この物語は絶望から僅かな希望を見つけて這い上がる為の話だからです。
一応最後に巨大な『爆弾』が用意されているのですが、
それはまだ先の話。人は予期せぬ不幸に見舞われるのです。
【1955年 7月25日 東京都千代田区秋葉原 東京都立倫橋高等学校】
「それでは今から期末試験の結果を発表するぞ」
蒸し暑い教室内が生徒のああでもないこうでもないと言う御喋りで余計に暑くなった様に感じられる。
そんな中、蔵崎源三は霧原冴子の座っているべき席が空いている事に漠然とした不安を抱えていた。
「男子生徒のクラス内順位1位から5位はこの生徒だ」
担任がチョークで黒板に生徒の名前を書き記していく。
源三は5位に滑り込んでいた。
「続いて、女子生徒のクラス内順位1位から5位を発表しよう」
女子生徒の名前を次々書き記していく教師。
その中に霧原冴子の名前は無かった。
「あれ、先生……
霧原さん、今回トップ5に入ってなかったんですか?」
生徒の1人が意外そうな顔をしながら担任にそんな質問をする。
「ああ、私も少し驚いた……
具合が悪かったのかもしれんな。
今日は珍しく病欠している。
鯛良鮎美もだ。
彼女も滅多に休まない方なんだが……」
心配そうな顔で頭を掻く教師。
源三の不安がどんどんと大きくなっていった。
「ともかく、今回の期末試験で優秀な成績を収めたのはこの10名だ。
他の生徒の順位は紙に書いて廊下に貼ってある。
後で確認する様に。
それと……赤点を取った生徒は補習を行うぞ。
休もうとしてもしつこく電話をかけるから無駄だと思っておけ」
何名かの生徒が呻き声を発したり嫌そうに返事をしたりしている。
源三は補習を受ける必要が無い。
明日から夏休みが始まるのだ。
だが、源三は『もう会えないかもしれない』と言う冴子の言葉を思い出しとても喜べる様な状態では無かった。
「蔵崎、ちょっと」
今日の授業が滞り無く終了し、源三は慌てて教室から出ようとするが教師に呼び止められる。
「お前、霧原の所に行くのか?」
源三は驚いて教師の顔を食い入る様に見つめた。
「霧原の事を聞いてからずっとそわそわしていたからな。
そうじゃないかと思ったんだ。
悪い事は言わん。止めておけ」
「何故です?」
抗議する様に語気を強めた源三に対して、教師は小声で耳打ちする。
「お前は誰かに言いふらす様な人間では無いと思っているから言うが、昨日の夜霧原の両親から電話があった。
一身上の都合により娘は転校する事になったと言ってきたんだ。
事前連絡も無く突然にだぞ?
電話の向こうにいる父親の声は震えていた。
明らかに恐怖を感じている様だった」
「え……?」
源三は一瞬教師の言っている事がまるで理解出来なかった。
思ってもいなかった展開に愕然とし、放心状態のまま立ち竦んでしまう。
「鯛良鮎美は昨日の晩突然倒れて病院に運ばれた。
意識不明の重体らしい。
医者の話では、何らかの薬物を摂取し続けた結果そうなったんだと……
生徒達の不安を悪戯に煽るから今日本当の事を言う事は出来なかったんだが」
教師がそこまで言った瞬間、弾かれた様に源三は教室の外へと飛び出していった。
『止めておけ!
危険な事に足を突っ込んでも得な事は何も無いぞ!!』
そんな声が彼の背後から聞こえた気がした。
だが源三は己の感情を抑制する事など出来なかった。
(冴子……!)
彼女の安否が気になった。
暴力団の影がちらつく中で、焦燥感だけが大きくなっていく。
源三は学校の敷地内から出るとひたすら走り、霧原冴子の自宅を目指した。
自然と走る速度が速くなる。
悪い予感が現実になりそうだと言う恐怖が彼を突き動かしていた。
「ハァ……ハァ……ああ!?」
やがて霧原冴子の自宅が見えてきた所で源三は立ち止まり、何度も何度も目を擦って自分の視界に映っている事態を疑う。
彼女の家は、売りに出されていた。
膝をつき、呆然とする源三。
たまたま近くにいた中年男性が彼に話しかけてくる。
「君、この家の事何か知ってるの?」
「い、いえ。
俺も何でこんな事になってるのか解らなくて……」
目に涙を浮かべて言葉を発する源三。
犬を連れた男性は見上げる様に無人となった家を見つめた。
「昨日の夜まで人がいたハズなんだけどねぇ。
明かりもついてたし……
夜逃げ同然だよね。
私もこの辺りに住んでるんだけど、突然の事過ぎてビックリしてるよ」
家の中を見る事は出来なかったが、夜中にトラックで調度品等を積んだのだろうか。
この男性がそんな話に触れない所を考えると、家主が最低限の貴重品を手にして姿をくらました様にも感じられた。
「どうして、こんな……」
ペースを考えずに走ってきたと言う事もあり、源三は上手く自分の中で考えをまとめる事が出来なかった。
言葉が出てこない。
彼女の家が突然空き家になったと言う事実が『永遠の別れ』を予感させる。
中年男性が去った後も源三はその場から動く事が出来ず、膝をついたまま涙を流し続けていた。
「ふざけるな!!」
少し時間を遡ったこの日の午後2時。
血生会の本部に乗り込んだ紅虎(ホンフゥ)は怒りを露わにしていた。
「まぁまぁ、そうカリカリするんじゃねぇよ奉昌(ボンチャン)。
茶でも飲んで落ち着け」
対面に腰掛け、ニヤニヤ笑いを浮かべている斉昭。
紅虎はその態度が気に障ったのか、机を両手で叩いた後叫ぶ。
「我々が本国で秘密裏に大量生産したブリッジを全て捨てるなど、正気とは思えない!
倭冠の目を盗んで天武日本に運んでくるのも大変だった。
そもそも捨てずにばら撒くと言う約束だったハズだ!」
「ちょいと事情が変わったんでな。
真継(さねつぐ)の奴が五輪の競技場の建設を俺達に任せると言ってきた。
そっちの方が莫大な利益を生む。
小銭稼ぎにしかならねぇブリッジなんかとは比べ物にならねぇだろ」
織田政権との裏取引の内容を暴露され、紅虎は呆れてものがいえないと言った表情を浮かべた。
「アンタも信国人だろう。
本国で同胞がどれだけ苦しんでいるか解らないワケはあるまい。
奴隷の様な扱いをされ、働いても働いても税金で吸い取られ国民は飢えている。
少しでも不満を漏らせば待っているのは確実な死だ。
我々は明・朝鮮の民として、同胞を救う責任がある」
紅虎は思いが溢れたのか椅子から立ち上がると熱弁を振るう。
「天武日本許すまじ!
織田政権、そして全ての天武日本人をこの世から滅ぼさねばならない。
ブリッジは我々が天武日本を無傷で制圧する為にばら撒く必要があった。
その為に闇ルートを持っている毒蝮、お前にブリッジを全て預けたのではないか!
私はお前を全面的に信頼していたのだぞ。
同じ天武日本を憎む同胞として。
それなのに……」
紅虎はそう言った後斉昭の方を見た。
口をへの字に結び、般若の様な表情をしている斉昭。
紅虎はその迫力に気圧され、口をつぐむ。
「勘違いするんじゃねえぞ奉昌。
お前はそんな崇高な目的で動いてるのかもしれねぇが、こっちには関係の無ぇ事だ。
天武日本に亡命してきた信国人の殆どが、天武日本でマシな暮らしを送る事だけを考えている。
俺は血生会と俺自身が潤えばそれで満足なんだよ。
ブリッジはビジネスになるから引き取った。
それだけだ」
部屋の中にいた何名かの組員が腕を組み、紅虎の方を睨み付けてきた。
紅虎は激しく狼狽したが、それでも何とか勇気を振り絞ると彼に詰め寄る。
「愛国心は無いのか?
アンタも信国で生まれ信国で育った人間だろう。
元の形を取り戻す為にも、アンタの協力が必要だ。
ブリッジの廃棄命令を取り消してくれ」
「フン、愛国心で飯が食えるワケでも無し。
天武日本を恨めば豪勢な暮らしが出来るってんならそうするさ。
だがそうじゃねぇだろ。
俺にとって大切なのは血生会を大きくしていく事だ。
必要とあらば織田政権とも手を結ぶ。
お前と関わってもロクな稼ぎにならねぇんだ。
さっさと帰んな」
「貴様、倭冠と手を結ぶなど……
信国人としてのプライドは無いのか!?」
怒りに肩を震わせる紅虎。
その勢いのまま斉昭に近付こうとした瞬間、拳銃が発砲された。
「警告の意味での威嚇射撃だ。
次は外さねぇ。
もうこの場所に来るんじゃねぇぞ、目障りな蝿が」
「ばッ、売国奴が!
我々がいずれ天武日本を制圧した暁には、貴様の命も無いと思え!!」
怯えながらも捨て台詞を吐いて部屋から立ち去る紅虎。
拳銃を発砲した組員が斉昭に話しかける。
「生意気な態度でしたね。
潰しておきますか?」
「度胸も無ぇ一文無しが虚勢を張ってるだけだ。
関わるだけ金がかかるから放置しておけ。
奴等の事はもう気にするな。
俺達は俺達の稼ぎの事だけ考えるとしよう」
斉昭は大きく腕を上に伸ばすと欠伸を漏らし、再び人をからかう様なニヤニヤ笑いの状態に戻った。
血生会は『利益が第一』……
この理念は会長が交代しても守られ、続いていく事になる。
「そういえば撒いてた時に一番稼いでた羽生はどうした?
ちゃんと店は畳んだのか」
「ゴーゴー喫茶は摘発され、河豚田さんが尻尾切りの形で逮捕されました。
羽生さんはほとぼりが冷めるまで地方に移って身を隠す様です」
組員がそう言うと、斉昭は当然だと言わんばかりの表情を見せた。
「織田政権にも点数稼ぎをさせる必要があるからなぁ。
図体がでかいだけで何の役にも立たねぇ河豚田には昇進させると言う嘘で人柱になってもらった。
これから血生会を盛り上げていくのは羽生だ。
多少の事には目をつぶってやるさ」
斉昭は羽生が『命令』に対して少しだけ逆らった事を知っていたが、黙認した。
組織の中では最も頭が切れ腕も立つ男。
羽生は将来の幹部候補だったのだ。
「アイツはもっと伸びるぜ。
立派になったら、いずれは会長職を譲ってもいいと思ってる」
「羽生さんはそこまでの人ですか?
確かにあの人は凄いですけど、組織の統制を乱す事も……」
組員は羽生が重用される事に対して懐疑的だったが、斉昭は羽生の能力に疑念を持ってはいなかった。
「なぁに、俺の目は確かだ。
心配するな」
組員もそれ以上反論する必要が無いと思い押し黙る。
斉昭は血生会がさらに発展・繁栄していく事を確信していた。
そしてその中心には羽生がいるべきだと思っていたのだ。
天武日本の『裏の顔』はこの後どんどんと勢力を拡大していく事になる。
東京から遠く離れた地、広島。
「ふああ……やっと着いたな。
くたびれちまったぜ」
列車を乗り継ぎ数日かけて地方都市の駅に降り立った羽生は、伸びをしながらそんな言葉を発した。
男の隣には綺麗なワンピースを着た霧原冴子が立っている。
彼女の首には首輪の様な黒いチョーカーが付けられていた。
「ほとぼりが冷めるまで数年はこの街の世話になるだろうな。
お前にはかいがいしく働いてもらう。
朝も昼も『夜』も俺の為に尽くすんだ。
解っているだろうが」
「はい、解っています。
一生貴方に尽くします」
機械の様な抑揚の無い声、死んだ魚の様な暗い瞳。
冴子は全てを諦めていた。
両親を人質に取られ、彼女が逃げ出せば即座に両親が殺される事になっている。
警察に駆け込んでも同じ事だった。
冴子は己の心を殺す事で自らの希望を捨てたのだ。
「住まいはこっちにいる血生会に用意してもらっている。
海が見える綺麗な部屋だそうだ。
目の玉が飛び出る程の豪華な暮らしをさせてやるぞ。
嬉しいだろう?」
「とても嬉しいです」
羽生もまた、彼女が自分に心を全く許していない事を理解していた。
だが彼からすれば、冴子の身体を貪れるだけで充分だったのだ。
(お前の心をすぐに手に入れられるとは思っちゃいねぇよ。
数年かけて、全ての希望を剥ぎ取ってやる。
俺に全てを捧げられる様にな。
今日の夜も簡単には寝かさねぇ)
虚ろな瞳のまま全裸で佇む冴子の姿が脳裏に浮かび、人の心を汚す事で快感を得る羽生の心が激しく燃え上がる。
「行くぞ。
楽しいバカンスの始まりだ」
股間を膨らませながら意気揚々と歩き出す羽生。
その後を冴子が何の言葉も発する事無くついていった。
それはまるで、静寂に包まれた霧の中で立ち尽くしているかの様な感覚だった。
夏休み中、源三は霧原冴子の行方を探したが全く情報が得られないまま時間だけが過ぎていく。
証人になってくれそうな鯛良鮎美も意識こそ取り戻したがまともな精神状態では無く、精神病棟に移されていた。
「この人を探しています!
もし見かけたら教えてください、お願いします!」
秋葉原の街頭でビラを配るものの、誰も受け取ろうとしない。
彼女が『血生会絡みの事件で失踪した』事を知っていたからだ。
「アンタ、こんな事を続けているといずれ奴等に捕まって拷問されるぞ。
運が悪かったと思って諦めなさい」
源三の近くに寄ってきた中年男性がそう言って彼に忠告したが、源三はそうする事でしか自分の心のバランスを保つ事が出来なかったのだ。
(彼女はきっと何処かにいる。
生きている。その確証だけでも欲しい)
失踪した霧原冴子が生きているのか死んでいるのか、それすらも解らない状況の中源三は彼女を懸命に追い続けていた。
数週間続けたビラ配りも全く効果が無く、源三は疲れを抱え込んだまま帰路につく。
「源三、差出人不明の手紙が届いたわよ。
貴方宛みたい」
玄関先で靴を脱いでいた源三は母親の言葉に反応するとすぐに手紙を受け取り、自室に駆け込んだ。
「コレは……誰からなんだ?」
差出人が不明となっている以上、霧原冴子では無く彼女を誘拐した者からの手紙と言う可能性も充分有り得る。
期待と恐怖が混ざり合った状態のまま彼は封筒を開け、中の手紙を広げた。
『私を忘れないで』
短い文章の中に、自分の事は諦めてほしいと言う懇願と、それでも貴方を愛していると言う思いが伝わってくる。
霧原冴子の筆跡である事は疑いようが無かった。
彼女をさらった人物の目を盗んでこの手紙を投函したのだろうか。
「忘れるワケ無いだろ」
源三の記憶から、彼女の美しい裸体や声、繋がり合った一夜の一部始終が消え去る事等彼には考えられなかった。
ただ彼女が無事でいてくれればそれで良かった。
彼女を助けたかったが、源三にはそれが出来そうに無い。
「俺も君の事を忘れないから……
君も俺の事を忘れないでくれよ」
直接伝えたくてももう伝えられない思い。
僅か1ヶ月前までは会おうと思えば何時でも会う事が出来た。
その繋がりが突然断ち切られた事、そして最早生涯彼女と会う事が出来ないかもしれないと言う事実が彼をうちのめしていた。
手紙を彼女であるかの様に抱き締め、ひたすらに泣いた。
泣く事でしか自分を満足させる事が出来ない弱さがさらに彼の心を苦しめる。
源三は自分が今後絶対に心から笑顔を見せる事が出来ない事を悟り、進むべき自分の道を漠然と思い描いていた。
2006年夏。
彼女と別れてから50年以上の月日が流れる。
閉店後のエターナルナイトで掃除をしていた蔵崎源三は突然倒れ、救急車で病院に搬送された。
笹森冬司と高瀬加奈が彼に寄り添い呼びかけを続けていたが意識が戻る事は無くそのまま永眠。
喪失感を埋める事が出来ないままエターナルナイトに戻った笹森と高瀬は、生前蔵崎が語っていた『遺言』の内容を思い出していた。
『私も歳だからね……
何時までもこの店を続けていけるかどうか。
両親もとうに死んでいるし私の店を継ごうと言ってくれる親戚もいない。
もし私が死ぬ様な事があれば、後は君達にエターナルナイトを任せようと思っている。
それと、事務所の棚の中に封筒を入れておいた。
私がいなくなったら、開封して中身を読んでほしい』
棚の中に入っていた1冊のファイル。
高瀬がそのファイルの中に入っていた白い封筒を取り出す。
「コレがきっと、オーナーが言っていた『封筒』よね」
「だと思う。
開封して、手紙を読んでみよう」
封筒の上部を開け、高瀬は手紙を取り出した。
手紙だけで無く、古い写真も中に入っている。
「えっと……
『君達がこの手紙を読んでいる頃、私はもうこの世にいないハズだ』……」
封筒に入っていた3枚の手紙には、丁寧な字で過去に起きた事件と、その哀しい結末が記されていた。
「私は自分が笑顔になれない代わりに、多くの人を笑顔にする場所を作りたかった。
楽しい遊び場を提供したかったのだ。
怪しげな店などでは無く、誰もがその場所の存在を認め、笑顔を見せてくれる様な店を。
エターナルナイトはその為に作った店だ。
この熱を決して絶やしてはならない。
君達に、この店を託したい……ですって」
「当たり前じゃないか。
ココは多くの人に愛されている場所だ。
ゲーマーにとってはもう1つの自宅と言っても過言じゃない。
俺と君とで続けていこう。
他には何か、書いてあるかい?」
「それとは別に、頼みたい事がある。
コレは、出来ればで構わない。
霧原冴子の事だ。
生きていれば、彼女も私と同じ様に70歳近くになっていると思う。
普通に考えれば組員の情婦として辱めを受け続け、死んでしまったかもしれない。
だがひょっとすると生きていて、既に解放されひっそりと何処かで生きているかもしれない。
どうなっているかは私にも解らないが、彼女を探してほしいのだ。
どんな結末が待っているにせよ、きっとあの世にいる私は全てを受け入れるだろう。
万が一彼女を見つける事が出来たのなら、『愛している』と伝えてほしいのだ。
私は彼女以外の女性と生涯を共にする事など考えられなかった。
実際、独身で通した。
孤独に怯える老後の生活も甘んじて受け入れた。
それが私に出来る彼女への精一杯の償いだったのだ。
今でも、彼女の事を忘れた事は1度として無い。
その思いを、伝えてほしい」
高瀬加奈は手紙を読み終えると、白黒写真に目を向けた。
「コレは……若い頃のオーナーかな。
一緒に映っているのが霧原冴子さんなんだろう」
高校2年生の夏、仲の良い生徒達同士で海水浴に行った時の写真だった。
冴子が持っていた最新式のカメラで撮影されたものだ。
鯛良鮎美がカメラを受け取り撮影に応じている。
「ちょっと待って……
この人、私が知ってる人にそっくりなんだけど」
加奈は少々野暮ったい水着を着て恥ずかしそうに微笑んでいる冴子の顔を食い入る様に見つめていた。
数日後、一橋駅の近くにある飛鳥軒は間もなく閉店時間を迎えようとしていた。
手伝いに来ていた御母洋子が暖簾を外そうとした時、高瀬加奈が現れる。
「あれ、加奈さん?
どうしたんですかこんな時間に。
もう店は閉まっちゃいますけど」
「洋子ちゃん、ちょっと御婆ちゃんとお話しさせてもらってもいいかしら?
時間は取らせないから」
怪訝な顔をしている洋子の顔は、霧原冴子の若い頃によく似ていた。
そのまま店の中に入る加奈。
厨房で片付けを行っていたサエは背中を向いたまま人の気配に反応する。
「洋子、暖簾は持ってきたかい。
私が奥に置いておくよ……あら、御客さん?」
サエは高瀬加奈の存在に気付くと、申し訳ないと言った表情を見せた。
「残念だけど、もう閉店時間でねぇ。
帰っておくれ。明日も店は開くからさ」
「御母サエさん……
いえ、霧原冴子さんですね?」
加奈がその名前を口にした瞬間、サエは一瞬呆気に取られた様な表情をしたがすぐに元の表情へと戻った。
「……人違いだよ。
帰っておくれ、そんな名前の人は知らないよ」
「嘘をつかないでください。
貴方は私達のオーナー、蔵崎源三の事がどうしても忘れられなくてこの街に来たんですね。
オーナーが経営している店の場所を突き止め、駅前に店を開いた。
彼には会わずとも、何かの形で関わりたかったんじゃないですか?」
「蔵崎源三?知らない名前だね。
第一、何で私がその霧原何とかだと思うんだい」
「この写真です。
若い頃の貴方は、貴方の孫娘である洋子ちゃんとそっくりな顔をしている。
確固たる証拠はありませんよ。
でも、あまりにも出来過ぎた話じゃ無いですか?
オーナーの近くにたまたま顔立ちが似ている女の子がいるだなんて」
加奈とサエが言い争うのを目撃した洋子は加奈の近くに寄ってきて不安そうな表情を見せる。
「か、加奈さん?
どうしたって言うんですか」
「洋子ちゃん、この写真を見て頂戴」
加奈は持参してきた白黒写真を洋子に見せた。
「この人、私に顔が似てる。
そっくり……」
「エターナルナイトで行われた紅白戦の時、オーナーは洋子ちゃんと会っています。
その時に気付いたかもしれません。
でも、貴方の所には出向かなかった。
確信が持てなかったのと、貴方に対する負い目から近付く事が出来なかったんでしょう。
オーナーは数日前、突然息を引き取りました。
『愛している』と伝えてほしいと私達に手紙を残して」
加奈が蔵崎源三の死と彼女への思いを伝えた瞬間、サエは思わず口を滑らせてしまう。
「ゲン君が、死んだ……?」
自然に涙腺が緩み、目に涙が滲む。
サエは言ってはならない台詞を口にしてしまった事に気付き慌てて口をつぐんだが、最早手遅れだった。
「御婆ちゃんと、オーナーの蔵崎さんが知り合いだったの……?」
「ええ、恋人同士だったみたい。
でも、色々な事があって引き裂かれて、恐らく違う人と結婚した。
子供を産んで、育てて……
そうして生きていながらも、オーナーの事を忘れられなかった。
そうですね?」
洋子の方を向いて話す加奈の言葉から、サエは彼女が全てを知っている事を悟る。
「もう、何も言わないでおくれ。
終わった事なんだ。
何もかも過ぎた話さ。
取り戻せやしない。
その子には何の罪も無いじゃないか。
傷口を抉る様な真似だけはしないでもらいたいね」
俯き、加奈の指摘した事実を半ば認める様な発言をしながらも絶対に話を終わらせると言う強い意志が感じられた。
だが洋子はこのまま何も解らずに終わってしまう事が許せず、加奈の袖を引っ張りながら懇願する。
「私、ずっと疑問に思っていたんです。
私の御爺ちゃんが誰なのか、どんなに調べても解らない。
誰も教えてくれなかった。
本当の事が知りたいんです。
どんな事実だったとしても、私は全部受け入れます」
「やめるんだよ洋子。
お前が真実を知ったとしても決して幸せにはなれない。
寧ろ不幸になるだけだ。
アンタは薄々気付いているんだろう。
洋子の問いに対する答えを。
そしてその答えが口が裂けても言ってはいけない事だと言う事も解っているんじゃないのかい」
強い口調でサエは言葉を続け、加奈はあまりの迫力に一瞬たじろいだ。
後ずさった加奈の腕を引っ張り、洋子が彼女を店の外に連れ出そうとする。
「洋子!」
加奈は洋子に連れ出される形で店の外に飛び出した。
サエは止めようとしたが厨房からカウンターのある側に移動するのに手間を取り、間に合わない。
「私、解らない事があるまま生きていくのは嫌なんです。
ショックを受ける様な真実が隠されていたとしても、知っておきたい。
お父さんもお母さんもきっと私を宝石の様に可愛がろうとしていたんでしょう。
私を絶対に不幸にはさせない、幸せにしたいと言う強い意志を持っていたと思います」
一橋駅の裏手にある駐輪場に移動した後、洋子は荒い息を吐きながらそう言った。
「教えてください。
何があったのか……
そして、私の御爺ちゃんは誰なのか」
加奈にしがみつき、潤んだ瞳を見せ彼女の顔を覗き込む様に見る洋子。
加奈は後ろめたい気持ちを隠すかの様に洋子と視線を合わせないまま手紙に書いてあった内容を語った。
「つまり、私の御爺ちゃんは暴力団の関係者……?」
「関係者と言うより、組員なんじゃないかってオーナーは予想していたみたい。
名前とかは解っていないみたいだけど……
その人が霧原冴子、つまり貴方の御婆ちゃんに性的暴行を与え、手籠めにした」
「酷い……!
人間としての血が全然通っていないじゃないですか」
肩を震わせ、憤る洋子。
怒りからか彼女が自分の肩に添えた手は痙攣しているかの様に動いている。
「そして、サエさんとその組員の間に子供が生まれた。
それが貴方の御父さんだったんでしょう。
サエさんは何らかの理由があって解放されて新しい人生を始めた。
苗字が違っているのはその組員と結婚したか、偽名を使っているかのどちらかでしょうね」
御母サエは息子を暴力団の組員にはさせず、まっとうな人生を歩ませた。
それ故に洋子は暴力団と全く関わりの無い生活を送る事が出来たのだ。
「私は、御婆ちゃんが苦しんでいた事を知りませんでした。
辛い過去を乗り越えて、私に色々な事を教えてくれたんですね……
恩返し出来る事があるとすれば、私自身が真面目に働いて御婆ちゃんの分まで幸せになる事でしょうか」
「それが現実的な恩返しの方法だと思うわ。
サエさんだって相手に対する殺意みたいなものはあるでしょうけど、とても勝てる相手じゃない。
貴方もそう。
天武日本の頂点に立つ暴力団をどうにかする事は不可能よ」
加奈はサエが復讐すら考えたのではないかと想像する。
だが洋子の幸せを守りたいのならば、復讐する事は出来なかったのだろう。
彼女は復讐を諦め、孫娘に愛情を注ぐ事を優先した。
想像すら出来ない程の苦悩と葛藤があったハズだ。
彼女は負の感情に勝利して今日まで生きてきた。
加奈はサエが孫である洋子にもそれを望んでいるのではないかと思った。
「加奈さん、私……
御婆ちゃんの跡を継ぐ為に、蕎麦と饂飩の作り方を本格的に勉強しようと思っています」
洋子は祖母に尊敬の念を抱いていた。
困難な道になる事が解っていても、祖母が愚直に続けてきた事を無駄にはしたくないと思っていたのだ。
「店を任せてもらえると良いわね」
「あのお店で店長になって、御婆ちゃんが歩んできた道を伝えるのが私の役目じゃないかと思うんです。
右も左も解らない状態からあの店を手に入れて、繁盛させるまで相当な苦労があったハズですし」
洋子には洋子なりの決意と覚悟があった。
自分の祖母が血の滲む様な努力を続けて開いた店。
その店を閉める事は誰にでも出来る。
洋子は自分が祖母の辿った道を追い、継いでいく事で彼女の人生が無駄なものでは無い事を証明したかったのだ。
「伝えていく事が、私達の責任だと思うのよ。
オーナーは子供から御年寄りまで、幅広い年齢の人々に笑顔と喜びを提供してきた。
洋子ちゃんと同じ様に、私達もエターナルナイトの『思い』を受け継いで、多くの人に楽しんでもらいたいの」
「加奈さんならきっと出来ますよ。
私も、あのゲームセンターが大好きです。
どんな人だろうと拒まずに受け入れる温かい雰囲気……
いずれ、私もまた遊びに行きます」
「待ってるわ。
洋子ちゃんも修行、頑張ってね」
2人は空を見上げ、光る星達を見つめる。
都会では余程明るい星で無い限り肉眼では見えない。
暗くて見えない星も沢山あるハズだ。
そんな暗い星も鈍いが輝きを放ち、そこにしっかりと存在している。
加奈は自分達が世間的に知られているワケでは無いが、そうして光り続ける事が大切なのかもしれないと思った。
2010年春、数年間休業していた蕎麦屋『飛鳥軒』がリニューアルオープンを果たした。
「これからも皆様の変わらぬ御支援の程、宜しくお願い致します!」
御母洋子は祖母である御母サエが脳梗塞で倒れ死んでしまった後、本格的な蕎麦修行を敢行。
高校生活を送りながら夏休みになると長野県に出向き、蕎麦屋で美味しい蕎麦の作り方を学ぶ。
良質な蕎麦粉と山芋を用いた麺は独自の配合により美味さを増し、さっぱりとした甘みの蕎麦つゆとの相性は抜群だ。
手打ちに拘り天ぷらも注文を受けてから揚げる為客に出すまでに時間がかかるが、初日から大盛況となった。
「瞳、店の前はどうなってる?」
「凄い人だかりよ。
沢山のお客さんが店の外で列を作ってる。
前も賑わってたけど、ココまでじゃ無かったわ」
様子を見に来た氷室零は瞳から店の前で繰り広げられている光景を聞くと、安心した様に息を吐く。
「彼女はそれだけ頑張ってたからね。
高校を卒業してからこのオープンを迎える日まで、働いてたみたいだし」
「洋子ちゃん、『すぐに返せます』って言ってたから、コレで兄さんも安心ね」
飛鳥軒の改装費用は高校生に用意出来るものでは無かった。
零はそこで救いの手を差し伸べたのだ。
利息を一切取る事無く、『いずれ返してくれれば』と言って彼女に1千万と言う大金を貸した。
美味しい蕎麦屋と言う事で口コミが広がり、まだ成功は確定していないが良いスタートを切っている。
「この店は、豊が大好きな店だったんだ。
あかりさんや涼介、比呂子さんだってそうだ。
サエさんが死んだ後、洋子ちゃんが店を継ぐと聞いて絶対にそれを成功させなければと思った。
その為なら僕は喜んで力になる。
瞳だって、この店があるのは嬉しいだろう?」
「ええ、そうね。
エターナルナイトも一時はどうなるかと思ったけど、夫婦で上手く続けているみたいで良かったわ」
「ゲームセンターも無くなってはいけない。
蕎麦屋もエターナルナイトも僕達の居場所なんだ。
豊だって2つの店がずっと続いていく事を望んでいるハズだよ……」
人々の活気に溢れた声が零の耳に届いている。
闇の中でもがき苦しんだ零にとって、彼等の声が救いとなっていた。
皆の喜びが自分の喜び。
そう思ったからこそ零は洋子に金を貸したのだ。
「じゃあ、行きましょうか」
「ああ」
長い列を作っている飛鳥軒の成功を確信した零は『自分達の場所』であるエターナルナイトに向かう。
瞳の押す車椅子に座ったまま、零は少々五月蠅いが決して耳障りでは無い街の喧騒を楽しんでいた。
「いらっしゃい。
零君もココに来るのは2週間ぶりかな?」
商店街の一角にある『エターナルナイト』は笹森冬司と笹森加奈が夫婦で店を経営する事になった。
元オーナーである蔵崎の『皆の笑顔の為に』と言う思いを守りつつ、新しい筐体を多数設置して客の入りも良くなっている。
「賑わってるみたいですね」
「新しいパンチングマシンの稼働も順調でね。
メダルゲームも沢山の御客さんが遊んでくれてるよ。
ZEROも新しくなってから遊んでる人が増えて……
今では地方から来てくれる人もいるんだ。
有難い話さ」
真剣にゲームと向き合い、時に笑い時に泣き本気で悔しがる。
仲間意識が芽生え、店の客全員が1つの夢に向かって突き進んでいた。
「土田がいてくれたらもっと良かったんだけどね。
アイツにも夢があるから。
今度一緒に応援に行こう。
零君も都合が合えば是非」
「世界チャンピオンも防衛は大変でしょう。
僕も力になれればいいと思っていますよ」
挫けそうになっても、諦めずに夢を追う。
何かを遺してくれた者の為に、誰もが戦っていた。
零も一度は夢を掴んだからこそ、夢を追う人々を応援したいと思っていたのだ。
「久しぶりだね。
御邪魔しても良いかい?」
「勿論よ!
ホラ、零もこっちに来て!
記念撮影しましょう」
零の姿を見つけた火村あかりが嬉しそうな表情で零を車椅子から立ち上がらせ、手を引く。
零は孤独に怯えていた昔を思い、こみあげるものを感じながら彼等の輪の中に加わっていった。
蔵崎源三と霧原冴子。
愛し合いながらも引き裂かれ、幸せになれなかった2人。
2人は『人の幸せ』に固執した。
己が幸せで無いからこそ、自分と同じ様になってほしくないと言う思いがあったからだ。
そしてその願いは広がり、何時しか巨大な歓喜の輪を作り上げた。
食べる事、遊ぶ事……
行っている事こそ違えどそれが幸せに繋がっている事に大きな差は無い。
源三と冴子が様々な挫折を経験しながらも辿り着いた『答え』は、これからも多くの人々に愛と喜びを提供し続けていく事だろう。