右腕にフランの頭が乗っている。十四時半、規格外のベッドで彼女を寝かしつけていた。
「終わっちゃうとそっけないのね」
「申し開きできません」
自分の体力を顧みず動き続けた結果がこれだ。カフェインの覚醒効果にかまけて活動したあとのような強烈な虚脱感に襲われて、もうろくに動けない。
「遅くまで遊びすぎちゃった。起きるのが遅いとお姉さまに怒られちゃう」
背中の空いた白のネグリジェに着替えている。そういえば、フランは滅多に外へ出ないが、一応毎日寝間着とそれ以外とを着替えているようだ。
吸血鬼といえば冷血非道、人間に少しの情も見せない恐ろしい悪魔というイメージを持っていた。しかしこうして生活感を見せつけられると、いくぶん身近というか、親近感を覚えてしまう。仕方のないことだろうが、かつて持っていた非道なイメージをいつ垣間見ることになるのかを考えると、この館、ひいてはこの状況から逃避したくなる。しかしその非道がいつ自分に向けられるかわからないとしても、この可憐でべたべたくっついてくるへんてこな生き物と、いつ訪れるかわからない死の瞬間までこうして爛れた生活を続けるのも悪くない、とも思った。
……嘘か真か若輩者にはてんで見当もつかぬ無垢なる寝顔に、何もかもどうでもよくはなる。
その日の夜二十二時。腕の上で頻繁に寝返りをうち唸るフランのその声に起こされた。腕は彼女の寝汗で蒸れている。布団の下はひどい有様だろう。
あえて起こすことはしなかった。悪夢はその長短にかかわらず一様に不快なもので、むしろ起きたときにどう安らがせるかが肝要であると心得ていた。そうであるから、魘される彼女を見てしたことは、より近くに抱き寄せることだけだった。
それからは目が冴えてしまって、一度も寝つくことがなかった。こちらの裾をぎゅっと握りしめるフランの呼吸の緩急を、ただじっと見守っていた。
不意に彼女の腕が首元に絡みついてくる。
「……起きていらしたんですね」
「ううん。起きて、貴方が見えたから……」
抱擁には抱擁を以って応える。起きてすぐ不安げな顔色を見せる彼女の頭を両腕で抱きしめて、当人もまた、なすがままでいた。
「起きてる間は、貴方がいるもの。心配ないわ」
健気にも笑ってみせた。彼女の言葉のどこまでが本気で、どこからが”ごっこ遊び”なのか、やはりまだ気になっていて、とうとう聞かずにはいられなかった。
「その…… お嬢様のような強い方であれば、私など当てにしなくても、その」
「……」
言い淀んで、ちょうどいい言葉が見つからなかった。
「強い人ってね」
一呼吸おいて、
「誰も、守ってくれないの。強さって、孤独なのよ」
阿鼻叫喚の底にまでその悪名を轟かす、異教の悪魔、吸血鬼。強さとは同時に弱さを持つことだと、それは言った。
「……ご苦労様」
フランと図書館へ向かうその道すがら、咲夜はすれ違いざまにたった一言言い残して、それ以上深入りしてこなかった。
「咲夜は何でもお見通し。慣れちゃったけど」
彼女は人間だと聞いた。咲夜が「見通し」てしまうのを少なくともフランは防げないらしい。人間が吸血鬼を超える技能を持っているとは考えにくい。彼女は本当に人間でいるのだろうか。
「頼りにだってなるのよ。むしゃくしゃしたり疲れたりしたとき、助けてくれるのは咲夜と美鈴だけだもの」
図書館の円卓につく。分厚くボロボロの皮革本がうずたかく積まれた一角にフランが座る。 すると薄暗い図書館の隅の椅子から紫色の人影がゆらりと立ち上がった。これが図書館の主というかなんというか、話に聞いたパチュリーだろう。
「えーっと。貴方がフランの、」
「『執事』です」
「ええ執事ね。どうよ、ここに来てみて」
答えに窮す。
「どう、と言われましても…… まあ多少の不安はあれど屋根も食事も、素晴らしい主様もおりますから」
緩い服装からでもわかるくらいに貧相でか細い体つきの彼女が背中に腕を回してくる。もやし特有の異様な体温の低さに改めて驚かされる。
「素晴らしい主様ねえ。それがいるのにどうして不安なんか抱くのかしら」
「……」
「なあに、ここじゃ言えないこと? 素晴らしい主様に隠し立てしちゃあいけないでしょう」
「また新人困らせて。人間にもいろいろあるのよ」
どこの言葉で書かれているかすらわからない巨大な本をこれ見よがしにばたんと閉じて、フランが牽制に入ってくれた。
「とまあこんな素晴らしい主様でございます」
「水」
「フラン。水だけじゃわかんないでしょ」
「お水をくださるかしら」
「ただ今」
持ってきて、
「ちゃんと言わなきゃ伝わらないのよ。執事さんはあなた自身じゃないんだから」
「私を理解するために私である必要はないわ。シーザーを理解するためにシーザーである必要はないようにね」
「青二才に何百歳の考えがわかると思う?」
「ふんだ」
フランは立ち上がり図書館を出て行ってしまった。
「まったく…… 昨日からあんな感じなのかしら?」
「ええ、まあ。彼女の指示一つでは何をしてほしいのかよくわかりません」
「そう。……フランとまともに会話ができる人が来るのなんて久々だから、あの子もどう接したらいいかよくわかってないと思うけど、頑張って。そうね、レミィの言うことなら一応聞いてくれる。何かあったら言いつけてやるといいわ…… その時にあなたが生きていればだけど。ほら行ってあげて」
フランはまだそう遠くへは行っておらず、すぐに追いついた。
「あいつに誑かされなかった?」
「唆されました」
ここのパーティに呼ばれたことのある者が、フランのことを「気がふれている」と言った。何百年生きているか知れないのにその振る舞いは泣き虫でプライドの高いガキそのものだと。
歩く彼女に並んで顔を伺うと、下唇を噛み締めて、瞼を潤ませていた。信じられないがあの程度の言い合いで拗ねてしまったらしい。確かに、いつぞやの彼の言うとおり、年齢と振る舞いが素で一致していない。
とうとう頬に一筋流れ出したところでハンカチを取り出す。
「泣いてない」
構わずその頬を撫でつけたその時だった。
「泣いてないってば!」
何かに突き飛ばされる。肘をついて見上げると、どこからか現れたのか、咲夜がフランの腕を押さえていた。
「妹様。彼は人間です。これ以上意味もなく人間を殺さぬように」
どうやら衝動的に手を上げてしまったらしい。
「ごめんなさいね。五百歳にもなってうまく感情をコントロールできなくて。ほら立って」
そう言って消えた。まさに神出鬼没。
「……」
「えーっと」
「……ごめんなさい。ほんとに。私つい、手が」
「起きてしまったことですから、自分を責めたって何にもなりませんよ」
「もう壊さないって約束したのに」
「気にしてないですって。ほら、お部屋に戻りましょう」
次はお風呂回にでもしましょうかね