思います。全国大会の様な血沸き肉躍る場面があるのも大事ですが、
同じ位日常的な会話パートも大事なのです。
天国での『2006年』は、6月下旬頃にさしかかっていた。
この世では長雨が続く季節だが、あの世では天候そのものが存在しない。
季節の変わり目を感じるのは下界を覗き見る事が出来る鏡だけで、娯楽も少なかった。
天国にいる者達が農村地帯の若者の様に性行為ばかり行うのも、ある種の必然なのだろう。
「桜華、後ろからだと深く刺さるだろ?」
「ええ、私の中に豊のが入ってますわ、ああッ」
井島豊と綾小路桜華の『生活』も、セックスが大半を占めていた。
夢も目標もこなすべきノルマも存在しない、自由な『人生』……
裏を返せば退屈で暇な時間がずっと続くと言う事である。
娯楽がゲームを出現させて遊ぶ程度である為、寂しさを紛らわせると言う意味でも2人にとってセックスは必要なものだった。
「お前のはホント狭いな。
きゅうきゅう締め付けてきやがって」
「だ、だってぇ……
豊のモノが私の奥まで突き上げてくるんですもの」
セックスばかりしているとそれもまたマンネリになってくる為、体位を変えて行っているのも当然と言える。
背後から挿入し、豊が両腕で桜華の胸を抱きかかえて下から上へとピストン運動を行う立ちバック。
桜華自身の重みと豊の勢いで勃起した陰茎が深くまで潜り込むので、快楽はより強くなっていた。
「喘ぎまくってる姿なんて、人に見せられるモンじゃねぇよな。
淫乱御嬢様」
「そ、そんな……
そんな酷い事、言ってほしくありませんわぁ」
頬が紅潮し、絹の様な白い肌が興奮する事によって熱を帯びる。
長く伸びた金髪を揺らしながら、桜華は豊の執拗な責めに耐えていた。
(あー……
あかりと比べたらそうでも無ぇけど、やっぱ気持ちいいな。
比呂ちゃんのより狭くて、異物に対する反応がより強い気がする)
本能的な拒絶とでも言うのだろうか。
桜華の膣は未熟で、太い肉棒を入れられるとそれを全力で追い出そうとする。
その力も未熟な為容易く奥まで侵入出来てしまうのだが、膣全体が締まって外へと押し出す力が働いていた。
(コレって入口に向かって押し戻そうとしてる感じなのか?
いや、気持ちいいって事に変わりは無ぇんだけど)
男性を絶頂へと導く事に関しては右に出るものがいない程の実力を誇るあかりとのセックス。
最高峰を堪能する事が多かった豊はそれに溺れながらも、自分のプライドが傷付けられていたのもまた事実だった。
桜華とのセックスならばかなり長い時間爆発せずに保っていられる勃起が、あかりとすればあっと言う間に暴発する。
彼女が本気を出している時だと30秒も保てないので、まるで自分が早漏であるかの様に思われるのが辛かった。
桜華と肌を重ねていて理解出来る事もある。
火村あかりと言う女性が異常だっただけで、自身は正常だったのだと。
豊は与えられる快楽こそ多少減ったものの、己の誇りを守る事が出来たのは幸せだった。
「あンッ、わ、私のが豊のに、貫かれてぇ……
喜んでますわ」
「俺もそろそろラストスパートかけるからな。
思いっきりやるから失神するなよ」
あかりとのセックスによって磨かれ、鍛え上げられた陰茎が桜華の中で躍動する。
アダルトビデオの男優の様に桜華の両腕を後ろから掴んでより密着させ、さらに奥へと激しく動かした。
「ひ、ひぃぃッ……
だ、駄目……駄目ですわこんなのぉ」
桜華が性行為に慣れておらず赤子の様にされるがままになっているのも、豊の自尊心を大いに満たしている。
同じ事をあかりに行ったとしても、合気道の有段者に技をかけに行くのと同じであっけなくやり返されるだけだろう。
その点、本当に優れた技術を持つ男性より劣っていても強い反応を見せてくれる桜華の存在は豊にとって有難いものだった。
(俺も駄目だ……
そろそろイク、弾けちまう)
相手を気持ちよくさせようとする思いはあったものの、射精間近になると男は自分の性欲を満たす事だけしか考えられない。
膨れ上がった欲望を何度も何度も奥へと叩き付け、身体全体を痙攣させながらその全てを桜華の中へと解き放つ。
「くッ……うう」
「はあ、はあ……
ゆ、豊のが出てますわ……
熱いのが私の中で、ビクビクしてますのぉ……」
女性は中に出された事を精液で認知するワケでは無い。
膣内で蠢いている肉棒の状態で判断する。
豊の身体と同じ様に肉の槍が何度も震え、脈動する事で桜華は豊が達した事を理解していた。
桜華がセックスによって絶頂を迎える事が出来ると言うのも、豊にとっては新鮮な反応だった。
あかりとの性行為は自分が悪戯に射精するばかりで、あかりを絶頂へ導いた事などほぼ皆無である。
あかりの方が満足出来ない為、豊がトランクスを履いている頃にあかりが自慰行為を行っている光景が当たり前のものとなっていた。
その度に相手を満足させてやれないと言う負の感情が襲い掛かってきたが、桜華としている場合は違った。
桜華の方が感度が高く性的な接触に関して敏感と言う事もあり、豊が達する前に身体を震わせる事も珍しくない。
だからこそ、桜華と行うセックスは豊にとって喜びを与えてくれる行為なのだった。
「抜くぞ」
荒い息を吐きながら、密着していた身体をゆっくりと離す。
欲望を吐き出して萎えた肉棒があっけなく抜けた。
豊はセックスほどスムーズに事が運ぶものも無いと感じる。
(入れる時は先端を添えて前に突き出すだけで入るし、終われば勝手に抜けちまう……
セックスってある意味機械的だけど、妊娠させる為の行為って意味では最適化されてるんだろうな)
手を離した瞬間桜華は手から床について座り込む形で崩れ落ち、目に涙を浮かべながら何度も荒い息を吐いた。
「な、何でぇ……
こんなに、気持ちいいんですの……」
「多分人より感じ易いんだろ。
結構出たな……凄ぇ滴ってる」
無毛の綺麗な膣から、粘り気のある白い液体が垂れ、床へと落ちる。
その液体がすっと消え、やがて膣の中に残存していたハズの精液も煙の様に掻き消えた。
(こんなにも生を感じる様な行為をしたってのに……
俺達が死んでいる事を嫌でも認識させられちまうな)
自分達は死者であると言う『現実』を突き付けられ、射精直後と言う事もあり虚無感に襲われる豊。
その虚無感を拭い去るかの様に、座り込んでいる桜華を背後からぎゅっと抱き締める。
「豊にしては、私相手によく頑張った方ですわね」
「よく言うぜ。
感じ過ぎて立てなくなってるクセに」
言葉とは裏腹に、異性である豊に優しく抱き締められた事で頬に涙が流れる桜華。
人の温もりを殆ど感じない、監獄の様な自宅での生活を強いられていた彼女にとっては触れてくれる相手がいるだけで涙腺が滲んだ。
裸のまま床に寝そべり、ただ何となく思った事を喋る。
そんな適当な会話ですら、彼女にとっては新鮮で楽しい時間だった。
「なぁ……桜華。
前からずっと聞きたくて、結局聞いてねぇ事があるんだけどさ」
「何ですの?」
寝そべった状態で桜華と向かい合っていた豊は、真っ平らで膨らんだ部分すら無い彼女の胸に手を当てた。
「お前、ここまで胸が平らだったっけ?
もっと胸がでかかった様な気がしてたんだけど」
「それ、私と会った時から言ってましたわよね……
私が気にしている事を」
桜華が豊に手をあげ、2人がセックスをする事になってしまった『きっかけ』。
彼女自身は墓場まで持っていきたかった秘密であっても、死後の世界では容易く露見してしまう。
桜華はあからさまに不機嫌そうな顔をして頬を膨らませると、豊の頬を強く引っ張った。
「女性にとって、胸の有る無しと言うのは大きな問題なんですわよ!?
何故殿方と言うのはそれが解らずにストレートな質問をぶつけてくるんですの」
自分だって、この姿は望んでいないと言わんばかりに目に涙を浮かべながら歯を食いしばる桜華。
豊は本気で頬をつねられ、無理やりその手を引き剥がしながら謝った。
「いやごめん。
そうなんだけどさぁ、あれってどうしてたのかなーと思って」
「……ぬーぶらと言う奴ですわよ。
私が財閥の子会社に頼んで作ってもらっていた特注の」
何度も質問され諦めたのか、桜華は目線を逸らしながら白状した。
「あ、あれヌーブラだったのか。
でもあそこまで大きく見せてたのは凄ぇな」
「上半身裸になって、人が間近で見ても見破られない様に精巧なヌーブラを……
サイズを測って、データを揃えて開発してもらっていましたわ」
口を酸っぱくして、『絶対に秘密にしてくれ』と部下に言っていたのを桜華は思い出す。
勿論いきなり大きなヌーブラを付ければバレてしまうので、時間の経過と共に少しずつヌーブラを大きくしていく。
側にいた美香や妖すらをも欺く程、それは完璧なヌーブラだった。
「へぇ……
でもヌーブラなんて、触られたら一発でバレそうなモンだけどな」
「服の上からならばまず露見しませんわ。
ヌーブラを装着してその上からその胸に合ったブラジャーを被せて、服を着ればもう触った程度ではバレないですわよ」
桜華はジェスチャーでそれを説明した後、形状と使い方を説明した。
「ヌーブラは、質感をそっくりに似せた特殊素材で出来ているんですの。
裏側に肌につけるとくっつく接着剤の様な面があって、一度付けると相当の力で剥がそうとしない限り取れませんわ。
そんな事一度も無かったですけれど、乱暴に揉まれても平気。
ただ、風呂に入る前に剥がす必要があって……
涙が出る位痛かったのが難点ですわね」
「じゃあ、誰かと一緒に風呂に入るなんて事も出来ねぇのか」
「幼少期に美香と入った事は何度か。
でも、私が断り始めてからは素直に言う事を聞いてくれていましたわ」
桜華は壁に設置されたボタンの様な乳首を手で覆い隠しつつ、自身が貧乳である事を嘆いた。
「私は社交的で、見る者を虜にする美貌を備えていなければならなかった。
それは、性的な魅力と言う意味でもそう。
相手を騙してでも、私は胸を大きく見せる必要がありましたわ……
それにこの貧相な胸を私自身が嫌っていましたし」
「金があるんだから、手術するって言う手もあったろ」
桜華は豊の言葉に対して、首を思い切り横に振った。
「無理無理……
自分の身体にメスを入れるなんて怖くて出来たものではありませんわ。
それに医者からも豊胸手術は失敗するリスクがある上に触られたらすぐにバレてしまうと言われて」
桜華は上半身を起こすと、上から寝そべっている豊を羨望の眼差しで見つめた。
「その点殿方は良いですわよね。
顔とスタイルが良ければ、胸の大きさなんて気にしなくて済むんですもの」
「そうか?
俺は貧乳も好きだけどなぁ。
大き過ぎると結構見た感じ気持ち悪いぞ。
あかり位ならそりゃ綺麗に見えるけど……
自分を偽り続けるのは苦しいだろ」
豊にそう言われ、桜華は口を真一文字に結んだまま少しの間黙っていたが、その後溜息をついた。
「人生の全てが、仮面舞踏会。
美しくて、教養があって、セクシーで、頭脳明晰で、経営力に優れていて……
私は人前に出ている間、女性として非の打ち所の無い存在である事を常に求められていましたわ。
そうでなければ私は財閥の顔にはなれない。
誰もが羨み、尊敬する存在で無ければならないと。
御父様も、染井も、黒沢も私に『完璧』を要求してきた。
美香ですら私をそうやって追い詰め、仮面を被らせようとする。
全国大会の時から、私の外面は限界だったのかもしれませんわね」
桜華は零に決勝で負け、本気で悔しい思いをした時の事を思い出していた。
手が届くと思っていた零と言うカリスマ的存在。
子供の頃から憧れ、追い越してみたいと思っていた。
だが、あの時彼女は『期待』と言う大きな重圧に押し潰されてしまったのだ。
「やっぱり、勝って当たり前とか言われると厳しいよな……
勝てたらラッキー位の気持ちで挑めたら、また違った結果になったかもしれねぇのに」
「ええ。
今思えば、あんなに悔しい思いをする位ならいっそ準決勝の時に負けておけば良かったと思う時すらありますの。
今でも思い出すと、自分の弱さに涙が溢れてしまうのが辛くて」
煌めく事の無かった灰色の人生に、唯一光を灯す事が出来る最初で最後のチャンス。
大舞台で人々から喝采の拍手を浴び、御辞儀しながらそれに応える。
スポットライトを浴びて輝く。
桜華は心からその結末を望み、その夢は叶わなかった。
そして全てを失ったのだ。
「慰めになるのかどうか解らねぇけどさ……
天武日本人一億の人々の中で、たった2人まで残ったんだぜ?
観衆の視線が注がれている中で、お前は零を確かに追い詰めた。
それは誇っていい事だと思う」
「……豊……」
桜華は思いが弾け、豊を抱き締めると子供の様に泣きじゃくった。
誰も彼女を慰めてくれなかった。
『よく頑張った』と、誰も言ってくれなかった。
優勝が至上命題であったミッションをこなせなかったと言う事は『失敗』であり、努力は無意味。
染井も黒沢もそう思っていたし、美香も落胆していた。
そして妖は桜華にそう言ってあげる事が出来なかった。
妖自身もその傷を引き摺っていたが、桜華はその事を知らず妖も同じ事を考えていると誤解していた。
「私だって、わたくしだってぇ!!
好きで、好きで負けたワケじゃないのに!!」
豊は自分が生きてきた20年と言う月日の中で、これ程惨めで可哀想な人間を見た事が無かった。
片親と言うだけの理由で虐められていた少年時代。
ロクでも無い父親を持っていると言う事実を突き付けられた青年時代。
それでも、桜華の悲惨な人生に比べれば、全く大した事は無い。
「どうにもならねぇけど……
とりあえず、泣いとけよ」
涙はストレスを発散させる最良の方法である。
だからこそ、人は哀しい時に涙を流すのだ。
豊は桜華の美しい金髪に触れながら、彼女を優しく抱き締めていた。
豊はひとしきり泣き終え、ぐずっていた桜華から手を離し立ち上がる。
「くよくよ悩んでても、しょうがねぇよ。
俺もお前も、死んだんだ。
事実を受け止めて先に進もう。
これからはやりたかった事を好きなだけやればいい」
桜華は驚いた様な顔で豊の顔を見ていたが、その意見に同意した。
「……そうですわね。
その方が、生産性がありますわよね」
「なぁ、何かやりたい事はあるか?
夢は叶わなかったけど、その他に何かしたかった事があるだろ」
豊にそう言われ、桜華は暫くの間考え込んでいたが正直な思いを口にした。
「海、ですわね……
私は海を見た事が無くて、自分の目で見てみたいと思っていましたわ。
写真や映像では見た事がありましたけれど、実際に見て泳いでみたくて……」
桜華にとって、『海』は自由の象徴だった。
何処までも続く青い空、白い雲、そして美しい海。
遠くまで続いている水平線。
その向こうに別の世界が待っている。
何度もそんな夢を思い描いては、心の中にしまい続けた。
その夢を誰とも共有出来なかった。
それでも今ならば言える。
自分はその夢を追いたいのだと。
「海かぁ。
俺も子供の頃、お袋に連れてってもらったきりだなぁ。
あの時は『でけぇな』位しか思わなかったけど……
そういえば桜華って泳げるの?
俺は全然泳げなくってさ」
「泳いだ事が無いので、得意とも不得意とも言えませんわね。
でも、泳ぐ事が出来たら楽しいだろうなとは思いますわ」
そう言って微笑む桜華の姿を見て、豊は何とかしてやりたいと強く思った。
(だけど、俺は泳ぎを教えられねぇんだよな。
下手だから。
零はそもそも泳ぎの経験があるのかすら謎だし、涼介は自分で下手だって言ってた。
比呂ちゃんもそんなに得意じゃない。
まぁ、1人しかいねぇよなぁ……)
よく知っている身内で、25mのプールを楽々往復する事が出来る人物。
その人物は『この世』にいる為、一度『あの世』に連れてくる必要があった。
火村あかりは、当時『闘戦興』の駆け出し編集部員になったばかりで、まだ記事を書かせてもらう立場では無かった。
主な仕事はオフィス内の雑用と掃除。
他の編集部員の取材に同行して荷物を持つ。
2010年にはいっぱしの編集部員としてコーナーを持てる程にまで成長するのだが、それはまだ先の話だった。
「あー、疲れた。
かよわい女性に肉体労働ばっかりさせてぇ。
本当嫌になっちゃうわ」
アパート貧荘の自室。
ココに豊がいれば『誰がかよわいんだよ』と突っ込んでいた事だろう。
バッグを机の上に置き、殆ど着替える事も無く一旦ベッドに倒れ込む。
「会いたいなぁ……
もう会えないのは解ってるんだけど」
隣の部屋には海野亜津子がいるが、本当の意味で寂しさや辛さを紛らわせてくれる相手は豊しかいない。
棚の上に置かれた写真立ての中で、豊が笑顔を見せている。
「会う方法があれば、絶対に会いに行くのに。
馬鹿言ってる場合じゃないか。
豊の才能をコピーする為にも、勉強勉強」
夜の8時。
疲れが溜まっているので本来ならば風呂に入って寝たい所だが、雑誌に目を通す時間は夜しか無い。
日曜日はエターナルナイトにいる事が多いあかりは、移動時間や帰宅後の僅かな暇を見つけては豊の記事を読んでいた。
パラパラと雑誌をめくり、過去に豊が書いていた記事を探す。
「あれ、何これ」
闘戦興のページを開いたあかりの目に、『死んだ人間と会う方法』と言う一文が飛び込んできた。
「あー、これお盆の時期の雑誌かぁ。
なになに、『お盆の時期には死んだ人が下界に戻ってきます。
この世とあの世の境が曖昧になっているのは夢。
つまり、夢の中はあの世と繋がる場所でもあるのです。
方法は簡単。
会いたい人の顔写真を枕の下に敷いて、その枕で眠るだけ』ですって?」
闘戦興は格闘ゲームがあくまでもメインに据えられている雑誌なのだが、料理や雑学等の小ネタもたまに紹介される事がある。
あかりは『見えない力』によってその雑誌のそのページを開き、その知識を得た。
「鰯の頭も信心からって言うしね。
信じれば、救われる……かもしれないと」
あの世にいる人間が『火村あかりの名前を書いた紙』を枕の下に敷くと、相手は枕に相手の写真を敷いて寝る。
あかりは写真立てから豊の顔写真を抜き取ると、自分のベッドにある枕の下に写真を置いた。
「コレで会えれば世話無いわよ。
やってみるだけタダなんだからいいけど!」
あかりは愚痴を吐きながら雑誌を読み返す行為を再開した。
諦めるしか無いと思っていたのだ。
そもそも、あの世と言う世界がある事自体懐疑的だった。
死んだ人間はこの世から消滅するだけ。
無信心であるあかりはそうだとしか思っていない。
それでも、彼女は何かに縋りつきたかった。
誰にも頼らずに生きていくのは難しかったのだろう。
「それにしても、本当に簡単なんだな。
こっちに連れて来るのって」
「あー、もう!
こんな羨ましい身体をして!!
私の身体と交換してほしい位ですわ」
朦朧とする意識の中、誰かの声が聞こえてくる。
(豊……?)
まだ意識がハッキリとしないまま、何気なく伸ばした手が豊の足首に触れた。
「ゆ、豊!
豊じゃない」
「よ、久しぶり」
あかりは豊の足にしがみつき、涙を流す。
「会いたかった!
ずっと会いたかったんだからぁ!」
頬に流れる涙を腕で拭った段階で、あかりは自分が裸である事を認識した。
「あ、あれ?
何で私服着てないの。
それにこの真っ白な空間は?」
立ち上がり、質問したい事が山程あった。
豊の隣には不満げな顔をした桜華がおり、その背後には4つのレーンに分かれた立派なプールがある。
豊は橙色の海パン、桜華は淡い水色のスクール水着を着ていた。
「おうか!?
何でアンタがココにいるのよ」
「私は、貴方をココに連れて来るのに反対したんですわよ?
そんな魅力的な身体を見せ付けられたらコッチが嫌な気持ちになってしまいますわ」
「まぁまぁ……
あかり、色々あって俺は桜華とココにいるんだ。
あの世に来たお前は『霊体』だからこの世にいた時の服は着れねぇんだよ。
とりあえず、お前がプールで泳いでいた時の水着を用意しておいたから」
煽情的な紅蓮のビキニ。
その上下を渡され、身に付けながらあかりはさらに疑問を連発する。
「そ、そもそも何であの世にプールとか水着があるのよ。
アンタ達まで水着を着てるけど、私に用があるから呼び出したのよね?」
「お前しか泳ぎを教えられる奴がいないと思ってさ。
桜華に泳ぎを教えてやってほしいんだよ。
勿論泳いだ事も無ぇ素人だから、基礎から教える事になると思うんだけど」
「えー!?」
疲れているのに面倒な用事を押し付けられ、あかりは非常に解り易い不快感を示す。
それでも長年一緒に行動を共にしてきた豊の頼みと言う事もあり、最後には折れた。
「……解った。
私しかいないって言うのならやるわよ。
それでビート板やフィンは用意しているの?
最初は水に慣れる所から始めようとは思ってるけど」
「両方用意してある。
でも最初は『へり』に掴まるんだろ?」
「解ってるじゃない」
あかりが腕を組んで笑うと、豊は少し嫌そうな表情で桜華の方を向いた。
「知ってるよ。
昔俺もお前に泳ぎ方を教わったんだから。
上達はしなかったけどな」
あかりは桜華の方を向き、自分の手を胸の前に置き自信たっぷりの表情を見せる。
「水泳に関しては任せなさい。
ドッジボールとかソフトボール、サッカーもこなせるけど私が一番得意なのは水泳だから。
こう見えても平泳ぎ25m往復で40秒以内にはゴール出来るのよ!
凄いでしょ」
あかりは色々な意味で桜華とは対照的な子供時代を過ごしてきた。
勉強そっちのけで男子に混じって運動。
クラスの『ガキ大将』ポジションを務めていた少女だった。
日が沈むまで外で遊んで、帰ってきてから熟睡。
その繰り返しにより背が高くなり胸も大きくなったと言える。
「……?
あれ、桜華。
アンタそんなに平らな胸だったっけ?」
「誤魔化してたんですわよ!!
もう、同じ事を何度説明すれば済むんですの」
桜華はいちいち自分の傷を抉られる事に我慢出来ず、自棄になりながらそう言い放った。
「しょうがねぇだろ。
最初の認識と違った姿で現れたんだから。
さぁて、全部用意出来るぜ。
水泳帽とゴーグル、帽子は必ず付けるんだったよな」
あかりは完全にヘソを曲げ、そっぽを向いている桜華の髪の長さが気になった。
「それにしても、髪が凄く長いわね。
頭の横で毛糸玉みたいなお団子にしてたんだから当たり前か……
腰に届く程長い髪って水泳では危険なのよ。
引っかかる可能性があるからね。
水泳帽にも入らないでしょうし、ゴムでまとめちゃいましょう」
長い金髪を上で折り曲げ、折り曲げた分も含める形で縛る。
長さが2分の1になり、毛先が上向きになった事でかなり危険性が低くなった。
「うん、上出来!
あとは水泳帽を被ってと。
じゃあまずは水に慣れる所から始めましょう。
いきなり水に入るのは危険だからストレッチを行って、足からゆっくりと水の中に入って頂戴。
室内プールの水温は約30度。
相当ぬるめのお湯って感じだから冷たくは無いわ」
超初心者である桜華には、まずプールの中と言う環境に慣れてもらう必要がある。
あかりと同じ動作を一通りこなした後、桜華は『人生初』となるプールの中へと身を投じた。
「薄々気付いてはいましたけれど……
立った状態で首が出る位の余裕しかありませんわね」
水に触れると言う意味では風呂には入った事がある桜華だが、立った状態でありながら身体全体で水を感じるのは初めての経験だった。
「アンタの身長じゃねぇ。
私は肩が出る位の余裕があるけど……
とにかく底に足がつく状態なら良かったわ。
泳げる様になる為の第一歩。
それは水を恐れない事。
いきなり水に落とされてもがく恐慌状態に陥ると、泳ぎが上手な人でも溺れる事がある位よ。
まずは周りに水がある状態に慣れる事。
泳ぎの練習の前に、まずは歩いてみましょう」
あかりはまだプールの中に入らず、プールサイドを歩きながら桜華に指示を出す。
「全然、違いますわね。
ある程度想像はしていましたけれど……
自分が予想していた動きよりかなり遅いですわ」
「水の中にいると抵抗力がかかるからね。
お湯の中で思いっきり腕を動かしてもゆっくりとした動きにしかならないでしょ?
プールの中もそれと一緒。
だから、その動きになれる事よね」
桜華はあかりの指示に対して一切逆らう事無く、純粋に泳ぎを教わろうとしている様に見える。
(やっぱり私、勘違いしてたのかな……
比呂ちゃんの言う通り、結構根が真面目な方なのかも。
そもそもそんな嫌な性格してるのなら、豊が桜華と一緒にいるのが不自然だし)
天武日本を信国人と共に乗っ取り、天武日本人全てを財閥の支配下に置こうとした大罪人。
その諸悪の根源とされていた桜華が豊と行動を共にし、軽口まで叩き合っているのは不思議な光景だった。
「豊、こういうのって身体が浮くと聞いていますけれど全然浮く感じがしませんわよ?」
桜華は首だけ浮いている状態の為、少しでもバランスを崩すと水の中に身体が沈んでしまう。
その状態に対して身体が硬直し、緊張する事によって筋肉が収縮する。
するとその結果身体全体に対して比重が上がる為、水に浮く事が出来なくなってしまうのだ。
「典型的なカナヅチの症状よね。
水に顔をつける事さえ怖がってる。
そこから治していきましょう。
水の中は怖い場所では無いって事を身体に直接教えてあげなくちゃ」
プールの25m地点、つまり端の部分に到着した桜華の頭をあかりは優しく撫でた。
「豊、泳げない人は何で泳げないか解る?」
「え、何でだろ。
俺も泳げない方だからよく解らねぇな……」
あかりにそう質問され、豊は戸惑った。
泳ぐ事に対して興味が無い為、そういった質問をされても全く解らなかったのだ。
「それは泳げない人の泳ぎ方を見ればすぐに解ります。
桜華」
「は、はい。
何でしょう?」
桜華の反応は、スイミングスクールの講師に対して頭を下げる生徒と全く同じものだった。
(あ、本当に真面目なんだ。
心から泳いでみたいって言う気持ちが伝わってくる)
心の中で彼女に謝罪すると同時に、ここまで真剣に泳げる様になりたいと思っている桜華の願いを叶えてやりたい。
そう思ったあかりは自身も真面目になり、泳げる様になるまで面倒を見る事を心に誓う。
「そのへりに両手をかけた状態で足を浮かせて、足をバタバタさせてみて」
桜華は言われた通りに足を動かすが、頭が水の中に入っていない為足は水面まで浮いてこない。
「ね?」
「成程。
泳げない奴は水の中に頭が潜ってねぇから、犬かきになっちまうんだな」
とにかく、恐怖心を取り除かなければならない。
桜華の恐怖心は『水の中に潜る』と言う一点。
意外と、その一点を突破するのが難しい。
それが泳ぎの教え方において鬼門となる所である。
「水の中に頭を入れてみましょう。
最初は目を瞑ってもいいから」
「い、息はどうするんですの?」
「息は止めて。
くれぐれも水の中で息をしようとしない様にね」
泳ぎにおいて大切なのは、形から入ると言う事である。
泳ぎにおける独特な呼吸法、つまり息継ぎの仕方は後で構わない。
水に慣れさせて、身体を浮かせる事。
その一歩を踏み出さない限り前へは進めないのだ。
「わ、解りましたわ……」
身体が震えているのが桜華自身にもよく解った。
風呂に入った時にもした事が無い『水の中に潜る』と言う行為。
水が入った洗面器に顔を突っ込んだ事すら無い桜華にとってそれは未知の領域であった。
「桜華、リラックスして。
思いっきり力を抜いて。
だらーっとしなさい。だらーっと。
欠伸をしながら両手を上に伸ばしたりするでしょう?
身体が緩みまくっているあの状態をイメージするの。
確かに人間は本来泳ぎに適した進化をしてはいないけれど、必ず泳げるハズなのよ」
あかりも豊も側にいて、溺れる様な事があればすぐに助ける準備をしている。
身体を預けても心配は要らないと言う『安心感』は、恐怖を遠ざけるのに効果的だった。
桜華は意を決して息を大きく吸い込み……
「ストップストップ!
駄目、大きく吸い込んじゃ!」
「駄目なんですの?」
「大きく吸い込まなくても人間は数十秒はもつから。
私を信じなさい。
軽く息を鼻と口で吸いこむ。
それで充分。
あとは自然な形で息を止めてればいいの」
息を大きく吸い込んで潜ると言う事は、それだけ潜った後の事を強く警戒していると言う意味でもある。
そして息を大きく吸い込んで潜る事自体が危険だった。
「じゃ、じゃあ……
いきますわよ」
慌てなくていい。
ゆっくりでいいとアドバイスするあかりの声が桜華の耳に届く。
自分自身にプレッシャーをかけると失敗するのだと。
(自分自身に重圧をかけると失敗する?
ああ、あの時と同じですわ。
私はあの時、自分自身を追い込んでいた。
だから失敗した……)
あの体験を糧にして、今度は成功させなければならない。
桜華は意識を集中させ、ゆっくりと水面に顔をつけると身体全体を弛緩させた。
「そう、そう!!
そうよ桜華。
今の状態が正しいの!」
顔が水面に潜った事で身体のバランスが一定に保たれ、足が水面近くまで浮く。
泳ぐ時の理想は人間の身体が一本の線になる事。
それが現実のものとなったのだ。
「あ、本当だ。
確かに浮いたなぁ」
だがそれも一瞬の出来事だった。
息を吸いたいと焦った結果、水が口や鼻の中に入り悶絶する。
「やばッ」
その危険な兆候を見逃す事無く、あかりはすぐにプールの中に飛び込むと桜華を助け出した。
「ガハッ、オエ……
やっぱり、水の中に顔をつけるのは怖いですわね……」
「慣れよ慣れ。
少しずつ慣れていくの。
私だって最初から悠々と泳げたワケじゃ無いんだから。
私だってさっきの一本の線になるのに一週間はかかったのよ?
それに比べればたった数十分で次のステップに進んだんだから上達のスピードが速いわ」
「そ、そうなんですの?」
子供の様に目を輝かせる桜華。
自分に才能があると思い、素直に喜んでいる様だ。
こういう時は褒めて伸ばす。
あかりは桜華に水泳の才能があると教えた。
「桜華、アンタは自分の貧乳がコンプレックスになってるみたいだけど水泳においては貧乳の方が有利なのよ?」
「ひ、ひん……
まぁ良いですわ。
どうして、胸が平らなのが有利なんですの?」
触れられたくない部分にツッコミを入れられ、不機嫌になりながらも桜華はそれを不思議に思った。
「簡単な話よ。
胸が大きいと抵抗力が働くから。
見た事が無いかもしれないけど、競泳選手で巨乳の人なんて殆どいないわ。
一本の線になるのが効果的だって言ったでしょ。
つまりその線の部分から余計なものが出てちゃいけないの。
私がどんなに頑張っても40秒前後程度なのはそのせい。
つまり桜華が頑張れば、50m30秒も夢じゃないって事なのよ!」
羨望の対象でしかない巨乳で高身長のあかりよりも、自分が良いタイムを出せる可能性がある。
水泳でならあかりより優れている。
その事実が桜華のやる気に火をつけた。
「つまり、私の方が速く泳ぐのに適した体型をしているって事なんですわね?」
「簡単に言うとね。
実際には色々な条件が関わってくるでしょうけど、巨乳と貧乳の差はどうやっても埋められないわ」
50m30秒は初心者が目指すにはハードルが高過ぎる。
日本記録を目指す位の高いハードルである。
だが桜華は高い設定を設けられた方が燃えるタイプの人間だった。
「よぉし、やってやりますわ!
やってやりますとも」
とにかく褒めてもらいたいと言う渇望を抱えている桜華にとって、おだてるのが効果的なのは既に解っていた。
ココは何としてでも褒め倒してやる気にさせる。
あかりは桜華の怯えを止める為に全力を尽くした。
数時間後、あかりの指導により、桜華は仰向けの状態で大の字の形を取り水面に浮ける様にまでなっていた。
「OK。
大分身体が水を怖がらなくなっている証拠ね。
今日はこの辺りにしましょう」
「えッ、もう終わりなんですの?
もっと練習を続けたかったのに」
自分の実力が確実に上がっている事が解っていたからこそ、桜華は練習を止める事を嫌がる。
「私も寝てる間にしかこっちに来れないって豊が教えてくれたし、ぶっ続けで練習するのは却って危険なの。
幾ら死んでいても、体調が崩れたら嫌でしょ?
上がってきなさい」
「……はい」
渋々プールから上がってきた桜華の身体を、あかりがバスタオルで丁寧に拭く。
「楽しかったでしょ?
泳げる様になるって言うのが最終目標だけど……
まずは水と友達になるって事が大事ね。
水を恐れない。泳げる様になる為の近道だから」
「ええ、とっても」
屈託の無い笑顔を浮かべる桜華。
先程のだだのこね方と言い、本当に子供の様だとあかりは思った。
(そうよね……
桜華は高校にすら通った事が無い16歳の子供なんだもの。
子供の心を持ったまま大人の汚い策略に付き合わされて……
大変だったんでしょう)
自分よりもずっと綺麗な心を持っている。
あかりはそう思った。
誰かに色々言われてその度に心の中で反発してきたあかり。
目の前にいる少女は、そんな跳ねっ返りの自分とは違い素直に自分のアドバイスに従ってくれた。
(教えてもらったのは……
私の方かもしれないわね)
彼女が何故か無性に愛おしくなり、彼女の身体を抱き締めながら彼女の努力を労う。
「よく頑張ったわね、偉いわ」
「有難う。
そう言ってもらえるだけでとても嬉しいですわ」
血の滲む様な努力をしても、褒めてもらった事も労われた事すら無い。
ただただ機械の様に動き続け、それがお前にとって必要なのだと欺かれる日々。
地獄から解放され、桜華はようやく解放された。
ココは桜華にとって『あの世』では無く、彼女が求めていた日常だったのかもしれない。
プールが消え、だだっ広い空間だけが現れる。
「この白い部屋で生活してるの?」
「ああ。
望めば大体のものは出てくるからな。
本当は腹とか減らねぇんだけど食い物とか、あとゲームとかベッドとか。
睡眠を必要としない身体だけど、横にならねぇと疲れる時があってな」
水着以外の替えの服が無かった為、あかりはビキニ姿のまま豊と会話していた。
豊と桜華の方はいかにも死者と言う感じの純白の着物を身に付けている。
「本当は桜華の部屋も用意されてるんだけど、桜華は基本的に俺の部屋にずっといるよ。
俺も1人でいるのが嫌だから助かってるんだけどな」
「豊は太陽みたいな人ですわ。
話していると場がパッと明るくなって、華やぐんですの。
何時も雰囲気を和ませてくれる。
私も変に緊張する必要が無いのでそこは嬉しい所ですわね」
桜華が豊に後ろから抱き付き、満面の笑みを見せている。
(……うん、間違いない。
この2人、絶対一線は越えてる)
この距離の近さ、気の許し方は相当なものだった。
身体で繋がり合っていなければ、ココまでじゃれ合う事は無い。
あかりとしては少しだけ寂しい気持ちになり、また豊に裏切られた様な気分になったが言葉に出すのは控えた。
(私がアンタの事を思って泣いてる時にも、多分豊は桜華と……
でも、そういうものよね。
男と女って。
しょうがないかぁ……
それに私は豊の『恋人』じゃ無いからね)
恋人よりもずっと近い間柄の親友。
あかりは豊の事をそう表現する。
恋人になるとお互いの嫌な所が見えてきて、諍いも増える。
親友でいた方が長く続くし、より親密な関係を築ける。
そう思ったからこそあかりはその関係を貫いてきた。
桜華は恐らくそうでは無かった。
豊と結婚したいとすら思っている様に見える。
「桜華、私がこっちに来るまでは豊の事……
お願いね」
「そ、そんな。
お願いだなんて……
照れてしまいますわ」
あかりは確信した。
桜華は豊に対してベタ惚れしている。
完全に魂を奪われてしまっている。
あらゆる意味で正反対な性格の2人。
でも、人間なんだからそれが当たり前。
あかりは自分自身を納得させた。
(負けないわよ、桜華……
簡単には、アンタだけのものにはしてあげないんだからね)
あかりはまだ知らなかった。
実はライバルがもう1人いると言う事を。
そしてそのもう1人のライバルも、あかりがよく知っている人物で豊を深く愛していると言う事を。
その事実を知るのは、もう少し先の話になりそうだった。
明朝、目覚まし時計のボタンを押してむくりと起き上がったあかりは、夢の中で起きた出来事の内容を忘れていた。
あの世とこの世のルールに則り、現実世界において人が『あの世で体験した記憶』を保有する事は出来ない。
夢の中に戻れば思い出せる。
つまり、あかりは桜華と話した記憶も、豊と再会した記憶も失っていた。
(あれ……何だろう。
凄く楽しい夢を見ていた様な……
でも、どんな夢だったのか思い出せない。
気分が凄く高揚してる事だけは確かなんだけど。
写真を枕の下に敷く安眠法、比呂ちゃんにも教えてあげようかしら)
何故かは解らなかったが、頬に涙の跡があった。
夢の中で泣き、夢の中で笑ったのだ。
豊が死んでから陰鬱な気持ちで生きてきた自分の心に、光が差した気がした。
「じゃあ、今日も一日頑張りますか」
気分を切り替え、仕事に精を出す為あかりは大きく伸びをした。