実は当初雨宮比呂子に弟がいると言う設定はありませんでした。
暴力団を出して誰かを闇に堕とすと言うシナリオを考え付いた時、
健太郎と言うキャラクターが生まれたのです。
【2009年 7月24日(金曜日) 公立(こうりつ)虹見(にじみ)中学校 屋上】
「世の中には2種類の人間がいる。
即ち、虐げる人間と虐げられる人間だ」
頭髪の上部のみ金髪に染め上げた半裸の男はそう言うと、2人の男に羽交い絞めにされている少年の髪を掴み邪悪な笑みを浮かべる。
「理不尽だと思うだろう?
だがお前は弱く、俺は強い。
俺の兄貴は金剛(こんごう)仁王隊(におうたい)の幹部で武闘派だ。
喧嘩のやり方は兄貴から教えてもらったんだよ。
自慢になっちまうかな?
お前は何も持ってない屑だもんなぁ。
虫も殺せない位優しい性格ってのは……」
騒ぎにならない様腹を殴り、呻いた少年の膝に蹴りを入れると半裸の男は歌う様に喋り続けた。
「美徳でも何でも無ぇ。
寧ろこういう場面では邪魔になるだけだ。
違うか?
俺は金を奪い、お前は奪われる。
俺は殴り、お前は殴られる。
強き者が弱き者を支配するのは何時の時代も同じだろ。
明後日から夏休みだ。
しっかり『教育』して、俺に歯向かわない様にしねぇとな」
狂った様に何度も何度も腹に蹴りを入れる男。
少年は苦痛を感じながら涙を流す事しか出来ない。
「吉良(きら)さん、コイツの財布に万札入ってましたよ」
少年を羽交い絞めにしている2人の内右側にいた男はそう言うと、紙幣だけ抜き取り半裸の男に渡す。
「信長1枚と勝家1枚、長秀3枚かよ。
金持って無ぇなぁ。
ま、無いよりはマシか。
コレは『授業料』として貰っとくぜ」
自分の財布に紙幣を入れようとする男に対して、羽交い絞めにされていた少年は必死に懇願した。
「だ、駄目!
それはお姉ちゃんへのプレゼントを買う為に必要なお金なんだ。
か、返してよ……
返して、ください」
少年は身体の痛みよりも精神的な痛みを強く感じている。
相手が反抗的な態度を取った事に対して苛立ちを覚えた男は、懐から煙草を取り出すとライターで火を付けた。
「犬がキャンキャン吠えてんじゃねぇよ。
まだ俺に文句を言うだけの気力が残っていた様だな。
おい、そいつの腕を捲れ。
根性焼きしてやるから」
何回か煙を吸い、副流煙を全て少年の顔に吐き出しながら、捲らせた腕に煙草を近付ける。
「あ、あげます。
お金はあげますから……
許してください」
熱された煙草を腕に押し当てられたくない一心で、プライドを捨て許しを請う少年。
「最初から素直にそういう態度を示せば良いんだよ。
俺に逆らうな。
解ってると思うが、誰かにこの事を喋ってみろ。
後悔する事になるぞ」
何回か吸った煙草を投げ捨てると、男は背を向け去っていく。
「この野郎、吉良さんに手間かけさせてんじゃねーよ」
「いいか、夏休みの間ゆっくり休んどけ。
9月からまた可愛がってもらえる様に」
その場にうずくまる少年に2人の男が何度も蹴りを入れ、少年は震えながら痛みを受け入れるしか無かった。
吉良(きら)火悪翠(かおす)。
公立虹見中学校の教師達も彼の非道を無視する程の不良であり、多くの部下を持っている。
千葉県を縄張りとする暴走族の後ろ盾がある為、表だって彼を非難する者はいない。
生徒の誰もが『標的』として目を付けられない様にビクビクしながら日々を過ごしており、選ばれてしまった者には悲惨な運命が待ち受けていた。
その『選ばれてしまった』側である雨宮(あめみや)健太郎(けんたろう)は吉良から『犬』と言う渾名を付けられ、ずっと虐めを受けている。
暴力を受けるだけで無く腐った果物を無理やり食べさせられたり、トイレの個室に無理やり入れさせらせ水を何度もかけられると言う拷問も定期的に行われていた。
それでも雨宮は耐えるしかなかった。
喧嘩などした事が無い彼は自分の弱さを充分に理解していたからだ。
(お姉ちゃんは、僕が虐められている事を知ったら僕を救おうとするだろう。
でも駄目だ。小学生の時とはワケが違う。
相手は暴力と狂気を併せ持った怪物なんだ。
お姉ちゃんが何をされるか解らない。
僕が我慢しないと……)
夕暮れの公園。
ベンチに座り疲れた身体を休めていた健太郎は、ただ泣く事しか出来ない自分を呪った。
誰にも相談する事が出来ない。
優しくしてくれるゲームセンターの大人達、かつての健太郎の『仲間』の顔が脳裏に浮かぶ。
誰もが笑顔だった。
自分が尊敬している姉も記憶の中では笑顔を見せている。
彼等の身に危険が及ぶ可能性を考えると、誰にも相談する事が出来なかった。
「どうすれば……
どうすればいいのか解らない。
誰か助けて」
耐え続けるのにも限度がある。
中学1年生の時に当時中学3年生だった吉良に目をつけられ、相手が高校生になってからもこの関係は続いていた。
壊れそうな心を大好きな姉の為にずっと我慢してきた。
彼の中の闇は虐めを受け続ける事で知らぬ間にどんどん深くなっていたのだ。
「我慢してるだけじゃ、お前の人生は何も変わらねぇんだぜ。
状況を変えたかったら、まず強くなる事だ」
痛みの残る身体を前に傾け顔を覆い涙を流していた健太郎は、隣に老人が座っていた事に気付いていなかった。
突然声が聞こえた為驚きながらそちらに目を向ける。
高そうなスーツを着た老人は両手で杖を持ち、その両手に自分の顎を乗せていた。
「貴方は……?」
「名乗る程のモンじゃねぇよ。
お前、毎日の様にこの公園に来てはベンチに座って泣いていたよな。
昔は俺もそうだった。
終戦直後の天武日本において在日信国人は『暴力を振るっても罪に問われない』存在だったんだ……」
薄く日焼けした肌。
口元には白くなった髭を蓄え、高そうな帽子を被っている。
シワの多さからして古希は越えていそうだった。
見た目からしてとても裕福な生活を送っているであろう事が伺える。
「かつて俺もお前と同じ様に打ちのめされ、哀しみに打ちひしがれる事しか出来ない弱い男だった。
闇を抱え、孤独だった。
だがある日突然その闇が解き放たれた。
俺は抵抗する事を学んだんだ。
俺を殴ってくる相手を殴り返し、唾を吐きかけてくる相手を暴力で屈服させた。
お前は現状に満足していないんだろう?
この状況を変えたいと思っている。
それには『きっかけ』が必要だ」
その目は鷹の様に鋭く、表の世界で生きている者では無い様に感じられた。
腕に付けている時計は金色に輝き、杖にも宝石が散りばめられている。
「俺は遠くからお前の事を見ていた。
お前が『適している人間』かどうかを見定める為にな。
闇を抱え、復讐を渇望しているのかどうか。
そして力を付けた時に輝けるか否か。
お前はまさに昔の俺と同じ。
鏡を見ているかの様だった。
お前なら、俺の望みを叶える事が出来る」
「貴方の……望み?」
老人は大きく伸びをして立ち上がると、唇の端だけを上げて笑った。
「選ぶんだ。これからの道を……
ただ現状に甘んじて虐げられるだけの悲惨な人生を選ぶのか。
それとも強くなってその運命から逃れる人生を選ぶのか。
決めるのはお前自身だ」
間違いなく、老人からは危険な匂いが漂っている。
まともな道を歩んできた男では無い。
彼についていけば、引き返せなくなるであろう事は明白だった。
「僕を……強くしてくれるんですか?」
「俺についてくればな。
さっきも言ったが見返りはキッチリ貰うぜ。
なぁに、無理な事は言わねぇよ。
言うなれば、俺流の『投資』と考えてくれればいい」
どちらの道を選んでも、底無しの闇に落ちていく様な気がする。
健太郎はそれを理解していた。
それでも、暴力を受け続けるより抗う道を選ぶべきだと思ったのだ。
「……お願いします。
僕に力をください」
子犬の様に縋りついてくる健太郎の姿を見ながら、老人は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
千葉県宮本市には本郷や一橋駅周辺が含まれているが、そこから少し離れた地域に『君島(きみしま)』と言う地区が存在する。
簡単に言えば『不良地区』と言ってしまって差し支えの無いエリアで、壁のあちらこちらにスプレーの落書きが施されていた。
住宅街もあるにはあるのだが一般人が夜間に外に出る事は滅多に無い。
公園には不良がたむろし、ヤンキーが金属バットを持って我が物顔で街を闊歩している。
警察も頭を悩ませているエリアであったが、余程の事件が起きない限り警官の動きも鈍いと言う有様だった。
『君島には足を運んじゃ駄目よ。
怖い人達が沢山いるんだから』
健太郎の姉である雨宮比呂子が何時も口癖の様に注意していた事を彼は一昔前の出来事の様に感じていた。
「暫くこの辺りに通ってもらうぜ。
通う時はバスを使うと良い」
夕暮れの街をひたすら歩き続け、1時間近くも健太郎は老人と共に歩き続けている。
健太郎は老人の健脚ぶりに驚くと共に、夜の闇に包まれる君島の『変化』が気になり始めていた。
「大丈夫だ。
さっきも言ったろ?
バスがあるって。
一橋駅行きの往復バスの中なら心配は要らねぇよ。
バスの外から襲撃された話を聞いた事は一度も無ぇからな……
そこまで荒廃してる地域じゃ無ぇさ」
壁一面に落書きがされているトンネルを潜り、暫く歩いていると立派な建物が姿を現す。
その建物は付近の住宅よりも頭1つか2つ分程高くなっており、非常に目立っていた。
「皆、しっかりやってるか」
その建物の入口から中に入った瞬間、健太郎は凄まじい熱気と眩しさに圧倒されそうになる。
吊り下げられたサンドバッグ、中央に設置されたリング、スパーリングを行っている多くの選手達……
「会長!お疲れ様です」
1人の男が老人に気付き近寄ってきた。
「蜂須賀、もうすぐ試合だろ。
頑張れよ」
「はい、勿論です!……
この子は?」
鍛えられた鋼の肉体。
身体から溢れ出している圧倒的な自信。
蜂須賀と呼ばれた青年の姿が健太郎にはとても眩しく見える。
「俺がこれはと思って見つけてきた掘り出し物だ。
鍛えれば化けると思ってな……
そういえばお前の名前を聞いていなかったな。
名前は?」
横目で睨み付ける様に健太郎の方を見る老人。
健太郎は蛇に睨まれた蛙の様に冷や汗をかきながら自分の名前を言った。
「雨宮……
雨宮(あめみや)健太郎(けんたろう)です」
「そうか。良い名前だな!
俺の名前は蜂須賀(はちすか)大樹(だいき)、宜しく」
グローブを外し、手を差し出した青年の手を健太郎はしっかり握る。
ごつごつしているその手からも、蜂須賀と名乗った青年の強さが伝わっていた。
「コイツはウチに所属している奴の中じゃ一番有望でな。
ミドル級の世界チャンピオンを目指せる逸材だと俺は思っている。
雨宮、蜂須賀に鍛えてもらえ。
そうすればお前は確実に強くなれるぞ」
健太郎は目を見開き、老人の方を見る。
蜂須賀が健太郎の肩に手を添え、微笑んだ。
「この方はボクシングジム『血生会(けっせいかい)』の会長、羽生(はぶ)晃(あきら)さんだ。
俺もこの人に才能を見出されてプロになった。
ボクサーになれる才能があるかどうかを見極める眼力を持つ御方だよ」
健太郎は安心すると同時に涙が出てきた。
老人がまともな組織の人間である事が判明し、さらに自分を強くしてくれると保証しているのだ。
「一生懸命頑張ります。
僕にボクシングを教えてください」
必死に頭を下げる健太郎に対して、羽生は部屋にかけられた時計を見ながら顎に手を当てる。
「とりあえず、今日は帰っておけ。
遅くなるとお前の親が心配するだろう。
変な奴等に絡まれてもつまらんからな。
バス停の場所だけ覚えておくと良い」
羽生は懐から財布を取り出し、帰りのバス代を当たり前の様に渡した。
「そんな、御好意から色々してもらってるのに……」
「これも俺の好意だと思って受け取っておけ。
出世払いで返してもらうからよ」
半ば無理やり渡された小銭を返す事も出来ず、健太郎は無言でその金を受け取る。
「学生なら、夏休みに入るだろ?
毎日朝から夕方までみっちり練習すれば基本となる身体は充分作れる。
技術も含めて本格的な指導をするとなるとさらに時間はかかるだろうがな」
蜂須賀の様な人間になれば、虐めを受けずに済むかもしれない。
健太郎にとっては突然自分に救いの手を差し伸べてくれた者がいる事が嬉しかった。
「ココには優秀な選手が揃っているから、身体作りをサポートしてもらえるぞ。
強くなる為には当然鍛える必要があるが、その前に食事や運動から変えていく必要があるからな」
施設の機材も充実しており、健太郎はがむしゃらに運動するよりも効率的に筋肉をつけていける様な気がした。
「頑張れよ」
1人で悩んでいた苦しい日々からさよなら出来る。
そう考えただけで健太郎は心が楽になっていくのを感じていた。
夏休みにしか、大きく時間を割いてのトレーニングは出来ない。
それ故、蜂須賀は健太郎に様々な試練を課す事で彼の力を伸ばそうとしていた。
毎日、早朝からのランニング。
ゆっくり歩けば1時間かかる距離を30分で走って血生会のジムに到着。
最初から息があがっているが、当然休む事は許されない。
持久力と体幹をつける為の縄跳び30分。
しかも二重飛びや片足でのジャンプ等も交えて行われる。
その後、蜂須賀と向かい合った状態で拳を交える事無くジャブやアッパー等の練習。
出し方、受け方等を教えてもらいながら攻撃・防御の質を上げていく。
短期間で結果を出す為に健太郎の拳には1kgの錘が握られていた。
「いいか、まずは自分を虐め続けるんだ。
限界だと思っても続ける事でお前の心肺能力は確実に向上していく。
昔の惨めな自分に戻りたくないと思えば、どんな苦難にも立ち向かう事が出来るハズだ」
普通の人間がいきなり激しいトレーニングを行えばギブアップしてしまうものだが、健太郎には強い思いがあった。
虐められたくない、相手を見返したい。
その為にはトレーニングを続けるしか無い。
過去の凄惨な記憶が折れそうになる心を支え続け、自分を奮い立たせる原動力になっていた。
「会長はお前に『喧嘩で強くなる事』を求めている。
より実戦的なボクシングを伝授させろと言う事だ。
俺はキックボクサーでは無いが、蹴りのやり方を知っている者は他にいる。
どんどん吸収していけ」
蜂須賀にミットを持ってもらったうえでミット打ち。
これも20分程続け、さらにサンドバッグでパンチとキックの練習。
休憩している選手に教えてもらいながら、手探りでその感覚を掴んでいく。
さらに実戦感覚を養う為のスパーリングや、フットワークを身に付ける為の筋肉トレーニング。
「下半身の筋肉を鍛える事、体幹作りの為のバランスボード、打たれ強くなる為の腹筋運動。
無駄の無いスケジュールで取り組めば、お前の身体は劇的に変わっていくハズだ」
数時間で立っているのもやっとと言う状態になりながら、休憩兼食事。
身体に早く吸収されると言う鶏のささみを焼いたものにサラダを付け、冷奴をプラス。
冷奴に納豆をかけ、そこにミキサーにかけたバナナを混ぜたヨーグルトドリンクが添えられる。
「筋肉を付け、体脂肪がつかない様にする理想のメニューだ。
喉が渇いた時はミネラルウォーターを飲んで身体に浸透させてから、プロテインを飲め」
ボクサーの減量にはかかせないサウナもこのジムには備え付けられている。
サウナ→シャワー→水飲み休憩→トレーニングと言う一連の流れも身体に染みつかせる様努力した。
食べ物に関する注意も事細かく教わり、焼肉等を食べる時には大根おろしを大量に摂取すべし等のアドバイスも全て聞き入れる。
休憩やジム内での仮眠を含んではいるが、朝7時から夕方4時まで過酷なトレーニングが続く。
(もうあの頃には戻りたくない。
虐められるだけの辛い日々よりは、きつい練習の方が遥かに受け入れられる)
同じ様な練習、食事を繰り返す事には慣れていた。
形こそ違えど、ゲームセンターで何度も同じ事を繰り返し勝利する為には何が必要なのか学ぼうとした過去があったからだ。
元々が生真面目な性格だった為、健太郎はしっかりとトレーニングをこなし蜂須賀が驚く程の成長を遂げる事になる。
「自分の拳を決して過信するな。
お前が思っているよりもずっと拳と言うのは脆弱なものだ。
素手で相手に殴りかかると自分の手も同じ様にダメージを受ける。
だからどうしてもグローブ無しで相手を殴らなければならない時は必ずバンテージを巻け。
巻き方にコツがあるから俺が教えてやる。
自分でしっかり巻ける様にしておくんだぞ」
バンテージには簡易着脱型と巻いて使用するタイプの2種類が存在し、巻いた状態にグローブを付けて打つのが一般的だ。
健太郎は既にバンテージの巻き方を心得ており、グローブ無しで練習をする際には必ずバンテージを巻いていた。
「どうだ、訓練の調子は」
夏休みの終わりが近付いていたある日の午後、不意に羽生がジムに顔を出す。
何時もとは異なる青い帽子とスーツ。
青紫色のネクタイを付け、持ち手の部分が銀色に輝くステッキを握っていた。
「雨宮の奴、俺が思っていたよりずっと飲み込みが早いですよ。
今なら格闘技をやっていない人間と戦えばまず間違いなく勝てると思います」
「格闘技を学んでいる人間と戦って勝てる様になるにはあとどれ位かかりそうだ」
「程度によりますが……
あと半年しっかり鍛え続ければ、会長の期待を裏切らない働きが出来る様になるでしょう。
コイツ、他の奴等と比べても吸収力が全然違いますからね。
学んでからそれを活かせる様になるまでのスピードが桁違いなので」
サンドバッグを打ち続けている雨宮の姿は、このジムで練習を始める前とは大きく異なっていた。
筋肉と言う鎧を纏い、身体が一回り大きくなった様にさえ感じられる。
特に腕と腹筋、腰から下の筋肉は強靭なものへと変化しており俊敏な動作が可能になっていた。
「雨宮、俺が受けをやってやるから会長の前で打ってみろ」
「はい」
羽生が見ていても普段と変わらぬ動きをする事を頭に入れ、スパーリングを開始する健太郎。
ステップを交えながら変わらぬ間合いを保ち、強烈なパンチをミットに叩き込んでいく。
「やはりな……素晴らしく目が良いとは思ってたんだ。
雨宮、お前何かやっていたのか?」
「いえ、特には何も」
称賛を示す拍手を送りながら質問してきた羽生に対して、雨宮は息切れする事無く答えた。
格闘技は何もしてこなかった健太郎であったが、格闘ゲームに関しては相当高い技術力を備えている。
相手との距離を測る為の『目の良さ』はゲームであっても実際のボクシングであっても求められる部分であり、健太郎はそれをしっかりと自分のものにしていた。
「お前が公園のベンチで何気なくブランコに乗り、遊んでいる所を俺は何度か目撃していた。
高くジャンプして正確に着地する。
尻もちをつく事無く何回も成功させていただろう。
お前はバランス感覚に優れ、視力も抜群に良い。
ボクシングをやれば絶対に才能が開花すると思っていたぞ」
「会長には御礼をしてもし足りない程です」
努力を労う様に言葉をかける羽生に対して、健太郎はしっかりと頭を下げ感謝している事をしっかりと伝える。
「これでもう虐められる事は無いな。
だが気を付けろ。
虐めを行う相手と言うのは非常にプライドが高い。
相手を屈服させる事に快感を感じる相手は、逆に屈服させられると必ず復讐を企む。
やり返すのは自由だが、必ずほどほどにしておけ。
解ったな」
「解りました」
蜂須賀との練習に戻った健太郎を暫く見守った後、羽生はジムから外に出た。
入口付近には黒塗りの高級車が待機しており、羽生は車に乗り込みながら運転手に指示を出す。
「嫌な予感がする。
お前の部下を何人か使って、常に健太郎の事を監視しろ。
用心しておくに越した事は無い。
もし少しでも変わった事があればすぐに俺に報告するんだ。
いいな」
「了解致しました」
高級車は静かに発車し、あっと言う間にその場から姿を消した。
ボクシングと言う『武器』を手に入れた健太郎は、二学期が始まった直後吉良達を叩きのめした。
バンテージを拳に巻いている事を極力悟られない様にしながら虐められていた頃と同じ様に屋上へと向かう。
何時もと同じ様に健太郎をボコボコにして金を奪おうとした吉良達は不意を突かれ床に倒れると呻いていた。
「もう僕に構うな」
「て、テメェ……
ちょっと強くなったからって調子に乗るなよ。
必ず後悔させてやる」
床に這いつくばる3人を放置したまま屋上から姿を消し、そのまま帰宅する健太郎。
その後数日間、吉良を含めた虐めっ子達は健太郎を睨み付けてくるだけで屋上に呼び出す様な事はしなかった。
屋上の一件から4日程が経過したある日、健太郎は何時もの様に学校から自宅に帰る為に通学路を歩いていた。
相手の『仕返し』を考慮してその拳には常にバンテージが巻かれている。
(吉良は大人しく諦める様な性格じゃない。
会長の言う通り、用心しないと……)
薄暗い道を歩いていた健太郎は、足音を立てる事無く近寄ってくる悪意を持った存在に気付く事が出来ない。
突然肩を掴まれ、振り返るとそこにはフルフェイスのヘルメットを被った人間が4名いた。
ライダースーツに身を包み、その手には金属バットが握られている。
「ちょいと付き合ってくれよ、雨宮」
肩を掴んできたヘルメット男から聞こえてきた声は、吉良のものだった。
相手を無視して逃げようとする健太郎。
だが前方からもフルフェイスのヘルメットを被った者達がやってきて通路を塞ぐ。
「逃げるなよ。
大人しく俺達についてこい。
逃げたら容赦なく脳天をかち割るぞ」
相手は健太郎よりもしっかりとした武装だった。
腹を殴られても平気な様に特殊な下着を着用し、相手をすぐに追える様に最新式のランニングシューズを履いている。
そんな相手が10名もいたのだ。
そんな悪意の塊に囲まれてしまっては健太郎も抵抗する事は出来なかった。
「俺達を甘く見ていた様だな。
金剛仁王隊をなめるなよ。
すぐに仲間を動員する事が出来るんだ。
万が一逃げたとしてもお前の親や姉貴が標的になる。
大切な者を守りたいんだろう?」
付近の住民に見つからない様に周囲を警戒しながら歩くヘルメット集団。
健太郎は会長の忠告をもっと真剣に聞いておくべきだったと後悔したが、手遅れになりそうだった。
君島のトンネル。
上には電車が走っているがトンネルの中は真っ暗で何も見えない。
「おい、懐中電灯をつけろ。
雨宮をしっかり殴れるように」
付近には自転車の駐車場があるが、夜にこのトンネルに近付く住民などいなかった。
トンネル内部が不良達の巣窟になっていたからだ。
吉良はこの日のトンネルを『貸し切り』にする許可を得ていた。
「君島の悪い奴等とは仲が良くてなぁ。
お前をリンチにかけても大丈夫な場所を確保したワケだ。
もう2度と俺達に逆らえない様にしてやる。
逃げられない様に足を折り、ちょっかいを出せない様に腕を折ってやるのさ。
最後は身体中をバットで殴って病院送りだ。
俺達がやったなんて告げ口するなよ?
そんな事をしようものならお前の血縁者が不審な死を遂げても文句なんか言えねぇぜ」
吉良は健太郎を嘲笑いながら当たり前の様にそう言った。
暴行され、二度とボクシングが出来ない身体にされる。
逆らえば家族の命が危ない。
健太郎に最早抗う術は無かった。
金属バットを持った10名全員を相手にして勝てるハズが無い。
「さぁてと、いきなり腕や膝にいっても良いんだがまずは腹を殴られたのが痛かったからなぁ。
御返しにバットで腹を殴る所から始めよう。
腹筋鍛えてるんだろ?
何処まで耐えられるか見せてもらおうじゃねえか」
吉良がそう言って金属バットを強く握ったその時だった。
「動くな!
バットを置いて両手を上げろ!
凶器を捨てるんだ。早く!」
トンネルの入口と出口から光が差し込まれ、大勢の男達が吉良達を取り囲んだ。
「チッ、サツか!
テメェが呼んだのか?
絶対に許さねぇからな」
捨て台詞を吐きながらバットを地面に置く吉良。
だが近寄ってきたのは警察官では無かった。
「大蛇(おろち)に監視を命じておいて本当に良かったぜ。
危機一髪だったな、雨宮」
先頭を歩いていたのは何時もの様にスーツを着こなしている羽生だった。
その後ろにはサングラスをかけた黒服の男達が拳銃やマシンガンを持って待機している。
「会長、その人達は一体……」
「俺の部下だよ。
お前がとんでもない目に遭うんじゃないかと心配していたんだ。
吉良火悪翠は暴走族の幹部を兄に持つ相当の悪(わる)だからな」
建前では法治国家である天武日本において、一般人が武器を持つ事は法律で禁じられている。
だが大勢の黒服達は当たり前の様に拳銃を構え、フルフェイスのヘルメット軍団に狙いを定めていた。
「おいお前等、俺が心を込めて育てようとしてきたダイヤの原石に傷を付けようってのはどういう了見だ。
俺は雨宮を壊そうなんて奴を許すつもりは毛頭無いぜ。
豚にも劣る畜生どもが」
「なんだとこのジジイ!!」
吉良はカッとなって羽生に殴りかかろうとしたが、仲間の1人が彼を後ろから羽交い絞めにした。
「馬鹿、止めろ!
そいつは血生会の羽生だ。
殺されるぞ!」
「ほう、俺の事を知ってる奴がいるとは。
勉強熱心な馬鹿もいるモンだ。
俺が羽生晃だと知ってるって事は、俺に逆らったらどうなるかと言う事も解っているよな」
ゾクッとする様な笑顔を見せて相手の反応を伺う羽生。
頬に傷を持つ髭面の男が羽生の横に立つと、羽生は何も言わずにトンネルの出口を指差した。
「お前達全員ついてこい!
逃げようなんて考えるなよ。
逃げた者の素性を必ず調べ上げ、親兄弟はおろか親戚まで全員皆殺しだ。
脅しで言っているんじゃ無いぞ。
会長はやると言ったら必ずやる御方だと覚えておけ」
髭面の男がそう言うと、黒服の男達が1人につき両側から2人がかりで押さえつけトンネルの外へと歩かせる。
吉良だけは最後まで抵抗していたが、何発かバットで腹を殴られると観念したらしく彼等についていった。
「お前はもう少しで歩く事すら出来ない身体にされる所だったんだぞ。
会長に感謝しておけ。
それと雨宮、お前も俺達についてくるんだ」
「あの……貴方は?」
「ああ、こいつは俺の右腕でなぁ。
大蛇(おろち)政直(まさなお)って言うんだ。
知能指数は136。
荒事も難なくこなす天才だぜ。
お前も大蛇の様に強くなれよ」
「やめてくださいよ会長。
俺はあまり自慢はしたくない人間なんですから……
そんな事より俺達についてこい雨宮。
会長の隣に行くんだ」
健太郎は怯えを感じながらも、羽生と共に歩き出した。
異様な光景だった。
黒服の男達がフルフェイスヘルメットの者達を抑え込みながら歩いていく。
その後ろに健太郎と羽生、さらに大蛇が歩いていった。
何名かの住民にその光景を目撃されたが、住民はまるで怪物でも見たかの様に彼等を恐れ、道を譲る。
「君島の住民は俺達の事を理解している。
だから俺達の事を通報する愚か者など1人として存在しない。
会長はある意味この国の総理大臣よりも強い権力を持っていらっしゃる御方だ」
やがて、健太郎が通っていたジムの入口が見えてきた。
羽生はヘルメット軍団を全員入口から建物の中に入れると、奥の部屋に全員を連れ込む。
「よし良いぞ。下に降ろせ」
広い部屋の電気を点け、その下にあるスイッチを押すと部屋全体が沈み込んでいった。
「ジムの奥にあるこの小部屋が、エレベーターになっているんだ。
地下には巨大な空間が用意されている。
血生会の『拷問部屋』の1つだよ」
地下1階どころか、地下数階まで降りたのではないかと思う程時間をかけ部屋全体が停止する。
「よし、全員をあの部屋に連れていくんだ」
大蛇が命令すると、黒服達はその命令に従い粛々と任務を遂行した。
「お前もきっと驚くぞ」
満面の笑みを浮かべながら開いた扉を通る羽生。
そこには地下とは思えない程の巨大な空間が広がっていた。
コンクリートで囲まれた、小学校の体育館程の広さはあるであろう部屋。
天井から吊り下がっている拘束具と、部屋の隅に置いてある沢山の道具に目がいく。
先程よりもより物騒な重火器や日本刀、鞭等が多数置かれていた。
「おい、全員の衣服を全て脱がせ。
丸腰にして一切抵抗出来なくさせる為だ。
その後両手首に拘束具を付けて身動きが取れない様にしろ」
多数の黒服がヘルメット軍団を取り囲み、拳銃を突き付けて脅す。
恐怖により自分から服を脱ぎ始める者もいれば、最後まで抵抗して無理やり脱がされる者もいた。
「おい、驚いたな。
女だぜ。
しかも3人もいるじゃねぇか」
ヘルメットを脱いだ者の中に綺麗な女性が3名いた。
銀髪に髪を染めた褐色肌の女、金髪の白い肌の女、肩まで伸びた茶髪を持つ白い肌の女。
3人共あっと言う間に全裸にされ、恐怖に身体を震わせている。
「金属バットでたった1人をリンチにかけるなら見物だと思って参加したんだろう。
思い切り振り下ろせば女でも結構な力が出るからな……
おい、お前達」
羽生がステッキで3人のいる方を指しながらそう言うと、彼女達は怯えて彼の方を見た。
「吉良に誘われて来たんだな。
お前達、死にたくないだろう」
「そッそれは勿論」
まだ拘束されていない女達は涙を流しながら手を前に組んで懇願する。
「恐らくこの中にいる男共の彼女だろうな。
おい、全部白状しろ」
「は、はい。そうです……
『面白い見世物があるから一緒に来いよ』と誘われて。
ライダースーツとヘルメットを貰って参加しました。
お願い、殺さないで……」
無意識に跪き、頭(こうべ)を垂れる女達。
「お前達良かったなぁ。
美人揃いで……
ブスだったら俺が今すぐに撃ち殺していた所だ。
女共は使える。
とりあえず裸のままモニター室に連れていけ。
逃げない様にしっかりと監視しろ」
「了解致しました。
お前等、さっさとついてこい」
肩を震わせながら黒服達に連れていかれる女達。
一方残った男達7名は全員天井からぶら下がっている拘束具により両手首が鎖で繋がっていた。
「モニター室はこの部屋の様子が逐一解る様になっている。
あの女共も『見世物』が見たかったと言っていたし、丁度良かったろ。
始めようじゃねぇか。
時間はたっぷりあるんだ。
生きている事が苦痛に思える程の痛みを与えてやろう」
全裸にされた男達は皆恐怖に顔を歪め涙を流して狂った様に叫んでいたが、吉良だけは動じなかった。
「こんな事をして、俺の兄貴が黙っていると思うなよ。
人数なら、金剛仁王隊の方が遥かに上だ」
「馬鹿が……
織田に睨まれて活動を大幅に制限させられた暴走族如きに何が出来る。
俺はジジイ呼ばわりされるのが一番嫌いでな。
お前、俺の事をジジイと呼んだろう。
俺は耳が遠くないんだぜ。
おい大蛇、根性焼きの準備をしろ」
「もう準備は出来ています」
大蛇が持っていたのは鉄の棒だった。
先端が赤々と熱されており、焼き印として押せる様になっている。
「雨宮、コイツはお前の人生を破壊しようとした奴だ。
絶対に許すな。
こういう奴は逃がすと必ず厄介な事になる。
殺せる時に殺しておくのが大事だぞ」
拷問の定番とも言うべき灼熱のスタンプを、大蛇は躊躇する事無く吉良の背中に押し当てる。
「ぐわぁぁぁぁぁッ!!」
肉が焦げる匂いがしてきた。
吉良の背中が焼け、触れている部分がじゅうじゅうと音を立てる。
「雨宮に悪さをしようとした事を後悔する位やれ。
他の奴等にも押し当てるんだ」
バーベキューのパーティー会場の様な匂いが部屋中に充満する。
だが焼かれているのは牛肉では無く人間の肉だ。
あまりの激痛に失神する者もいた。
「失神した奴は水を浴びせて無理やり起こせ。
今度は鞭で遊んでやろう。
この鞭は痛いぞ。
当たった部分が一発で蚯蚓腫れになる程の代物だ」
何時の間にか黒服の部下が水の入ったバケツを手にしており、頭から男達にかけていく。
まるで自分がされていた虐めの再現の様だと健太郎は思った。
「健太郎、金属バットで好きなだけ殴っていいんだぞ?
今までの恨みを全部ぶちまけてやれ。
どうせこいつ等は全員俺に殺される運命だ」
大蛇が健太郎にバットを渡し、健太郎は自分の逃げ道も無くなった事を悟った。
(ああ、そうか……
会長は僕をただ助けたんじゃない。
僕も自分のいいなりになる人形にするつもりなんだ。
従わなければ、僕も吉良と同じ運命を辿る事になる。
もう、誰も逃げられない)
バットを握り締めた健太郎は、蛇の様な目で睨み付けてくる吉良と対峙した。
「雨宮、テメェだけはこの俺の手で殺してやりたかったぜ」
「……そりゃ残念だったな」
覚悟を決めた健太郎は、バットで何度も吉良の肩や腹を殴りつける。
「立場は逆転したんだ!
会長のおかげでな!
俺は虐げられる側から虐げる側に変わるのさ!」
吉良は呻きながらもまだ意識を失ってはいなかった。
支配する側のプライドを持っていたいと言う気持ちだけが、彼の心を支えていたのだ。
「よしよし、いいぞ雨宮。
今度は拳銃を撃ってみるか。
いずれはお前も撃たなければならない時が来るからな、頭を狙って撃て」
自分を苦しめていた相手をボコボコにしていると言う快感に酔いしれ、楽しんでいた健太郎に拳銃が渡された。
吉良の近くにいた吉良の仲間達が引きつった顔をして健太郎の方を見ている。
(戻れなくさせると言う事か。
コレでお前も裏社会の人間だぞ。
裏切りは許されないと……
お姉ちゃん、もう俺はまともな人間じゃ無くなるよ。ごめんね)
羽生が満足げな表情で健太郎の一挙一動を見守っている。
大蛇が隣で拳銃の撃ち方を教え、健太郎は確実に吉良を殺せる様に発射口を彼の額に押し当てた。
「テメェを呪い殺してやる。
お前の姉貴も、両親も、お前の大事なもの全てを奪い取ってやるからな」
「戯言だ。
死んだ人間はこの世から消滅するだけ。
魂の概念なんぞ信じている方が馬鹿なのさ。
雨宮、男を見せろ。
今まで自分を苦しめてきた悪魔と永遠にお別れするんだ」
下手に人を殺すと思うから動揺するのだと健太郎は自分に言い聞かせた。
害虫を駆除するだけ。
この世にいては迷惑な存在を消去するだけなのだと……
「俺の勝ちだ」
引き金を引かなければ自分がどうなるか解らないと言う恐怖心も手伝って、健太郎は吉良を己の手で葬った。
乾いた、パンと言う音が響き渡った。
それで終わりだった。
今まで自分を睨み付け、汚い罵り言葉を浴びせてきた人間が一瞬で動かぬ屍と化す。
引き金を引いた瞬間もその後も、健太郎にはまるで現実味が感じられなかった。
震えながら思わず拳銃を落とし、自分が人殺しになってしまった事を悟る健太郎。
「よくやった」
ドスのきいた声が羽生の口から放たれ、大蛇も当然だと言わんばかりに頷く。
「雨宮、お前はそういう男だと俺はずっと信じてきた。
俺もそうだった。
虐げられ続けてきた者は心の中に獣を飼う。
闇が膨れ上がり、爆発する機会を伺っているんだ。
お前は心の中の獣を見事に解き放った。
その人殺しさえ躊躇しない底無しの闇こそ俺の欲していたもの……
俺の部下として仕えろ。
俺の言う通りにすれば、悪いようにはしない。
富も力も存分に与えてやれる」
生気を失った吉良の瞳。
その口から呪詛の言葉が吐かれている様な気がして、思わず健太郎は怯んだ。
「恐れる必要は無い。
お前は今まで持たざる者だった。
それを俺が変えてやろうと言うんだ。
やるとなったら怯えるな。
立ち向かえ。
自分の心の弱さを克服した時、その時こそお前は真に強い人間になれる」
再び大蛇が金属バットを健太郎に渡し、残り6名を殴り続ける様に命じる。
もう、健太郎もやぶれかぶれだった。
相手を殺さなければ自分が死ぬのだ。
姉と再び会う為にも、絶対に死ねない。
やるか、やられるかのどちらかだと思った。
「うおおおおお!!」
怒りのエネルギーを全て力に変えて、泣き叫ぶ男達をバットで一方的に殴る健太郎。
リンチにかけるハズだった者に殴られ死に至ると言う皮肉を、男達は『痛い程』味わう。
何度も頷く羽生の目は怪しく光り、恐ろしい『死』のオーラを発していた。
(そうだ。
俺が欲しているのはそういう人間なのだ。
いざと言う時に迷い無く動ける人間。
相手の命を奪う事に躊躇いを感じない人間。
そういう人間こそがボディーガード、そして俺の後釜に相応しい)
やがて7人の男達は殆ど動かなくなり、ピクピク痙攣している何名かの人間に大蛇がとどめを刺す。
「処分部屋に備え付けてある『ミキサー』に入れておけ。
後で下水に流せば証拠は残らない」
日本刀で彼等の頭を貫く大蛇に羽生がそう命令すると、部下達が動かなくなった男達を別室へと運んでいった。
「人間をまるごと攪拌(かくはん)する事が出来る巨大なミキサーがあってな。
細かい肉片どころかミートローフみたいな液体に近いものになる。
下水道か海に流せば警察もそうそう発見出来ねぇさ。
それに俺が警察の『上』に話をつければ完璧だ」
当たり前の様にそう言う羽生の姿を見て、健太郎は頭を下げた。
「会長、これからも宜しくお願い致します」
「いやいや、俺からお願いしたい位だったんだぜ?
雨宮、お前は『血生会』にとって必要な人材だ。
俺の手足となって働いてくれ。
そうすればお前にも良い思いをさせてやれる」
健太郎は生まれて初めて、この世に『絶対に逆らえない強大な悪』が存在する事を知った。
10人が突然行方不明になったとしても揉み消せる人物。
天武日本の闇を牛耳る程の男。
その男が例え自分を利用する為に助けてくれたのだとしても、尽くすしかないと覚悟を決めたのだった。
モニター室で恋人を含めた7名の男が無残に殺される一部始終を目撃した3名の女は、完全な恐慌状態に陥っていた。
恐怖で歯を鳴らし床に崩れ落ちる者、立ったまま無意識に失禁してしまう者、泣きながら唇の端が上がっている者もいる。
「おいおい、随分怖がってるじゃねぇか。
皆死にたくねぇって感じだな」
扉を開けて女達を嘲笑う羽生に、泣き笑いをしていた女がしがみついた。
「お願いします、殺さないで!
何でもしますから、殺さないでください」
「私もです!
あんな目に遭うのは絶対に嫌。
死にたくない!」
床を這いずりながら許しを請う全裸の女。
健太郎はなかなかシュールな光景だなと思っていた。
先程の自分の蛮行も含め、現実感が全く感じられない。
今の健太郎にとっては全てが他人事の様だった。
「そうか、死にたくないか。
お前達はもう死んだも同然だ。
一生外に出る事は出来ないぜ。
それでも良いと言うのなら生かしておいてやろう」
「そ、それでもいいです。
だから殺さないで……」
吉良とは違い、女達は最初から己のプライドをかなぐり捨てていた。
生きる為に必死だった。
健太郎は彼女達を憐れんだが、結局この3名も自分を金属バットで殴ろうとしていたのだ。
同情の余地が全く無い事は明白だった。
「よし、首輪を付けろ。
この地下空間から一歩でも外に出ると爆発するやつだ。
俺達以外の人間には会えんし、死ぬまでずっと全裸だぞ。
それでもいいな?」
「はい、はい。
解りました。だからぁ……」
しがみつき、必死に助命嘆願を行う女達。
大蛇が彼女達を無理やり引き剥がし、部下に首輪を付けさせた。
「元々、お前を殺そうとしていた女達だ。
雨宮、この女どもをお前の性奴隷にしてやる。
好きなだけ使って、飽きたら捨てろ。
いいか、お前達の命を握っているのはココにいる雨宮だからな」
羽生はそう言うと、健太郎の肩を叩き彼の働きを労った。
「良かったじゃねぇか。
早速お前の言いなりになる綺麗な性奴隷が手に入って。
なかなか手に入らねぇぞこんな上物は。
なぁ大蛇」
「口のきき方が不合格ですが、顔とスタイルは合格点でしょう」
表情を一切崩す事無くそう言った大蛇の顔を横目で見ながら、羽生は健太郎の顔を覗き込む様に見つめた。
「いいか、女はお前にくれてやるがお前も俺の所有物になったという事実を忘れるなよ。
今日は帰っていいが、いずれお前にも色々と学んでもらう必要がある。
明日もこのジムに来い。日曜日は朝から顔を出せ。
解ったな」
「解っています。会長」
健太郎は心の中で安堵の溜息をついた。
とりあえず、今日は解放されるのだ。
ジムから外に出て、夜の街を歩き自宅に向かう健太郎。
全てが夢の様でまるきり現実感が無かった。
だが今日、彼の身に起こった事全てが現実だった。
『そういや、俺の事をジジイ呼ばわりした奴……
吉良だったか?
あいつの家を焼いておけ。
あいつには兄と妹と両親がいたハズだ。
全員が家にいるのを確認してから焼くんだぞ。
逃げられない様に可燃性のロープで縛るんだ』
帰ろうとした時に羽生が発していた言葉が耳に入り、戦慄した事をまざまざと思い出す。
(あの人は蟻を足で踏み潰すかの如く人を殺せる人なんだ。
人間らしい感情なんて全く持っていない。
逆らえば俺も足で踏み潰される。
逃げられない。
もう、一生あの人に尽くすしか俺の生きる道は無い)
命を助けられたハズなのに、涙が溢れて止まらなくなっていた。
ただ、ひたすらに恐ろしかった。
恐ろしいのに、そこから逃げる事が許されないと言うのも健太郎を追い詰めていた。
何よりも今日まで人を殴る事すら生まれて初めてだった自分が、バットで人を殴り殺した。
誰の口からも漏れない秘密ではあったが、自分がどんどん別の生物に変化していっている様で怖かったのだ。
「お姉ちゃん……
もう、お姉ちゃんにも助けてもらえないよ。
助けを求める事なんか出来ないよ」
健太郎は誰に言うでもなく、自然とそんな言葉を呟いていた。
地獄巡りの旅が始まる。
それは雨宮健太郎と言う名の少年が底無しの闇へと堕ちていく為の旅でもあった。