※この作品はR-18です。

ZERO ~格闘ゲームに翻弄される者達~   作:夜月光介

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前にも書きましたが、承認欲求を満たしたい人間が
あの世では絶対にそれを満たせないと解った時、何もかも
嫌になって投げ出したくなると思っています。
それは綾小路巴や桜華だけでは無く、天国にいる多くの
人間がそうです。性欲に溺れるか
転生するかの二択でしょうね。


あの世の番外編 月明かりに照らされて 後編

『いいか。

 お前は100%非の打ち所の無い人間を目指すのだ。

 解ったな?』

 

 夢を見ているのだろうか。

 豊に貫かれていたはずの桜華の目の前に、綾小路獅子王が立っている。

 ドレスも何も着ていない素っ裸の状態で、桜華は歯を食いしばった。

 

「……五月蠅い」

『何!?

 この私に反抗するのかお前は』

 

 獅子王との体格差は16歳の身体でも明らかだった。

 まともに戦っても勝ち目は無い。

 拳が相手の手に届きもしない。

 

「御父様、私は人間なんですわよ。

 そして、御父様も人間。

 機械でも無いのに100%なんて非現実的にも程がありますわ。

 私は御父様の思いのままに動く操り人形では無いんですのよ。

 ……今まではそうだったかもしれませんけれど、これからは違う」

 

『お前如きが、私に勝てると思っているのか』

 何時の間にか、獅子王の手には鞭が握られていた。

 

『もう一度、躾けてやらなければな』

 獅子王が鞭を振るう為に手を上げた瞬間、桜華は叫び声を発しながら獅子王の足に向かって突っ込んでいく。

「ああああああ!!!」

 怒りと憎しみ、そして哀しみ。

 

 生きている時には一切する事が出来なかった抵抗を、今自分がしている。

 桜華は力の限り走り、鞭が振れない足元にしがみつくと獅子王を押し倒そうとした。

 

『馬鹿め、お前1人で何が出来る。

 お前は私の野望を成就させる為に動いていればいいのだ。

 それ以外の人間らしい感情など何の意味も無いと言う事を教えてやろう』

 鞭を手から離し、桜華の長い髪を掴む獅子王。

 

 その時、もう一方の足にしがみつく女性が現れた。

「桜華御嬢様の決心が固いのであれば、私がお手伝い致します」

「妖!」

 そして獅子王が手から放した鞭を拾い上げ、獅子王の背中に何度も鞭の先端を当てる女性。

「姉様から離れろ、この化け物!」

 

 獅子王は激痛に耐えながら2人を引き剥がそうとするが、2人は足を掴んだまま決して離れない。

 やがて獅子王は、悪鬼の如き表情で彼女達を睨み付けながら消えていった。

 

『お前がこの私に背いて、何処へ行こうと言うのだ。

 逃げる事ならば何時でも出来たハズだろう。

 所詮お前は1人で生きていく事すら出来ん女。

 金を持って国外逃亡。

 そうしようとすれば何時でも出来たのにお前にはそれが出来なかった。

 苦痛に耐える事しか出来ないお前に、たった1人で立つ事等無理と知れ』 

 

 死んでも、夢を見るものなのか。

 桜華はそんな事を考えながら意識を取り戻した。

「桜華、凄ぇ良かったぜ……」

 気付けば、豊が身体を震わせながら桜華の膣内に精液を吐き出している。

 口の中にもむせかえる程の匂いを放つ粘液が放たれていた。

 

「桜華はん、夢中でウチのチンポしゃぶってくるんやもん。

 やっぱり、見た目年端もいかん女の子に咥えさせとると思っただけで興奮するわぁ」

 肉棒が痙攣し、その度に白濁液が彼女の中に注ぎ込まれる。

 桜華が握っていた和枝のペニスを口から離すと、透明な粘液が自然と口から零れ出ていった。

 

 (私には、苦痛から逃れようとする『覚悟』が無かった……

 そう言われれば、それまでですわね。

 お金はあるのだから、やろうと思えば国外逃亡も出来た。

 でも、それが出来なかったのは……)

 

 桜華の心に巣食っていたのは、普通の人間の比では無い『承認欲求』だった。

 子供の頃から己を否定され、虐げられてきた彼女にとって、人に褒めてもらう事だけが喜びであり存在意義。

 人から認められなければそれは人間では無い。

 そういった偏った思想が彼女自身を歪ませてしまった。

 

 逃げても、彼女の心は満たせない。

 拍手を受ける事こそ人生の喜び。

 そしてその目的が永遠に果たせない事が決まった為に桜華は壊れてしまった。

 母親が肉欲に溺れている現状も、今ならば理解出来る。

 

 巴も人から認められなければ生きていけない人間だったのだ。

 もしかしたら、身体を好き勝手に使われている時こそ彼女は喜びを感じているのかもしれない。

 

 (御母様は、男達に必要とされている事に喜びを感じている……

 勿論、それは私と同じ様に逃げでしか無い。

 それが解るまでに、時間がかかり過ぎましたわね。

 私も御母様も、そろそろ目を覚まさないと)

 

 豊に必要とされている事は嬉しい。

 だが、それだけで満足している事が虚しかった。

 自分がやってきた事は決して無駄では無い。

 それを証明したい。

 現世に自分の足跡を残す事は出来ない事は解っていたが、桜華は諦めたくない自分に気付けたのだ。

 

「……豊は、私の事を愛しているんですの?」

 身体を起こし、自分と同じ様に全裸のまま座り込んでいる豊に向かって、桜華はそんな言葉を投げかける。

「人を愛するってどういう事なのか、俺には今も解らねぇんだよ。

 愛ってものが不確かで、簡単に消えるものだってのは自分自身が間近で見て一番よく知ってるからな」

 その近くにいた和枝も、『愛』がどういったものなのか判然としなかった。

 

 相手と性行為をしたいと思う事=愛では無い。

 両性具有者は性欲だけが先行して、相手に愛情を注ぐ事が出来なかった。

 

「……桜華はんが『愛されている』と思えば、それは愛と違うん?

 豊はんが愛と思っていなくても、愛と受け取れば愛やと思うんや。

 一方的な愛を向けても迷惑になる事もあるしな。

 全ては自分がどう感じるかやろ」

 

 和枝も咲を愛していたからこそ彼女を全力で守っていたが、咲は自分を愛してくれていたのだろうか。

 セックスばかり要求する和枝を疎ましく思っていなかっただろうか。

 かつて和枝自身もそう思った事がある。

 真相は恐らく、咲が死んでも解らないだろう。

 

「高望みしないのが幸せに生きていく為のコツだと、豊が前に言っていましたけれど……

 愛も案外、そんなものなのかもしれませんわね」

 

 愛されている様な気がする。

 そんな程度で、充分なのかもしれない。

 桜華はそんな事を思いながら、後ろから豊をそっと抱き締めた。

「もう一度、御母様に会いに行きたいのですけれど、一緒についてきてくれますわよね」

「ああ、俺がしてやれる事はするよ」

 

 肯定も否定もせず、ただありのままの自分を見てくれる豊。

 心の何処かで、そういう人間を望んでいたのかもしれない。

 桜華はそう思った。

 

 短時間だけとは言え『男性的な獣の感覚』に浸る事が出来た桜華は、精神的な変化を感じていた。

 怯える事しか出来なかった桜華に芽生えた、『強引さ』と『力強さ』。

 言いたい事を堂々と言える『覚悟』を胸に、彼女は再び母親のもとへ向かう。

 豊も桜華がしたい事を知り、それに賛同した。

 

 (桜華にとっても、母親の存在が救いになってるんだろうな。

 アイツが苦しかった時、励ましていたのが母親だって言うんだから。

 昔の様に輝いていてもらいたいと言うのが、本音なんだろう)

 白い着物を身に纏っているのは普段と変わらなかったが、桜華はバイオリンを持参していた。

 

「御母様」

 綾小路巴は『自宅』に男達を招き入れるだけで無く、『外』で輪姦されている事もあった。

 肉欲に溺れ娘の接近にすら気付かなかった巴であったが、慌てて我に返る。

「桜華、来てはいけないと言ったでしょう」

 股間に刺さっていた肉棒を抜かせた後、立ち上がる事も出来ず巴は肩で息をしていた。

 

 集まっていた男達は何事かと怪訝な顔で2人を見つめていたが、それでも桜華は怯まず声をかける。

「私は、御母様に昔の輝きを取り戻してほしいんですの。

 私だって、自分の輝ける場所を失って自暴自棄になっている御母様の気持ちはよく解りますわ。

 もう現世で成功を収める事は二度と出来ないと言う哀しみが」

 巴はふらつく足で何とか立ち上がると、涙を流しながら声を荒げた。

 

「それが解ると言うのなら、私の事を何故放っておいてくれないの!

 私自身が音楽の世界でトップに立つ夢も、手塩にかけて育てた娘をトップに立たせる夢も絶たれてしまった。

 私が今更バイオリンに触れた所で何も変わらない。

 私の傷をこれ以上広げないで頂戴」

 

 こんな時欲情を覚える自分が情けない。

 豊はそう思っていたが巴はとても美しかった。

 恐らく、桜華にとって母親は理想の存在なのだろう。

 

 バイオリンの技術も、顔も、スタイルも全て彼女を上回っている。

 こんな女性が股を開けば、男達が群がらないワケが無い。

 巴はそれ程の美貌を備えていた。

 

「私も、最初は何も変わらないと思っていましたわ。

 現世に何も影響をおよぼす事が出来ない、今の自分には何の価値も無いと。

 でもそうでは無かった。

 私は豊と、豊と共に歩いてきた沢山の方々の過去と向き合って、もう一度歩き出そうと思えたんですの。

 この意識の変化が、この世に関われない事は百も承知。

 私の心に、勇気の灯が点いただけ……」

 

 巴の知っている桜華は、父親に虐待されていた事もあり常に相手の顔色を窺う少女だった。

 他人には尊大な態度で自分の弱さを隠そうとするが、身内にはその弱さを曝け出してしまう。

 今彼女の目の前に立っている桜華は、目を逸らす事無く真っ直ぐに彼女の顔を見つめていた。

 

「どんな人間にも、輝ける場所があって、輝いている瞬間が最も美しい。

 私は御母様の事を愛していますわ。

 バイオリンを愛し、一番になる事を夢見た御母様の事が。

 その後姿を見ていたから、私はどんなに辛い事があっても頑張れた。

 御母様と同じ夢を見て、実現したいと言う目標を共有していた。

 無茶な願いなのは解っていても、御母様には立ち上がってほしいんですの」

 

 美香が桜華を神聖視している様に、桜華は巴の事を神聖視していた。

 自分よりもずっと優れた、天才と呼ぶに相応しい技量。

 美貌もスタイルも、勝負にならない。

 

 母親に憧れ、追い越したかった。

 桜華にとって母親は『もう1人の自分』の様なもので、巴にも諦めずに前を向いてほしいと思ったのだ。

 巴が自分の愛する母親の一面を取り戻した時、桜華自身も救われる様な気がしていた。

 

「……私はね、貴方が思っている程綺麗な女じゃ無いのよ。

 残念だけど」

 巴もまた、桜華の前では『完璧な母親』を演じていた。

 桜華を一流に育て上げる為には、それも必要な事だったからだ。

 

「思い出すわ。

 家が貧乏で、何とか汗水流して働いて数万円のバイオリンを購入した日の事を。

 スクールに通うお金も無くて、自己流で勉強して路上で弾いていた時の事を」

 

 どん底から抜け出したい。

 巴は自身の才能に全てを賭けた。

 学生時代から、音楽教師に『磨けば光る』と言われた音楽の才能を研ぎ澄まそうと研鑽を重ねてきた。

 路上で大勢の通行人から拍手を貰っていた所に、綾小路獅子王が現れたのだ。

 

「そんな私を、あの男が拾ってくれた。

 お互いに打算しか無い結婚だった。

 私にとってのメリットは金銭の援助と圧倒的な知名度。

 一流の講師を招いてレッスンを受ける事で私の演奏技術は飛躍的に向上した。

 そして『綾小路財閥の後ろ盾があるバイオリニスト』と言う箔が付いた事で私の演奏を聴く人も増える。

 話題性は充分。

 才能があっても知名度で埋もれていく演奏家も多い中、私は何とか救われた」

 

 巴は生まれて初めて娘の前で『娘の模範である母親』の仮面を捨てて、本音をぶつけた。

 虚飾を纏った言葉では、娘が納得してはくれないだろうと思ったからだろう。

 

「獅子王にも当然メリットがある。

 私と寝る権利を得て、財閥の跡取りを産む為の道具として扱われた。

 世間が財閥に対して好感を抱く為の駒としていずれは使い捨てられる運命だった。

 メリットが無くなれば、容赦せずに切り捨てる。

 有益か無益かで判断するあの男にしがみ続ける為には、私も貴方を利用するしか無かったのよ」

 

 巴の頬に涙が伝った。

 桜華も目に涙を浮かべながら母親の『告白』に耳を傾ける。

 

「本当は、私の愛娘である貴方に対して当たり前の愛情を注いであげたかった。

 遊園地に連れて行ってあげるとか、アイスクリームを食べさせてあげるとか、寝る前に本を読んであげるとか。

 バイオリンを弾かせる事より、大切な事が沢山世の中にはある。

 解っていたわ。

 そんな事私自身が一番よく知っているの。

 私は、あの人に捨てられれば極貧生活に逆戻り。

 貴方を育てるお金も無い。

 そしてあの人はありとあらゆる手を使って貴方の親権を獲得し、私を地獄に落とすでしょう。

 だから……

 私は私の幸せの為に、貴方を犠牲にするしか他に手が無かった」

 

 年端もいかない少女が『バイオリンなんか弾きたくない』と泣き出すのは当然の事。

 巴はそれでも無理やり立たせて彼女を音楽家として育てようとした。

 全て今となっては言い訳にしかならないが、それがあの時注げた唯一の愛情だったのだ。

 

「バイオリンを捨てた理由は、現世でスポットライトを浴びる事が出来なくなったからだけじゃない。

 バイオリンに触れたら、貴方の苦しむ顔や泣いている顔が頭の中に嫌でも浮かんでくる。

 私はもう、貴方のそんな顔を思い出したくなかった。

 獅子王と私の我儘で、私達は貴方を不幸にしてしまった。

 私が死んだ後の事だってずっと見ていたわ。

 私の教え方がもっと良ければ、貴方が精神的に追い詰められて自殺する事は無かったかもしれない。

 バイオリンはもう、私にとって『苦痛』でしか無いのよ!!」

 

 全てを吐き出した。娘に言いたくない事を全て伝えた。

 桜華がもう二度と、自分の前に姿を現さない様に。

 巴はその覚悟を持って本性を露わにしたが、それでも桜華は動じなかった。

 

「……御母様にとって、私に見せてきた姿が『虚像』であったとしても、私がその背中を見て育った事は間違いない。

 御母様がバイオリンを弾く姿が私の憧れであり、理想の姿だった。

 私がそうあってほしいと思う願いは、バイオリンを華麗に弾く御母様が自分を取り戻す事。

 バイオリンへの情熱は決して消えてはいないと信じていますわよ……

 ただ、自分に嘘をついているだけ。

 御母様がバイオリニストとしてもう一度立ち上がる姿を私は見たい。

 それが、偽りの無い本音ですわ」

 

 バイオリンと弓を巴の眼前に突き出し、桜華も怯む事無く本音で母親とぶつかり合った。

 自分が『騙された』と感じた事など一度も無い。

 寧ろ今でもそれが真実の姿だと信じている。

 心から思っている気持ちを素直に伝えた。

 桜華が見てきた巴の姿を取り戻してほしいと。

 

 暫く押し黙りバイオリンを見つめていた巴であったが、やがて根負けしたと言わんばかりに首を横に振った。

「全く、育て方を間違えたのかしら。

 私はそこまで貴方を頑固な女にしたつもりは無かったのに。

 1回だけ、貴方が知っている『綾小路巴』に戻ってあげるわ……

 満足したら、帰ってくれるわよね」

 

 桜華が頷くと巴は首元にバイオリンを添え、もう片方の手で弓を持ったまま男達に視線を向ける。

「少しの間、待っていて頂戴。

 すぐに終わるから」

 

 先程まで獣の様に喘ぎ快楽に溺れていた巴であったが、この瞬間彼女は演奏者としての顔を取り戻していた。

 身体は火照り、膣内に射精された感覚が残っていたがそれを全く表に出す事無くバイオリンと真剣に向き合う。

「……エリック・サティの『ジムノペディ』第1番」

 巴はそう言った後、静かではあるが力強さを感じさせる音色を奏で始めた。

 (生前、御母様が最も得意としていた勝負の一曲……!)

 

 何度聴いた事だろう。

 そして、何度自分が演奏した事だろう。

 数え切れない程練習し、ようやく弾ける様になった日の記憶が、桜華の頭の中で鮮やかに蘇った。

 

 母親らしい事を、娘に何一つしてやれていない。

 そう思っていた巴が行ったたった一度の抵抗が、この『ジムノペディ』だった。

「もっと早い、アップテンポの曲の方が観客の度肝を抜くだろう。

 演奏技術の高さを示せるハズだ。

 この曲に固執する必要が何処にある」

 

 脅しに近い形で獅子王は何度も曲の変更を迫ったが、それでも巴は屈しなかった。

「この曲はサティの『最高傑作』とも呼ばれている名曲。

 静かな曲調の中で如何に力強さを表現出来るか。

 今度の発表会もジムノペディで勝負させてもらうわ。

 これだけは絶対に譲れない」

 

 自分はこの曲で聴衆を圧倒している。

 実際に高い評価を得ている。

 彼女には強気な態度に出れるだけの理由があった。

 獅子王は暫くの間苦虫を噛み潰した様な顔で巴の顔を睨み付けていたが、やがて獅子王の方から視線を逸らす。

「……勝手にしろ」

 

 お前は所詮使い捨ての人形だ。

 獅子王は背中でそう語っている様に見えた。

 巴も相手からそう思われている事は充分理解していたが、使える限り獅子王は自分を重用する。

 実力で相手を黙らせるしか無い。

 彼女は『桜華の為に』練習を再開した。

 

 幼い頃から僅かな間しか眠る事を許されていなかった桜華の為に、自分がしてあげられる事。

 それが『子守唄』代わりのジムノペディであり、桜華の心にこの曲はしっかりと刻み付けられていた。

 (御母様。

 やっぱり御母様の演奏技術には追い付けていない。

 人の心を鷲掴みにして揺さぶる様な、訴えかける様な演奏を私もしてみたかった)

 

 模倣と言う点においては、桜華もこの曲を華麗に弾きこなす事が出来る。

 しかし目に見えない『気迫』や『情熱』を込める事は彼女にはどうしても出来なかった。

「すげぇな」

 

 クラシックと言うジャンルにおいては素人である豊も、月並みな感想を述べる事しか出来ないながらも感動していた。

 曲を聴いている間に、自分の辛かった過去が頭の中に蘇り自然と涙が零れる。

 それと同時に、幼い頃燃える様な赤い空の下で遊んでいた頃の美しい情景が浮かんでいた。

 

『どうよ、結構アタシリフティング上手いでしょ。

 ココでパス!』

『おいおい、突然蹴られても通るワケ無ぇだろ。

 しょうがねぇな……』

 

 明日は何をして遊ぼうか。

 あかりとそんな事を言い合っていた無邪気な少年時代。

 剥き出しの感情だけが残り、押し寄せて来るその波を抑え付ける事など誰にも出来なかった。

 

 (持って生まれた才能と努力で、こんなにも俺達を泣かせる事が出来るのか)

 気付けば巴の相手をしていた男達も涙を流している。

 豊の隣にいた桜華もまた、頬に大粒の涙が伝っていた。

 冷静に考えてみれば、異常な状況である事は間違いない。

 巴は全裸のままバイオリンを演奏しているのだから。

 

 それでも圧倒的な実力で巴はその異様さを消し飛ばしていく。

 キラキラ光る美しいドレスを着て演奏しているかの様な、堂々とした立ち居振る舞いだった。

 

「俺、こんなに泣いたの久しぶりですよ」

「バイオリニストだって事は知ってましたけど、ここまで感動するとは思いませんでした」

「他の奴にも聴かせてやってくださいよ。

 俺達とセックスしてるだけなんて宝の持ち腐れだ」

 

 巴と同じ様に心を病み、性行為でしか自らの傷を覆い隠す事が出来なかった者達が『もっと演奏してくれ』と訴えている。

 セックス以外の興味など失っていたハズの男達が褒めちぎる程、巴の演奏は素晴らしいものだった。

 

 (……忘れてしまっていたわ。

 随分昔に過ぎ去った日々の記憶。

 演奏会で皆が立ち上がって、涙を流しながら割れんばかりの拍手で私を讃えてくれた時の事を……

 出来れば、ニューヨークで大勢の聴衆からそうやって拍手と喝采を浴びたかった)

 

 巴の中の時計は、そこで止まってしまっていた。

 ニューヨークでの大演奏会。

 衰えを感じていたとは言え、数々の演奏を聴いてきた兵達の耳を満足させる様な演奏をしてみせる。

 その最後のチャンスすら与えられなかった事で、彼女は壊れてしまった。

 桜華と同じ様に、人から認めてもらいたいと言う欲求は永遠に叶わないものとなってしまったからだ。

 

 現世では『悲劇のバイオリニスト』と呼ばれ、生前の演奏を収録したCDがそこそこの売り上げを記録する。

 綾小路財閥崩壊後は『国家の根幹を破壊しようとしたA級犯罪者の関係者』と言う烙印を押され、CDの販売そのものが禁止された。

 演奏家として終わった人間。

 それが巴を底無しの暗黒へと引き摺りこんでしまう。

 桜華も同じ様な思いを抱いていたが、『自分のすべき事』をやっと思い出せたのだ。

 

「御母様、今の御母様なら、常に最高のクオリティで演奏を行う事が可能ですわ。

 私は、性欲に溺れる事を否定するつもりはありませんの。

 私だって、同じ様な事をしていましたものね……

 でも、全てを諦めてそれまでの歩みを否定してしまう事は御母様自身の人生そのものを否定してしまう事と一緒ではなくて?」

 

 桜華自身の為に、桜華が憧れて、目指していた存在であってほしい。

 自分をバイオリンと言う楽器で導き、道を指し示していた頃の母親に戻ってほしい。

 桜華は母親を抱き締めながら、感情に逆らう事無く泣きじゃくった。

 バイオリンなど弾きたくないと駄々をこねてしがみついていたあの頃と同じ様に泣いている。

 

 娘の見せた剥き出しの感情が、今まで忘れようとしていた『理知的な自分』を蘇らせた。

「……いくつになってもそういう所は変わらないのね、桜華。

 私が側にいた時よりも、見た目は大きくなっているのに」

 

 バイオリンを床にそっと置き、桜華の頭を優しく撫でる巴。

 結局、どんな人間でも心の何処かでは愛する者に対して甘えたいのだ。

 豊は巴に愛されている桜華の事が、今この瞬間においてはとても羨ましいと感じた。

 

「この曲はね、あの人に対する唯一の抵抗だったの。

 自分が人前で演奏する曲を、私が選ぶ権利はあるでしょうってね。

 でもそれだけじゃない……

 この曲は貴方の為に選んだ曲なのよ」

「私の為に?」

 

 疑問を口にする桜華の手を、巴はしっかりと握り締める。

「貴方が幼い頃から、私はこの曲を弾き続けてきた。

 そして、貴方が完璧にこの曲を弾ける様に指導を続けてきたでしょう。

 私が貴方に残せる確かなものが、この『ジムノペディ』だったのよ」

 

 自分が桜華の前から去らなければならない時が必ず来る事を、巴は嫌と言う程理解していた。

 美貌の衰え、演奏技術の鈍り。

 どんなに一定以上の水準を保とうとしても、永遠に過去の輝きを保ち続ける事は出来ない。

 

 その時、桜華に自分の技術が伝わってさえいれば娘まで追い出される事は無い。

 娘にこの曲を教えたのは、愛する娘に貧困と言う苦痛を味わってほしくないと言う親心。

 そして、自分がいなくなった時にその曲を弾く事で巴の顔を思い出してほしいと思う一心からだった。

 

「私が貴方と離れても、その曲を弾く事で私が弾いている姿を思い出せる様に。

 母親としてずっと側に寄り添っていたいから、この曲を重点的に教えた……

 私は貴方が生まれてからずっと、貴方の為にこの曲を弾いていたのよ」

 桜華もまた、巴が死んでから母親の姿を思い出そうとするかの様にこの曲を練習していた。

 黒沢や染井の企みによりそれが中断させられるまで、彼女は巴の気持ちを汲んでいたのだ。

 

「御母様はそこまで、私の事を……」

 心の何処かで、桜華は疑念を抱き続けて生きてきた。

 巴もまた、自分に愛情を注いでくれてはいなかったのではないか。

 自分の立場を守る為、保身として娘にバイオリンを教えていたのではないかと。

「ママぁ!!」

 

 無垢で純粋だった頃の姿に戻ったかの様に、桜華は母親にしがみつき人目をはばからず涙を流す。

 巴はやっと娘を愛せると言わんばかりに桜華をしっかりと抱き締めた。

「あらあら、大きくなったのに小さい頃と何も変わっていないのね」

 

「だって、だってぇ。

 ママが私の事を本当に愛してくれていたのか解らなかったから……

 私(わたし)、ママの事が大好きなの。

 胸を張って言えるわ。

 ママの事を誇りに思ってる」

 

 巴の胸に顔を埋める桜華の言葉が、そのまま彼女の胸に突き刺さる。

 (私もまた、子供だったのね……

 自分の我儘で快楽に溺れて、娘の気持ちを全然考えていなかった。

 娘が私の事をこんなに愛して、誇りに思ってくれていたなんて)

 

 巴と桜華の愛情は互いにすれ違っていた。

 巴も桜華に厳しい教育とバイオリンの練習を強いていたせいで、自分が娘に恨まれているのではないかと疑っていたのだ。

 氷の様に冷たかった2人の『親子関係』が、死んでからようやく修復される。

 豊もまた、心の中で桜華に対して素直な気持ちで祝福した。

 

 (良かったな。

 俺には出来なかった事を成し遂げたんだ。

 おめでとう)

 父親と母親に対するわだかまりが今後解消される事は無いであろう豊にしてみれば、この時だけは桜華が羨ましいとさえ感じた。

 

「私も、そろそろ自分の力だけで戦わなければいけない様ね」

 巴の目には、大切な娘に注げる全ての愛情が詰まっている様に見えた。

 

「心配しないで。

 貴方達との関係を解消しようとは思っていないわ。

 私だって女ですもの。

 人並みの性欲は持っているつもりよ」

 先程まで彼女の身体を貪っていた裸の男達に対して、巴は言葉を放つ。

 

「ただ、少しだけ我儘を聞いてほしいだけ。

 私が天国にいる大勢の客の前でバイオリンを弾く事を許してほしいの。

 勿論、お金も取らないし入退場も自由と言ったものになるでしょうけど……」

 巴が言い終わる前に、男達は巴の近くに集まり彼女の決意に対して賛同した。

 

「やりましょう。

 俺達も出来る事があれば、協力させてもらいます」

「娘さんも、きっと喜ぶと思いますよ」

「俺、他の連中にも伝えます!

 聴衆は多い方が良いでしょ?」

 

 天国にいてもセックスしかやる事が無く、まるで未来に希望を見出せていなかった者達の目に光が灯っている。

 誰かの為に尽くしたい。

 かつてそう思っていた彼等のやる気が戻ってきたのだ。

 自分は誰からも愛されていないワケでは無かった。

 こうして味方になってくれる者がいる。

 

 巴は涙を堪えられず、握手を求めてきた男達の手をギュッと握り返した。

「有難う。

 そう言ってくれるだけでも嬉しいわ」

 少し離れた所へ移動し笑顔を見せていた豊と桜華の方へ視線を向け、巴は無理やり微笑んでみせる。

 

「その時が来たら、貴方達も聞きに来て頂戴ね」

「楽しみに待っていますわ、御母様」

 生まれて初めて、母親と心で繋がり合った様な気がした。

 桜華はそんな思いを言葉には出さず、そのまま歓喜の輪の中へ加わる。

 

 (お前が笑っているだけで、俺も救われた気がするよ)

 豊はあくまでも遠くから、桜華と巴の笑顔を見つめ続けていた。

 

 天国にて、綾小路巴がバイオリニストとしての復帰を宣言。

 この一報はすぐに天国全体へと広まり、彼女の演奏を愛していたファンを大いに沸かせた。

 通常、物を出現させる事が出来るのは各々の家の中と限定されており、家の外で物を作るには天使の許可が必要となる。

 大勢のファンの後押しもあって天使もバイオリン・音響機材を野外に設置する事を承諾した。

 そしてさらにファンを熱狂させたのは、氷室仁美が巴に声をかけてきた事であった。

 

『私達と一緒にやりませんか?』

 既に野外での演奏を何回か行ってきた氷室一誠・氷室仁美夫妻が、一緒に『ジムノペディ』を演奏したいと申し出たのだ。

 綾小路獅子王が音楽界において一定の影響力を保持していた時は敵同士としてしか顔を合わせる事が出来なかった2人。

 しかし巴はこの2人が自分より実力や人気が高い事をよく知っている。

 

 協力したいと言ってきた2人に対して、巴はその申し出を快諾した。

 あの世で『リスタート』を行うにあたり、この共演こそが最も相応しいと思ったのだ。

 

『演奏を行う前に、私から色々と話しておきたい事があります』

 巴と桜華が親子としての繋がりを取り戻してから数週間後、演奏会の会場には数万名もの観客が集まった。

 全員がしっかりとした作りの椅子に座り、巴の言葉に耳を傾ける。

 

『まずはこの様な機会を与えてくださった氷室一誠さん、氷室仁美さんの2人に対して御礼を言わせてください。

 私は私と御二人が生きていた時から、彼女の演奏に聞き惚れていたファンの1人でした。

 仁美さんの御子息も同じくピアニストとして活動しており、その実力に疑いはありません。

 残念な事に、私は立場上彼女に声援を送ったり心から演奏を褒め称えると言う事が出来なかった。

 今こうして御二人に感謝の言葉を述べる事が出来、本当に嬉しく思っています』

 

 最前列の席に招待された豊と桜華は、黙ったまま巴の言葉を聞いていた。

 

『音楽を愛する者として、そして互いに切磋琢磨し合うライバルとして仁美さんは私の前に姿を現しました。

 彼女よりもっと良い演奏をしよう。

 自分の演奏で彼女より観客を魅了したい。

 何度そう思ったか解りません。

 彼女を超えなければ、私は同じ場所に立っている事が出来なかったからです』

 

 常に最も優れていなければならない。

 その言葉が脳裏をよぎり桜華の胸が痛んだ。

 今思えば、それは綾小路家にかけられていた『呪い』の様なものだったのかもしれない。

 

 一番であり続けろ、一番以外は無意味。

 獅子王に言われた事を守っている内に、様々なものを失ってきた。

 人からの信頼、人との友情や触れ合い、そして自分の誇り。

 皮肉な事に、一番で無ければならないと言うプレッシャーが自分自身を追い詰め全力を出せなくなっていた。

 負ければ全てを失うかもしれないと言う恐怖が、『楽しむ』と言う大切な感情を奪っていた。

 

 巴も桜華も、その『一番病』に翻弄され苦しみ続けていたのだ。

『……そんな時期もありました。

 でも今は、純粋な心で音楽と向き合える喜びを噛み締めています。

 中学生の頃、バイト代でやっと購入する事が出来たバイオリンを抱き締めた時の初心。

 私はもう一度原点に戻って、音楽がこれ程までに人を感動させる事が出来るのだと言う事を伝えていきたいです』

 

 巴は自分の視線の先にいる桜華の方を向き、微笑んだ後言葉を続ける。

 

『最後に、私の大事な一人娘である桜華について話をさせてください。

 上級社会のマナーを教えたりバイオリンの練習をさせたりと、生前私は娘に母親らしい事を何一つしてやる事が出来ませんでした。

 本当は、何処にでもある普通の家庭の様に、娘に対して愛情を注いであげたかった。

 共に笑い、共に泣き、一緒に手を繋いで親子として歩んでいきたい。

 その願いを、生きている時に叶える事は出来ませんでしたが、これからは少しずつでもその失った絆を取り戻していきたいです』

 

 巴は素直な気持ちを述べ、吹っ切れた様な笑顔を見せた。

 その偽りの無い剥き出しの感情に心を動かされ、仁美は思わず立ち上がると彼女に拍手を送る。

『娘さんへの愛情の深さ、私の胸に響きました。

 どうか皆さん、彼女を讃えてあげてください』

 彼女の隣にいた一誠も、観客に拍手を送る様促した。

 

 だが観客は促される前に雷鳴の様な拍手を巴に送る。

『有難うございます』

 涙を流しながら、沢山の観客の温かい拍手に耳を傾ける巴。

 仁美も子を持つ親として、娘の為に戦い続けた母親である巴の気持ちが痛い程解っていた。

 

 競い合ってきた仁美と巴は、似た者同士だったのかもしれない。

 仁美も巴と同じ様に、息子である零にスパルタ教育を行った。

 ピアノの持つ『力』を、自分の息子に教えたい。

 自分が培ってきた技術を、全て息子に受け渡したい。

 

 それが息子の幸せになると本気で信じていた。

 あの飛行機事故が起こるまでは。

 仁美が目にしたのは、妹に対して性的欲情を抱く様になってしまった零の姿だった。

 

 ピアニストとしての実力を得る代償として、他者とのコミュニケーションを行う機会を犠牲にしてしまったが故の悲劇。

 何時も側にいてくれた妹を、息子は『女』として意識する様になってしまった。

 異性との出会いがほぼ皆無であったからこそ、辿り着いてしまった許されざるゴール。

 人の痛みを理解出来ない、偏屈な性格になってしまったのも全てはそのスパルタ教育のせいだった。

 指先は研ぎ澄まされたが、心はどんどん冷たくなっていく。

 

 零がそんな人間になってしまった事を死後気付いた仁美であったが、全ては手遅れだった。

『息子が真っ直ぐに育つ事を祈る他無い』

 夫である一誠も息子に何の言葉もかけてやる事が出来ない。

 贖罪にもならぬ贖罪。

 天国で、救いを求めている人達の為にピアノを弾き続けた。

 

『……巴さんが、バイオリニストとしての活動を再開するそうだ』

 一誠が妻にかけた言葉によって、仁美の取るべき道は決まった。

 償えぬ罪を犯した者同士で、痛みを忘れる為共に最高の音色を奏でないか。

 現世には何の影響も及ぼさない、無意味な行為。

 それでも仁美は彼女と共に演奏会を開く事を望んだ。

 

 (心ならずも敵対していた巴さんと、私の2人でもう一度やり直したい。

 彼女と和解して大勢の観客を熱狂させる事を、零も望んでいると思うから)

 零と桜華が敵対した後、互いにそうなってしまった事を後悔している事は解っていた。

 母親同士が手を握らなければ、本当の意味で和解した事にはならないのではないか。

 仁美は自分が何をしても息子には届かないと知っていながら、じっとしている事が出来なかった。

 

『私と、巴さんとで奏でる音楽を是非聴いてください。

 そして哀しい事や辛い事があった時に、私達が紡いだ音色が心の慰めになればせめてもの幸いです』

 事前に何度も2人で協議を行い、下した結論。

 それはジムノペディの『主旋律』をピアノが担い、バイオリンはその主旋律を補う様な演奏を行うと言うものだった。

 生前の巴ならば、仁美を補佐すると言う屈辱的な演奏を素直に受け入れていたか疑わしい。

 

 今の巴は、桜華や他の観客達が最も心を動かされるであろう『最高の演奏』を追求したいと思っていた。

 自分が頂点に立つ為に懸命に努力する日々は終わった。

 例え支える立場に回っても、娘を感動させる事が出来る演奏を披露する事が出来れば悔いは無い。

 そんな、『一番』になる事を放棄したかの様な巴の心変わりであったが、演奏が始まると観客はその演奏に圧倒された。

 

 ジムノペディは、複雑な技術を必要としない楽曲だが、だからこそ演奏する者の技術が問われる。

 川の流れの様な静かな、清らかな演奏の中で顔を覗かせる力強さ。

 1つの音に対して余韻をどこまで残すのか、音の強弱をどう付けるべきなのか。

 そういった取捨選択の中で、全く無駄の無い削ぎ落とされた主旋律が響き渡る。

 

 そしてそこに重なりながらも、過度な主張をする事無く一定の存在感を示すバイオリン。

 ある音を出す際余韻を残さない時でもバイオリンの音は長く残り、その瞬間だけバイオリンが主役になる。

 真なる意味で『調和』した演奏は、観客に2人の凄まじさを理解させるには充分過ぎるものだった。

 

 (ピアノの音とバイオリンの音が互いの音を邪魔する事無く、良さを引き立て合っているのか……!

 微妙な音程の違いや強弱で、どちらが欠けても魅力が半減するって所だろうな。

 どの位上手いかなんて俺には解らねぇけど……

 皆聴き惚れてるな、こりゃ)

 

 豊は言葉が出なかった。

 口に出して評価する事自体が野暮である気すらしている。

 周りの聴衆が食い入る様に彼女達を見つめていたり、涙を流しているだけで充分だった。

 過去の思い出、それも自分の人生が輝いていた頃の記憶が脳裏に浮かび、激しく聴く者の心を揺さぶる。

 優れた音楽は人間の魂に訴えかけると言うが、まさにこの一曲も魂を掴んで離さないものだった。

 

 元々、『リサイタル』と言う言葉の語源はクラシックのコンサートが始まりであったと言う。

 巴と仁美が協力し合って演奏を続けた『リサイタル』は、クラシック曲の一部を演奏すると言う形式を取り、20曲ほどの演奏を終えた。

『皆様、長きに渡って私達の演奏にお付き合い頂き有難うございました。

 不定期にではありますが、これからも私達は2人での演奏を続けていきたいと考えています。

 どうか御愛顧の程、宜しくお願い致します!』

 

 巴のソロ、仁美のソロ等、聴き応えのある曲をその曲に相応しい楽器で演奏した2人。

 その演奏順、演奏する曲を『プロデュース』したのは零の父親、一誠である。

 

 (この人達は、天才なんだ。

 零とはまた違った形での。

 数万人もの観客を熱狂の渦に巻き込み、普段音楽をロクに聴かない人間の心をも鷲掴みにする。

 あの美女が零の母親なのは解ってるんだが、なんか複雑な気分だな……)

 

 瞳と同じ様な、『綺麗な人』と言う言葉が似合う美女。

 それが瞳の母親でもある仁美だった。

 あかりは『艶っぽい美人』でありタイプが違うのだが、共に見た瞬間男ならば絶対に釘付けになる程の美しさが彼女にはある。

 

 豊は親友の母親を見てそういう気持ちを一瞬でも抱いてしまった事を恥じていた。

「御母様に負けるワケにはいきませんわね。

 私も頑張らないと」

 自己嫌悪に苛まれていた豊であったが、羨望の眼差しで自分の母親を見つめる桜華の姿を見て気持ちを切り替える。

 

「お前のバイオリンも聴かせてくれよ。

 上手なんだろ、何本かの指に入る位には」

「そう自信を持って堂々と言える様になりたいですわ……」

 巴と仁美を祝福するかの様な拍手が鳴り響く中、桜華は何度も頭を下げる2人の姿をずっと見つめていた。

 

「俺さ、天国で何かする事が無駄だなんて思えなくなったんだよね」

 桜華は『豊の家』に戻った後、リクライニング式の椅子に座っている豊の話に耳を傾ける。

 演奏が終わった直後から家に帰るまで、そして今でも2人の興奮は収まってはいなかった。

 

「いや、そもそも俺達が日常でしてきた事だって無駄の積み重ねなんだよ。

 本当に人生に直結する事ばかりやってるのか?俺達は。

 楽しい事、面白い事、嬉しかった事の多くは、無駄から始まるものだろう」

 

 趣味を人生に直結させられる人間は少ない。

 クラシックを聴く事、美味しい御飯を食べる事、ゲームに興じる事、ファンシーグッズを収集する事。

 自分の人生にとって、本当に影響があるものなのかと問われてみればなかなか返答する事が出来ない。

 

「無駄だと思う人間もいるかもしれねぇけど、でも……

 その無駄は実は全部無駄じゃ無ぇだろうって。

 その無駄の積み重ねが思い出であり人格形成に繋がってるんだよ。

 そして俺達は死んでからもこの場所で新しい思い出を作ってる。

 桜華、本当にそれは無駄な事だと思うか?」

 

 桜華は天国に来てからの思い出の方が、生きていた時よりずっと輝いている事に気付いた。

 豊と初めて繋がり、お互いの痛みと本音を吐き出して心と身体で繋がった日の記憶。

 ポテトチップスを食べながら豊とZEROの対戦を楽しんでいた時の記憶。

 慣れない水の中での動きに悪戦苦闘しながらもあかりに泳ぎ方を教えてもらった時の記憶。

 安らぎと笑いに満ち溢れた毎日が、桜華に忘れかけていた喜びを教えてくれた。

 

 その隣に豊がいてくれたからこそ、もっと楽しくなった。

「いいえ……

 寧ろこっちに来てからの方が、楽しい事ばかりで。

 現世に希望も何も無い私が異常なのかもしれませんけれど、戻りたいとも思いませんわ」

 

 凶悪犯と言う烙印を押された桜華にしてみれば、天国こそ唯一自分が逃げ隠れ出来る安息の場所。

 そして本当の自分を認めてくれる者達がいる場所だった。

 

「最初の質問に戻るが、死んだら無意味なのか?

 もう何も成せないのか?

 そうじゃないって事は、お前が一番よく知ってるだろ。

 そしてお前の母親も、それに気付く事が出来たハズだ」

 

 自分と言う存在があり、大勢の他人が自分を応援し、記憶の蓄積があるのならば、生きてはいないが無意味では無い。

 現世で成せずとも、天国で何かを成し遂げる事が出来る。

 一冊の日記帳を書き終えてまた別の日記帳に新しい日付を刻む様に、また歩き出せる。

 巴もまた、現世と言う暗黒の日々を終えて新たな船出を迎えようとしていたのだ。

 

「ええ、そうですわね。

 私も御母様と同じ様にココで皆に認められたいものですわ。

 まずは路上でバイオリンを弾く所から始めましょうか?

 それと、天国でもZEROの大会が開催される日が待ち遠しくて仕方がありませんの」

 

「あー、それはかなりの時間が必要になるな。

 100年経てば猛者が全員集まるだろうから、その時に大会が開催されると信じよう」

 桜華は気が遠くなる様な年月を想像し、なるべく早くにその環境が整ってほしいと思っていた。

 

「100年?

 それは少し長過ぎる様な気がしますけれど」

「馬鹿、俺はなるべく仲間には長生きしてもらいたいんだ。

 現世で生きてる方が幸せだって思ってる奴の方が多いんだから」

 

 死後の世界があると思って生きている人間はまずこの世にいない。

 自分が『この世』で成功したいと考える人間が多いのは当たり前の事だろう。

 

 (矛盾はあるさ。

 誰だって現世で夢を掴みたい。

 だが無いものねだりも出来ない。

 死んだんだから、今いる場所で結果を出す事しか出来ないんだ。

 俺達に出来る事は、いずれやってくる仲間に誇れる何らかの結果を残す事だけなのかもな)

 

 馬鹿にされて頬を膨らませている桜華の顔を見ながら、豊はそう思った。

 言葉に出す事は出来なかったが、その思いもまた真実なのである。

 

 天国の者達がどう悩もうとも、どう足掻こうとも、現世と同じ様に『明日』は訪れる。

 時間の経過が殆ど感じられない、自分の努力が実感出来ない世界。

 それでも、前向きな気持ちで歩みを進めれば自分の中の世界は確実に変えられる。

 目の前の世界が変わってみえる。

 桜華や巴は、それを心の底から実感したのだった。

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