滅んだ国で懸命に生きようとする人々の物語。
希望を信じなければ生きていけない。
内容としては自分の趣味も多々入ってますがね……
【2005年 12月31日 信国(しんこく) 北鮮省(ほくせんしょう)南部(なんぶ) 洪(ホン)家の農家】
洪(ホン)美子(ミジャ)は、物心がついた頃から孤独だった。
北鮮省と南鮮省の信国人が風習として行っている『激辛始(げきからはじめ)』に耐えられなかったからだ。
赤ん坊の頃から真っ赤に染まったスープや舌が痺れる程のキムチを食べさせ、舌を慣れさせる訓練。
殆どの信国人がそれをクリアする中、彼女はどうしてもその辛味を受け入れる事が出来なかった。
ノルマをこなす事が出来なかった者は『似非人(えせじん)』と呼ばれ同胞から差別される。
それは両親からも『出来損ない』扱いされると言う厳しいものだった。
「美子、ウチの馬に餌をやってこい。
お前にもそれ位の事は出来るだろう」
自宅でテレビを見ていた父親からそう言われた彼女は、何も言わずに立ち上がると外へ出て行く。
「あの子も他の子みたいにもう少し出来が良かったらねぇ」
「足と手があるだけマシだと思わないと。
我々の仕事を手伝ってくれるだけで充分さ」
馬を育て出荷し、馬肉業者に売る仕事を行っている洪家は、丸太小屋の様な家に住んでいた。
粗雑な作りの為丸太の隙間から風が入り、薪で周囲を暖める暖炉があっても非常に寒い。
外よりはマシと言う程度で、備え付けられていたテレビも『誰かのお下がり』である白黒テレビだった。
寒い日に馬の餌やりを行うのは美子の仕事だった。
彼女は今年13歳になったが、幼い頃から両親に労働を押し付けられている。
かなり強い風が吹いていると言うのに、まともな防寒着等買うお金は無かった。
「ホラ、御飯だよ」
信国の馬は主に食用として販売される事が多い。
甘草(かんそう)と呼ばれる糖分を含んだ藁とアルファルファと言う植物を与えて育てるのが信国での常識だった。
特にアルファルファは栄養分が豊富に含まれている為、甘草3、アルファルファ7の割合で与える。
馬小屋で大人しくしている十数頭の馬達に食事を与えるのはかなりの重労働だった。
甘草もアルファルファも軽いが、持ち運ぶ為にしゃがんでは持ち上げしゃがんては持ち上げと言う行為を繰り返す。
全ての馬に餌を与え終わる頃には、肩と腰に相当の負担がかかっていた。
「美味しい?
そう、良かった」
にこやかに笑っている様に見える馬の身体を撫で、労う美子。
彼女に育てられていると言う事が解っているのか、この馬小屋の馬達が彼女の前で暴れた事は一度も無かった。
彼女にしてみれば、農村地帯の牧歌的な風景と馬が数少ない友人だった。
他の村人達から『役立たず』の烙印を押され、誰も彼女と口をきかない。
暴力を振るわれる事は無かったが両親も彼女を全く愛していなかった。
単なる使い勝手の良い道具と言う認識で、仕事の命令以外の事を話す事は滅多に無い。
「美子!ココにいたのか」
馬小屋に駆け込んできた少年の姿を見て、美子の心はとても暖かくなる。
「楨(ジョン)、来てくれて嬉しいわ」
彼女と同い年の少年、尹(ユン)楨勳(ジョンフン)。
南鮮省北部に住んでおり、彼女とは幼い頃に知り合ってから頻繁に会っていた。
激辛始は南鮮省でも行われており、尹はそれに耐える事が出来なかった。
紅虎明命のリーダー、尹(ユン)昌浩(チャンホ)の次男として生まれた尹であったが当然彼は迫害されてしまう。
両親は長男を溺愛し、紅虎明命の次期後継者は長男が継ぐものだと皆に公言していた。
一方尹はまるで空気の様に扱われ、誰もが彼の事を無視して通り過ぎる。
孤独を抱えた2人が巡り合ったのは、ある意味必然だったのかもしれない。
尹は北鮮省に出向いた時たまたま美子と出会い、彼女の美しさに一目惚れしてしまった。
北鮮省と南鮮省には『個人一等主義』と呼ばれる、自分が最も優れており他の人間は全て劣っていると考える文化がある。
しかし村人や両親から無視されていた2人は、信国人では珍しくその思想に染まる事は無かった。
「最近はどう?
辛いものを食べられる様になったかしら」
「いやぁ、全然駄目。
水ばっかり飲んじゃうよ……
美子は?」
「私も。
多分神様が辛いものを食べれない身体にしてしまった気がするの」
差別される事が嫌で、何度も食べようとしては失敗した『辛い食べ物』。
今となっては2人とも諦めていた。
似非人と呼ばれる運命だったのだと受け入れていた。
「それにしても今日は寒いわね。
凍えてしまいそうな位」
「ああ、そうだね。
今日は冷えるよ」
美子は尹の態度が何時もと異なる事に違和感を感じていた。
しきりに空を見上げ、そわそわしている。
「どうしたの?
落ち着いていないみたいだけど」
「そう見える?
美子の顔がどうしても見たくなっちゃってさ。
本当は家にいなきゃいけなかったんだけど抜け出してきたんだ。
帰ったら大目玉だろうなぁ」
尹はそう言っておどけた態度を取り誤魔化した。
美子は思わず笑ってしまう。
「貴方って何時も面白いわね」
「楽しめる時に楽しまなくちゃ。
たった一度きりの人生なんだから」
尹はそう言って頭を掻いたが、再び空を見上げ不安そうな表情をしていた。
尹は美子の仕事を手伝った後、馬小屋の外に置かれていたベンチに腰を下ろした。
「俺が紅虎明命のリーダーである、紅虎(ホンフゥ)の息子である事は美子も知ってるよな」
「ええ、それがどうかしたの?」
美子もその隣に座り、尹の手を優しく握り締める。
「嫌でも聞こえてくるんだよ、色々な話が。
12月31日……今日が『決戦』である事。
そして万が一失敗した場合、何が起こるかと言う話とかがさ。
信国にいる天武日本の奴等はこの数日間で殆どいなくなってしまった。
俺達を見張っている自衛軍の連中もだぜ?
普通、考えられない事だろ」
尹の肩は僅かに震え、その顔には焦りが現れていた。
「俺は美子が好きだ。
心の底から大好きだ。
世界がもし壊れてしまったとしても、美子だけは絶対に助けたい。
そう思ってる。
今日は1日中、美子の隣にいるよ」
尹は歯をガチガチと鳴らし、頬には涙が滲んでいた。
「ねえ、何の話をしているの?
私に解る様に説明して頂戴」
彼のただならぬ気配を察した美子は、彼の身体を激しく揺さぶる。
「合衆国が『H2O爆弾』をこの国に投下する可能性が出てきた。
俺は空気の様に無視されているから、却って色々な情報を容易く得る事が出来るんだ。
そして12月31日が『Xデー』になる可能性が最も高い日だとも聞いた。
俺は準備をしてきた。
俺と美子が助かる道を懸命に模索し続けたよ」
美子は呆然とした後、さらに激しく尹の身体を揺さぶった。
「そんな大事な話を何故黙っていたの!?
村の皆に教えなきゃ」
「似非人の俺達の話を、奴等がまともに受け取ると思うか?
まず無理だ。
美子の親父や御袋だって一笑に付すだろうさ。
馬鹿がますますおかしくなったってな。
そんな無意味な事をするより、大事なのは俺と美子が生き残る事だろう」
一度握られた手を、尹はしっかりと握り返した。
「美子だけは、俺の話を信じてくれると思ったんだ。
こんな荒唐無稽な話をしても、嘘だと思わずに俺に付いてきてくれる。
違うか?」
その真剣な表情と目に浮かんでいる涙が、彼の『本気』を証明していた。
「……信じるわ」
美子は尹を強く抱き締める。
朝から吹き続けていた風は、午後になるとさらに強くなってきていた。
普段ならば、美子は馬に餌を与えた後すぐに家に戻らなければならない。
だが尹はそれを制止し、彼女を川の方まで連れていった。
「この川が良いんだ。
調べたが水深が5mもある。
底に潜っていれば何とかなるだろう」
川の近くは寒さがより強く感じられる。
尹は川の近くに置かれた透明な箱を指差した。
「数日前に俺が運び込んだものだ。
中に防寒着が入っている。
高級な代物でな……
南鮮省のショッピングモールに忍び込んで盗んだ」
「盗品なの!?」
驚き、咎める様な顔つきで美子は尹の顔を見つめる。
「今頃、盗まれた側は必死になって俺の事を探してるだろうよ。
でも盗みがなんだ。
俺は自分達の命を守る為に盗んだんだ。
命より尊いものなんて存在しない。
そうだろう?」
「それはそうだけど……」
美子がそう言った直後、遠くの空からかなり大きなエンジン音が聞こえてきた。
「ああ……やはり来たか。
来なければいいと思っていたけどな。
親父はしくじった。
皆しくじった。
もう一刻の猶予も無いぞ美子」
午後4時半。
合衆国は信国の近くで『その時』を待っていたのだ。
空母から出発した戦闘機の群れは、まるで空を覆う巨大な鳥の様だった。
「あれは何?」
「H2O爆弾を積んだ戦闘機だよ。
時間が無い。
俺の言う事を疑わずに従ってくれ。
この箱は頑丈だ。
水から衣服を守ってくれる。
箱の中には防寒着とバスタオルが入っていて、後で俺達が服を着るんだ」
言うが早いか、尹は大急ぎで服を脱ぎ始めた。
「な、何をしているの?」
「お前も服を脱げ。
恥ずかしいとか言ってる場合じゃ無い。
全部脱ぐんだ。
裸になったら靴も服も何もかも、着ていたものを箱の中に入れろ」
服を脱ぎながら、尹は数日前に長男から渡された『箱』の事を思い出していた。
「楨勳、お前にこの箱を渡しておく」
自宅でかなり大きな箱を受け取った尹は、コレが何の役に立つのか解らなかった。
「兄者、これは……?」
「一度しか言わんからよく聞け。
これはお前の命を救う為の箱だ。
もし12月31日に空を覆う黒い影が現れたら、この箱に着ているものを全て入れろ。
裸になったらその辺りの深い川に飛び込め。
30秒は息を止めておくと良い。
爆弾が落ちてきた時の保険だ。
父上は上手くやると思うが、万が一の為にな」
今までまともに口をきいた事の無い兄が、初めて発した言葉。
それは『似非人』と罵られながらも強く生きてきた弟に対する僅かな、本当に僅かな優しさだった。
「兄者、俺は」
「もう何も言うな。
俺は父上が殺されれば、責任を取らねばならぬ身。
だが似非人のお前まで俺と同じ道を辿る必要は無い。
何が何でも生き延びろ……
話はそれだけだ」
玄関で尹に箱を渡し、そのまま踵を返して出ていった尹の兄。
もう二度と、話すどころか会えない気がした。
透明な箱の中に服と靴、靴下と言った着ているものを全て入れしっかりと蓋をする尹。
美子は長い髪を強い風になびかせながら生まれたままの姿で震えていた。
「いいか、俺が飛び込めと叫んだら飛び込め。
思い切り息を吸い込んで、30秒は我慢するんだ。
飛び込んだ後はなるべく川底に近い所に移動しろ」
美子と尹はしっかりと手を繋ぎ、前に飛べば飛び込める程近い川べりに立つ。
「もう間もなくだ。
手を離すなよ」
「……裸で川に飛び込むなんて、子供の頃でも無かったわ」
子供の頃には生えていなかった陰毛。
胸の膨らみ。
美子は無邪気だった頃の自分を思い出し、あの頃とは随分変わってしまったと思った。
(楨も変わったわね。私と同じ様に)
気持ちの昂ぶりが身体に影響を与えているのか、尹の肉棒は皮が剥けて勃起している。
「空を見ていろ。
絶対に目を離すな。
あと数秒で投下するハズだ」
股間を逞しく膨張させながら真剣な表情を浮かべている尹の姿は、見ている分には相当滑稽な姿だった。
「落とした!
今だ、飛び込め!」
戦闘機の下腹部が開き、楕円形の物体が落とされる。
その瞬間に2人は川の底目掛けて飛び込んだ。
深く息を吸い込み、川の底へと潜っていく。
美子には地面がどうなっているのか、周りの状況等さっぱり解らなかった。
(苦しい、冷たい……
まだ我慢しなくちゃいけないの?)
(用心の為だ。
まだ浮かぶのには早い)
冬の川の中はとても寒い。
水温が5度か6度の水に潜っていると突き刺す様な冷えが襲ってくる。
とにかくすぐに楽になりたかった。
寒い。とにかく寒い。
早く陸地に上がりたい。
美子1人では屈してしまいそうな状況でも、尹は彼女を必死に留めた。
(そろそろ大丈夫だろう。
外に出るぞ)
尹は彼女の手を引いて顔を出し、すぐに川から上がる。
「さ、寒い!
さっきと全然違うわ」
「防寒着が必要なのはその為だ。
服を着るぞ」
地上が先程とは違う異常な状況に陥っているのはすぐに解った。
雨など降っていなかったのに、地面が水浸しになっている。
そして気温が大幅に下がった。
体感では数度は下がっている様に感じられる。
「よし、ちゃんと密閉出来ていたな。
助かった」
透明な箱を開け、中からバスタオルを取り出す尹。
「まずはこのバスタオルで身体を拭くんだ。
まだ急ぐぞ。
服を着たら雨から身を守れる場所に移動するんだ。
ショッピングモールが良い」
「ショッピングモール?
確か南鮮省の北にあるやつよね」
濡れた髪のまま身体を震わせている美子にバスタオルを渡した後、尹は頷いた。
「そうだ。
あそこは建物がしっかりしているから安全だ。
食料品もあるから生活はしていける。
暫くの間は世話になるだろう」
バスタオルで髪と身体を拭き、服を着た2人はさらにフード付きの防寒着を羽織る。
「俺が服を盗んだ奴とばれても構うものか。
どうせ街は混乱の極みにある。
生き残る事が先決だ。
急ぐぞ」
「ええ」
しっかりと服を着込んだ2人は手を繋いだ状態のまま走り出した。
結論から言えば、美子の両親や美子が世話をしていた馬は助からなかった。
H2O爆弾が着弾し、放たれる爆風に生物が触れてしまうとその生物は水と同化してしまう。
爆風は隙間さえあれば煙の様に侵入し、人や馬を一瞬で溶かしていった。
H2O爆弾の爆風から逃れる術は多々あるが、最も確実な方法が1つあった。
爆風は水そのものに触れると効力を失ってしまう為、水の中に潜っていれば良いのだ。
後は爆風が消えるまで水の中にいれば助かる。
確実に助かる方法はこれしか無かった。
南鮮省の北に位置している街は、すっかりゴーストタウンと化していた。
道を歩いている人間が全くいない。
ショッピングモールには明かりがついていたが、他の建物には殆ど明かりがついていなかった。
「H2O爆弾から逃れるもう1つの方法。
それは完全に密閉された建物の中に逃げ込む事だ。
ショッピングモールの中にいるのは恐らく買い物に来ていた客や従業員だろう。
まだかなりの人間が助かっていると思う……
問題はこの後だ」
「まだ、何かがあるって言うの?」
美子は怯えた表情を浮かべ、尹は彼女の肩に優しく手を添えた。
「自衛軍が再上陸するだろう。
そうしたら、誰よりも早く降伏するんだ。
変な事を考えちゃいけない。
抵抗するだけ無意味だ。
生き残れるか否かは『先着順』で決まる気がするからな」
H2O爆弾が投下された後……
この国の末路に関しても、尹はかなり信憑性の高い情報を掴んでいた。
テロリストは失敗した後の結果に関しても考えるものである。
特に尹の兄は計画が失敗する可能性は高いと思っており、あらゆる可能性を考慮していた。
「ああ、やっぱりだ。
結構いるぞ……生き残ってる奴等が」
ショッピングモールの中に入った2人は、吹き抜けになっている場所から人々の姿を見た。
2階や3階に人の姿が多く見える。
1階にいないのは入ってきた爆風により死者が出たからだろう。
「君達、外は大丈夫なのか!?
変な煙で人が溶けた。
一瞬で水に変わっちまったんだ」
「外に出ない方が良い。
H2O爆弾の爆風は消えているが、また投下される可能性は否定出来ない」
そう言いながらも、尹はH2O爆弾が再び投下される可能性は低いと思っていた。
(あの量の爆弾を投下するのには大変な費用がかかったハズだ。
合衆国も俺達を根絶やしにする為に相当無理をしたのかもしれないが……
もう一度落とすのは金の無駄だと考える。
生き残った者達が外に出ていくとは思わないだろうしな)
同胞が死んだと言う哀しみを抜きにして考えるならば、10億人以上いたであろう信国人が数十万人まで減ったと思われる。
特に都市部は壊滅的な被害が出ている可能性が高かった。
そして、これで終わりになるとは考えられなかった。
「暫く、ココに留まっていた方が良いのよね」
美子が尹に抱き付きながら耳打ちすると尹は何も言わずに頷き、エレベーターで2階に上がった。
ショッピングモールの中には数百名の生き残った信国人がおり、醜い争いも発生していた。
「この食料は俺の分だ!
手を出す奴はぶっ殺すぞ」
地下1階の食料品売り場で暴れている男を見ながら、子供を連れた夫婦は溜息をつく。
「そんなに食べられるワケでも無いだろうに……
なぁ、シャワーの順番はどうなってるんだ」
「酷いものよ。
一応女性を優先的にって話は出てるけど、皆列に割り込もうとして必死だわ。
あれじゃあ、浴びない方がマシかもしれないわね」
天武日本国でならまず見る事の無い、『個人第一主義』の弊害。
自分が優れていて、他の全ては屑と言う思想を持てば誰もが喧嘩を始める。
生き残る為に一致団結すると言う考えがあれば容易く解決する事も、全く解決出来ていなかった。
「交代で仮眠を取ろう。
2人が同時に寝たら寝込みを襲われてしまうかもしれない。
同じ国の人間でも信用する方が馬鹿を見る。
とにかく、この施設の死角を探さないと」
尹は人が入ってきたとしても襲われにくい場所を探す為、歩き続けた。
この国で女性が強姦される可能性は極めて高く、この危機的状況ではさらに確率が跳ね上がる。
美子はショッピングモールの中にあるトイレで寝る事を提案した。
「一方が鍵を閉めてもう一方が見張る。
デッキブラシみたいなものがあれば武器にもなるでしょ」
「ああ。
通路の奥にあるトイレなら尚の事いいな。
映画館の中にあるトイレにするか」
ショッピングモールの5階には映画館があり、映画館の入口付近とは別の場所にもトイレがある。
誰もいない事を確認した後、尹は備え付けられていたデッキブラシを手に持った。
「食べ物やシャワーの事はこの夜を無事に過ごしてから考えよう。
とにかく、子供だからって舐められない事が第一だ。
やばい奴が来たら死ぬ気で抗え」
「ええ、そうね」
このショッピングモール内に強姦魔になる様な男がいるのならば、寝込みを襲う可能性が高い。
かよわい女性がとくに狙われるであろう事を考えると、尹の責任は重大だった。
(俺も寝なきゃいけないけど……
朝方まで我慢するべきだろうな)
誰にも頼れない、孤独な戦いが幕を開けようとしていた。
地獄の様な3日間が過ぎた。
ショッピングモール内では諍いによる殴り合いの喧嘩や強姦未遂事件が頻発し、中には抵抗する事も出来ず犯される女性もいた。
尹はとにかく目立たない様にする事を心掛け、人の目につかない様最低限の食料を調達し最大限の注意を払う。
自暴自棄になって建物を破壊しようとする者、女性客にフェラチオを強要する元従業員……
平穏無事に過ごす為に精神を常に張り、心休まる時など殆ど無い。
3日目の朝を迎えた段階で、尹も美子も限界が近付いている事を感じていた。
「こんな状況が続いたら、私達も壊れてしまうわ」
「いや、ずっとは続かない……
解っているんだ。
これから何が起こるかと言う事は」
確証があるワケでは無い。
それでも、こうなるであろうと言う『未来』はおぼろげに見えていた。
天武日本国と合衆国が、信国人を生かしておくとは考えられない。
テロ事件を起こした『危険で野蛮な国』を消滅させる為、手を打ってくると思われた。
「運が良かっただけよ。
この3日間襲われずに済んだのは。
この世の地獄が目の前に広がっている。
昨日だって殆ど寝られなかったし……」
ショッピングモールのあちこちに、信国人の死体が転がっている。
強姦されたくない女性客が結託して椅子等で強姦魔を殴り殺したのだ。
元従業員、現犯罪者となった男も、休憩スペースの壁にもたれかかり無様な姿を晒していた。
「ねぇ、あれは何?」
両親に抱えられた小さな女の子が、窓の外を指差す。
5階の窓から見えたのは、この繁華街に向かってくる大量の戦車の姿だった。
整備されていない道を走る戦車が、土埃を散らしながら近付いてくる。
「天武日本国と合衆国の戦車隊だ。
やはり来たな」
尹は言うが早いか美子の手を取り走り出す。
美子は慌てて彼に尋ねた。
「何処へ行くの?」
「決まってるだろ。
あの戦車の所へ行くんだよ」
ダウンフォール作戦。
信国人を殲滅する為の戦車隊。
あの量では逃げても助からない。
女子供も関係無く殺される。
逃げても無駄であるならば、どうするべきか。
「兄者が言っていた。
『先着順』の可能性があると。
大量殺戮において、敵方が見世物にする為に生き残った者を少しだけ生かすと言う話を聞いたんだ。
過去、南方の国で民族が虐殺された時に4人だけ生かされたと言う先例がある。
逃げても殺される。
隠れていても殺される。
なら、賭けるしか生き残る方法は無い」
美子は尹の言葉を信じ、エスカレーターで5階から1階へと降りる。
周りの者達が怯える中、2人はそのまま外へと飛び出した。
「おいおい、あの子供達……
外に出て行っちまったぞ」
「無理も無い。
頭がおかしくなってしまったんだろう。
もうすぐ殺されるとなれば尚更だ」
ショッピングモールの中に残っていた客達は、そう言って2人を憐れんだ。
『子供の姿を確認。
男と女が1名ずつだ。
こっちに向かって歩いてくる』
『手を後ろに組んだ状態で歩いてくるぞ。
先頭にいる者が応対しろ』
戦車の群れに誰よりも早く近付いてきた尹と美子の姿を捉えた自衛軍は、一旦戦車を全て止めた。
一番先頭にいた自衛軍の兵士が戦車から降りてゆっくりと2人に近付いていく。
「子供と言えども妙な真似をしたら容赦無く撃つぞ」
兵士達は最新式の銃剣を構え、2人を囲む様に動いた。
「お前達の名前と、住んでいる省を正直に申告しろ」
「幸田(こうだ)楨治(さだはる)と申します。
南鮮省出身です」
「瀬川(せがわ)美奈子(みなこ)です。
北鮮省出身です」
信国では天武日本国の政府から『通名』が与えられており、自衛軍の兵士にはその名前を伝えなければならない。
当然母国の言葉は使ってはならず、天武日本の言葉を使う必要があった。
「2人共子供だが……
どうする、連行するか」
「いや、まだ拘束するな。
我々に対して敵意を持っていないかどうか調べる必要がある」
上官らしき兵士は2人の兵士に対して一歩後退する様に命じた後、2人に銃を向けた。
「拒否すれば撃つ。
今すぐお前達の着ている服を脱げ。
靴も靴下も全てだ。
脱いだら後方に放り投げろ。
全裸になったらもう一度手を頭の後ろで組め」
美子は一瞬尹の方を向いたが、尹が躊躇する事無く上着を地面に投げた為彼女もそれに倣った。
日が出ているとは言え1月の気温は数度しか無い。
本当は胸や陰部を隠したかったが、生き延びる為には兵士の命令に従う他無かった。
「脱ぎましたね。
我々に反抗する意思は無い様に見えますが」
「油断するな。
相手はクーデターを企み我が国を滅ぼそうとした国の人間なんだぞ。
隠せる部分があるのならば、調べなければなるまい。
そのままじっとしていろ」
兵士は部下からゴム手袋を渡されるとそれを装着し、2人の部下に銃を構えさせる。
「これも仕事だ……
許せ」
至近距離まで近付いた兵士の手が、手首ごと膣の中に潜り込んでいった。
「いッ……かはッ」
何かが千切れる様な感覚が美子の身体を襲う。
膣奥まで到達した腕が抜けると、ゴム手袋にはかなりの量の血が付着していた。
「処女だったか。
悪く思うな……
昔、膣の中に手榴弾を隠していた女がいてな。
それで1台の戦車と可愛がっていた部下が4名犠牲になった。
女は特に気を付けねばならん。
よし、手錠をはめて連行しろ」
鮮血が滴り落ちる下腹部。
泣き喚きたい程の激痛が美子に襲い掛かっていたが、尹の顔を見て何とか思い留まった。
(物扱いされる事を覚悟するんだ、美子。
俺達はこれから本当の意味での『似非人』となる。
人間扱いされるなんて期待するな。
生きているだけで幸運だと考えなければ)
美子は歩くのもやっとと言う状態だったが、尹も手錠をはめられていた為助ける事は出来なかった。
「毛布だ。羽織れ」
少し離れた場所にトラックが待機しており、2人はそこで別の兵士から毛布を渡された。
何とか手錠を付けたままの状態で毛布を身体にかけると、兵士と共にトラックの荷台に乗せられる。
「南鮮の『5人』のうち、2人が選ばれたか。
随分と早かったな」
「誰よりも早く投降してきたんだ。
俺達の計画を知っていたかの様にな……
ま、知っていたからと言って騒ぐ程の事でもあるまい。
俺達は与えられた仕事をこなそう」
座った後、トラックが動き出し別の場所へと進んでいく。
美子は下腹部の痛みに耐え切れず歯を食いしばったままの状態で涙を流していた。
(こんな、こんな形で初めてを失うなんて。
誰とも知らない男の手でなんて……)
屈辱と哀しみで押し潰されそうになる心を、目の前にいる尹が必死に支えていた。
「羞恥心も敵愾心も、もう何の役にも立たない。
俺達は機械になるしか無いんだ。
それがこの先俺達が生きていく為の唯一の方法だ。
石になれ、道端の石ころに」
尹の言葉がナイフの様に突き刺さり、美子の心を抉る。
(解っているの。
貴方が私の事を思ってそう言ってくれている事は。
でも……悔しいじゃない。
こんな仕打ちをされてまで耐えなきゃならないなんて)
女性にとって初体験と言うのは、当然大切なものであり守るべきものである。
心から好きになった相手に捧げようと思っていたものが失われるのは身体の痛み以上に心が痛む事だった。
「ココは……
そうよ、北鮮省の工場だわ。
確かアークラインズのゲームハードやソフトの部品を作る為の」
「おい、何を喋っている。
我々の前では常に天武日本の言葉を使え。
それ以上信国の言葉で喋ると、叛意ありと見なすぞ」
尹は兵士と対峙してからずっと天武日本語を用いていたが、美子はつい母国語を口にしてしまった。
「すいません、これからは気を付けます」
「あの工場の内部には常に監視カメラが備え付けられている。
風呂場やトイレも例外では無い。
天武日本語で喋る事を常に頭の中に叩き込んでおけ。
我々に常に見られていると言う事も」
プライバシー等存在しない。
その宣告は辛いものだった。
トラックの荷台から降ろされ、全裸のまま引き摺られる様に連れていかれる2人。
工場の入口には別の兵士が待機しており、彼に先導される形で工場の中へと入る。
「この工場は元々、『この時』が来た後の事を想定して作られている。
天武日本人だけをこの工場の中に入れていたのはその為だ。
さぁ、こっちへ来い」
長い廊下の先にある突き当たりの扉を開けると、そこには刑務所さながらの光景が広がっていた。
「1つ聞く。
正直に答えろ。
お前達は恋人関係にあるのか?」
「はい、そうです」
友達です、と言わずに尹はそう答えた。
その質問がどういう結果を生むか気付いている様だった。
「お前達はココに入れ。
暖房が入っているし、毛布があるから風邪を引く心配は無い。
服は我々が『着ろ』と言ったら着ろ。
基本的にこの部屋の中では裸でいてもらう」
人間扱いをしないと言う『宣告』であると同時に、脱走を難しくする為の措置。
そして一緒の部屋に2人だけで入れられたのは兵士達なりの優しさだった。
「この部屋にいる時も母国語は使っちゃ駄目だ。
あの監視カメラが見えるだろう」
手錠を外され、鉄格子のある部屋に閉じ込められた後尹はそう言って天井を指差した。
部屋の中には毛布と椅子が2つ。
そしてトイレに繋がる扉がある。
「昼も夜も俺達を見張っている。
死は免れたとは言え、奴等にとって俺達が危険人物である事に変わりは無い」
「そんなに恐れる必要があるって言うの?
私達は素っ裸の子供なのよ。
一切のプライバシーを許さないみたいだし、息が詰まってしまうわ」
美子がこれではショッピングモールの中にいたのと変わらないと言わんばかりに愚痴を吐いた。
その直後、別の子供の声が壁越しに聞こえてくる。
「プロフェッショナルは、無防備な人間ほど用心するものさ。
武器に頼っている様な奴はその武器を叩き落とせば無力化出来るが、武術の心得がある人間ならそうはいかない。
女の方、膣に手を突っ込まれただろう。
黒龍省でそういう馬鹿な事をする奴がいたんだ」
子供にしてはドスの効いた、それでいて僅かな繊細さを感じさせる様な声だった。
「アンタは?」
「黄崎(きざき)明(あきら)。
黒龍省から連れてこられた。
天武日本語でさえあれば世間話はしても構わないと言われてるし、どんどん話そうぜ」
元々黒龍省と南鮮省・北鮮省では母国語が異なる為、天武日本語でしか会話が出来ない。
「俺は幸田楨治。
アンタも『先着順』に気付いていたのか?」
「ハッ、なんだお前もか。
俺の親父は雷神会のボスでな。
マフィアってのは情報があれこれ入ってくるんだよ。
ある事無い事……
情報を精査して、一番信憑性の高い情報を信じた。
それだけの事さ」
黒龍省はマフィアが支配する地域である事を尹は人の会話を盗み聞きして知っていた。
信国の子供達が集められ、この場所に連れてこられるのだろう。
彼はそう思った。
信国は明の時代に織田信長によって支配された後、10の地域に分割された。
朝鮮半島であった南鮮省と北鮮省。
そして明国であった蒙古省(もうこしょう)、黒龍省(こくりゅうしょう)、安寧省(あんねいしょう)、一統省(いっとうしょう)、雲雀省(うんじゃくしょう)、禍福省(かふくしょう)、青海省(せいかいしょう)、四川省(しせんしょう)の10箇所である。
10の地域は文化的な違いこそあったが天武日本によって統治・運営されている事実は覆らず、国民は高い税金に苦しんでいた。
その辛い現状を打破しようと動き出したのがテロリスト達であったが、結果はさらに悲惨なものとなってしまったのである。
「それにしてもその話を聞いた時、その女の肝っ玉の太さに感心したね。
膣の中に手榴弾だぜ?
もし膣の中で安全ピンが抜けたら自爆するだろ。
その女の立場だったとしても俺ならまずやらないね。
リスクが高過ぎる」
「4人が犠牲になったって聞きましたけど」
美子は俯いたまま拳を握り締めそう言った。
自分が辛い目に遭う要因となった事件の真実を知りたかったのだ。
「膣の中から取り出した後、安全ピンを抜いて戦車の中に投げ入れた。
俺はそう聞いてる。
女は撃たれて死んだけど、戦車一台は木っ端微塵。
巡回中の自衛軍が犠牲になった」
美子はその話を聞き、やっと心の整理がついたと言わんばかりの表情を見せる。
「そういう事ですよね。
その殺し殺されの連鎖が、遂にこの悲劇を招いてしまった。
どんどん規模が大きくなって……
最終的には虐殺にまで至ってしまった。
虚しい事です」
「ジャンボジェットが落とされた事件。
あれが不味かったな……
あれで織田政権の怒りの導火線に火が付いた。
クーデターが決定打になったのは変わらないだろうが。
俺達からしたら良い迷惑だよ。
紅虎明命の奴等、後先考えないで行動するもんだから」
黄崎と名乗った少年、黄(ホァン)天明(ティエンミン)はそう言うと溜息をついた。
「俺が代わりに謝るよ。
俺の親父は紅虎明命のリーダーだったんだ」
「……お前が『先着順』に気付けた理由はそれか。
気にするなよ。
直接企てに関わったワケでも無いんだろ?
俺は運が悪かったと思って諦めてる」
他人からそうやってフォローしてもらえる事が、尹にとっては最も嬉しい事だった。
「有難う。
俺の心が少しばかり救われたよ」
「なぁに……
これからは運命共同体だ。
仲良くやろうぜ。
多分、この工場で働かされるんだろう。
その時にお前の顔が解ると良いな」
結局その日働く作業は無かったが、面通しの機会はあった。
1日の間に50名の『捕虜』となった少年少女が揃って食事を取ったのである。