※この作品はR-18です。

ZERO ~格闘ゲームに翻弄される者達~   作:夜月光介

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記憶損傷による幼児化と言うのは他の様々な
創作作品で扱われていますが、身体自体は大人なので
問題は色々出てくるでしょうね。


番外編 トリプル・ダンス 後編1 開けられたパンドラの箱

【2010年 6月9日 午後5時 東京都 天武日本総合病院玄関前】

 

 灰色の雲が空一面を覆い、弱い雨がずっと降り続いている。

 泪の運転する車で天武日本総合病院に到着したミアは、天気がぐずついている事に対して不満を漏らした。

「拓巳さんに会うって言う日に、降らなくっても……」

 

「しょうがないでしょ。

 私達が天候を操れるワケじゃ無いんだから。

 玖留美さんも待ってるだろうし、早く中に入ろ」

 

 傘を差す程でも無いと考えたのか、泪は運転席のドアを閉めた後足早に駆けていく。

 説明出来ない漠然とした不安を抱えながらも、ミアは彼女の後を追った。

 

 白は言わずもがな『清潔さ』の象徴でもある。

 磨かれた様な白一色の外観と、入口を通して見えている白い内装。

 患者を不安にさせない為の措置である事は解っていたが、ミアはこの白があまり好きにはなれなかった。

 

 (観葉植物の『緑』がせめてもの救いね……

 住んでいる家と同じ色の壁は正直気が滅入るわ。

 拓巳さんが使っている個室も白なのかしら。

 他の色も使ってくれればいいのに)

 

 誰に文句を言える事でも無いのは、ミア自身よく解っている。

 それでも愚痴ばかり零れるのは、心が相当暗くなっていたからだった。

 

『人間の記憶と言うものは、大脳皮質と海馬の2つによって構成されています』

 自動ドアをくぐりロビーに入るミアの脳裏に、南屋朋美の言葉がよぎる。

 

『大脳皮質はいわば、大容量の記憶メモリ。

 人間が『忘れたくない』と思った事を小分けして個別の場所にしまっていきます。

 海馬はそれより容量は小さいですが、『忘れる』『忘れない』の情報選別を行う重要な器官。

 新しい覚えた情報はある程度の期間海馬に保存されて、大脳皮質へと送られていきます』

 朋美は必要が無くなった種類の裏側に図を書きつつ、説明を続けた。

 

『拓巳さんは、頭の部分に電子頭脳付きのヘルメットを被らされ操られていました。

 電子頭脳がショートした時、その巻き添えを喰らって彼の脳もダメージを受けてしまったのです』

 大脳皮質の一部分に×印を書き入れる朋美。

 

『大脳皮質が損傷した事で、拓巳さんの脳は自分が青年であった頃の記憶を全て失ってしまいました。

 海馬に関しては新しい事を『覚える』事が出来ているので、かろうじて損傷を免れたものと推測出来ます。

 結論から言うと、子供の頃の人格・記憶を保有した状態で彼の時が再び動き始めたと考えられますね』

 朋美は海馬が損傷していないのは奇跡的だと話した。

 海馬の方が繊細でダメージを受け易く、先に機能不全に陥る事が多いらしい。

 

『拓巳さんは、恐らく貴方達が知っている人物では無くなっています。

 それでも、会いたいと言うのなら私は止めはしません。

 玖留美さんに連絡を取る事も出来ます』

 会わない方が良いのではないか?と言っている様な寂しげな表情。

 

 ミアは一切躊躇する事無く、拓巳に会う為に協力を要請する。

 会わずに後悔するより、会ってから後悔した方が遥かにマシだ。

 あの一瞬、ミアは確かにそう思っていた。

 それが彼女の偽りの無い本音だった。

 

 自分の選択が間違いであったとは思っていない。

 その気持ちは今も変わらない。

 そう思っていても、実際に会って話をする時が近付く度に、怖いと言う感情が膨らんでいく。

 

 (子供に戻って、私の事を全部忘れてしまっているなんて……

 本当は信じたくない。

 嘘であってほしいと考えている私がいる。

 そんな都合の良い話があるハズも無いのに)

 事前に朋美が写真を見せてくれていた為、玖留美の姿を見つけるのは容易だった。

 

「初めまして、来栖泪と申します。

 隣にいるのは発地ミア。

 私の同僚です」

 水色のTシャツに紺色のスカートと言うラフな格好。

 写真の玖留美とは服装が違っていたがポニーテールにした金髪と橙色のサングラスですぐに解った。

 

「お話は朋美さんから伺っています。

 兄の知り合いとだけ聞いているのですが、具体的にはどういった関係で……」

 玖留美は彼女達と全く面識が無い為、怪訝な顔をするのも無理の無い事だった。

 

 そもそも今回泪とミアに面会を許可したのは、特例中の特例と言っても過言では無い。

 天武日本が誇る格闘ゲームプレイヤー、九龍拓巳と会って話をしたいと願うファンは星の数ほどいる。

 彼を慕うファンが多いのは有難い事だが、いちいち面会させていたらどれだけ時間があっても足りない。

 

 それに兄を晒し者にはしたくないと言う気持ちもあって、限られた面子のみが拓巳との面会を許されていた。

 自分が知らない女性2人を兄と会わせると言う話自体当初は断るつもりだったのだが、朋美が頭を下げてきた為渋々折れたと言う経緯がある。

 疑いの目を向けられている事を承知している泪は、嘘に事実を混ぜる形で乗り切ろうとした。

 

「拓巳さんとは電脳皇帝で初めて会いました。

 私もミアも格闘ゲームには興味があったんですが殆ど勝てず『見る専』状態に……

 そんな私達に、拓巳さんは強い者だけが到達する新しい景色を教えてくれたんです。

 感謝してもし足りない程の恩があるので、直接会ってその思いを伝えたくて」

 

 正直、『恩がある』と言う言葉以外はほぼ真っ赤な嘘である。

 泪本人が電脳皇帝を訪れたのは数回。

 ミアに至っては1回しか無い。

 セックスフレンドとなった後はラブホテルで会うだけで、格闘ゲームで繋がっていたと言う話には相当無理があった。

 

 (私もそこまで足繁く電脳皇帝に通っていたワケじゃないから、この話の真偽が全く解らない……

 ZEROを本気でプレイする様になったのは兄さんが失踪した直後からで、それ以前はあまり筐体に触っていなかった)

 確認を取るべく当時電脳皇帝に通っていたゲーマー数名に話を聞いたが、空振りに終わる。

 

『うーん、この2人が来てたかどうかはもう解りませんね。

 店内は結構暗かったし、人でギッシリだし。

 誰がいたかいなかったかなんてもう解らないですよ』

 

『私も当時拓巳さんのプレイを見てたけど、拓巳さんに夢中で他にどんなファンがいたかなんて解らないわ。

 いなかったなんて断言するのは無理がある。

 あの頃は監視カメラも設置されてなかったし』

 水掛け論になってしまう為、玖留美は怪しいと思いつつもミアと泪をそれ以上問い詰める事は出来なかった。

 

 (朋美さんも人が好過ぎるわ。

 自分の部下と言う理由だけで信じた様なものじゃない。

 勿論、押し切られてしまった私にも落ち度はあるけど……)

 2人にとって、九龍拓巳は大切な人。

 その言葉に嘘は無いと私は思う。

 

 玖留美はそう言われて面会を受け入れたのだが、見方を変えれば無理も無い話だった。

 ミアの拓巳に対する熱い思いや愛情は、嘘偽りの無い真実だったからである。

 

 玖留美は複雑な思いを抱えつつ、面会の客が来た事を受付の看護師に伝えた。

「20時には消灯となりますので、その前に退出してくださいます様お願い申し上げます」

 天武日本総合病院において夜間の出入りは非常に厳しく、親族であろうとも20時以降病院内にいる人間は翌日の朝まで病院の外に出る事が出来なくなる。

 玖留美も兄がこうした状態に陥ってしまっている為、病院内で寝泊まりする事も珍しくは無かった。

 

「兄がどういう状態にあるのか、朋美さんから聞いて知っているとは思いますが……

 兄の心を掻き乱す様な言動は出来るだけ謹んでください。

 兄はまだ精神的に不安定なんです」

 自分から誘ったのならばともかく、会わせる事に対して乗り気で無ければ当然きつい口調になる。

 ミアは嫌悪の気配を感じつつも、自分が玖留美を責められる立場に無い事は解っていた。

 

 (元々、普通ならどうしたって会う事が出来なかった。

 逆立ちしたって無理。

 こうして、拓巳さんと会えるだけ幸せだと思わなくちゃ……)

 

 嫌われる理由を考えた時、兄の知らない面にミアと泪が属している事に気付かされる。

 兄を心から慕っている妹の事だ。

 兄にとって妹よりも信頼出来る相手がいたら良い気分にはなれないだろう。

 そういう意味では、自分より拓巳の色々な面を知っているであろう玖留美の存在はミアも少しだけ妬くものがあった。

 

「兄さん、御客さんよ」

 2回程ドアをノックした後、玖留美はドアの取っ手を掴んで真横に引っ張る。

 玖留美はドアを開けたままの状態にして先に入る様2人に対して目配せした。

「失礼します」

 ミアと泪が部屋の中に入った事を確認すると、玖留美も部屋の中に入り静かにドアを閉める。

 

 夜と言う事もあり玖留美は不用意に大きな声を出してはならないと2人に釘を刺していた。

「こんばんは!

 初めまして」

 締め切られたカーテン。

 その近くにベッドが置かれ背の高い青年が本を読んでいる。

 

 ベッドの上で胡坐をかきながら『絵本』を読んでいた拓巳は2人の存在に気付くと笑顔で挨拶をした。

「拓巳さん……」

 屈託の無い笑顔。

 その笑顔を何度もベッドの上で見ていたハズなのに、笑顔の種類が全く違う。

 

 言葉では容易に説明する事が出来ない『違和感』を肌で感じ取った瞬間、ミアの中で何かが弾けた。

 止めようとしても、無意識に零れ落ちる涙。

 愕然としている表情。

「どうしたの?お姉ちゃん。

 何処か痛いの?」

 

 ミアの身を心配する拓巳に邪念が全く無いからこそ、心が痛くなる。

 何も覚えていない。

 出会った時の事も、肌を合わせた時の事も。

 優しく頭を撫でて身体を抱き寄せてくれた『九龍拓巳』がもう、消えてしまっていた。

 

 事前に話を聞いていても、心が拒絶する。

 そんな辛い現実が目の前に突き付けられるなんて、信じたくないと。

 ベッドから身を乗り出してこちらを見つめてくる拓巳の心配そうな顔が、ミアにとどめを刺した。

「ふッ……ふぐッ。

 えううううう――――」

 

 彼女は両手で口を塞ぎ、膝から崩れ落ちた後嗚咽を漏らす。

 泣き喚きたくなる衝動をギリギリの所で抑え込んだが、全てを我慢する事は出来なかった。

「玖留美!どうしよう。

 ナースコールでお医者さん呼んだ方がいいのかな」

 突然目の前に現れた見ず知らずの女性が涙を流しながら膝をつけば誰でも動揺する。

 

 玖留美は事を大きくすれば拓巳にとっても良くない結果になると考え、その提案を退けた。

「大丈夫よ兄さん。

 彼女、ちょっと情緒不安定な所があるみたいだから……

 泪さん、彼女を外に連れていってください」

 

 玖留美は冷静に対処する様求め、泪も彼女の腕を掴む。

「ミア、出直そう。

 玖留美さんも困ってるみたいだしさ」

「拓巳さん……

 こんな、こんな事って……」

 

 無理やり身体を持ち上げようとしても、動くつもりの無い人間を引き摺るのは難しい。

 意地を張って引っ張っていけば、他の患者が不審に思うかもしれなかった。

「ミア、今泣いてる場合じゃないでしょ。

 拓巳さんに迷惑かけてどうするの」

 涙を流し続けているミアの眼前に、パジャマ姿の拓巳が立つ。

 

「泣かないで」

 

 慈愛に満ちた顔をしたまま、拓巳はそっとミアの頭に手を触れ優しく撫でた。

「痛くて泣いていた時、母さんは何時も僕の頭を撫でてくれたんだ。

 大丈夫、貴方は強いんだから自分を信じなさいって。

 お姉ちゃんも、僕と同じ様にきっと治るよ」

 まだ名前も知らない相手の心に寄り添い、自分を気遣ってくれている。

 

 そう考えた瞬間、取り繕おうとしたり、隠そうとしたりする気持ちは何処かへ吹き飛んでしまった。

「あああああ……

 大好きです、拓巳さん。

 私……」

 

 言葉にならない心の内を抱き締める事でダイレクトに伝えようとするミア。

 困惑して固まってしまう拓巳の姿を見て、玖留美も我慢する事が出来なくなってしまう。

「いい加減にして!」

 怒りに任せて強い平手打ちを見舞う玖留美。

 激しい痛みと突然頬にダメージを受けた驚きでミアの涙が止まった。

 

「貴方は一体何なの。

 兄さんに向かって『好きだ』なんて……

 さっきの涙と言い、とても単なるファンの行動とは思えない。

 貴方にとって兄さんがどんな存在なのか知らないけど、もう少し遠慮して」

 

 玖留美の口調は上擦り、明らかに冷静さを欠いている。

 兄への尊敬と信頼を裏切られた様な気持ちと、強い嫉妬。

 玖留美が人に対してここまで怒りを露わにするのは初めての事だった。

 

 玖留美も『九龍拓巳が女をとっかえひっかえ抱いている節操の無い男』と言う噂話は耳にした事がある。

 当時は格闘ゲームプレイヤーとしての人気が高かった事もあり『根も葉もない作り話』だと一蹴していた。

 兄が、そんな汚れた人間であるハズが無い。

 誇り高く優しい、理想の兄だから。

 

 そうやって兄を神格化する一方で、それが事実であったらと言う不安も抱え続ける。

 己の立場を利用して、女性を跪かせる。

 そんな下品な所業を兄が行う等ありえない。

 そうして無理やり自分を納得させつつも、時が経てば経つ程大きくなるその声に対して耳を塞ぎ続けた。

 

 拓巳が天武総合病院に入院してからはその『誹謗中傷』を聞く事は無くなり心安らかな日々を過ごしていた玖留美。

 その『終わった事』と思っていた黒い疑惑が、ミアを通して再び漏れ出てきたのだ。

 彼女が感情的になってしまうのも無理は無かった。

 

「玖留美、駄目だよそんな事しちゃ」

「兄さんは黙ってて。

 ホラ、早く出ていって!」

 様々な感情が溢れ出してしまい、放心状態に陥っているミアはそのまま玖留美に連れ出される。

 病室に残された泪は拓巳と向き合い、視線を逸らす事無く彼に話しかけた。

 

「拓巳さん。

 拓巳さんは覚えていないかもしれないけど、あの子は拓巳さんの事が大好きなんだよ。

 今、貴方の事を世界で一番愛しているのは発地ミアだと私は思ってる」

「ほっち、みあ……

 あのお姉ちゃんの名前?」

 

「そう。

 私の名前は来栖泪。

 ミア程じゃないけど、私も貴方の事が好きだから」

 握手を求められ、応じる拓巳。

 

 身体は大人で泪よりも身長は高いが、大人と子供のやり取りにしか見えない。

「僕はミアお姉ちゃんの事を覚えていないけど、ミアお姉ちゃんはずっと僕の事を思っていたんだね。

 好きだって言われたら、僕も嬉しいよ。

 お姉ちゃんにはそう伝えておいて」

「うん、必ず伝えておく」

 

 その『好き』と言う感情が恋愛感情とは違う事は、泪にも薄々解っている。

 解っていたが、泪は心の何処かでもう一度以前の関係に戻りたいと考えていた。

 

「お願いだから、私の心をこれ以上掻き乱さないで」

 廊下に引っ張り出されたミアは玖留美から拒絶され、もう二度と来ないでほしいと言われていた。

 元々渋々引き受けた面会であった為、そういった判断に至るまでが非常に早い。

 

「貴方が兄さんとどういう関係だったのか、想像したくも無いわ。

 単なるファンだなんて大嘘よ。

 涙を流したり抱き付いたり、深い関係にあったとしか思えない。

 そんな救いの無い現実を私に見せて何が楽しいの?

 あの噂が真実だと私に教える為?

 ふざけないで。

 釈明する必要は無いからさっさと帰って頂戴」

 

 兄に何人ものお相手がいると言う噂に信憑性を与える様な行動。

 ミアには何も語ってほしくなかったし、玖留美自身何も知りたくは無かった。

 それが結果的に現実逃避であったとしても、それが今の兄の幸せであり自分の幸せだと玖留美は本気で信じていたのである。

「玖留美さん……」

「帰って、帰ってよ!!」

 

 クールビューティーが板についてきた玖留美であったが、この一件に関しては感情を抑える事が出来なかった。

 このままこの女性を兄に会わせていたら絶対に良い方向へは向かわない。

 そして、自分自身の心を守っていく事すら危うくなる。

 この2人を排除しなければ。

 

 そう思う気持ちが強過ぎて、彼女を突き飛ばしながら声を荒げてしまう玖留美。

 病室から出てきた泪は、そんな玖留美の心情を察しつつ彼女を宥めた。

 

「玖留美さん。

 貴方の気持ちも解りますけど、ミアの気持ちも解ってあげてください。

 ……彼女は5年間、拓巳さんが目を覚ますまでずっと待っていたんですよ。

 色々な問題を抱えながらもめげずに立ち向かって、拓巳さんの事を想い続けていたんです。

 それに真実から目を背けたり耳を塞いだりしても、一番苦しくなるのは貴方自身じゃないですか」

 

 この女性は全てを知っている。

 玖留美はそう感じた。

 兄がだらしない男であった事、妹に隠れて女遊びをする様な男であった事を暴露されたら生きていけない。

 5年間、何度心の中で否定し続けてきただろうか。

 

 心に沸く疑念すら兄を信じられない弱さと断じて頭の中から追い出した。

 彼女は恐らく、玖留美が持っている兄への信頼を破壊するのには充分過ぎる程の証拠を持っている。

 そう考えると、相手に怒りの感情を向ける事すら難しかった。

 

「……お願いだから、何も言わないで。

 もうココには来ないで」

 玖留美の発した声は弱々しく、何時もより背中が小さく見える。

 喧嘩腰では無い悲痛な叫びを前にしては、食い下がりたいミアも諦めるしかなかった。

 

「ミア、今は帰ろう。

 ココで事がこじれても私達の得にはならないし」

 肩に手を置かれたミアもまた、拓巳ともう二度と会えなくなるかもしれないと言う現実に押し潰されそうになっていた。

 

「玖留美、どうしてミアお姉ちゃんと泪お姉ちゃんを帰しちゃったの。

 もっと色々お話を聞きたかったのに」

 2人を帰らせた後、玖留美は今度は拓巳から責められてしまっていた。

 何も解っていない子供……

 そういった負の感情を何とか内に留め、拓巳を説得しようとする。

 

「あの人達はね、兄さんにとって良くない人達なの。

 あの人達の善悪は別として、兄さんがあの人達と付き合うと兄さんが不幸になる。

 だから、兄さんが幸せになる為に、もう病院に来ないでってお願いしたのよ」

 

「でも、泪お姉ちゃんは僕に優しく話しかけてくれたよ。

 僕はもう一度会いたい。

 前の僕が何をしていたのか知りたいんだ」

 

 何も知らないから、そんな事が言えるのだ。

 そもそも、この心の痛みを生み出しているのは他ならぬお前では無いのか。

 叫び出しそうになる怒りをギリギリの所で堪え、作り笑顔を見せる玖留美。

 

「あの人達は、決して開けてはならない『パンドラの箱』を持っているの。

 触れればあらゆる厄災が兄さんに降りかかり、関わる人間全てを不幸にしてしまう。

 邪悪な心を持っているとか、そういう事じゃないのよ。

 ただ、結果的にそうなってしまうという事。

 もう病院には絶対に連れてこないから安心して」

 

 玖留美は自分にそう言い聞かせたが、不安を拭う事は出来なかった。

 だからこそ、箱に蓋をして忘れるしか逃れる方法が無い。

 早口でまくしたてる妹の姿は、記憶を失った拓巳に軽い不信感を植え付けていた。

 

「……誤魔化し切れなかったね、私達の事。

 玖留美さんはもう気付いてるよ。

 直接私達に言う事は出来ないだろうけど」

 泪はミアの行動に対して失望する一方、感情を抑えられなかった事に対して一定の理解を示す。

 

 (ミアの中で、拓巳さんがそこまで大きな存在になっていたとは気付けなかったなぁ……

 元々、私が無理やり騙す様な形で連れてきたのに。

 だからと言って今更責任が取れるワケじゃ無いけどね)

 単なるセックスフレンドの枠を越えて、ミアは拓巳の事を深く愛する様になっていた。

 記憶を失ったと言う情報を聞いて、『ライバル』が事実上消えたと思い安堵した面もある。

 

「海野亜津子さんが拓巳さんの本命で、告白しようと思っていたって話は泪から聞いてた。

 全てがリセットされて、私を愛してくれるかもしれないと喜ぶ気持ちもあったの。

 でも、精神年齢があそこまで若いと愛を語る以前の問題よね」

 降り続いていた雨を浴び、頭を冷やそうとするミア。

 頬を流れる涙は雨と混ざり泣いているのかいないのか判別出来なくなっていた。

 

「私、未熟だったわ。

 耐えなければいけなかったのに、我慢出来なかった」

「明日の仕事もあるし、今日は帰ろう。

 この問題はお互いに時間をかけないと解決出来ないでしょ」

 泪も、辛くなかったワケでは無い。

 

 拓巳が自分の事を忘れてしまったと言う現実に触れ、胸が痛くなった。

 メンタルが強かった事と、拓巳との距離が自分の中でそこまで近くなかったからこそ動じなかったのである。

 2人は車に乗り、天武日本総合病院を後にした。

 

『あああああ……

 大好きです、拓巳さん。

 私……』

 泣き崩れ、拓巳に抱き付いたまま素直な気持ちを吐露したミア。

 その光景が玖留美の頭の中から離れず、彼女をさらに憂鬱な気分にさせる。

 

 (あの態度と言葉に嘘があるとは思えない。

 つまり、彼女は本当に兄さんを心から愛している……

 でも兄さんに『負い目』が無ければ、兄さんは彼女を私に紹介していたハズよ。

 兄さんが私に彼女の存在を教えなかったのは、到底教える事が出来ない事情があったから)

 

 ラブホテルでの情事。

 それしか考えられない。

 恐らく来栖泪も絡んでいるのだろう。

 自分の兄が女性と『大人の関係』になっていた事を、玖留美は認めなければならなかった。

 

 (怒りに任せてつい追い返してしまったけれど……

 本当にコレで良かったのかしら?

 5年間あの2人が黙っていたのは、兄さんの状態がどうなっているのか解らなかったせいと言う可能性もある。

 もう二度と会わせないなんて言ったら、彼女が自暴自棄になって不特定多数に全てを暴露してしまうかも……)

 

 そう考えた瞬間、玖留美は恐怖で体温が数度下がったかの様な感覚に襲われる。

 失うものが無い人間は無敵である。

 本当にあの2人を追い払って良いものなのか。

 かと言って、拓巳の精神状態を不安定にさせかねない2人の存在は、玖留美の頭を悩ませていた。

 

 (全てを断ち切ると相手の暴走が怖い。

 直接会わせると兄さんの精神に悪影響が出るかもしれない。

 ……つまり折衷案が必要。

 スマホのチャットツールで会話させましょう。

 余計な話をしない様釘を刺して、会話中は常に画面を監視すれば何とか……)

 

 ミアと泪を説得し、無難な着地点を模索していた玖留美はその辺りで妥協してもらおうとしていた。

「ねぇ、玖留美」

 ミアのあの行動の真意を知りたいと思っているのか、拓巳は玖留美の腕を掴んでゆさぶる。

 

「兄さん。

 あの人達も忙しいみたいだし、この病院に来るのも難しくなるかもしれないわ。

 コレからは会話アプリのLAINを使いましょう。

 私のスマホを貸してあげるから」

 拓巳を宥め説得させようとした玖留美であったが、拓巳は完全には納得出来ていない様子だった。

 

【2010年 8月15日 午前2時 東京都 天武日本総合病院内 九龍拓巳の病室】

 

 たった1人で、背負い続けた。

 とても長く密度の濃い数週間だった。

 

 九龍玖留美は病室に用意された椅子にもたれかかり、今までの日々を思い返す。

 美香に対抗するチームを作り上げる為、ダイヤの原石を自分の目で見て探し求めた。

 己の鍛錬を欠かさぬ中月山新二が強くなれる様訓練に付き合い、チーム内に不和が生じぬ様奔走した。

 そんな中でも時間を見つけては病院に通い、LAINを通してミアと泪に最低限の触れ合いを与えてきたのである。

 

 睡眠時間もあまり取れない状態だったがとにかく勝った。

 氷室零の命を救う事が出来た。

 達成感もあったが、凄まじく疲労が溜まっていた事もまた事実である。

 

 (新二君の成長ぶりを見ていたら、私も欲が出てきちゃったわ。

 全国大会優勝の先、合衆国で行われるZEROの世界大会で結果を残してみたい。

 でも今のままじゃ、実力を『保つ』のが精一杯。

 これ以上の飛躍は無理よね)

 

 兄の病院に通い、たまにこうして病院で夜を過ごす日々が玖留美にとって重荷になってきていた。

 肉親であり、尊敬している兄を足枷の様に感じる等許される事では無い。

 それでも、この負担を軽減する事が出来なければ世界への挑戦が幻に終わるのも厳然たる事実だった。

 

 (私の代わりに、兄さんの面倒を見てくれる人がいたら……

 エターナルナイトで活動している仲間にはとても頼めない。

 父さんも今はこっちに住んでないし母さんの件があるから兄さんの面倒を見てくれるハズも無い。

 誰かを雇うと言うのも高くついて支障が出てくるだろうし)

 

 おぼろげな答えは既に目の前に浮かんでいる様な気がしていた。

 薄給、いやもしかしたら無償であっても兄の世話をしてくれるかもしれない人物。

 2人の姿を頭の中に思い浮かべながら、玖留美はやんわりと否定した。

 

 (彼女達に任せるのはリスクが高過ぎる。

 それに、私が知りたくも無い真実が今更目の前に突き出される可能性があるのはとても怖い)

 じゃあ夢を諦めるのか。と玖留美は再び自問自答を繰り返す。

 自分の心と夢、どちらを守りどちらを犠牲にするべきなのか彼女はずっと悩み続けていた。

 

「玖留美……

 玖留美!」

 夢と現実を往復し、微睡んでいた玖留美は腕を揺さぶられた為意識を取り戻す。

「兄さん、どうしたの?」

 

 手を口に当てて欠伸をしながら、拓巳の身を案じる玖留美。

 消灯時間後に起こされるのは、地震が発生した時や拓巳が怖い夢を見た時等だった。

 精神が子供であるが故に、子供と同じ反応を示す拓巳。

 その対応も、子供に行うものと同じでなければならない。

 そんな事を考えながら拓巳の方を見た玖留美であったが、拓巳の様子は何時もとは違っていた。

 

「オチンチンが痛いんだ。

 こんな事になったの初めてだから、どうしたらいいのか解らなくて」

 拓巳が着用しているパジャマの股間部分が盛り上がっている。

 一定の知識こそあれどそういった状況には縁が無かった玖留美は一瞬言葉が出なかった。

 

 (ぼ、勃起!?

 男性器が大きくなるって言う、アレ?

 どうして急に……)

 そもそも、よく考えてみれば拓巳の肉体は既に成人しているのだから勃起する事は全く不自然では無い。

 彼が目を覚ましてからおよそ半年が経過した今になってこの生理現象が起こる事の方が異常であった。

 

「さっき覗いてみたんだけど、オチンチンの形も全然違うし……

 僕、病気なのかなぁ」

 5年間意識不明のまま眠り続け、体内に蓄積されてきた性欲が今になって溢れ出てきたのだろうか?

 頭の中で疑問符ばかりが浮かんできたが、玖留美は一旦心を落ち着けようと軽く息を吐いた。

 

「兄さん、それは病気じゃないの。

 男の人なら誰でもなる事なのよ」

「そ、そうなの?」

 精神は子供であるが故に、妹への配慮等微塵も無い。

 拓巳はズボンとトランクスを下ろし、激しく脈動している肉棒を露わにした。

 

「玖留美なら、どうすれば治るのか解るんじゃないかと思って……」

 屹立した男性器を目の当たりにするのは、玖留美にとって初めての事である。

 その禍々しい形と大きさに、彼女は息を呑み暫く言葉が出てこなかった。

 

 (コ、コレが兄さんの……

 男の人の興奮によって肥大化したモノ……

 本当に皮が剥けて、ひくついてる……

 垂れ下がらずに、反り返ってる)

 

 血液が集まる事によって陰茎が硬くなり、セックスを行う為の準備が整う。

 保健体育の授業や本によってそういった知識は持っていた玖留美であったが、想像以上に生々しい現実が目の前に突き出されていた。

「痛くて眠れないんだ。

 オチンチン、どうしたら小さくなるのかな……」

 

 背の高い青年が目に涙を滲ませ、硬くなった股間を晒している。

 正直玖留美は真っ赤になった顔を手で覆い、病室から逃げ出したい衝動に駆られたがギリギリの所で踏みとどまった。

 (ココでパニックを起こしても私の得になる事は何も無い。

 兄さんだってそう。

 消灯時間を過ぎて病院内から出る事も誰かが入る事も出来ない以上、私が何とかするしか……)

 

 やるべき事は解っている。

 コレはそう……治療だ。

 兄の股間に溜まった毒を抜く治療なのだ。

 断じて近親相姦に準ずる行為では無い。

 

 玖留美は何度も自分にそう言い聞かせながら手を伸ばすと、拓巳の勃起した肉棒にそっと触れる。

「兄さん、溜まったモノを吐き出す為にはオチンチンに刺激を与えなくちゃいけないの。

 乱暴にすると痛いだけだから、優しく……ね。

 こうやって包み込む様にして、上下に」

 

 指で円を作り、最も敏感な亀頭を避けながら竿となる部分を扱いた。

「ひあッ、何これぇ……

 気持ち良いよぉ」

 身体を震わせ、嬌声をあげる拓巳。

 玖留美は拓巳に手で口を塞いでいる様指示した後、肉棒にさらなる刺激を与える努力を続ける。

 

 (やった事なんて一度も無いけど……

 自慰行為なんだから、乱暴にしちゃ駄目よね)

 クリトリスと亀頭は元々同一のものであり、性別によって形状が異なっているだけ。

 女性としての自慰行為を行った事はある玖留美は、それを知っていた為敏感な部位を傷付けまいと細心の注意を払っていた。

 

 (あッ、オチンチンが熱く……

 何かが来る。

 こみあげてくる)

 亀頭そのものに触れるのでは無く、竿と亀頭の境目を重点的に責める。

 肉棒がますます膨れ上がり、触れている時の熱がさらに上がっている様に感じられた。

 

 (凄く脈打ってる。

 まるで精液を吐き出したいと訴えて、悶え苦しんでいるみたい)

 口を手で覆い、必死に声を出さない様努力している拓巳の顔は快感に酔っている様に見える。

 暫くの間玖留美は刺激を与え続ける事だけに集中していたが、ふと顔を上げた時拓巳と目が合った。

 (もしかしたら、兄さんはこんな顔をあの2人に見せていたのかもしれない)

 

 胸が痛くなった。

 何故そこで嫉妬したのか自分でもよく解らない。

 彼女の心の片隅には、尊敬する兄を自分だけのものにしたいと言う独占欲があったのだろう。

 だからこそ、不特定多数の女性と拓巳が寝ていた可能性が出てきた時にそれを認める事が出来なかったのだ。

 

 (でも、私と兄さんは血の繋がった兄妹だから……)

 独占欲を何処かで断ち切る事が出来なければ、堕ちていくしか無い。

 行きつく終着点は近親相姦。

 それを求めたり、望んだりはしていない。

 

 突き放す事も、自分と兄の為なのだろうか。

 ふとそんな考えが玖留美の頭に浮かんだ。

「むぐッ……

 うううううう」

 

 快感を得続けた肉棒が、我慢の限界を越えて唐突に弾ける。

 先端から白濁液が勢い良く飛び出し、玖留美の髪や顔を汚していった。

 むせかえる程の雄の匂いが、病室内に充満する。

 

 (コレが、精液の匂い……

 爽やかな香りとは程遠いわね。

 それにしても凄い量。

 私にかかっただけじゃ無く、滴って水溜りみたいになってる)

 

 5年間分の量かどうかは解らなかったが、拓巳が驚異的な快感を得た事は間違いなさそうだった。

 呆けた顔をしたまま荒い息を吐き、膝に手をついて時折身体を小刻みに痙攣させている。

 

「オ、オチンチンから白いのが出た……

 出た時、何も考えられなくなっちゃったよぉ。

 玖留美、コレは何なの?

 どうして、おしっこじゃなくてこんな白いのが出るの?」

 

 射精の余韻が残っているのか、普段とは全く違う表情を見せている拓巳。

 玖留美はバッグからポケットティッシュを取り出すと、自分の顔と髪、拓巳の股間を丁寧に拭いた。

「兄さん、この白いのは『精液』と言って男の人のオチンチンが気持ち良くなると出てくるものなの。

 尿とは全然違うもの。

 この液体が赤ちゃんの素になるのよ」

 

「赤ちゃんの素……」

 拓巳は完全には理解していない様だが、過度な説明を行う必要は無い。

 そう思いつつ、玖留美はやはり自分だけで拓巳の面倒を見ていく事に限界を感じ始めていた。

 

 (性欲処理を続けていくのは、私の心と体がもたない……

 やはり誰かに任せる必要がある。

 この際、受け入れるべきなのかしら……

 兄さんが私に隠し続けてきた『罪』を)

 聡明で頼もしかった兄のイメージが崩れていく。

 

 だがよくよく考えれば、自分は勝手に尊敬して勝手に幻滅しているだけなのではないか。

 拓巳は、男として自分に嘘をつく事無く正直に生きたのだ。

 その善悪は別として、大衆に知られさえしなければ私が首を突っ込むべき事では無い。

 目の前にある解決策から目を背ける事自体が愚かだと玖留美は思う様になっていた。

 

「オチンチンが落ち着いたみたい。

 コレでちゃんと眠れるよ……

 有難う、玖留美」

 トランクスとズボンを履きぺこりと頭を下げる拓巳に、玖留美は声をかける。

 

「兄さん、LAINで連絡を取っているあの2人にまた会えるとしたら、兄さんは会いたい?」

「うん、また会ってみたい」

 屈託無い表情で微笑む拓巳の姿を見て、彼女は『パンドラの箱』を開ける決心を固めた。

 

 眠りについた拓巳の横で、バッグの中から『拓巳の携帯』を取り出す玖留美。

 遠征に行くと言って出ていったあの日、拓巳は携帯電話を忘れていったのだ。

 幸か不幸か、そのおかげでこの携帯電話は破壊される事無く玖留美の手元に残っている。

 (今なら兄さんが設定したパスワードが、何なのか解る様な気がするわ)

 玖留美は携帯の電源を入れ、携帯のロックを解除する為のパスワード画面に進んだ。

 

 この先に進めば、嫌でも真実が明らかになる。

 その恐れからか、彼女は文字を打つ事さえ出来ずずっと躊躇してきた。

 かと言って捨てる気にもなれず、5年間もの間持て余してきた携帯。

 

「hochimia……

 解除出来たわ」

 unnoatsukoでも、kurusuruiでも無いパスワードの文字。

 玖留美は拓巳がこの携帯にどういった意味を持たせたかったのか、何となく解った気がした。

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