に訪れていた。
隠れ家の様なこの料亭の場所を知る者は少ない。
奥の部屋に通された一行は革新党の総務大臣である竹中尚人と対峙していた。
「計画の詳細は既に話した通りだ。
後は実行する為の準備と、実行するタイミングだけだな」
刺身を口に運ぶ老齢の男性からは、狼の様な静かな凶暴性が見え隠れしている。
威厳に満ちた凶暴性を持つ獅子王とは対照的な威圧感を持つこの男性は、織田政権を潰して自らが頂点に立とうとしていた。
「しかし……実行する為にはどうしても実行犯と言う『生贄』を作る必要があります」
財閥と竹中が考え出した『クーデター』は、その『生贄』を使って総理大臣を殺害し、世が混乱の極みと化した状況の中で竹中が政権を掌握。
政権と財閥が手を握り天武日本を掌中におさめると言う作戦のうえに成り立っていた。
「お前達の関係者ならそういう役が出来る下っ端は幾らでもいるだろう。
儂は政治家だ。
政治家の味方を切り捨てれば網の様に広がった情報から特定されてしまう。
生贄はお前達の側から出せ」
有無を言わせぬ迫力に対して、獅子王も反論する事は出来なかった。
「生贄を調達する必要がありますな。なるべく早くに」
竹中が部屋から姿を消した後、溜息をつきながら染井はそう言った。
「財閥の者達は家族同然だ。
勿論、中枢の人間が窮地に陥った時には切り捨てなければならない時もあろうが自発的に切り捨てる事だけは出来ん」
獅子王は財閥の人間だけが潤うシステムを構築しようとしていた。
己に従ってきた者達は『ファミリー』であり、貢献に対してそれ相応の褒美を与える。
総理暗殺計画はそのシステムを確立させる為の最終段階であり、成功するか否かによって組織の存亡すら左右する程の重要事項であった。
「外部の人間を雇った方が良いかもしれません。
我々との関係を全く疑われる事無く、切り捨てても全く心の痛まない者達を。
織田政権に対して不満を抱いているならば尚良し。
金を渡して派手に暴れてもらいましょう」
黒沢の発言に対して、獅子王は腕を組みながら静かに頷いた。
適任である者達の存在はおぼろげながら浮かび上がってきている。
だが当時は相手の居場所も組織の規模も把握していなかった。
それは相手を軽んじていたと言う事であり、財閥のそうした傲慢さが悲劇を招く事になる。
「さぁ、私の前で演奏してみて。
緊張せずに、今まで教えてきた事を忠実にやれば良いのよ」
ニューヨークで行われる音楽祭の数日前、巴は桜華を自室に設置した円形の舞台に立たせバイオリンを弾かせようとしていた。
彼女が桜華をバイオリニストとして育て始めてから3年。
惜しみなく金と時間を注ぎ込み、己の後継者とするべく励んできた。
桜華は止まらぬ心臓の鼓動を何とか抑えようと何度も深呼吸を行い、少々ぎこちないが教えられた通りに演奏を始める。
彼女は一途に頑張ってきた。
雨の日も風の日も屋敷の中でバイオリンと向き合ってきたのだ。
だが、桜華の演奏は『努力によって培われた』部分しか発揮されていない。
彼女には零ほどの音楽的才能は無かった。
「御母様……」
演奏を終え、小動物の様な目で巴を見つめる桜華。
彼女は出来る事を全てやってきた。
血の滲む様な努力を続けてきた事は巴が一番よく知っている。
だからこそ、落胆も大きかった。
(音楽界でそれ相応の評価を受ける事は出来るかもしれない。
でも、この子の実力は私以下。
頂点に立つのは夢のまた夢。
捨てられるかもしれない……私も、桜華も)
巴は心の底から悔しがった。
己の努力も娘の努力も、頂点を取れなければ全て無駄に終わってしまう。
愛娘と自分を救う為には、何としても巴がニューヨークで喝采を浴びる必要があった。
「桜華、貴方はまだまだ伸びしろがあるわ。
その間、私が糸を繋いでおいてあげる。
もっともっと練習すれば上のステージに行けるハズよ。
弱い自分を見せずに、常に胸を張りなさい。いいわね?」
本当は厳しい言葉を浴びせたかった。
捨てられてしまうかもしれないと言う不安が彼女の心に覆い被さってくる。
それでも必死に耐え、桜華を抱き締める。
娘に罪は無い。
巴は頭では理解していたが、心ではなかなか納得する事が出来ずにいた。
使命感の様なものが、巴を突き動かしていた。
娘が出来ないのならば、己が実力を発揮するしか無い。
そんな強い意志を持ってニューヨークへ向かった巴だったが、夫と共に非業の死を迎える事になった。
「御嬢様!た、大変な事が……」
桜華がバイオリンのレッスンを受けている最中に、執事の染井が部屋の中に駆け込んでくる。
額からは汗が流れ、顔面蒼白と言う彼の状態に桜華も異変が起こった事を察知した。
「何があったんですの?」
「獅子王様と巴様が、亡くなられました。
飛行機が海に墜落したのです」
桜華は一瞬、染井が何を言っているのか理解する事が出来なかった。
足の震えが止まらなくなり、膝から床に崩れ落ちる。
バイオリンと弓が床の上に転がった。
「そ、そんな……」
言葉を発する事が出来ずに、桜華は大粒の涙を流しながら両手で顔を覆う。
脳裏に浮かぶのは優しく自分を指導してくれた母親の姿だった。
(御父様はまるで感情の無い機械の様だった。
でも御母様は違う。私に愛情を注いでくれた。
私に夢を託してくれた。
何時かきっと、その夢を叶えてみせようと思っていたのに!)
頭を抱えながら泣き続ける桜華の肩に、氷の様に冷たい染井の手が触れる。
「……御嬢様、泣いてばかりもいられませんぞ。
獅子王様と巴様が亡くなられたのは間違いない事実。
財閥の舵取りが出来るのは御嬢様ただ1人なのです。
実業と音楽、どちらも極めてもらわねばなりますまい」
その言葉に対して、桜華は頭を上げ染井の方を見た。
「桜華御嬢様。
いずれどちらも継いでもらわねばならなかったのは既定路線でございます。
その予定が予想以上に早くなってしまった事は誤算でしたが、やってもらうしか無いのです。
私めが全て教えて差し上げましょう。
この巨大な財閥の経営を成功させる為の策を。
バイオリンでも、綾小路財閥の規模でも日本一、いや世界一にならなければ」
手と同じかそれ以上に冷たい声が部屋中に響き渡り、桜華の肩が震える。
逆らえなかった。
嫌だと叫んだとしても、無駄な事は彼女が一番よく解っている。
この日から今までよりもさらに非情なカリキュラムが組まれ、睡眠時間を削りに削って様々なものを桜華は吸収していく事となった。
屋敷と言う檻の中で飼われた小鳥は、2年の歳月を経て外へ飛び立とうとしている。
桜華は10歳になり、この年に行われる天武日本国際音楽祭に参加する事が決まった。
「御嬢様、いよいよ出発の時間となりましたが準備の方は宜しいでしょうか?」
「ええ。大丈夫ですわ」
綾小路財閥の威信をかけた戦い。
晴れ舞台に桜華を送り込む所までは金を積めばどうにでもなる。
だが演奏技術と得られる評価だけは金で解決出来るものでは無い。
音楽祭と言う空間自体が一種の『聖域』と化しているからだ。
「姉様、とっても綺麗よ」
この日の為に作らせた特注品のドレスは、サイズこそ違えどかつて母親が着ていたものと同じだった。
海の深淵を表現したかの様な青色。
母親を凌駕する為に懸命にバイオリンの練習を続けてきた。
愚直に何十回も何百回も繰り返してきた厳しい毎日を思い出し、気を引き締める。
(このお披露目で成功すれば私の名声は高まり、それが財閥の輝きとなる。
失敗すれば財閥で身を粉にして働く者達を不安にさせかねない。
つまり、失敗は許されないと言う事ですわ)
そう自分で自分に言い聞かせ、桜華は心のバランスを保とうとした。
本当はとても怖かった。
幾ら練習を重ねてきたとは言えぶっつけ本番の一発勝負。
ほんの少しのしくじりが致命傷に成り得る。
僅かに震える肩に、妖の手が触れた。
「御嬢様、危なくなったら深呼吸です。
そうすれば周りが見れる様になりますから」
この2年間、美香がおだて妖が彼女を支えてきた。
心が折れてしまいそうな時に2人がいてくれた。
無論裏を返せば、桜華にはこの2人しか頼る人間がいなかったのだが。
「有難う。
妖が私の為に努力してくれた事は忘れていませんわ」
「姉様、私の事も忘れないで!
そんな側女(そばめ)より、妹分である私の方がずっと姉様に貢献してきたんだから!」
美香にとって桜華は『世界の全て』。
例え世界が混乱の極みに陥ったとしても絶対に守らなければならない存在。
だからこそ彼女にとっては妖の存在が疎ましかった。
自分が最も愛するものに擦り寄ってくる虫の様に見えていたからだ。
「美香。妖は桜華をお前と共に盛り立てていく為の大事なパートナーだ。
それだけは忘れるな」
「……はい、御父様」
そっぽを向いて心の全くこもっていない返事をする美香を尻目に、黒沢はリムジンの扉を開ける。
「さぁ、行きましょう御嬢様。
この黒沢と染井が御供致します」
桜華は頷くと顔を上げ、誰に見られても恥ずかしくない立ち居振る舞いを見せながら車に乗り込んだ。
心臓の鼓動が鳴り止まない。
控室で己の出番を待つ桜華は、1人きりと言う状況もあり胸が潰れそうになっていた。
(もうすぐ、私の出番が来る。
大勢の耳の肥えた観客達を相手にして、全員を満足させないと)
桜華は壁に掛けられた時計を見た。
あと30分。あと20分もすれば舞台の方へ赴かなければならなかった。
不意にノックの音が聞こえ、反射的にドアの方を見る。
登場時間が早まったのか?
あまりの緊張に苦しくなってきた桜華の耳に、あの時聞いた美しい声が聞こえてきた。
「ちょっと君の時間を貰っても構わないかな?」
忘れはしない。
あの音楽祭の時にマゼッパを弾いてみせた少年の声だった。
桜華は自分1人でこの部屋にいる事が耐えられなくなっている事に気付き、ドアの前に駆け寄るとそのまま鍵を開ける。
「やあ、初めまして」
にこやかに微笑みかける少年は、まるで桜華を救いに来た天使の様にも見えた。
「氷室零……」
「僕の名前を知っているんだ。
嬉しいなぁ。巴さんの娘さんに知っていてもらえるのは光栄だよ」
美しい銀髪に、白いワイシャツと紺色のジーンズ。
茶色の革靴とシンプルな装いだったが、放たれるオーラは格が違っていた。
それはまさに王者の風格。
人を圧倒させる静かな迫力に満ちている。
「ずっと貴方に会いたかった。
会って話をしてみたかったんですの」
「そうなんだ。
君が音楽祭に出るって話を耳にしたから、僕も一度会ってみたいと思っていてね」
桜華は零の姿に違和感を覚えた。
何故か、哀しそうな顔をしていると思ったのだ。
「憂いに満ちた顔をしていますわね」
「そう見えるかい。
実はこの音楽祭が終わったら、僕は少しピアノから離れてみようと思っているんだ」
零の言葉に迷いは感じられなかった。
桜華は驚き、目を見開く。
「どうして?
貴方はあんなにも素晴らしい演奏技術を持っていると言うのに」
「両親がいなくなって、心が空っぽになってしまってね。
この穴を埋めてくれるのは音楽じゃない。
直感的にそう思ったのさ。
だから、僕は埋めてくれる何かを探してみようと思ってる」
瞳の奥の輝きが消えていた。
自分の目とよく似ている……桜華はそう思った。
「もしかして、君も音楽に自分の生き甲斐を見出せていないのかい?」
零の質問に対して、桜華はすぐに答える事が出来なかった。
本当は褒めてくれる母親がこの世にいない今、音楽を続ける事の意味が解らなくなってきている。
だが止める事は許されなかった。
自分のモチベーションの問題では無いのだ。
「私は、音楽界で一番になりたい。
その気持ちに偽りはありませんわ」
零は真っ直ぐにただ桜華の瞳を見つめた。
その奥に淀んだものを感じ、溜息をつく。
「君と僕は似た者同士だ。
でも僕と君には違いがある。
僕は縛られていないけど、君は縛られている様だ。
自由が無ければ、良い演奏を行う事は出来ないよ」
そう言って控室を後にした零の後姿を、桜華はただ黙って見送る事しか出来なかった。
その日の演奏会に来ていた客は、魂が欠けたかの様な2人の演奏に対して拍手もブーイングも送らなかった。
零も桜華も確かに一流の演奏技術を持っていた。
だが、魂を震わせる様な何かが足りなかったのだ。
決して下手な演奏だったワケでは無い。
それでも、耳の肥えた観客の評価は非常に厳しいものだった。
「御嬢様の演奏は決して不出来だったワケではありません。
しかし、私もあの反応が妥当だと思いました。
訴えかける熱が足りないのです。
氷室零が低調な演奏をして共倒れした事が救いではありますが」
帰りの車の中で辛辣な意見を述べる染井を、黒沢が諌める。
「言い過ぎでしょう。
御嬢様は精一杯頑張った。それにまだ御嬢様は10歳です。
10歳で天井と言う事はあり得ない。
まだまだ伸びるハズですよ」
黒沢も桜華を慰めている様に見えるが、結局の所彼女にプレッシャーをかけているだけに過ぎない。
次は無いと言わんばかりの空気に耐えられなくなった桜華は顔を覆い嗚咽を漏らした。
(御嬢様は脆過ぎる。
精神的にも鍛える必要がありそうだ。
そして、バイオリンで人々から評価されるには時間が足りない。
あの計画を実行する為には御嬢様が国民の注目を集める『チャンピオン』になる必要があるのだ。
何か別の方法を考える必要がある……
御嬢様には悪いが、あと数年は辛抱してもらわねば)
染井の邪悪な企みをよそに、桜華は一言も発する事が出来ず涙を流し続けていた。
自室に向かった桜華と、彼女を慰める為に付き添う美香と妖の姿を見送った後染井と黒沢は会議室に足を踏み入れた。
扉を閉めれば完全防音。
彼等の良からぬ企みが外に漏れ出る心配は無い。
「まずは吉報から」
黒沢は手に持っていた鞄の中から書類を取り出し、染井に見せた。
「獅子王様と巴様を亡き者にした憎き組織、『紅虎明命』のアジトを突き留め天武日本に潜んでいたリーダーとコンタクトを取る事に成功しました。
最早彼等は我等の駒。
スケープゴートとしてはうってつけ。
滅んでも全く問題の無い存在です」
「うむ。獅子王様を失ったのは痛手であったが、大きな問題をクリア出来た事は素晴らしい」
「しかし、御嬢様のメンタルも含め今後どういった形で国民の信頼を勝ち取るのかは難しい所ですな」
リーダーの顔写真を鞄の中にしまった黒沢は、別の写真を染井に見せる。
「我々の標的である織田信虎総理です。
最近は格闘ゲームの普及に尽力している様で、全国大会の開催を目論んでいるとか」
筐体の前で誇らしげに胸を張る信虎の顔を見て、染井はあからさまに嫌な顔をした。
「神谷財閥に肩入れする不届き者め。
必ず息の根を止めてくれる」
「この全国大会の優勝者にトロフィーを渡すのは総理本人。
総理が既にそう宣言しているとの事。
つまりその瞬間は無防備。
暗殺を成功させるには最も適した状況だと言えるでしょう」
会場の写真を眺めていた染井の表情が、唐突に邪悪なものへと変化する。
「……そうだ。それならば完璧だろう」
「どういう事です?」
意味が解らず尋ねた黒沢の方を見た染井には、計画の成功を確信したかの様な笑みが浮かんでいた。
「この格闘ゲームの全国大会で御嬢様が優勝を飾り、総理の命を狙う暗殺者の近くに『たまたま』いたせいで窮地に陥る。
勿論事前に密約を交わしておき御嬢様の無事は確たるものにしておけば良い。
そうすれば愚民共は桜華御嬢様こそ悲劇のスーパーヒロインだと担ぎ上げるだろう。
御嬢様の人気が高まれば竹中が何を叫ぼうとも世論はこちらになびく。
我々の勝利は確実と言うワケだ」
染井の提案に対して、黒沢は合点がいったと言う顔をした。
「成程。御嬢様は非常に目が良い。
それに演奏技術の習得により培った優れた反射神経は武器になる。
これから特訓を行い、その伸び方次第ではありますが、御嬢様なら充分優勝も狙えるでしょう」
桜華にさらなる負担を強いる事に対して、黒沢も染井もそこまで気にしてはいなかった。
勿論桜華が大事である事は確かだったが、『財閥の躍進』にも力を入れていたのだ。
財閥が天武日本の頂点に立ち、財閥が潤う国を形成する。
桜華を頂点とした素晴らしき独裁国家。
彼等はそんな夢を抱き、それを実現させようとしていた。
それが桜華の幸せに繋がると本気で信じていたのだ。
「格闘……ゲーム?」
屋敷内にある会議室で『次の一手』を聞いた桜華は、目を丸くした。
世間の事を全く知らずに育ってきた彼女にとって、ゲームなど触った事も無い未知の存在でありゲームセンターがどんなものであるかも知らない。
「対戦型格闘ゲームの『ZERO』の全国大会は毎年12月31日。
即ち大晦日に行われます。
総理大臣も御覧になる試合の為、国民の注目度も音楽祭の比ではありません。
御嬢様には並み居るプレイヤー達の頂点に立っていただきたいのです」
黒沢は沢山の写真や『ZERO』の攻略本、プレイヤーの情報が書かれた書類を机の上に広げる。
「わ、私は音楽界で頂点に立つと御父様、そして御母様に約束したのです。
他のもので頂点を目指せと言われても……」
「御嬢様。
これは音楽界でトップに立つ為の過程として必要なものだと考えてください」
黒沢は何としても桜華を言いくるめ、その気にさせなければならないと考えていた。
嘘を並べてでも説得する必要があったのだ。
計画を成功させる為に。そして財閥を頂点へと押し上げる為に。
「桜華御嬢様の知名度は、まだまだ低いと言わざるを得ません。
残念な事ではありますが、この国の愚民達は御嬢様の音楽的才能を存じていないのです。
まずは国民に注目され、その次に音楽を披露する事。
そうすれば多くの注目が集まる場所でバイオリンを弾く事が出来るでしょう。
ZEROで優勝する事は御嬢様の今後にとってプラスになります。
音楽界で成功する為にもこの大会で優勝するべきなのです」
有無を言わせぬ迫力に桜華はたじろいだ。
今まで人に対して強く反対する事が出来なかった為、今回も何も言えずに押し黙ってしまう。
「それに、別の朗報もあります。
氷室零の事です」
突然零の名前が出てきた時、桜華は顔を上げた。
黒沢は桜華が零に対して好意的な感情を持っている事に気付いていた。
彼はその感情も利用しようと考えていたのだ。
「氷室零はこのZEROに強い興味を示しているとの情報が入ってきています。
まだ確定的な情報とは言い難いのですが、彼がプレイヤーとなって全国大会に挑む可能性はかなり高いのではないでしょうか」
「零が、そのZEROに挑戦する……?」
桜華の心の中で様々な感情が揺れ動いていた。
それは零に対する憧れや、悔しさ、嫉妬だった。
自分には到底出来ない完璧な演奏を披露した零。
そして彼は自分とは違い、自由に生きる事が出来る。
己の淀んだ心を見透かされた事が悔しかった。
自由に生きたいと叫びたくても叫べない人生を送ってきた彼女にとって、零は羨望の対象だった。
そんな零と違う土俵であったとしても勝つ事が出来たならば、自分の中の世界が変わる気がしたのだ。
「解りましたわ。
黒沢、もっとそのZEROと言うゲームの事を教えてくださいまし」
黒沢は人の心理状態を見抜き、自分が意図する方向へ持っていく才能がある。
零が興味を抱いていると言うのはハッタリだった。
後に本当の情報となるのだが、彼にとってそんな事はどうでも良かった。
黒沢にとって大切な事は桜華にZEROをプレイさせる事、そして全国大会に挑戦して優勝を狙う事。
計画の第一段階をクリアした黒沢は、安堵の溜息をつく。
(まずは、御嬢様の気持ちを変える事が出来た。
美香や妖には積極的に御嬢様をサポートさせねば。
最終目標を達成さえすれば御嬢様の当初の目標もどうでもよくなる。
財閥が絶対の存在と化せば、御嬢様のバイオリニストとしての腕が上達しなくとも国民は納得するのだから……)
綾小路桜華。
彼女もまた財閥の『駒』として振り回される操り人形であった。
それは黒沢や染井であっても変わらない。
財閥と言う巨大な怪物は、組織の中にいる者達を狂わせ、野望に走らせる。
自由を求める心を強引に押さえつけて生きてきた彼女は、矛盾を抱えていた。
泣き叫びたい衝動と、財閥の長として人にみっともない所を見せてはいけないと言う相反する気持ちの中で成長を続ける。
何が彼女にとっての本当の夢なのか、本人にも解らぬまま桜華は走り続けなければならなかった。
全ては人々の期待に応える為。
そして、財閥に関わる者達を幸せにする為に。