『本物の暗殺未遂事件』が発生しその手口がとんでもなく
実用的で殺意に満ち溢れていた為採用したと言う経緯があります。
ちなみに『書類を確認してください→そこに凶器』と言うのは
始皇帝暗殺未遂事件のオマージュですね。
【2005年12月31日 東京都港区 在日合衆国大使館内】
合衆国大使館のスタッフも、大晦日ともなれば大幅に人が減る。
外から来る『不審者』に対しての備えや警備は万全だったが、内側からの襲撃は想定されていない。
スタッフ全員が厳しい金属探知ゲートをくぐり、不審物を持っていないか常に確認していたからだ。
だが本気で相手を殺す為の道具を揃えようと思えば、裏道は幾らでも存在する。
狐狸(フーリー)も決行日を迎える前から、様々な準備を進めていた。
「小森さん、金属探知ゲートクリアです。
どうぞお通りください」
金属探知はしっかり行われているが、手荷物検査はかなり杜撰な方法で調べている。
プライバシーの観点から、鞄の中身を引っくり返して調べる事は禁じられているからだ。
今日の検査も肩にかけたバッグの中身を少し開けただけで、アタッシュケースの中身を調べる事は無かった。
「そのケースの中には何が入っているんですか?」
「今日目を通して片付けなければならない書類ですよ。
家でもある程度処理しているんですが、余りにも量が多過ぎて……」
(金属探知ゲートでも引っかからなかったし、特に問題は無いだろう)
係員はそう判断すると、数年間共に働いてきた信頼出来るスタッフと言う事もあり彼女をあっさり通してしまう。
この時、彼がアタッシュケースの中身を調べていたら悲劇を避ける事が出来たかもしれない。
狐狸は偽りの笑顔を浮かべ、係員に挨拶を済ませるとそのまま廊下を通っていった。
全てはこの1日の為。
大使館で働く他のスタッフや上司に認めてもらう為彼女は馬車馬の様に働いた。
大使館員の中でも『特に優秀な人材』とされる者は、ある程度の融通が利く様になる。
彼女には狭いながらもロッカールームと机・椅子がセットになった個室があてがわれていた。
入口には鍵をかける事が出来、この部屋の中には監視カメラも設置されていない。
スタッフのプライバシーを尊重し余計なものに煩わされずに働いてもらう。
彼女への配慮からそういった措置が取られていたのは幸運だった。
(個人に対する人権が手厚く守られているからこそ、私はこの施設内で暗殺者として自由に動く事が出来る。
私に帰り道など用意されていない。
全ては、私を育ててくれた紅虎明命の為に)
廊下に出てイシュメルとタリスマンがいる全権大使執務室に向かえば、監視カメラが数多く設置されている。
異変が起こればすぐに警備員が駆け付けてくる為、最初の行動から2分間で全てを終わらせなければならなかった。
(全てのお膳立ては整っている。
後は私が臆する事無くやり遂げるだけ)
机の上にアタッシュケースを置いた後、狐狸はそこに入っている中身を取り出した。
(組織が決行日の直前まで完璧を目指して試行錯誤を繰り返した最高傑作。
これがレジンハンドガン……)
強化樹脂と3Dプリンターを使用して作られた、金属探知ゲートに引っかからない拳銃である。
強度は非常に高く、弾さえあれば通常の拳銃と同じ精度で発射する事が出来た。
(強度が高くとも、撃てるのはたった一発。
一発撃てば即座に銃身が変形して使い物にならなくなる。
イシュメルの命を確実に奪う為にも、外す事は許されない)
ただし、拳銃の心臓部分とも言える撃針および撃鉄に関しては、樹脂製では上手くいかない。
拳銃の弾も金属製の実弾を用意する必要があった。
少ない部品ならば、外からの調達で間に合わせる事が出来る。
決行日の数日前、作業員に化けた紅虎明命のメンバーが大使館を訪れていた。
『大使館内の蛍光灯を全て新品と取り替えます。
個室に入る事もあるので予め御了承ください』
金属探知ゲートで止められても、作業用の道具を持ってきたと言う理由でパスする事が出来る。
監視カメラの無い狐狸の個室に入って蛍光灯を取り替えながら弾と撃鉄を渡す事も容易だった。
『暗殺は全てお前の手に委ねる。
今まで天武日本に虐げられてきた信国の仇を取ってくれ』
そう言われながら渡された拳銃の弾が、彼女の手にしっかりと握られていた。
(勿論よ。
必ず成功させてみせるわ)
その1発に込められた思いの強さに応えなければ。
狐狸はその思いをより一層強くした。
1人で2人の人間を確実に殺す。
言うのは簡単だが実行するのは難しい。
監視カメラだけで無く、参事官と全権大使が拳銃を所持している可能性が極めて高いからだ。
殺意を高めた武装をしなければ返り討ちに遭う可能性すらある。
樹脂製の拳銃以外にも、用意するべき武器は多々あった。
(私は『コレ』を使った特訓を幼少期からずっと続けてきた)
机の引き出しから取り出したセラミック製の青龍刀を机の上に置き、じっと見つめる狐狸。
セラミックで出来た刃物は切れ味は普通の刃物とさほど変わらず、さらに金属探知をパスする事が出来る。
手裏剣の様に投げる小刀もセラミック製だった。
(相手が拳銃を取り出した時、コレを使って相手を無力化する)
プラスチックの容器に入った赤い液体。
通称カプサイシンスプレーと呼ばれる痴漢を撃退する為の防犯アイテムだ。
唐辛子の辛味成分であるカプサイシンが濃縮されているもので、目に入れば相手は一時的に失明する。
目を襲う激痛によって拳銃を構える事も出来なくなるので、ターゲットの反撃を封じる事が出来るのだ。
(勿論、使用が可能ならば重火器を使いたい。
その方が確実に相手を殺せる。
だけど、そんな事は到底無理。
今用意出来るものが最善の道具。
この装備で任務を完遂させなければ)
己に暗示をかける様に何度も頭の中でそう思いつつ、彼女はロッカーの前に立った。
攻撃に手を尽くしたのだから、今度は防御に気を遣う必要がある。
彼女は一旦服を全て脱ぎ全裸の状態になると、特殊素材の黒いラバー製スーツを着込んだ。
(動き易さが最優先。
生地も薄いから、この上に服を着ても見破られはしない)
大抵の衝撃から身を守ると言う防刃・防弾の役割も兼ねており、頭と足以外は守り切れる。
靴も動き易さを重視したものを履き、通常の制服をスーツの上に着込んだ。
(何時も着ているものとは違い、この服は引っ張れば簡単に破ける様になっている。
懐に潜り込むまでは相手を油断させ、そのまま一気に仕留めれば私の勝ちだ)
既に狐狸は頭の中で何百回、何千回とシミュレーションを繰り返している。
タリスマンやイシュメルに侮蔑的な暴言を吐かれながら、執務室の部屋の広さや置かれている備品の種類を確認した。
机と椅子が数脚。
来客が無い時は全権大使用の椅子以外は全て部屋の隅に寄せられている。
つまり、廊下への逃げ道さえ塞いでしまえば身を隠す場所は机以外殆ど無いのだ。
(殺した後の退路など考えるだけ無駄。
駆け付けてきた警備員が私を蜂の巣にするだろう。
頭にさえ当たらなければ隙間を見つけて強行突破する事も出来るが……)
生存率はほぼゼロに近い。
客観的に見れば彼女の死も目前に迫っていた。
滅私奉公の心得を叩き込まれて従順な機械と化しても尚、死が近付けばどうしても恐怖を感じてしまう。
死ぬのも怖いが、彼女が最も恐れているのは暗殺計画が失敗に終わってしまう事だった。
(監視カメラを欺き通して部屋に辿り着く為にも、フルフェイスヘルメットを被るワケにはいかない。
合衆国の人間は確実に相手を殺害出来る様にヘッドショットの方法を叩き込まれると言う。
相手が銃を所持していると言う前提で動く以上、相手の反撃の芽を確実に潰さなければ……)
不審に思われ、標的に近付く前に自分が撃たれる。
最悪のシナリオが脳裏をよぎるが彼女はその不安を消そうと必死だった。
(私はその瞬間まで『小森環』を演じ切らなければならない。
監視カメラはただ設置されているだけでは無く、常時係員によってその映像がチェックされている。
廊下を通る時も動揺や、私の心の中の昂ぶりを悟られない様にするのよ)
姿見の前で、何度もおかしな点が無いか確認をする狐狸。
僅かに震えていた右手を左手で強引に鎮め、何度も深呼吸を繰り返す。
「出来る。
私は出来る。
絶対に出来る」
自己暗示の極み。
どんなに手を尽くしても、最後は自分の実力を信じる事しか出来ない。
演じ続けてきた『優秀な大使館員』と言う役にとって、最後かつ最高の舞台が整ったのだ。
彼女は自室にある時計を確認すると、勇気を振り絞り大きな一歩を踏み出した。
【2005年12月31日 午後3時55分 東京都港区 在日合衆国大使館 全権大使執務室】
タリスマンにとって、屈辱的な一幕だった。
参事官である自分に逆らう者等誰もいない。
仮にいたとしても、権力や恫喝で簡単に屈服させる事が出来る。
それが今まで生きてきた彼にとっての『常識』であり、これからもそれはずっと続くと信じていた。
だが、その『常識』は思いもよらない所から崩れ去ってしまう。
『もう、ママを虐めないで。
私が言いたいのはそれだけ』
真っ直ぐな瞳で、一切視線を逸らす事無くタリスマンを睨み付けてきたミア。
あの時、後先考えずに撃ち殺していても全く不思議では無かった。
だが、彼には撃てなかった。
(神々しかった。
私には無い、命の輝きがあった。
あそこで命を落としたとしても後悔するものかと言う強い決意。
生きて、優雅な暮らしを満喫したいと考える私とは対極に位置している女だった)
イエローなど、所詮ホワイティに対抗出来る存在では無い。
存在を軽視し、馬鹿にしていた対象が自分の中で大きくなり己を圧倒しつつある。
その現実から逃げる様にタリスマンは仕事に没頭し、家の中でミアと会話する事を拒否した。
(アラタの崩壊で金を引き出せなくなっただけだ。
それ以外何が違うと言うのか)
必死にそう言い聞かせて耐えようとしていたが、鼻っ柱を折られた事が無い筋金入りのエリートである彼の神経は徐々に擦り減っていく。
彼は挫折を経験した事が無かった故に、脆い自分の心を恥じた。
弱い自分を認めたくないからこそ仕事に没頭すると言う悪循環。
そういった心労が蓄積され、タリスマンは慢性的な不眠症に悩まされていた。
「ファヴロー君、ファヴロー君?」
イシュメルに名前を呼ばれ、我に返ったタリスマンは彼の方を向く。
「大丈夫か。
顔色が良くないぞ」
そう指摘され、彼は素直に自分の体調が悪い事を認めた。
「年末の仕事量が多かったもので。
落ち着いたら休養しようとは思っております」
「頼むよ。
君ほど優秀な白人の右腕は他にいない。
君を失ったら私は片腕をもがれた様なものだからね」
椅子に座ったままの状態で彼はそう言ったが、それが本心かどうかはタリスマンにも解らなかった。
(いや、代わりを探そうと思えば見つかるだろう。
私は今、必死でこの肩書に縋り付いているだけだ。
合衆国の為、大統領の為と信じてやってきた。
それなのに私は……)
寝不足と疲労により、正常な判断が出来なくなってきている。
自分が参事官として相応しい存在なのかと、彼は自問自答する様になっていた。
「そういえば、そろそろ東京で行われている全国大会の決勝戦が終わる頃だな。
大統領の判断に一任される為我々は後で全てを知らされるだけだろうが」
総理大臣から全権大使、そして大統領へと言う情報伝達の流れが存在すると紅虎明命は信じ込んでいた。
実際の所『セーフティアタック』は大使館が関わる事無く行われる為、イシュメルを殺してもその流れを止める事は不可能だったのである。
そんな事とは知らず、狐狸は与えられた任務を遂行しようと彼等がいる執務室に向かっていた。
「……閣下。
私は自分の娘が反抗してきた時、言い返す事が出来ませんでした。
たかがイエローの血が混じった雑種だとばかり思っていたのに。
何故私は勝てなかったのでしょうか」
救いを求める様な、喉の奥から絞り出した声に対して、イシュメルは天井に視線を向ける。
「私も最近まで、イエローなんてどの国の者も変わらないと思っていたんだよ。
全て薄汚い溝鼠だと。
心からそう信じていた……
しかし、少しだけ考え方が変わった」
机の引き出しから箱を取り出し、イシュメルは葉巻を一本咥えた後ライターで火を付けた。
「信国の黄色い鼠は基本的に結束力が無い。
襲われるとなれば我先にと逃げ出して隠れようとする。
そういう鼠を駆除するのにそこまで苦戦する事は無い。
見つけ次第各個処理すれば良いのだから」
彼は口から煙を吐き出し、机の上で手を組みながら真剣な表情を見せる。
「だが天武日本の鼠は違う。
襲われるとなれば団結して大きな鼠になり必死に抵抗しようとする。
そうなると駆除剤も効果が薄くなり、逆に噛み殺される危険さえ生まれてしまうのだ。
あの総理大臣は噛み付く必要が無かったからこそあの時我々に従っていただけで、本性は凶暴そのものだった」
イシュメルの脳裏にも、イエローでありながら一歩も引かず戦い続けた男の姿が焼き付いていた。
『例の件に関しては最大限譲歩したが、合衆国で生活している天武日本人の生活水準を下げようと言う動きは到底容認出来ない。
我が国とそちらは対等な同盟を結んでいるのであり、片方がその国に隷属するものでは無いハズだ。
もし我々の人権を剥奪する様な法案を成立させようと言うのならば、こちらにも相応の考えがある』
ミアと同じ様に捨て身の反撃すら厭わないと宣言する織田信虎の勢いに圧倒され、イシュメルもまた言い返す事が出来なかったのだ。
ただの臆病者だと思っていた民族に睨まれ、敗北を喫する。
それでもタリスマンとは違い、イシュメルは相手の強さを受け入れるだけの精神的余裕があった。
天武日本人に対する、一種の尊敬。
白人至上主義者が異なる肌を持つ者を明確なライバルと見なした瞬間だった。
「だから君も過度に自分を責める必要は無い。
奴等は鼠ではあるが、勇敢な鼠だ。
我々が鼻を噛まれたとしてもそれは普通に起こり得る事だと考えた方が良い」
タリスマンの体調が思わしくない原因を知ったイシュメルはそう言って彼を慰めた。
タリスマン本人にしてみればそう言われた所で根本的な解決には繋がらないのだが、何も言われないよりはマシだと言い聞かせる。
(閣下も私を心配してくださっているんだ。
今まで以上に尽くす事で、忠誠心を示さなければ)
そう思っていた彼の視線の先、執務室のドアが開くと狐狸が2人の前に姿を現した。
「申し訳ありません。
重要な書類の作成が完了したので、是非イシュメル全権大使に確認して頂きたくて」
制服を着た大使館員の女性はそう言うと、片手でドアを閉め内側から鍵をかける。
「おい、何のつもりだイエロー。
何故わざわざ施錠を行う」
「大っぴらには出来ない相談事がありまして……
まずは書類の御確認を」
タリスマンは彼女の動きが怪しいと思い服装と持ち物を舐める様に見つめた。
山の様に積まれた書類以外の持ち物は無さそうに見える。
制服も大使館員が着用を義務付けられているものと同じで、風紀を守る為スカートは丈の長いものを着用する様にと通達していた。
(スカートの下は黒タイツか。
だが鍵をかけた事が気にかかる。
あのイエローが内側から執務室の鍵をかけた事は今まで一度も無い。
用心の為に、最悪の事態を想定しておくべきだ)
懐には6発分の弾が装填された拳銃が入っており、タリスマンは右手をポケットの中に入れたまま彼女を睨み付けた。
(まだだ。
まだ始まってはいない。
落ち着いてやれば大丈夫)
狐狸は呼吸を整え、不審に思われない様何時もと同じ歩き方でイシュメルと向き合った。
机を挟む形で、イシュメルが座っており彼女から見て右側にタリスマンが立っている。
「それで、相談事とは一体何かね」
完全に油断しているイシュメルの眼前に書類の山を置くと、彼女は一番上の紙に触れた。
「先に書類の確認を」
イシュメルが書類に手を伸ばそうとした瞬間、狐狸は紙を床に弾き中から武器を手に取る。
書類の山に『偽装』したその紙束の中には、セラミック製の青龍刀とカプサイシンスプレーが入っていた。
僅か数秒の間の攻防。
懐からレジンハンドガンを取り出し、イシュメルの眉間に向かって撃とうとする狐狸。
「貴様!」
タリスマンはポケットから拳銃を出すと素早く構え、全権大使の安全を確保する為にハンドガンを撃って床に落とさせる。
それと同時に狐狸は左手で持っていたカプサイシンスプレーをタリスマンの顔に向けて噴射した。
「ぐあッ」
顔全体と両目に激痛が走り、思わず拳銃を床に落としてしまうタリスマン。
狐狸はまず彼を片付けておかなければ計画に支障が出ると考え、顔を手で覆い呻いている彼の胸に青龍刀を突き立てる。
的確に心臓を狙った一撃には耐えられず、そのままタリスマンは床に倒れ込んだ。
この時イシュメルは気の緩みからか拳銃を所持しておらず、窮地に追い込まれていた。
当然監視カメラの映像は警備員にも見えている為、彼等が執務室にやってくるのは確実である。
だがそのタイムラグを考慮すると助けが来る前に殺される確率の方が遥かに高かった。
「畜生ッ!」
タリスマンを殺している間にイシュメルは椅子から立ち上がり、扉に向かって全力で駆け出す。
一方狐狸は制服を破き捨てて全身黒タイツ姿になると、腰の辺りに隠していたセラミック製の小刀を投げつけた。
「あぐッ……」
足首の辺りに小刀が刺さり、床に倒れ込むイシュメル。
この時彼女は自分が重大なミスを犯した事に気付いていなかった。
執務室の内側から鍵をかけたのだから、その鍵を外す為イシュメルは扉の前で時間を使わなければならない。
しかも生きるか死ぬかと言う局面なのだから手も震え、扉を開ける作業は相当手間取ったハズだ。
その間に狐狸がレジンハンドガンかタリスマンの拳銃を落ち着いて拾い、背中に一発当てればそれで終わっていたのである。
しかし彼女はイシュメルを絶対に逃がしてはならないと思う気持ちが先行し、彼の歩行能力を封じてしまった。
こうなるとハンドガンか拳銃を拾って撃つしか生き残る道は無い。
床に向かってダイブする様に倒れ込み、落ちていたレジンハンドガンを構えるイシュメル。
一方距離がある為青龍刀もカプサイシンスプレーも使えないと判断した狐狸はタリスマンの所持していた拳銃を拾うしか無かった。
「クソ女め!」
発射されたレジンハンドガンの弾が彼女の頭を貫き、一瞬で息の根を止める。
一秒でもイシュメルの動きが遅ければ狐狸が拳銃の引き金を引く方が早かっただろう。
熱で銃身が変形したハンドガンを眺めながら、イシュメルは座り込み安堵の溜息をついた。
もしも狐狸がイシュメルの殺害だけに意識を集中させていたら、結果は違ったものになっていた。
タリスマンが彼女を撃ち殺すものの、イシュメルも殺されると言う結末を迎えていたハズである。
死にたくないと言う『保身』が計画の失敗と言う最悪の結果を招いてしまった。
勿論、額から血を流して倒れている彼女にはその失敗を悔やむ時間すら用意されていない。
駆け付けた警備員に支えられる形で立ち上がったイシュメルは、2人の遺体を眺めながら生きている喜びを噛み締めていた。
(彼がいなければ、私はただ無様に撃ち殺されていただけだっただろう。
彼がいたからこそ私は助かった。
彼はまさしく私にとっての護符(タリスマン)だったのだな……)
犠牲があれば、その犠牲によって助かる命もある。
そして失われる命がある。
この日、紅虎明命の計画はどちらも失敗に終わり彼等のクーデターそのものが終わりを告げた。
【同日午後8時 東京都豊島区目白 発地ミアの自宅】
正直、理解が追い付かなかった。
自宅で見ていた全国大会の準々決勝で発覚した綾小路財閥の不正。
九龍拓巳を拉致監禁し、財閥の為の道具として扱っていた。
彼の無事も解らぬままに決勝を経て、突然の砂嵐。
会場で何が起こったのか情報は全く入ってこず、ミアは無力な己を呪った。
(もう、何を考えれば良いのか解らない。
拓巳さんの安否は不明。
パパが死んでママが遺体の引き取りに……
何でこんな事が立て続けに起こるの)
タリスマンの死を哀しむと言うよりも、母親の精神状態が気になっている。
一緒に行くと言ったミアに対して首を横に振り、1人で大使館に向かった伸枝。
その後姿からはまるで生気が感じられず、声をかける事も出来なかった。
『貴方は自宅で待機していなさい。
あの人と2人きりになる時間が欲しいの』
母親の言葉に、どういった意味があるのか。
ミアはTVの電源を消し、ベッドの上に寝転がりながらそんな事を考えていた。
発地伸枝は存在しない『亡霊』を追い続けていたのだ。
暴力を振るわれても、罵倒されても一切抵抗しない所にその思いを感じる事が出来る。
(パパの被っていた『善良な紳士』と言う仮面を、ママは本物だと信じ込んでいた。
そして信じていたものが裏切られた時、ママはそれを受け入れる事が出来なかったのよ。
だから今ママが会いに行ったパパは、結婚する前のパパと言う幻影なんでしょう。
多分)
タリスマンは自分と母親を苦しめている癌の様なものだった。
それ故に死んだ事自体は歓迎すべき事だし、コレで良かったのだとも思う。
ミアにとってはそれで終わる話だったが、伸枝は彼の死を受け入れる事が出来なかった。
(ママが見ていた世界は、ある意味嘘で塗り固めた世界だったのかもしれない。
パパは純粋で親切と言う、現実とかけ離れた理想をママはずっと追いかけていた。
現実と夢が剥離すればする程ママの心は苦しくなる。
パパが死んで、ママも夢から覚める事が出来た。
悲しむべき事じゃないわ)
今の伸枝は夢の中を漂っている弱い人間なのだ。
ミアは母親を憐れに思いながらも、彼女がそうなってしまった気持ちは理解出来ていた。
思えば、タリスマンもまた弱い人間だった。
度を超えた白人至上主義者であり、人に八つ当たりするだけのつまらない男。
権威や肩書に執着し、自分が偉い人間なのだと思い込まなければ心を支える事が出来なかった。
娘との戦いに敗北して、その後死ぬまでその事実と向き合う事無く逃げ続けたと言う結果だけが残る。
(パパは常に威張っていたかった。
自分が優れた人種だと思っていたかった。
そんな駄目な人間だったけど、尊敬すべき所はある。
それは『愛国心』が凄く強い事……)
ミアが暗殺者と対峙したら、まず自分の命を大事にして逃げるだろう。
身内ならばともかく、赤の他人の命を救って犠牲になる程の度胸は無い。
そう思うからこそ、やり遂げたタリスマンの『覚悟』に彼女は少なからず心を動かされた。
思えばタリスマンが愛情を注ぎ、忠誠を誓っていたのは『合衆国』であり自分の家族では無かった。
合衆国の為に大使館で必死に働き、合衆国の為に自分の命すら捨てて全権大使を救う。
娘から見れば最低最悪の父親だとしても、合衆国にとっては英雄……
来栖泪が言っていた『人間には様々な一面がある』と言う言葉を、ミアはようやく理解出来た気がした。
(自分が信じるものの為に、か……
パパにとってそれは白人であり合衆国の体制そのものだった。
私が信じているものは何だろう。
やっぱり、拓巳さんかな。
でも、もうあんな事になってしまったら私にはどうする事も出来ない)
父親から愛する者へと意識を切り替えた瞬間、ミアは自分が無力である事を痛感する。
天武日本総合病院に拓巳が搬送された事は知っているし、見舞いに行きたい。
だが表向きには拓巳と何の関係も無い自分が、拓巳の妹に『面会させてください』と頼む事が出来るのだろうか。
どうしたって無理だ。
ミアは頭を抱えた。
(バタバタしてる今はもっと無理よね。
落ち着いたとしても、私が行っていいのかな……
私と拓巳さんの関係が露見したら、拓巳さんの経歴に傷が付く。
そこから芋づる式にバレて、拓巳さんがとっかえひっかえ女性を抱いていた事が明るみに出たら)
九龍拓巳は間違いなく破滅だ。
自分の将来も閉ざされる事になるだろう。
泪も『辛いけど、今は天武日本総合病院に行かない方が良い』と言うメールをミアに送ってきていた。
拓巳の安否は当然気になるが、今出来る事をするしかない。
ミアは気持ちを切り替え、為すべき事を頭の中で整理する。
(一番心配なのはママの状態よ。
今は何とか自分を保とうと努力している様に見えるけど、これ以上追い詰められたら自殺してもおかしくない。
私が全力で支えてあげなくちゃ。
その為には、私が働いて稼ぐ。
そうするしか無いでしょう)
聖フェアリー女学院付属高校から女学院へ。
一流大学を出れば就職でも有利になる。
タリスマンは家以外の資産らしいものを何も残さず死んでいった。
生活費を稼ぐ事は急務である。
大学に通いながらアルバイトを行うしか方法は無かった。
(とにかく、自分の道を切り開かなくちゃ。
拓巳さん……私、頑張るからね)
心の中でしか思いを伝える事が出来ないと言う哀しみに包まれながらも、今までとは違う生活に身を置く事を決心したミア。
努力と仲間との連携で、母親を安心させてみせる。
彼女にとっての『新たな戦い』が始まろうとしていた。
【2010年5月8日 午後2時 東京都豊島区池袋 ファンシーショップ『サウスハウス』店内】
『いらっしゃいませ、ファンシーショップ『サウスハウス』へようこそ!
クマッタグッズを筆頭に、子供や女性に人気の商品を取り揃えております。
お買い物を存分に楽しんでいってくださいませ』
1年前から池袋の駅前にオープンした『サウスハウス』は、池袋の稼ぎ頭として近隣では有名になっていた。
ターゲットは女子高生を中心とした若い女性。
娘を連れた母親の場合、2倍の売り上げが見込める。
豊富な品揃えと丁寧な接客が好評価を受け、『出せば売れる』と言う入れ食い状態と化していた。
「こちらのクマッタは鎧兜を被った『子供の日』バージョンのクマッタです。
着物を着た『御姫様』クマッタとセットで、1万円と言うお値打ち価格になっております!
当店で扱っているのは100セットのみですので、是非お買い求めください」
大切なのは、商品の幅を広げて仕入れる量を見誤らない事。
高額な商品は富裕層の主婦が購入する。
女子高生でも手が届く価格の商品を仕入れるのが得策。
そして、安心感を大切にする為接客を含め店員は全員女性が担当している事もこの店の大きな特徴だった。
「店長、6月に発売する『ジューンブライドクマッタ』の予約を20セット受け付けました」
「入金が確認され次第取り寄せる様に。
店に100セット並べる事も忘れてはいけませんよ」
敏腕経営で売り上げを驚異的に伸ばしている店長。
女性達が喜んでくれる店を作る事を目指していた彼女にとって、ひとまず安堵出来る程の儲けが出つつある。
南屋朋美は店員に一通り指示を出した後、2階にあるスタッフルームへと向かった。
客のニーズに応えるだけで無く、スタッフからの信頼も勝ち取らなければならない。
彼女が構築した『絶妙な距離感』が、スタッフと店長の絆、そしてスタッフ同士の絆を生み出していた。
既にサウスハウスはこの本店を含めて東京都と千葉県に3店舗店を構えており、朋美は『社長』と言う肩書を使用すべき立場にいる。
父親から元手として譲り受けた資金をここまで拡大させた彼女の経営手腕は確かなものだったが、朋美はさらなる努力を怠らなかった。
大切なのは部下に嫌われない上司を目標としつつ、しっかりと指摘や叱責を行う事が出来る店長を目指す事。
朋美は母親と子供の様な関係を最良とし、家族の様な上下関係を作る事が出来た。
包容力と優しさに満ち溢れていながらも、ミスがあった時にはそのミスを防げる様提言する事で再発を防止する。
そして相手の仕事に疑問を持ちそれが確信に変わった時には、迅速な配置換えを徹底した。
大切なのは、『出来ない事』を責めるのでは無く、出来る事または得意な仕事を任せる事。
接客が苦手ならばレジ打ち、計算能力が高くコミュニケーション能力に不安がある店員は経理担当に回した。
当初は裏方で人形の配置を行っていた店員の1人、来栖泪も現在は接客を担当している。
何でもやらせるのでは無く、長所を活かした役割分担を行う事によって作業効率は飛躍的に向上していった。
「ミアさん、柏店の雨宮比呂子さんに電話してそちらの店舗にキングサイズのクマッタを納入すると連絡しておいてください。
私は今から秋葉原店で新しく扱うクマッタグッズのチェックの為にこの場を離れます」
「店長が不在でもマニュアル通りに進めていきます。
お任せください」
「泪さんとミアさんがいてくれて本当に助かっていますよ」
スーツを華麗に着こなした朋美が店から出ていった後、ミアは他の店員が連れてきた客の対応にあたる。
毎日仕事中気持ちが休まる事は全く無く、店内は予測不可能な事故すら起こる戦場と化していた。
天武日本を震撼させた『魔の全国大会』から5年の月日が過ぎ、発地ミアも大人の女性へと姿を変える。
彼女は聖フェアリー女学院に通いながら生活費を捻出する為サウスハウスでのアルバイトを続けていた。
元々ミアのクラスメイトであった来栖泪が高校卒業後大学に通う事を諦めサウスハウスでのアルバイトを開始。
仕事をキッチリこなせる力量があった事から朋美に目をかけられ、現在ではフロアを統括する店長補佐にまで出世する。
そんな泪が紹介した女性であり良い結果が出たからこそ、ミアは短時間労働を容認されていた。
「ミア、御客さんへの対応は任せたよ。
私はレジの方を手伝ってくるから」
何時もは能天気で大らかな泪だが、仕事中となるとスイッチが入り真面目に業務をこなす。
そんな彼女の変化に戸惑いながらも、ミアは他の店員達とも協力しながら次々に起こる問題を解決していった。
「この所、柏店の収益が大幅に上がっている様ですね。
良い兆候です。
柏店の店長代理を任せている布施麻美さん、優秀なスタッフである店員の雨宮比呂子さん、万場知里さんが支店を盛り上げてくれています。
秋葉原店はまだ新規で雇った店員が多いので、教育にさえ失敗しなければ躓きから立ち直る事が出来るでしょう」
サウスハウス池袋本店の2階にあるスタッフルームでは店長が店員と共に売り上げの確認を行っていた。
嵐の様に襲い掛かってきた大勢の客達も閉店と同時に姿を消し、一時の平穏が訪れている。
朋美もスーツから私服に着替え、殺気立っていた店内の空気も和やかなものへと変わっていた。
「今日もノルマ達成、お疲れ様です。
私が不在の間、この店を守り抜いてくれた事には感謝しかありません。
泪さんとミアさんにはこれからも頑張ってもらわなければ。
頼りにしていますよ」
菩薩の様な微笑みを浮かべ、深々と頭を下げる朋美。
万が一これが店員を発奮させる為の演技だとしても、ついていきたくなる程の魅力が彼女にはあった。
「いえ、店長の築き上げたルールがあったからこそ我々は上手くやれたんです。
まだまだ未熟ですが、この店を支える為全力を尽くして仕事と向き合っていきますので御指導の程宜しくお願い致します」
泪もまた彼女の扱いを心得ている為、朋美を適度に持ち上げつつ謙虚な姿勢を言葉で示す。
他の店員は全員帰宅しており、泪とミアも一通り翌日の準備を終えた後帰り支度を始めていた。
「……そういえば5年前、ZEROの全国大会に店長が出場していましたよね」
札束を数えていた朋美に向かって泪がそう言うと、彼女は思わず顔を上げて泪の顔をまじまじと見つめる。
「随分懐かしい話ですね……
もう5年も経っているんですよね。
感慨深いです。
貴方の言う通り私は2005年の決勝トーナメントに参加していましたが、それが何か?」
その質問に何か別の意図があるのかと身構える朋美に対して、泪は極力彼女を刺激しない様務めた。
「私、当時電脳皇帝に通っていたんです。
その時に九龍拓巳さんと知り合いになりました。
店長なら、今拓巳さんがどういった状態にあるのか知っているかもしれないと思って……」
詳しい事実は伏せつつ、探りを入れる泪。
ミアも答えがとても気になる質問であったが、平静を装い第三者であるかの様に振舞う。
「5年前に拓巳さんが天武日本総合病院に運ばれた事は、テレビを見ていたか会場にいたのならば解っているハズです。
その後、拓巳さんは植物人間の状態となりずっと病院のベッドで寝ていました」
そこまでは、ミアも情報として掴んでいた。
問題はその後の事だ。
「目を覚ましたんですか?」
「意識を取り戻したと言う事は実の妹である九龍玖留美さんから聞いています。
ただ……
少し問題が発生している様なのです」
傍観者であったハズのミアも、冷静になれなくなり身を乗り出してその先を聞こうとしている。
2人の視線を感じつつ、朋美は目を伏せたまま呟く様に言葉を発した。
「会いたいと思っている様ですが、会えば後悔する事になるかもしれませんよ」
一瞬、時が止まったかの様な沈黙が部屋の中を支配する。
朋美の言葉の意味が解らず、泪は思わず立ち上がりミアの方を見た。
「どういう事か、教えてください。
私も、拓巳さんにお会いしたいんです」
ミアは自分の気持ちを素直に伝えたが、その必死さが心を揺らしたのか朋美は声を詰まらせる。
「……あの人は、もう貴方達が知っている九龍拓巳さんじゃ無いんです。
面会に行く事を止める権利は私にはありませんが、会っても納得出来るかどうか……」
目に涙を滲ませ、慌ててハンカチで拭う朋美。
ミアと泪は顔を見合わせ、お互いに困惑と疑念が混じった様な表情をしていた。